失ったMoleskineを手に入れるまでの考察 #7
前回の続き:Moleskineを受け取りに札幌から小樽へ僕は向かった。
本当はどこか近辺を歩き回って、暇をつぶしてから訪問しようと思っていたのだが、モレスキンのことが気になっていたので直接待ち合わせ場所のお店まで行くことにした。
小樽市街からはずれ、運河から海側を回ると半島のようになった方向へ行くことができる。いくつかのトンネルをくぐっていくと、その半島の先端に灯台がある。途中には岩場の小さな浅瀬が続く泳げる場所がいくつかあり、小さな頃は何度か海水浴で来た事もある。
その店は、その灯台に抜ける道の途中で、海に面して佇んでいる。
海側のデッキには白いテーブルが並べられており、夏場であれば日よけがデッキの上側を覆い、遠くには白いヨットが見えるだろう。少し歩けば灯台まで行くこともできる。
17時頃だろうか、予定よりも早い時間に僕はそのカフェに到着した。
約束の時間よりも1時間ほど早い時間ではあったが、日も暮れ始めていたのでお店の中に入ってみることにした。
内装は、小樽によくある古い大正時代を意識した和風なアンティークな内装がされた品のよい広めのカフェで、デッキ側の大きな窓からは海が一面に見渡すことができる。売りは金曜日と土曜日の夜にピアノとフルートの人がやってきて、ロウソクがゆれる暖かな灯火の中ちょっとした演奏が行なわれるため、観光客にも人気があった。そのせいか、デートで使われることも多い店だ。
そんな店に一人で入ることに気が引けたが、カウンターのカフェスペースで本を読みながらBを待つことに決めた。店内には数組の観光客と思われるカップルが、海を眺めながら談笑をしている。
カウンターの中では、珈琲の良い香りが漂い、コーヒーカップが微かに当たる音が定期的に響いていた。遥か遠い時間を経過したが、感じる音や香りは何も変わらなかった。
ホールには若い女性の店員が和服のような制服を着て、退屈そうに窓の外を見ていた。
カラカラと夕方の風を吸い込んで、窓にプラスチックの「スダレ」が揺れている。天井には和紙を薄く張った品のある形態をした大きな提灯がぶら下がっている。その中でオレンジ色の火が燃えており、薄暗い店内に光を落とし落ち着いた雰囲気を漂わせている。他の照明はほとんどその光を補助するように小さく照らしている。うまいライティングだなと思った。
音楽は、オートマチックで裏面と交互に再生する古いレコードプレイヤーがゆっくりと回っていて、スタン・ゲッツが煙を揺らすかのような音でサックスを吹いていた。直感で、Bはこの店内から電話をしてきたんだろうなということに気がついた。
今どき有線を使わないなんて珍しいなと思った。振り返ると小さなピアノが置いてあって、すぐ上に何処か知らない国のとげとげのついた鉄製の武器のようなものがかけてある。アクセントカラーは赤で所々に間接照明で浮かび上がった赤い布がかけられている。テーブルクロスは上品な朱色だった。
もう店内の忙しい時間は過ぎ去っているようで、ゆったりとした時間が流れている中、僕はアイスコーヒーを頼んだ。僕はここで気がついたのだが、その窓の外を眺めている店員の女性がBであると直感的に感じた。
僕はBと判断したのは、その佇まいであった。
なんだか寂しそうに立っていたことが原因なのかもしれない。Bはその店の雰囲気を全てかき集めたものをいったんぎゅっと体の中に吸い込んで、固めて、じっくりと周りに蒸発させているような気がした。例えるなら深い森の奥で溶けかかった雪だるまを見ているような気分だった。
Bは、ここのカフェの和風の雰囲気に合わせ、モダンな感じのする薄いグリーンの和服のような制服を着て、ゆったりとした姿で店内の隅に立って、細い指先で何か小さな玩具をいじっているようだった。
身長はさほど高くはない、およそ155センチくらいだろうか、髪の毛は肩を越すように伸びていてストレート、年令は判別しづらい、見る角度によって十代にもみえるし二十代の後半のようにも見える、すっとした細身の体をしており白い肌をしている。色白のせいか薄暗い光に肌がにじんでいるように見えた。数年前に観た明治後期の場末の遊郭でのカナリアに餌をやる遊女が出てきた映画を連想し、どきっとする。眼は比較的大きく自信なさげに下を向き、しかし奇妙なことにまばたきをほとんどしていない。僕はその眼が非常に気になってしまう。彼女がじっと自分を見つめたなら、何か落ち着かないだろう。
彼女が無邪気そうにいじっている小さな玩具のような物が何なのか観察すると、小さな輪のような物が見える、恐らく水車の模型ではないだろうか、その指先を見ていて、すぐに僕はあることに気付き胸の奥がぎゅっとつかまれたように感じた。Bの小さな左手には小指と薬指がなかったのだ。
それは根元の辺りからごく自然に消えていて、あまり目立つことのない小さな傷があることから古い時代の怪我だなと思った。その手だけ別に生きているみたいでほんの少し形を変えた雪の結晶のようにも見える。指の仕草はぎこちないものではなかった。
僕はそんなことはないのに、Bの薬指の小さな空間がBの周囲を大きく刈り取っているように感じた。
こういった物事は僕を刺激するには十分だ。
僕はBの小さいころの生活や今まで出会った人間、何に価値を重んずるか、その他の事情もろもろを知りたくなる、その欲求が満たされない場合、ただもくもくときりのない想像を風船みたいに僕は膨らましていくことになる。
きっとBを見つめる僕の姿は考え事をする僧侶のように見えたかも知れない。
Bはレコードを意味もなく眺めていて、回転を数えているようにも見える。
「一分間に三十三回なのよ。」
と神妙な顔をして彼女に言われたなら僕は間違いなく同じように真面目な顔をして「そうですよね、じつに興味深い。」と遠い眼をして答えるだろうな、と思った。Bにはそういった雰囲気があった。
海が見える窓を見ているフリをして、再びBの方に目を向けると、彼女が僕をじっと見て立っているのでどきっとした。Bは一瞬、よく見ないとわからないような微笑みをふっと浮かばせ、すぐに玩具のような小さな水車を置いて、きゅっと引き締めた表情をしたまま僕に歩み寄り、話しかけた。
それはスタン・ゲッツがイパネマ・ガールの間奏で、サックスの最後の一音を吹き終えるのと同じタイミングであった。