「指の無い女の子と湖の話」
20代前半の頃、本州のいろんなところに滞在して仕事しながら旅をするという生活をしていた。やはりそのころからノートとペンを愛用していて、仕事で使えそうなアイディアとか思ったことをコリコリと書いていた。1年程、箱根の芦ノ湖の湖畔に住んでいたときのことをよく思い出す。仕事の都合で、湖の側に寄り添うように建った古い家をまるごとひとつ貸してもらって数人で住んでいた。居間の雨戸を開け放つと、湖に面した窓が開け放たれて、広々とした景色が見えた。いい風を受けて、風鈴がちりんとなる。窓を開け放つとたくさんの光が差し込んで来てすぐ近くに置いてあったモンステラの葉っぱに反射した。椅子に深々と座って、膝にノートを立てかけて、その頃の考え事を書き留めたり、ギターを弾いていた。
湖の側に住むというのは、とても素敵なことだなぁと思った。大きなお金が入ったら湖をまるごとひとつ誰かにプレゼントするのもいいなと思う。
仕事の都合で、一緒に住んでいた同居人の女の子は、自分が毎日のように窓際の椅子に座ってノートに何かを書き留めているので、何を書いているの?と聞いてきた。その頃は、音楽にハマっていたのでお気に入りの音楽のことを書いたり、そこからイメージした絵とかを書き留めていた。「ん〜、考え事とか絵とか書いているよ」と言う度に「見せて見せて」と言うので、やがて書いているものをよく見せるようになった。
自分のノートブックを観たことがある人はわかると思うけど、ひとつのページにぐしゃぐしゃに書くので、やはりその子も「何が書いているのかさっぱりわからないね」と言いながら、眉をしかめて怪訝そうな顔で読んでいたのを思い出す。でも、何度かそういったやり取りを毎日のようにくりかえしていると、その子も同じようにノートブックに何かを書くようになった。彼女はホラー映画好きで、自分がオートバイに乗って小田原とか静岡に買い物に行ったときのついでにビデオを借りてきて、居間でよくゾンビ映画を一緒に観たので、おそらくゾンビについて書いていたのではないかと推測する。
古い家の隅で、古いストーブの残骸が薄闇にいくつも積まれている細い廊下があって、足の長い蜘蛛が二匹もつれているのを頻繁に観た。床板に綿状になったキノコが湿気を吸い取りながら広がっている、どこか遠くで映写機がカタカタ鳴っているような音がよく聴こえた。
彼女はその廊下の奥の部屋に住んでいた。部屋の中には、旅行から帰ったばかりのように大きな鞄が並び、錆びた写真立て、締め切ったグリーンのカーテン、青色のシーツカバーのベッド、小さなテーブル、それだけの部屋。薄暗い部屋に入ると度々うつ伏せになってじっとしていた。二十八歳の色白の女の子。
ただ彼女の身体的な特徴で、気になることが一つあった。左手の指が「3本」しか無いのである。彼女の左手の人差し指と中指は、根元からきれいに切断されていた。見かける度に、何か尋ねてみようかと思ったけどその度に、やめた。彼女の左手の小さな国では、自分の知らないことが起きているのだと思った。
そういえばこの家の二階にはピアノが置いてある誰も使っていない部屋があって、真夜中に僕が本を読んでいると遠くから微かに、「どこかで聞いたことがあるのにどうしても思いだすことのできない曲」が聞こえてくることがあった。おそらく彼女が弾いていたのだけど、欠けた彼女の指が演奏するその姿を想像するのがなぜかつらかった。
自然と彼女は僕の部屋によく遊びに来るようになった。普段から彼女は物静かで石のようにじっとしているのを好んだ。ベッドに潜り込み、僕のギターを黙って聞いている。気に入っていたのは確か「Wave」というボサノバの少し物悲しい曲だったと思う。丁度そのころの僕の練習曲 だ。なぜ好きか?と聞くと、彼女は五分位黙ったままで考えている。ようやく口を開いて「どこか遠くの曲なんでしょ?」と言ったまま肩をすくめた。目を閉じてどこか遠くを想像しているようだった。
「この前ね、夢の中にタカヤ君が出てきた」
「どんな形だった? ハート型?」
「夢のことをノートに書いておいたの。私は何か個展会場に来ていて知らない人が私の手を引っ張ってる。そこの会場はとてつもないくらい広くって莫大な数の絵が飾っているわけ。彼はまだ見ていない絵があるからと言って私を連れていくの。だけど私はもう絵を見るのはうんざりですごく嫌だった。連れていかれたのは階段の途中で、そこには巨大な上から下まで真っ黄色に塗られた絵があって、だからどうしたのよと言ってすぐに会場から出たの」
「それだけ?」
「ううん、会場の前にパーキングメーターがあって、車がたくさん並んでいて、その中にタカヤ君がいるの。だけどね、みんな駐車料金をメーターに入れて車に乗っていくのに、タカヤ君だけ真っ赤なソファーをパーキングメーターの所に停めて、一生懸命何かしてるわけ。そして、私を見てムスっとした顔で『遅かったな、だけどここにプロペラがついてないからちょっと待ってくれ』とか言うの、私はおかしくって嫌な気分も忘れた」
「ふーん、俺けっこう飛行機が好きだからな。そういえば、ちょっと前に、東京で変なパーティに参加したんだけど『飛ぶ用意』をして行かないとならなくなった。だけど『飛ぶ用意』ってなかなか思いつかないんだよね。だけどさ、いったい俺は君をどこに連れてこうとしてたのかな」
「私達はそのプロペラのついたソファーに乗って真っ青な空を飛んでいく。あなたは真剣な顔をして運転をして私は一緒についてくる鳥達を見てた。最後にねえ、あなたは私にこう聞くの『世界の果てって見たことある?。俺がそこに連れていってやるよ』」
「うわ、恥ずかしい」
「そんなことないよ。だってタカヤ君って世界の果てから来たんでしょ?」と彼女は言った。
湖畔を歩いては何かを拾ってきたりするので、僕が部屋に住むと、それはいつでも博物館のような様相をほどこした。このことは小さい頃になにか関係があるように思う。子供が白い画用紙を手に入れる。汚すことによって自分の領域を想像していく。ぐしゃぐしゃと交差した線は空に浮かぶ巨大な雲を、床に置かれた段ボール箱は大きな船を、時間がたつにつれ僕の世界は変化し、時には宇宙空間で、時にはイカしたお店屋さんだった。僕らはそれぞれ自分の世界に暮らしていて常に独りぼっちだ。何もない空間というのは自分にとってとてもつらい。狭い部屋がどんどん僕の集めてきたもので埋まっていくのは気持ちがいい。
「私の耳は貝の殻、海の響きを懐かしむ」とジャン・コクトーの詩の一節を書き、隣のページに湖の絵を描いた。ここでの生活の最初の頃はよく窓を開けて本と湖を交互に眺めていた。
とある雨の日に、彼女は僕のベッドで目を閉じて眠っていた。僕もギターを置いて本かなんかを見ていた。窓の外では真っ暗な湖に雨が繰り返し反射していて、ばしゃばしゃとおおげさな音が聞こえている。夜の湖は気持ちが悪い。それが海であっても同じなんだけど。しばらくすると妙な音が雨の音に混じって聞こえているのに気がついた。小さな動物がこそこそと動くような音がする。眠っている彼女の布団の下からそれは聞こえるので、なにげに布団をめくってみると、彼女はうつ伏せになって、小さな白い魚のように指の欠けた左手を動かしていた。見ていると神経質そうにシーツをひっかいたり何かを握ろうとしてみたり何かをなぞったりしている。「起きてるの?」と声をかけてみたが返事がない。動いたままの指先がピクッと反応したがすぐに同じように指先は動きだしている。眠っている人の眼球は夢の中と同じように動いていて夢の中で上を見上げると現実世界の眼球も上を見上げる、という話を読んだことを思いだした。どうやら彼女はなにか夢の中で何かを行なっているようなのだけど、何かがうまくいっていないようだ。指先は神経質そうに何かを繰り返していた。
その時、彼女の指の傷口を近くで見るのは始めてだった。僕は無意識に周りを見回した後、彼女の呼吸のリズムを計った。眠っている人の呼吸は吸う時間と吐く時間が一定だ。眠っていることを確認する。思い返してみると、彼女はいつも手を自然に人の目線から隠している。人に何かを聞かれるのが嫌なのだろう。手の甲から目線を下に送っていくと、指の付け根あたりから白色から薄いピンクへと微妙に変わっていく。小さな円形の形にきれいに人差し指と中指は切り取られていて、その部分の皮膚は小さくひきつっていて変形している。恐らく傷口を修復するのに、多分体の別の部分の皮膚を切り取ってラップをかけるように小さく貼り付けたのだろう。不自然なのは傷口の周囲に他の縫い跡がないことだった。普通なんらかの事故が起こって傷を作る場合、その患部の周囲には別な縫い跡があるはずだ。とても鋭利なナイフのような物で切断されたとしか言いようがない。僕の知り合いは昔高いところから落ちて手首から骨が突き出たことがあったが今でもその周囲は七十針の傷口が跡を残している。
「これは事故ではないのだろうか」と思った。
外の雨の音が大きく聞こえる。彼女の静かな呼吸、真白な肌、左手の失われた指。気がついてはいけないことがあるように思えて僕は頭の片隅をそーっとつつくように考え事をした。こういったとき人というものは自分が見たり聞いたりしたものからその状況に適した答えを探してしまうのはなんでだろう? 彼女の左手に一致する答えを僕は知らなかった。こういった言葉を使いたくないのだけど、僕の想像できるかぎりではそれは、狂気の影というものを感じるしかなかった。
彼女は休むことなくベッドの中で神経質に指を動かしている。それはあまりにもひどいので、僕は彼女の手を両手で包みこんで握ってみた。こうすると彼女の世界では何もかもがうまくいくのではないかと思ったからだ。
同時に、彼女は僕もびっくりするくらいの大きな息をついて何も聞こえないくらい静かになった。外では激しく雨が降っている、近くの杉の木から雨が流動し叩きつけられる音が聞こえた。注意深く呼吸を聞いていると彼女の呼吸は蚊が飛ぶくらいかすかに聞こえている。その後一切指先は動くことはなかった。
僕も側に添い寝し、自分の指を切って並べていく夢を静かに見た。彼女は夢の中で僕の指を要求している。拳銃にこめて頭を打つらしい。
二週間後の暑い夜。彼女は僕の布団に入り込みだいふくを食べながら小さい頃の話や世界の毒薬の話をする。次の日、店から持ってきたカルーアに牛乳を注ぎ、一緒にホラー映画を見ながら、僕はその娘のことが好きになった。正確に言うと、ホラー映画の画面の中の廊下からゾンビの手が数百本出てきてどきっとしてから三十秒後に彼女のことが好きになった。
二人は湖を眺めた。湖の浅瀬でもがく鱒をいたぶった後逃がしてやった。ボートに乗って凧を上げた。手術台の上のミシンと洋傘の出会いについて議論した。全ては夜行なわれた。彼女はおそらくそういった行動の一つ一つごとによく喋るようになっていったし、よく笑うようになったから、僕も嬉しかった。何よりも嬉しかったのは彼女は自分の左手を僕の前では意識して隠さなくなったことだ。
彼女は近くに良い所があると僕を連れ出したのは湖に面した場所にある「聖火台」だった。彼女は僕を誘ったときから何かそわそわとしていて僕もなんだか落ち着かなかった。時刻はもうすでに午前の2時位をさしている。辺りはひっそりとしていて遠くで魚が跳ねる音がした。彼女は、ここで一緒に眠ろう、と提案したので毛布を持ち出してきていた。気になったのは彼女の呼吸が喘息の人のように小さく細切れになっていて、僕は大丈夫か?と聞くと、「平気」と言った。前からたまに彼女はこのように呼吸をしていた。
住んでいた家から約三分の一位の距離を湖沿いに行くとちょっとした森があり箱根神社を通り過ぎると急に舗装道路が途切れて小さな公園を三つ並べたような広場が現われ 妙に不自然な聖火台がぽつんと建っている。ここには観光客も来ないし、もし来たとしても別に面白いものでもない。近くで見ると聖火台はコンクリートの階段状になっていて意外と頑丈に造られている。高さは2メートルほどで金属の火を灯す部分にもっともらしくオリンピックの五輪のマークが刻まれていた。多分、1968年の東京オリンピックの年にこれは建てられたのだろうと思うのだけど、なんでこんな場所に聖火を灯す必要があるのかと思った。
聖火台は裏側から回るとぽっかりと空洞になっていて頼りない。それはちょうど屋根のような形をしているのでここを僕らの家として占拠することにした。
僕らは湖を眺めながら毛布にくるまる。遥か彼方に月がひもで吊ったように浮かんでいる。ずっと彼女は喋ることがなかったので僕は一人でとぎれとぎれに話していたように思う。緊張していたのだろうか。思ったことをそのまんま口に出す、その時犬が歩いていたら、あ、犬だ、と言ったと思う、それで小さいころに犬を飼っていたことを思いだしたら続けて、僕は犬の友達がいたんだ、とか言ってしまいそうだ。こういった自分は見るのも嫌だし、だいいちかっこ悪いと思う。
「何か、話して」
彼女は要求をする。あいかわらず呼吸は小さくかすれている、不思議なことに、しきりに自分の左手の指を気にしているのを見て、言い訳ではないのだけど、遠回しに元気を出してやりたかったので、僕は確か、ミロのヴィーナスの腕はどこに行ったのか?、という話をした。僕の思いやりというものは形が変でよく無神経だとか、絶対ズレてると言われる。一応努力はしている。
何か問題があったのだなと思ったが、理由は聞かない。僕は問題がありそうな人には決して問題の内容を尋ねる質問をしないという癖がある。一応努力はしてる。
僕は話し続ける。
通称ミロのヴィーナス(ギリシア名:アフロディテ)は、千八百二十年四月八日エーゲ海の小島ミロ島の古代遺跡近くの畑で、イヨルゴスという農夫によって発見されたと記録されています。腰から上下に分かれたこの大理石像が発見の日から一月あまり後にフランスの軍艦に積み込まれるまでは、当時ミロ島周辺で勢力を争っていたフランスとトルコの間でいさかいがあり、像の表面にも新たな傷がついたようですが、とにかく両腕があらかじめ欠けていたことは証言されており、両腕の付け根の保存状態も腕がかなり以前から欠けていたことを示すものでした。なお、ヴィーナスの周辺からは同時に二体の男の首のついた石柱(ヘルメ柱)や台座、腕や手の断片、大理石の銘板などが発見されましたが、それがヴィーナス本体とどういう関係にあるかは、やはり説が分かれます。一番有力なのはフルトヴェングラー説です。この説ではヴィーナスは林檎を持っていたとなっています。フルトヴェングラーこと彼は、ヴィーナスの右手は左腰にあてがっていて、左手は丸い果実を持っていたと分析しています。その学者はヴィーナスと共に発見された腕の断片を、林檎を持った彼女の手とみなし、その腕の重さを支える台座としてドベェという画家のデッサンに描かれた銘文入りの台座を当てたのでした。だけど他に存在するどの説も有力な証拠はなく、ヴィーナスは二本の腕 を失うことによって永遠の美を得ることができたのです。
僕はここでぴたっと音声を切り、辺りの音を聞いた。遠くで僕を呼ぶ声が聞こえたような気がしたのだ。何も聞こえなかった。彼女は夜の湖をまばたきのない瞳で見つめている。霧が微かに遠くの電灯にかかっている。湖の端に小さなさざなみが見える。空の偽物のような月がこすれているような音が聞こえてくる。僕はなんだか胸が締め付けられるような気分がした。彼女は大きな目を見開いて硬直していた、そして本当に聞き取れないような小さな声で僕の名前を何度も呼んでいたのである。
なにか危険な信号を感じて彼女を引き寄せた。眼球が乾ききっていて白い膜のようなものが表面に見えた。呼吸が小さくひゅうひゅうと聞こえた。彼女の白い肌の色が微妙に変化している。危険な信号を読み取ったとき、ヒトはなんですぐに大丈夫だと考えてしまうのだろうか、本当の事実をねじ曲げてよい方向を期待する。
「おい。ここにいるか?」
彼女は僕に前後にゆすられたこともあまり理解していないようでぼーっとしていた。彼女の目は穴が開いているところにガラスの玉を押し込んだように違う世界を見ている。彼女の肩は金属でできているように冷ややかで驚いた。人が苦しそうにしているのは風邪をひいた人しか見たことがなかったがそれとはあきらかに違った種類で混乱した。 彼女の半径数メーターに未知の世界が迫っているような気分になってしまいすぐに辺りを見渡したがどこにもそんなものは見えなかった。僕は何をすればいいのかわからないので、少し混乱したまま懸命に背中をこすっていた。暖めると全てがうまくいく気がした。
飛行機事故の生存者を救ったボスニアのある民族の人々の話では被害者をフェルトと獣脂で包み暖めて救ったそうだ。その被害者の一人は生き残り、アーティストになり獣脂で作られたオブジェを提示し、フェルトで作られたスーツを壁に引っ掛けた。体温が持つ力は強い。死ぬほど悲しい思いをしているときに、人が持つ体温はどこまでも優しく感じる。彼女は口から小さな呼吸を漏れだすように押し出すと同時に白いもやが浮かび上がる、僕はそれを見てふと魂はこんなものなので はないかと思ってしまう。
すぐ隣にいる人が突然危険な信号を送り出す、そういったときに自分の中に一瞬のうちに過去の想い出をたどって自分が何者なのかということを探しだす、何もない、といった壁に打ち当たって僕は自分が誰なのかということがわからなくなる、そういったときに始めて自分の中に体温を認めることができる、僕には腕がはえていてその指先は体温に包まれているんだということを思いだす。僕は彼女の腕とか背中とかを夢中でごしごしとさすっていて、自分に腕がはえていることを嬉しく思った。自分の事というものは気付きづらいものだ。小さいころ転んだときに自分の膝から流れる血を見て始めて自分の体のもろさと体重があることに気付いたと思う。僕はその頃、車より体が頑丈で実力を出せばパンチ一発でコンクリートに穴が開くと本気で思っていたので、それはあまり直視したくない現実であったなあと思い出しちょっとおかしくなった。僕らはこういった事実を自分の経験で知るか、もしくは自分の好きな人に「それは違うよ」とか「それはちょっと変だよ」とか言ってもらいたいと考えている。僕と彼女はこの湖の端っこで震えているただの「もろい存在」だと思った。
次第に彼女は、凍った湖が少しずつ溶けていくように呼吸が回復していった。そのような、自分が他人に与えた直接的な影響を具体的に見るのは始めてだった。 ヒトというものはたった一言で他人を殺すこともできるし、たった一本の指先で他人を回復することもできるのだと実感した。彼女はゆっくりと呼吸を大きくして 一回して「ありがとう」と言った。「ありがとう」か、いい言葉だなと思ってほっとした。彼女はずっとここにいたいと僕に言った。
「タカヤ君が持ってるんでしょ。腕、ヴィーナスの」
「聞こえてたのか… …もちろん、持ってるよ」
「返してよ」
彼女は自分の左手をじっと眺めた。僕はそこから目線を動かすことができない。
「指がなんで、ないか、聞きたい?」
僕はしばらく考え、どっちでもいい、と答えた。彼女はなんでもないことのように言って、頭の中が少し混乱して僕はもう一度聞いた。外国の言葉を早口に聞いたような気分だった。僕はここが本当の世界の果てなんではないかと思って、思わず涙が出そうになった。
「お父さんが切ったの」
彼女はそこで言葉を切った。僕は世の中の会話に馴れているのでじっと、続く言葉を待った。しかし、それに続く「理由」もなかったし、「原因」もその言葉の後続に続くことはなかった。その事件は彼女の中で、ただの「事実」として心の中に存在していた。
それから、僕らはただ二人手をとって黙って煙草を吸い続けた。きっと遠くからの姿は、声の無いこの世の中の深い心に耳を傾けていたように見えたかもしれない。
朝方に僕らは、湖の浅瀬でもがく二匹の鱒を逃がす前に、小さなキスをした。弱い光で青みかかった湖には、誰かがほうり投げたのだろうか、座布団が浮いていた。