モノを持ち歩くひとり民族 “Notebookers”
小学校の頃に郷土史について学んだ時に知ったのだけど、僕が育った北海道の土地の名前の由来は「オッカイ・タム・チャラパ」(男が刀を落としたところ)の意味がある。学校帰りに、近道で森の中を突っ切って歩いている時に、その遠い過去にこの土地を歩いた男が落とした刀を見つけてやろうと思って、いつも探して歩いていた。
この土地には大きなヒグマが住民を襲撃した民話が語り継がれている。怪我を負って遁走したヒグマが住民を辺り構わずかみ殺してしまう。学校の渡り廊下には、大きな熊が赤ちゃんを噛む、遠い昔の物語を語ったものものしい大きな壁画が掲示されていた。そういった一連の遠い時代のおそろしげな物語は、小さな頃の僕の頭の中で膨らんで、神話のような雰囲気を持っている。
男は遠い昔に、恐ろしげなこの場所を歩いて、曽祖父の時代から受け継がれた大切な刀を失って、とぼとぼとうつむきながら森の中を抜けて帰ったのかもしれない。夕闇の森の中で野宿して、迫り来る熊の姿を想像していたのかもしれない。そんな彼のために、いつか刀を見つけてやろうと思っている。それは、今でも土の下に埋もれ、誰かに発見してもらえるのを待っているのかもしれない。
民族が携えている道具に興味が有る。
フィンランドのサーミは自分の生活の中で手に入る木の根、白樺の樹皮、トナカイの革や角など身近にあるものを材料にものを作る。彼らが携えている道具は、「プーッコ(Puukko)」というナイフと「コーサ(Kåsa 日本では”ククサ”と呼びますね)」と呼ばれる白樺のコブから削り出したカップを持ち歩いていたらしい(もちろん伝統的なものなので、現在では携帯する人は少ないらしい)。
アウトドアショップでフィンランドのKupilkaのカップを見つけてから愛用している。木のチップと樹脂の混合した材料で作られていて、木材と違うので手入れが簡単で、飲み口も薄い。腰にぶら下げて持ち歩くのに最適だと思う。これを持ち歩くようになってから、なかなかお茶をするのが楽しい。試しにスタバに持って行って、ホットコーヒーを注いでもらうように頼んでみたら笑顔とともに快く応じてくれた。最近はこれにブレンディのコーヒーをティースプーンで2杯入れて、冷たい牛乳で溶いて飲むのが気に入っている。誰かとお茶をするときに、カバンの中からコップを取り出すと大半驚かれる。
どこかで読んだのだけど、ククサは木に含む水分を乾燥時に飛ばすために最後の仕上げで塩茹でされているので、使い始めの最初の一杯は必ず飲み物はしょっぱいらしい。そんな一節を読んでから、ククサで飲むドリンクを想像するたびに口の中に塩味が広がる。
「Hot Drinks around the World 世界のホットドリンク」という本があって、世界中の温かい飲み物について書いている本がある。レシピだけに限らず、世界中の人々の、小さな頃に飲んだ温かい飲み物に関する思い出や、温かい飲み物を通じた考え事についても触れているのが面白い。
僕は個人が持っている日常の何気ない出来事の、それぞれの取り方受け止め方の違いを知るのがとても好きだ。温かいお茶を持って対面する二人は、世界の果てでお茶を通じて、二人の世界を触れ合わせている。というようなことを考えながら飲むお茶はおいしい。それが自分のお気に入りのカップであればなおさらである。
まず人と会う。そして話した時に気になったことを頭の片隅に置いておく。家に帰ってからむくむくと湧いてくるアイディアを書き留めて、そのことについて調べる。ノートブックに貼る。人と話したことを大まかなブロックのようなイメージで覚えていることが多い。その形を書き留めておく。
僕のノートブックは、考え事の、その時の瞬間が切り取られている。瞬間を過ぎてしまうと、ノートブックの中は大半何が書いているのかわからない。数日後にパラパラとめくってみても何が書かれているのかピンとこない。それは暗号のような一節だったり、何かの構造だったり、記号だったりする。意味の存在しない世界でノートブックを書き留めている。
星野道夫はアラスカを「意味の(存在し)ない世界」と呼んでいた。「意味の存在しない世界」を歩くことが旅なら、自分はノートブック上で旅をしていると思う。文学を衣服のようにまとって、ことばというナイフを研いで、ノートブックの上を旅している。
民族がモノを携帯するその姿が好きだ。日本でナイフを持ち歩けないのは時々残念に思う。1930年代のフィンランド大統領は「ナイフは服装の一部である」と言って、彼の腰にはいつも銀製の プーッコをぶら下げていたらしい。種まきのときに、畑の四隅にナイフを突き立てて豊作を祈ったり、悪夢を払ったり、未婚の女性はナイフの空シースをぶら下げて、求婚者の男性の持つナイフを受け入れたり、そんな一連の日常の中の儀式的な意味合いを想像するたびに、道具の大切さが伝わってくる。
僕がカバンの中にお気に入りの道具をびっしりと入れているのも、何か民族的な意味合いがあるのかもしれない。ひとり民族。そんな感じでカバンの中にモノを詰め込む。お気に入りのカップを詰め込んで、意味の存在しない世界を歩いてみてください。
ちなみにモレカウはものすごくものすごく、アイヌの人々をリスペクトしています。