ゆく手帳くる手帳

Posted on 03 1月 2016 by

本年もよろしくお願い申し上げます。

今日までは2015年の手帳を併用していました。1/3まで欄があったからです。
そんなわけで、1/1からは写真の4冊を使っていました。

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左からほぼ日手帳、集文館の小型三年活用新日記、MIGNON。ここまでが今年の手帳です。右端の Smythson の SCHOTT’S MISCELLANY DIARY (以下、SCHOTT’S)は去年の手帳です。

ほぼ日手帳は、今年は易日記として使う予定です。
易には簡易に卦を出す道具を使っています。
去年「易経」を読んで、「これは占ひの本ではないな」と思いました。
あるものごとについてどういう切り口から見るかを知るための指標だと思ったのです。
おそらくタロットカード占いもそういう捉え方ができるのではないでしょうか。
そんなわけで、毎日あるものごとをどう見たらいいかを念じながら卦をたて、出た卦と自分の知っている情報とを照らし合わせて「こういうことかなあ」と頭を悩ませています。
その日出た卦はこんなふうに月間ページに書いています。

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三年日記には、長いこと集文館の掌中三年手帳を使ってきました。
手帳売り場でたまたまおなじ集文館の三年日記を見かけ、今回はこちらを使ってみることにしました。
三年手帳は文庫本とほぼおなじ大きさです。
こちらには行動履歴やその日気になったニュースを書いています。
あと picotto fusen を貼りつけて iPhone で撮った写真を連携しています。
これはこれまでの三年手帳とおなじ使い方です。

MIGNON の手帳はスケジュール帳です。
去年までは右端のSCHOTT’Sを使っていましたが、今年用は販売されませんでした。
Smythson のおなじサイズのスケジュール帳にしようかとも考えたのですが、まったく別の手帳を使うことにしました。
実は SCHOTT’S は自分の中では一番よく使ったスケジュール帳でした。
とにかくよく書き込みましたしよく見返しました。
持ち歩きやすいサイズだったからです。
預金通帳とほぼおなじ大きさで薄いのでどんなかばんにも無理なく入ったのが大きかったと思います。
それでいつも持ち歩いていたため、よく書き込めたしよく見返すことができたのでしょう。
MIGNON の手帳は SCHOTT’S に比べるとちよつと大きいしかさばります。
そのうち使わなくなるのではないかというおそれもあるのですが、ここは様子を見ることにしています。

ほかに完全に予定用にスライド手帳を使おうかと思っています。
これについてはまたの機会に。

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Notebookers 向けな展覧会

Posted on 22 6月 2015 by

大変ご無沙汰しております。
本日、まことに Notebookers 向けな展覧会に行って参りました。
世田谷文学館で7/5(日)まで開催の「開館20周年記念 植草甚一スクラップ・ブック」です。

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植草甚一については、リンク先に詳しく書かれています。
1908年の生まれで1979年にこの世を去りました。
Wikipediaには「欧米文学、ジャズ、映画の評論家」と紹介されています。
個人的な出会いは、「海外ミステリーについて書く人」としての植草甚一と、でした。
「欧米文学、ジャズ、映画」はもちろんそのとおりですが、膨大な知識量の雑学の人でもありました。

題名に「スクラッププック」とあるとおり、植草甚一の残したスクラッププックが大量に展示されています。
展示されているのはスクラッププックばかりではありません。
植草甚一が使用していたノートも大小取り混ぜ何十冊も展示されているのです。
まるでノートの展覧会のようです。
ほかには晩年よく作っていたというコラージュ作品もたくさん展示されています。

スクラッププックにはスクラップブック用紙以外にはスケッチブックやクロッキーブックに近いものを使っていたようです。
スクラップブックには、洋雑誌や海外の新聞からの切り抜きが多く、雑誌ごとに作ったものもありました。
芝居好きとしては、二代目市川猿之助が松竹から追放されたときの記事をいくつもいくつもスクラップしたものに興味を惹かれました。

ノートとして使われているものはA5やB5の大学ノートが多く、試写会でのメモにはステノグラファーが使われてていました。このステノグラファーは現在のものより細いのです。こんなサイズのノートもあったのですね。
生原稿も展示されていて、中には「Wonderland」誌特製原稿用紙を使ったものもありました。

コラージュ作品はハガキに描いたものがたくさん展示されています。コラージュを本格的にはじめたのは晩年入院をしてからだそうで、つらい内容のものもありました。つらいのに、楽しげに作っているのも印象的でした。

展示室を入るとまず、植草甚一が「洋書をできるだけ読んでそれについて書いていこう」と決意を記したノートを見ることができます。
昭和17年のものだそうです。
このノートが、現在の大学ノートのような罫線のノートで、保存状態が実にすばらしいのです。
このあと、20年のノートになりますと、わら半紙をただ綴じただけといったものに変わります。紙焼けもかなりひどいものです。
これが35年くらいになりますと、格段に上質の紙に変わります。ひょっとすると今のノートよりもいいかもしれません。
別の展示になりますが、いま世田谷文学館では山田風太郎の戦中戦後の日記も展示されていて、こちらもやはり17年くらいの日記はよいノートに書かれています。20年のノートはわら半紙のようなものをただ綴っただけです。
ノートの質のうつりかわりだけでも相当楽しめます。

ノートには読んだ洋書の内容や批評を記したもの、一ページごとに作家について記したもの、買った本の記録や領収書をはりつけたもの、試写会でのメモ、ジャズのレコードについての記録などなどいろんなものがありました。
領収書の中にイエナ書店のものがあって、なつかしくしみじみと眺めてしまいました。
イエナ書店は銀座五丁目にあった洋書店でした。いまはディオールがある場所にありました。
イエナ書店は群よう子のあみものの本にも出てきて、こどものころは憧れの店だったのです。

展示会の最後に、植草甚一が晩年開店することを構想していた「三歩屋」という古書店があります。
三歩屋は実現はしなかったのですが、構想メモなどから再現したとのことです。

文学館のショップには、スクラップブック用に月光荘のスケッチブックなどが販売されています。
ほかにもLIFEのノートや便箋と封筒といった文房具、植草甚一の着ていたものをもとに作ったTシャツもありました。
もちろん、著書もたくさんならんでいました。

植草甚一は、「雨降りだからミステリーでも勉強しよう」ではじめて知って、その後何冊か読んで、あるときまったく受け付けられない本に出会い、それ以降読んだことはありません。
今回行くことにしたのは、「自分のノートに使い方の参考になりそうだ」と思ったからでした。
ノートの使い分け方とか、そもそもの文字の書き方など、参考にしたいことはたくさんあります。
それ以上に、「これだけ膨大な量を書き綴るなんて」ということが、とても刺激的でした。

展示場に来ているのは植草甚一を知る人がほとんどのようでしたが、知らなくてもノート好きにはとても楽しい展覧会だと思います。
他人のノートをたくさん見る機会でもありますし、是非おいでくださいまし。

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ピコットフセンを三年手帳といっしょに使う

Posted on 30 3月 2014 by

三年手帳も二年目に入り、もう四月を迎えようとしています。
手帳にはカンミ堂のピコットフセンを貼り付けています。

ピコットフセンと三年手帳

ご存じの方ばかりかとは思いますが、ピコットフセンは、QRコードのついている付箋です。
iPhoneやAndroidなどスマートフォンの専用アプリケーションを使うと、このQRコードを読み込んでスマートフォンに保存されている写真と関連づけることができるようになります。
手帳に写真を貼るには、写真を手帳に貼れるサイズに加工して印刷し、それから貼り付けるということになるかと思います。
ピコットフセンを使うと、手元に手帳とスマートフォンとがあれば、写真を直接貼り付けることなしに写真を呼び出すことができるようになります。
三年手帳のように書くスペースの限られている手帳には、うってつけの付箋です。

三年手帳は集文館の掌中版三年手帳を使っています。
大きさはMoleskineのポケットサイズとほぼ同じです。
これまでも三年日記やほかの会社の三年手帳を使ったことがありましたが、続きませんでした。
集文館の三年手帳がつづいているのは、

  • 持ち歩きやすい
  • 一ページ一日三年分
  • 罫線がない

というところが自分好みだからだと思います。
持ち歩きやすいので、時間のできたときに書くことができます。
一ページ一日なので、書ける量が増えます。ほかの三年手帳は一ページ二日のものが多いように思います。
罫線がないので、たくさん書きたいときは細かい字で、そうでもない日はそれなりに書くことができます。

ほぼ日手帳を使う前は、この三年手帳を愛用していました。
六年は使っていたでしょうか。
その後ほぼ日手帳を手にして、三年手帳に書いていることとほぼ同じようなことを書くようになりました。
それでしばらく三年手帳は使っていませんでした。

一昨年の暮れにかたづけをしていたら、昔使っていた三年手帳が出てきました。
見るとはなしに見てみると、これが案外楽しいのです。
普段から手帳に書きつけることは「未来の自分が見たら楽しいと思うようなこと」を意識しています。
三年手帳だと、それが生きます。
去年や一昨年の今日はなにをしていたか。
去年はいつごろ薄いコートに着替えたろう。
一昨年の桜の見頃はいつ?
知っても役には立たないのですが、でも見返してみると、なんだかおもしろい。
そんなわけで、普段はあまり興味もない高校野球の優勝校ですとか、各場所の優勝力士の名前なども書き付けておくことがあります。
とくに意味はありませんが、あとで見たときにおもしろいと思うからです。

そんな三年手帳に、ピコットフセンを使うことで、去年のいまごろ、一昨年のいまごろの写真も見ることができる。
楽しさ倍増です。

スマートフォンを入手するときには、大抵の場合二年縛りの契約を結ぶものだと思います。
三年手帳を使っているあいだに機種変更することになるだろうなあと思いながらも、おそらく機種変更をしても前に使っていたスマートフォンは手放さないと思うので、それでもいいかなあと思っています。

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ペンを調整してもらいました

Posted on 27 10月 2013 by

先日、愛用の萬年筆を調整してもらいました。

ノートの話ではなくて恐縮です。

 

三年前に中屋万年筆の碧溜十角軸ピッコロを求めました。ペン先は細軟です。

これが実に書きやすいペンなのです。

買つたそのときに、「なんだか自分っぽい字が書ける!」と感動したものです。

自分で書くのに「自分っぽい字」というのも妙な話かとは思います。

しかし、筆記具によって字というのは微妙にことなる気がするのです。

そういう話を最近ブログに書きました。

 

中屋万年筆のペンなので、プラチナ萬年筆のブルーブラックを入れて使っています。

プラチナのブルーブラックだと、Moleskineでもにじんだり裏ぬけしたりしないんですね。

当初はそんなことを考えずに使っていました。

Moleskineのやわらかい紙にやわらかいペン先のペンで字を書くと、なんともふんわりとした感触がします。

これがまたいいんですよねえ。

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そのペンの書き味が、ここのところなんとなくよくありませんでした。

書き出しはいい。

でも、書いているうちにインクがかすれてくる。

そんなときに中屋万年筆のイヴェントが開かれると聞き、いそいそと行ってきました。

 

調整していただいたところ、これまでの書き味はなんだったのかというくらい書きやすくなりました。

ふしぎなもので、愛用のペンの書き味がすばらしくなったというだけで、人はやさしい心持ちになれるものなのですねえ。

いや、自分だけかもしれませんけれども。

調整してもらった足で、ディンブラという紅茶屋さんに行きました。

早速紅茶などいただきながら書いてみると、すっかり忘れていた書き味がよみがえっていて、気持ちがふわーっとほぐれる心地がしました。

あまりに書きやすくなりすぎて、最初はちょっと違和感がありました。でもすぐに「自分っぽい字」が書けるようになりました。

 

ところで、ペンの中には「自分っぽい字」の書けないものもあります。

そういうペンは、「自分っぽくない字」を書くのに使う、というとちょっとちがうかな。

書いてみて、「自分っぽくない字」になるのを楽しむ、という方が近いかもしれません。

 

好きなペンは、書き味のやわらかいもの。

軸はちょっと太めのものをゆったりと持って書くのが好きです。

でも、手持ちのペンには書き味のかたいものもありますし、細い軸のペンもあります。

書き味のかたいペンはそういうものとして、細い軸のペンもそういうものとして使っています。

書くものやそのときの気分によって、かたいペン先の方があう。そんなこともあります。

出先では細い軸のペンの方が使いやすい。そういうこともあります。

 

そんなことを云っているからどんどんペンが増えてしまうんですよねえ。

最近やっと自分のペンの好みがわかってきましたので、もうこれ以上増えることはないだろうとは思っています。

でも調整に行くつもりが、ついペンを一本増やしてしまったんですよねえ。

それはまた別の話。

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漢詩 soothing

Posted on 30 6月 2013 by

詩は長いこと苦手でした。
いまでも苦手です。
ちゃんと詩集をとおして読んだことがあるのは、たぶん、萩原朔太郎と中原中也とくらいで、ほかは途中で挫折しています。
気取ってリルケとかハイネとかボードレールとか読んだこともありますが、「気取って」という時点ですでにまちがっています。

読む方も書く方も、韻文はからきしで、といって散文がちゃんと書けているのかという問題もあるのですが、和歌とか俳句とかも苦手だし、詩はダメなんだなあと思っていました。

一年ほど前、武部利男の訳した「白楽天詩集」を手に取る機会がありました。
この本にはじめて出会ったのは高校生のときでした。
学校を休んだ日に古典の授業で配られたプリントに、ひらがなばかりの詩が刷られていました。
武部利男の訳した「長恨歌」でした。
興味を惹かれて、「白楽天詩集」を読みました。

そう、考えてみたら、ちゃんと読んだことのある詩集が、ほかにもあったのです。

去年、たまたま図書館でこの本を見つけて読み返しました。
その後、ちょこちょこと漢詩の本を見つけては読んでいます。

漢詩は、とくに絶句や律詩は、厳然とした韻文です。
平仄や脚韻、対句など、いろいろこまかい決まりがあります。
でも、読める。
それどころか、最近はちょっと気持ちの落ち込むことがあると、「あの詩でも読もう」と思うほどです。

なぜなのか、と、自分のblogでもいろいろ考察してみました。
韻文かどうかは関係なくて、おそらく「好きな字がならんでいる」というのがいいのだろう、と思っています。

詩は、朗読したときの効果が重要です。
漢詩にかぎらず、韻を踏んだり平仄があったり音節がいくつであるという決まりがあったりするのは、読んだときの調子を考慮しているからです。

漢詩には、さらに、ぱっと見たときの字面のうつくしさがあります。
気に入った字のならんでいる詩は、やはりいい。
書き写すのも気持ちのいいものです。

「歩出夏門行」抜粋

 

 

 

 

 

二月に東京国立博物館に「書聖 王羲之」展を見に行ったとき、「世説新書」に王羲之のおじさんが酔っていい気持ちになると魏武の詩を吟唱したらしい、ということを知りました。写真はその詩の一部です。

うーん、四文字づつ横にならべて書いた方がいいですね。
その方が黒い部分の多い字と白い部分の多い字が交互にならぶ感じが出るのです。

そんな感じで漢詩を見ていくと、たとえば杜甫はちょっと全体的に黒っぽすぎるし、かといって白楽天は白っぽすぎるような気がしてきます。

内容のことをいうと、好きな詩には友人と別れるときの詩が多く、またお酒にまつわる詩にもお気に入りが多くあります。
内容はもちろんですが、いまは「この詩人の字面が好き」「この詩の字のならび方、サイコー」という感じで楽しんでいます。

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好きなことを書く

Posted on 02 6月 2013 by

James W. Pennebakerという学者がいます。
米国大統領選挙前のディベートなどから各候補者の使う単語を心理学的に分析する研究で有名です。
Pennebakerは、Opening upという書籍などで、「イヤな記憶やできごとを書き出すと、気持ちが楽になる」というような研究もしています。Opening upは「オープニングアップ – 秘密の告白と心身の健康 -」という題名で翻訳されました。

Opening upを読んで、なるほど、と思い、過去のつらい記憶、思い出したくないできごとをノートに書き連ねていたことがあります。
気分が楽になったか?
答えは「いいえ」です。
どんなに書いても、いえ、書けば書くほど、どんどん気分は落ち込んでいきました。

書き方が悪いのだろうか。
そう思って、もっと正直に、もっと赤裸々に書こうともしました。
やっぱりダメでした。

書くほどに、当時の記憶がよみがえります。
ああすればよかった、こうもできたのではないか。
そうした後悔だけが新たになるばかりでした。

この四月、歌舞伎座が装いも新たに開場しました。
休みをとって初日に行きました。
このときのことを、かんたんにblogに書こう。
そう思って、書き始めてみると、どうでしょう。
これが、実に楽しいのです。

舞台を見てどう思ったか、自分の目にあたらしい歌舞伎座がどう映ったか、そんな愚にもつかぬことを延々と書き連ねて、そして、気分は爽快でした。

好きなことを書くのは、楽しい。

当然のことかもしれませんが、つくづくそう思いました。

ところで、自分は「人形劇三国志」も好きです。
去年渋谷ヒカリエにできた川本喜八郎人形ギャラリーには何度も行きましたし、この四月末には飯田市川本喜八郎人形美術館にも行ってきました。

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ある日すこし早起きして、飯田に行ったときのことを思い出して書いてみました。
これまた実にいい気分です。
それは、その日一日つづきました。
イヤなことがあっても、「飯田の呂蒙のようすのよかったこと」ですとか、「夏侯惇の今にもしゃべりだしそうなようすといったら」ですとか、朝書いた直後だけに、ついさっき見てきたことのように思い出されて、気分を害することなく過ごすことができました。

どうやら、自分には、イヤな記憶やつらかったことを書くよりも、よかった体験や好きなことについて書く方が、向いているようです。

そんなこと、あたりまえだって?
そのあたりまえのことに、気づいていなかったのです。
近頃面目次第もございません。

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つづける秘訣は自画自賛

Posted on 01 5月 2013 by

つづける力というのはどこからやってくるのでしょうか。

今年の年頭、五つの目標をたてました。
そのうちのひとつが、「毎日外国語で日記をつける」です。
いまのところつづいています。

Pocket Moleskine The Hobbit Editionとパイロット石目

 

「外国語」と書きましたが、基本的には英語で書こうとしています。
たまにその日NHKのラジオドイツ語講座で習った言い回しの書き換え練習なんかもします。そうしないと書くことを思いつかない、というのが主な理由です。

なぜつづいているのか。

それが、自分でもよくわからないのです。

小学校では毎年夏休みに、日々の記録をつける、という宿題が出ました。
起床時間と就寝時間、ラジオ体操への出欠、それとその日の天気を記録することになっていました。
六年間、一度たりとも毎日継続できたことはありません。
たいてい、明日は始業式というときになって、あわてて思い出しつつ、いい加減なことを記入していました。

親からも、「なぜおまえは云われたことができないのか」と云われつづけてきました。
毎日あるいはつづけてするように云われたことが、できません。
日々の練習の必要なピアノだとかそろばんだとか、つづいたことがありませんでした。

そんな自分が、まだ五ヶ月目に入ったばかりではありますが、日々記録をつけることができている。

物理的なことを云うと、毎晩寝る前に視界に入るところに手帳とペンとをおいている、というのがつづいている秘密のように思えます。
「さて、寝るか」と席を立つ瞬間、手帳が目に入るのです。
気分はすっかりお布団に飛んでいますが、とりあえず一二行、つまらないことを書きつけます。ほとんどは「眠い」とか、「今日も眠かった」とかです。
MacBook Airはすでに閉じてしまっているので、Webで辞書を検索することもできませんし、自分のつたない語彙で書けることを書きます。

これって、片づけの好きな人には向きませんね。
でも、しまい込んでしまうときっとつづかないんです。
すくなくとも自分はそうです。
視界に入る場所に置く、というのは、継続のためには重要なことだと思います。

もうひとつ、物理的な要因として、「すてきな手帳とペンとを使う」ということがあります。
記録用の手帳に使っているのは、無地のPocket MoleskineのThe Hobbit Editionです。
「毎日外国語で記録をつける」という目標をたてる少し前に、映画「ホビットの冒険 思いがけない冒険」を見ました。
映画では、年老いたビルボ・バギンズが過去の冒険を大きな日記帳のようなものに記す場面が出てきます。
これが、とてもよい場面だったのですね。

ほんとうは自分もちょっとセピアがかった色のインキで書きこみたいと思っていたのですが、残念ながら手持ちのセピア色のインキはMoleskineの紙にはにじんでしまいます。
一番よく使うインキは、日本橋丸善のエターナルブルーです。このインキを、パイロットの石目という萬年筆の細字に入れて使っています。
エターナルブルーは、ペンによっては、Moleskineの紙でもにじんだり裏抜けしたりしないようです。
ちなみに、このインキを自分は「玄徳ブルー」と呼んでいます。「人形劇三国志」の玄徳の衣装に使われていた青と似た色だからです。

パイロットの石目は、もっと高価な漆塗り万年筆のそれとおなじような書き味の、実にすばらしいペンです。
書いていて、ペンの存在を忘れるような書き味なのです。
そのペンで、Molskine The Hobbit Editionに書き込む。
それだけでなんだかいい気分です。

思いつく理由はそれくらいです。
はたして、それだけの理由でつづくものなのか。
どうもそうは思えません。

ライフハック系のWebサイトでは、「習慣」の話がよく出てきます。
「人間は習慣でできている」
まあ、ものすごく乱暴に云うと、そんなようなことです。

人間は習慣でできている。
無意識のうちに日々やっていることがその人間を作り上げる。

おおざっぱに云うと、そういうことなのだろうと思っています。

一昨年の春、職場の健康診断で、「このままじゃまずいよ」と医者に宣告されました。
宣告されるくらいですから、実はおなじようなことをずっと云われつづけていました。
でも、それまではまったく自分の心には響かなかった。

たぶん、そのとき、なにかの拍子に、自分の中でスイッチが入ったのです。

その日から、食生活を見直すようになりました。
毎食毎食食べたものとおおよそのカロリー計算を記録し、毎日体重も記録するようになりました。
また、帰り道は、職場の最寄り駅からひとつ先の駅まで歩くようにしました。
いまは職場が移転してしまったので歩いていませんが、移転するまでは、雨の日も風の日も、雪の日も爆弾低気圧の日も歩きました。

もともと、自分は頑固なたちでした。
臨機応変の才に欠ける。ものごとに柔軟に処していけない。
こうと決めたらこう。
論語でいう、「君子」から一番遠いところにいる。
そんな性格です。

ひとつ自分が決めたことができるようになると、ほかのこともできるようになりました。
まあ、できないこともいろいろあるのですが、これまでは「とても自分のようなあきっぽい人間にはムリ」と思われていたことを、定期的につづけて実行することができるようになった。
外国語で日記をつけつづけていられるのも、そういうことなのかなあ、と思ったりもしています。

ちなみに、さきほども書いたとおり、書き付けている内容があまりにも雑なので、本来意図していた外国語の習得という目的はどうやら果たせそうにありません。
これは孫子の兵法でいう「費留」という状態なんじゃないかと思っていますが、それはまた、別の話。

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筆圧と思考

Posted on 31 3月 2013 by

先日、草森紳一の「随筆 本が崩れる」を読みました。
来月、おなじ著者の「李賀 垂翅の客」が出版されると聞き、いてもたってもいられずほかになにか読めるものはないかと思って手に取りました。
「随筆 本が崩れる」は、文字どおり、著者の膨大な蔵書がひょんなことから崩れてしまったことについての随筆からはじまります。
これ自体、他人事ではないのですが、気になったのは、それとは別のことでした。

草森紳一は、筆圧が高かったのだそうです。
力を込めて書いていると思考が動き出すのを感じる、といっています。

そういうものなのか。
筆圧の低い自分には、よくわからない感覚でした。

去年、たまたま立ち寄った文房具店で開催されていたパイロットの筆圧鑑定を受けました。
筆圧は、A4サイズの書類を入れるケースくらいの大きさの感圧機に名刺サイズくらいの感圧部があって、そこに紙をのせて名前を書いて鑑定します。
自分の筆圧は、平均の半分以下で、ほとんど筆圧の測定されない部分もありました。

なるほど、そういえばカーボン複写式の用紙に書き込むのが苦手なのですが、それもむべなるかな、という結果でした。
年賀状の宛名だけは手書きにしようと毎年苦戦しているのですが、苦労するのは書き始めるよう自分を鼓舞する部分で、実際に書いても手は疲れません。
Notebookerとしてはどうかとも思いますが、生まれてこのかた「ペンだこ」というものができたこともありません(編み針だこはあります)。

もしかすると、キーボード入力のときもほとんど力を入れないのは、筆圧の低さと関係があるのかなあ、と思うこともあります。

ほとんど力を入れずに書いていて、だから自分の場合はなかなか思考が展開したりしないのか。
草森紳一は、思考の動き出すのを「火のつくように」と表現しています。
火のつくように思考が動き出す。
草森紳一と自分とを比べるのは身のほど知らず。それはわかっていますが、自分の場合は精々「水がちょろちょろと流れるように」なんですよねえ。

「水のほとばしるように」思考が動き出す。
そんなふうになれたらいいなあ。

Notebook & it's companions

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どんな字を書いてみたい?

Posted on 07 2月 2013 by

こどものころ、筒井康隆の書く字にあこがれていました。

『大いなる助走』の表紙に自筆原稿が用いられていて、一時、これをお手本にまねして書いていました。
残念ながら、自分の手からは美を生みだすことはかなわず、そのうちあきらめてしまいました。
縦に字を書くときに、罫線の左側ギリギリに書き、右のはらいを長めに書いてしまうという変な癖だけが残りました。

日曜日に、東京国立博物館の平成館に「書聖 王羲之」展を見に行ってきました。

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書に疎いもので、王羲之については世界史で学んだていどの知識しかありません。
この機会に見てみよう。
そう思って上野に向かいました。

王羲之の書は、もしかすると世界で一番真似されている字かもしれません。
でも、正直云うと、「蘭亭序」のよさが自分にはわかっていませんでした。

今回、ずらりとならんだ「蘭亭序」の模写(臨書したもの)を見比べて、圧倒されるとともに、どれひとつとしておなじものがない事実にいまさらながらに気がつきました。
書き出しの「永和九年歳在癸丑」の「永」の字からして、まったくちがいます。「癸丑」の部分はすこし小さく、とくに「丑」の字は線が太くてときにつぶれるのではないかと思うような書き方が多いのですが、これも人によってまちまちで、比較的すっきり書いている人もいれば、ほかの字とあまりかわらないような大きさで書いている人もいます。

こうなってくると、是が非でも王羲之の真筆を見てみたくなるのが人情というものですが。
現存していないのがつくづく惜しまれます。

また、この展覧会に行って、「「蘭亭序」は酔っぱらった状態で書いたからああいう感じなのかもしれないなあ」と思いました。自分は酔った状態でノートを開くことはほとんどありません。今度は酩酊状態のときになにか書きつけてみたいと思います。

もうひとつ、この展覧会で思ったことは、「書って自由だなあ」ということです。
王羲之の書の拓本のあとに紙をつぎたすなどして、後世の人が思い思いのことを書き連ねているのです。「これはすばらしい」とかあれこれ書いて落款までして、さまざまな人の手に寄るそうした文章が延々つながっていたりします。
書をたしまなれる方にはあたりまえのことなのかもしれません。しかし、最高傑作といわれるような書のあとに、自分でまた文章を書いてしまう、というところに自由な空気を感じました。
中にはおなじ人が何年かのちに書き足したものもあり、「過去の自分はまったく勉強不足だった」というようなことが書いてあったりするのだそうです。
これまで書籍に線を引いたり字を書き込んだりして汚すのを厭うてきましたが、それもわるいことじゃないんですね。これもそのうちやってみようと思っています。

この展覧会で、手ぬぐいを買いました。

蘭亭序手ぬぐひとぺんてるのきらり

東京国立博物館の所蔵する蘭亭序 許彦先本をもとにした手ぬぐいです。
博物館では筆もたくさん売られていました。
書道はたしなみませんので、それは見るだけで過ごしましたが、たまたま帰りに地元の文房具店に立ち寄ったところ、ぺんてるからあたらしい筆ペンが出ていて、思わず買ってしまいました。

このたびはじめて書の展覧会に行きました。
思った以上に堪能し、博物館を出てくるころにはすっかり気分が昂揚していました。
時間が足りなくてじっくり見られなかった作品もあるので、会期中にもう一度行けたらと思っています。

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ぴあちぇーれ

Posted on 27 1月 2013 by

はじめまして。晴れてNotebookers第二期writerのひとりになることのできました、月亮と申します。

「ノートはひとつにまとめやう」と思っておりましたが、気がついたら複数冊使っております。自然とそうなったので、自分にはこれが向いているのでしょう。
現在使用しているノートはこんな感じです。

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あとは職場用にほぼ日手帳カズンを使用しています。

萬年筆が好きなので、Moleskineを手にしては、使えるペンとインキに制限のあるのにがつかりして別のノートを使い、またMoleskineに戻ってくる、といったことをくりかえしています。
別のノートとしては、アサヒヤ紙文具店のQuill NoteとかSmythsonのPanamaとかを使ったりします。

Plain Notebook Macht Frei.

ノートは無地も罫線ありも使いますが、無地だとこんな感じになりがちです。
これは、インキのにじみの少なかったころのMoleskineに書いたものです。

 

月に一度は芝居見物をするていどに歌舞伎が好きです。
ほかにはあみものとタティングレースをたしなみます。
タティングレースとは、こんな道具を使つてレース糸を用い、

Tatting Shuttles

こんなものを作ったりします。お粗末な出来で恐縮です。

Celtic Tatting

ここのところご無沙汰していますが、糸を紡ぐこともあります。

モンティ・パイソンが好きなので、時々「Nobody expects the Spanish Inquisition! (まさかのときのスペイン宗教裁判!)」とか叫び出すかもしれません。

手ぬぐいを常用しています。水で手洗いが基本なので、この時期はかなりつらい思いをします。

ふつつかものではありますが、よろしく頼み上げます。

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