2016 – トウキョウ、昼

Posted on 20 11月 2016 by

お昼の中華料理店。この店に来たのは2回目。20年くらい前のロック少年みたいな、真っ赤なTシャツを着た日本語のおぼつかない青年が1人で店番をしてる。

昼の賑やかなテレビ番組がかかっていて、店内はわりと広いし清潔だけど、薄暗くて殺風景で寂れた雰囲気。料理は結構美味しいし暖房もしっかり効いてて暖かいけれど、寂れてる。客は時々静かに出たり入ったりして常に2〜3人。テレビショッピングのガサガサした甲高い声と、1人じゃない客達の小さなお喋りと、カチカチサラサラと茶碗や皿に箸の当たる音が聞こえる。

テーブルに置かれてる水差しから水をコップに注ぐ。新鮮な水。
広さと薄暗さと静けさと手書きの張り紙と物静かで微笑みをうかべた金髪のロック青年と清潔さが混在しながら密度が低くて、ちょっと何か、異世界に来たみたいな不思議な雰囲気。

ここから厨房が見える。水色のタイルと、ステンレスの調理台。酒とか何か調味料が並んでいるけれど、人の気配はない。脂ぎってはないし、埃をかぶってる感じもない。こざっぱりした普通の、ちょっと休憩中みたいなレストランの厨房。だけど今はランチタイムの営業中で、なのに調理人の気配がなくて、時々、ここから見えない奥の方から、ジージー、カシャカシャとか、飛行機のサイン音みたいなポーンとか、レストランとは場違いな小さな機械音だけが聞こえてくる。

注文を取ったあと、青年は黙ってカウンターの向こうのデシャップらしき場所に引っ込む。厨房に声をかける様子はない。しばらく経つとインターフォン越しのようなザラザラした音の「……△※◆?!」と何語かわからない女性の怒鳴り声が聞こえてきて、青年が料理を持って出てくる。ちゃんと温かくて出来たて。美味しい。

1人の客が食事を終える。デシャップに入って姿の見えなかった青年が、するっと出てきてレジに向かう。支払いを済ませた客が出てゆき、青年は見えない場所に戻る。

しばらく時間が経つ。

姿の見えなかった青年が、するっと出てきて店の入口に向かう。と、新しい客が入る。青年は周囲のテーブルをゆらゆらと拭きながら、客の注文が決まるのを待つ。

客が声をかける必要はない。必要な時に、必要な場所で、顔を上げるとそこに青年が立って待っている。

薄暗くて殺風景な店と、このとてもタイミングがよく気の利いた物静かな青年のことを考える。何となく、昔の村上龍の小説を思い出す。外に出たら昼間の東京の古いビジネス街で、今時は珍しい色ガラスの嵌った喫茶店や中華料理店がたくさんあって、時々街宣車が通って、きっと、ちょっと夢の中のような、夢から覚めたばかりのような、現実の時間と空間から切り離されてしまったような気分がするんだろう。

それから厨房の奥の機械のことを考える。店全体が実は大きな機械で、いま自分は機械の腑の中で食事をしてるのかもしれない。青年が注文を聞いてるように見えるのはそう見えてるだけで、客の小さな囁き声も、テーブルの上のメニューを辿る視線も、実は全てモニターされていて、客が頭の中で考えてる注文を先取りされているのかもしれない。宇宙ステーションでひとり暮らしながら仕事をする古いビデオゲームと、また別の物語の「お前、そりゃタリスマンってやつさ」という台詞を何故か思い出す。

先ほど入った客の注文を聞いた青年が、テーブルの横を通ってゆく。
デシャップに向かって歩きながら俯く金髪の覗き込む手もとを見ると、町の中華料理店には似合わないクリーム色のPOS端末があった。

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セノーテと溶ける水

Posted on 10 10月 2016 by

「孤独」ということについてしばらく前からよく考えている。人によって色々な捉え方があって、「孤独」「独り」という言葉を見かけると、その人にとっての孤独ってどういうものなんだろうと考えてみたりしている。

「無性に一人になりたくなることがある」
「一人の時間がないとだめ」
昔から、人がそう云うのをよく聞いたり見たりした。友人や恋人がそう言ったこともあった。(だから、そう思っておいてね)という。そのたびにいつも、それはどういうことなんだろう?と考えた。
わたしはいままでそう思ったことが無い。それよりも逆に、静かな一人の場所で、「誰かと一緒にいたい」と思うことの方が多い。

*****

メキシコにはセノーテという大きな天然の井戸があるらしい。石灰岩の土地が陥没して、透明な水が溜まり、底には鍾乳洞がある。陥没した穴だから縁は真っ直ぐに切り立っていて、縁から覗くと深い深い、深すぎて見えない水底まで、冷たい水の中を真っ逆さまに落ちてゆくのじゃないかと思う。

*****

子どもの頃、一人でお風呂に入るのが怖くて、いつも、小さな玩具を一緒に持って入っていた。お風呂に入る前に今日のお風呂の世界を決め、それに合わせて玩具を選ぶ。綺麗なビー玉や、ビクター犬の小さな陶器の置物、レゴのブロックやお菓子のおまけ。それらは一つ一つがキャラクターを持った小さな生きたもので、わたしのお風呂の世界に住む登場人物で、冒険をしたり、キャンプをしたり、時には喧嘩をしたり、友情を育んだり、こっそり恋愛をしたりした。

お風呂の世界の一番のお気に入りは、縁の切り立った大きな深い湖。湖の中には大きな動く島があって、時々ざぶりと波をたてながら形を変える。

小さな玩具の一つが、皆が集まっている角っこのキャンプを離れて、湖の縁から水の中を覗きに出かけた。ふと魔が差して、この深い湖に落ちてみようと思う。覗いたまま頭から逆さまに落ちて、どこまで落ちてゆくのだろうかと、水底まで。
……水底に当たるコトンという小さな音。仲間たちはその小さな気配に気付き、訝しむけれど、特別に気にすることもなくすぐに自分たちの仕事に戻ってゆく。
動く島が動いて、水中のエレベーターのように小さな玩具の生きものを水面まで運び、そっと、湖の縁にのせる。助け出された玩具からしたたる水滴が、1つ、2つ、生命をもつ。3つ、4つ、合わさって大きくなってまた別の生命になる。5つ、更に大きくなって、体の重さに耐えられなくなって縁を滑り落ち、大きな湖の大きな水の生命とひとつになる。

初めてセノーテの写真を見た時に、わたしのお風呂の「大きな深い湖」はセノーテだったのか、と、思った。

ヒトの身体はいくつもの山や丘や谷や窪みをもったまた別の小さな世界で、大きな深い湖から生まれた水滴の生命は、世界の果てを見るために旅をする。危険な旅。油断してるとすぐにまるい頂から滑り落ちて、大きな深い水に飲み込まれてしまう。
急いで掌にすくいあげた水の中に、さっきの小さな生命は含まれているのかしらと訝しみながら、今だけ陸続きの、もう一つの世界の窪みに注いでみる。世界が笑う。水はやっぱりすぐに滑り落ちて、セノーテの大きな深い水の中に溶け込んでしまう。

*****

「孤独」ってなんだろうと考えると、いつもこのセノーテと、どこからかきて流れ落ち溶け合う水滴のことが思い浮かぶ。「孤独」という言葉や、「ひとり」という状態が、どういう意味で発せられているのかはやっぱりよく分からない。たぶんそれぞれに違う、”これ”と一様に定められるものではないのだろうと思っている。

 人間が世界に放たれた感じと私はいったが、「世界に放たれた」とはいいかえると世界に自由につながることでもある。つまり世界につながろうという衝動を起こす源が「孤独」なのであり、人間は世界なしではついに悶死してしまうにちがいない。

(略)

つまり籠の中から外へ翔び立った瞬間に人は自分の孤独な存在に気づくと思う。胃袋が餌に飢えるように心も飢えるのに気づくのである。心の飢えは他人を求め他人を食うことでしか癒されないが、私たちはそれを「愛」と呼んでいるのだ。

長沢 節 (1981) 大人の女が美しい 草思社

 

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何処まで行くのかな

Posted on 31 7月 2016 by

わたしの撮る写真の種類は3つ。

1つめは写真のために撮る写真。
2つめは記録のために撮る写真。
3つめはただ見たものが撮れてた写真。

3つめの写真は生々しい。
何となく自分の内側が見えてしまってる気がして、あまり表に出すこともない。

 
三原, 広島
子どもの頃、「旅に出るか」と父に言われて、いやだいやだと泣いたことがある。「旅」とは、戻るところのなく流離うこと、だと思ってた。「旅行」は行って戻る場所のあるもの。

三原, 広島

三原, 広島

 
鎌倉, 神奈川
湘南サイダー。鳶の舞う海辺の町。暑い夏の一日。

鎌倉

鎌倉

その後で行った逗子だか葉山あたりの、住宅街から海に出る手前の路地の角。石垣と、足元は砂がちの道に家の影だか水だかで白と黒のコントラストが出来てる。断片の記憶。気分だか機嫌だかが悪くて足元ばっかり気にして歩いてて、砂の熱さとか、空気そのものも熱くてまぶしくて目眩がするとか、そんなのしか覚えてない。写真もない。

 
神代植物園, 東京
薔薇園の薔薇は、全部美しい実になってた。ひとつひとつ、名札と合わせて撮っていった。うちに帰って見てみたら、どの写真がどの薔薇の実なのか判らなくなってた。

神代植物園

神代植物園

 
或る天満宮, 東京都下
ひとつの場所に紐付いて、いくつかの記憶がある。それほど強い感情ではないんだけど何となく、整理もせず、ただハードディスクに放り込んでおいてるだけの写真…最近は「まあいっか」みたいな気分になってきた。

東京

東京

東京

東京

 
上海, 中国
石の建物。石の床。ガタガタに緩んだ石畳の歩道をハイヒールを履いて歩く女性たち。バラバラ分解しそうな勢いで飛ばすタクシー。屋台で買った朝食と、ボトルに入れたお茶を持って通勤する人達が行き交う朝。ホテルのドアの外、ホテルの窓の下から聞こえる人々の怒鳴るような喋り声。びくりともしない石の床。

上海

 
京都
お寺の食堂でカレーとわらび餅を食べた後、駅まで東山をてくてくてくてく歩いた。
場所は違うけど同じ、懐かしい造りの家。暗くて細い土間の先に見えるきらきら緑に光る庭を覗いて、小さいころ通ってた小児科のレントゲン室になってた庭の奥の離れとか、「僕にくっついてないとダメだよ」と言われてたのにはぐれて迷子になってしまった幼稚園のお友達の研ぎ屋さんちの家を思い出す。

京都

京都

京都

京都

 
ソウル, 韓国
蜘蛛の巣のように電線が張り巡らされた街。東京と似てる。

ソウル

 
或る町, 東京都下
未来の記憶に触れる感触。

東京

東京

 
小樽, 北海道
空港から小樽に行く途中、通過した札幌駅の景色を不思議に思いながら、探しものをしながら歩く。スーツケースをごろごろ押しながら歩いてると I put a spell on you が頭の中に浮かんだ。ウミネコの鳴き声「にゃーにゃー」。

小樽

小樽

小樽

小樽

 
札幌, 北海道
大きな馬。ニッカウヰスキーの看板。ゴムタイヤの地下鉄。格子の道路。黒くてあたたかい滑り台。
夜中にホテルで聞いたウミネコの声。こんなところまで来てるんだろうか。

札幌

 
モエレ沼公園
鳥の忘れもの?

モエレ沼公園

モエレ沼公園

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世界の徴は戸棚の奥にそっとしまわれていたりするらしい

Posted on 10 1月 2016 by

小学6年生の時の担任の先生は、わたしたちが最後の生徒になる大ベテランの先生だった。大ベテランだからかそれとも元々の性格がそうなのか、とても風変わりで我が道をゆく自由な人で、先生が担任だった一年間、学年全体で決めらていた夏休みの宿題以外、わたしたちのクラスだけは日々の宿題を出されることがなかった。
先生の専門は社会科で、課外授業として近くの古墳に連れて行ってくれ、音楽の授業では教科書には載っていない各地の民謡を歌った。星が好きで夏には星の観察会をし、旅が好きで昔の教え子達と一緒に旅をしたり、旅から帰ってきた元教え子達が先生を訪れて一晩中語り合ったりしていたようだった。

わたしたちのクラスには宿題は無かったけれど、授業から遅れてしまった生徒や、授業に退屈してどうも勉強に身の入らない生徒が、自由参加で勉強を教え合う放課後の時間があった。
学校という場が性に合わず、勉強も好きではなかったわたしがその放課後の補習にちょいちょい顔を出していたのは、先生の話してくれる見知らぬ世界の色々な事柄を1つでも多く聞きたかったから。息が詰まりそうに窮屈な子どもの世界から、もっとずっと広くて大きな世界をちらと覗き見るような、素敵なちょっとしたお話を1つでも多く聞きたかったからだった。

放課後の常連にトオルという男子生徒がいた。小柄な優しい男の子でクラスの皆から好かれマスコットのように可愛がられていたのだけど、勉強が得意でなく、それから注射とチーズが大の苦手で、学校生活で必ず行われる色々と闘っては跳ね返されて泣いているような男の子だった。

ある時の放課後、トオルとわたしと、あとクラスメイトの誰か1人か2人、いつものように先生と教室に居て、補習の時間を過ごしていた。
どういう流れでそうなったのか、先生がふと席を立ち、教卓の後ろにある木の戸棚の一番高い物入れの奥をごそごそと探って丸いクッキー缶のような容れものを出してきて、勉強のために寄せ合っていた私達の机の上に置いた。
二重か三重かに包まれた紙をそうっと開くと、中から現れたのは黄色っぽい乳白色の、元は円かったと思われる塊。もう大分削られていて、円は半月のようになっていた。何?と皆で興味津々覗き込んでいると、
「本物のチーズ、食べてみるか?」と、先生が言った。

5年生から6年生になる時クラス替えがなかったので、トオルのチーズ嫌いは皆が知っている。6年生になって担任が先生に変わる前は、給食の時間が終わっても目をうるませながらチーズを前にじっと座っているトオルの姿を見るようなことが頻繁にあった。もしかしたらその時、(よくは覚えていないけど)給食のチーズの話をしていたのかもしれない。先生の言葉はトオルに向けられたもので、私達は彼の表情を見た。

「無理はしなくていい。でもいつものチーズとは違うぞ」

そう言いながら先生は、半月の丸い塊を毛玉のついたセーターの腕に抱え、ナイフをたてた。
いつもの給食のあの白くて柔らかいチーズではなくて、レストランのグラタンに乗ってくる匂いのすごいチーズでもなくて、ハイジで見たストーブの熱でとけるチーズでも、トムとジェリーの穴の開いたアパートみたいなチーズでもない。とてもとても硬そうで、頑丈なナイフでぐりっと削るようにして取る見知らぬ外国の食べ物。

「食べてみる」
「トオル、大丈夫?無理してない?」
「無理してない。食べてみたい」

“本物のチーズ” は、チーズが苦手なトオルだけじゃない、そこにいた誰もにとって生まれて初めて見、口にする食べものだった。ナイフで削りとられた薄くて硬い一片を先生からもらって、お互い他の子達の様子を伺いながらおそるおそる囓った。

「……あ、美味しい!」
「美味しいねえ」
「うわー、美味しい」
「これだったらチーズ好き!」

硬い硬いハードタイプで、旨味のぎっしり詰まったチーズだった。よく熟成したコンテの皮の近くの硬いところとか、じゃりっとした旨味の塊のあるパルミジャーノ・レッジャーノみたいな感じ。何処の国のチーズなのかたぶん先生は教えてくれたと思うけど、今も当時もまったく覚えていない。とにかく “本物のチーズ” なるものがこの世にはあって、世界の何処かでそれは作られていて、それは同じ “チーズ” という名前が付いたものであっても普段泣くほどチーズが苦手なトオルですら食べてみたい、美味しいと思うくらい魔法に満ちた素敵な食べもので、先生の戸棚の奥はその “本物のチーズ” を作る世界の何処かに繋がっている。

紙に包まれた戸棚の奥の硬いチーズと、抱えこんだチーズの塊を削り取るナイフとたくましい腕と、星を眺めながら旅の話をする年の離れた友人達。
先生のまわりのあれこれは、見たことも食べたこともないものだらけの、自分の知らない広い広いおとなの世界。想像しただけで目の前の壁が取り払われてゆくような気持ちになったし、おとなになったらそんな広い世界のひとりになりたいと心から思った。

Roquefort Papillion

 
きらきら光る小さなショーウインドウの輸入雑貨屋にあった変てこなイラストのキャンディやカエルのグミや、
アメリカから遊びにきた親戚がくれた茶色いクラフト紙の袋にざばっと入った歯が折れそうなくらいかたくて旨みの濃いビーフジャーキーや、
フランスかぶれで有名な、10代の終わりに通っていた画学校の校長先生のフレンチローストのコーヒー豆の香りと、砂糖をたっぷり入れてお汁粉のように甘くするコーヒーの飲み方。
同じ画学校のキッチンで「あなたも食べる?」と一切れもらったこうばしいフランスパンに甘くて濃いジャムをのせた一切れに、
スーパーで売ってるヨーロッパから来たカカオの香りのしっかりするチョコレートや、洞窟で作られたブルーチーズ、塩っぱくて歴史のある羊の乳のチーズ。
わたしにとって食べものは、自分のまわりの狭くて窮屈な世界から、自由で広々とした世界の存在を教えてくれる小さな目印で、地図とコンパスにもなるものなのだと思う。

すごい方向音痴だからはじめに思った目的地に着くことはなかなか無いし、旅だって実際はそんなに行けるわけでもないけれど、今暮らしてる毎日の中にもある小さな世界の覗き穴、迷子になりながら行き当たりばったりで見つけた美味しいものを、今度はわたしが誰かに教えてあげたいと思っている。

世界はずっとずっと広い。
大丈夫だよ。
 

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雪の結晶

Posted on 04 1月 2016 by

母が住む家には古いものがたくさんある。もういい加減に、古く、今は使っておらず、手入れもじゅうぶん行き届かなくなってしまったようなものは処分して、使い易くてきれいな新しいものにしようよと思うのだけど、そこに住んでいる母にとってはそれほどあっさりと変えられるものではないのか、そこに住んでいた家族(わたしも含めて)がそこに置いた時のままのように、古いものが、今もたくさんある。

*****

お正月で帰省した時に、三冊の古い古い辞典を手にとった。父と母の、若い頃から使っていた辞典。一番古いものは1960年頃に購入されている。

黒い表紙の、あちこち破れているのは、母の机上辞典。簡単な国語辞典に、英単語の綴りとカタカナでの読み方、ペン字のお手本まで付いていて、挿絵も普通の辞典よりたくさんある。わたしが子どもの頃にはまだ表紙も付録の地図も繋がっていたけれど、今は、扉が外れ、地図の頁も外れ、背表紙も外れ、バラバラになってしまわないよう背の綴じ目に端布を貼って補修してある。
ちょっとした調べものにとても便利な辞典で、母はずっと替わりの新しい辞典を探しており(だけどこんな辞典は見つからないよ!)、わたしも子どもの頃はよく拝借して使っていた。

赤い表紙は母が中学生の頃から使っていたという英単語集。最低限の情報だけの小さな英和辞典。
見返しに、アルファベットで書かれているけど意味を成してない何語だかわからない暗号のようなメモや、イニシャルの署名、鉛筆で書いたのを消しゴムできれいに消したか万年筆か何かで書いたのをインクが飛んだか、何やら筆記体の薄っすらした書き跡もある。表紙が外れっぱなしだったり先の黒い辞典よりも古いものなのにもかかわらず内側はわりあいに綺麗で、本人曰く「勉強してないのがよくわかる」辞典。

 
最後の、緑色の一冊は父の英和辞典。今も書店に行けば売ってる三省堂のコンサイスのシリーズ。母の英単語集にしても父の英和辞典にしても、英語の辞典は両親のものをあまり借りたことがなかったので、モノとしては見覚えがあるものの、じっくりと見たのは初めてだった。

A、B、C、D、E、F……頁を削ってアルファベットの切り込みインデックスを作ってある。

わたしの中で父は、好奇心は人一倍旺盛だけど疑問や知りたいことは人と会話することで得る、そしてまたそれが楽しくて仕方ないという、とても社交的で人懐っこく、軽い人。たまにじっと何かを読んでいるかと思えばカメラの雑誌で、それだって本当は、雑誌を読むよりカメラ屋さんや撮影会や写真家のトークショーみたいな場で人から直接話を聴いたり写真仲間とお喋りする方が好きそうで、ひとり勉強をしている姿は思い浮かばないタイプ。だからその辞書が父のものだと意識したことはほとんどなかったのだけど、母がいうには、父はこの英和辞典を案外よく使っていたらしい。

だけどそれより驚いたのは、見返しに書かれていた、モレスキンでいう “In case of loss, please return to:” の意味で書かれていた署名と当時の住所に勤務先だった。
父が若い頃の一時期、東京に住んでいたことは聞いたことがあったのだけど、それが東京の何処なのかとか、また勤務先も、この英和辞典にあった書き込みで初めて知ったことだった。

父の若い頃のこと、母に会う前のことは、私はもちろん母もよく知らない。何をしていたのか、何処に居たのか、どんな風に毎日を過ごしていたのか、独身時代の父を知る人から少しだけきいた話と、父自身が語るどこからどこまでが本当なのかわからない、おもしろおかしく、興味をひくように盛ったみたいな話でしか聞いたことがない。

ごんごん、ごんごん、と降り積もってゆく12月の終わりの東京の雪の夜の話。
すっかり積もった雪の中、世田谷の知人を訪ねた話。

遠いドラマか夢のようにふわふわして現実味がなく、そしてまた、語られないことは空欄のままで訊くこともなく、そういうものなのだと思っていた父の過去が、確かにそこに居たという事実になって突然現れたような、父の字で書かれた東京のアドレス。

東京の、勤務先と書かれてある会社のあたりの書店で英和辞典を買っている、写真でしか見たことのないわたしの知らない二十代の父の姿が浮かぶ。しとしとと降る冷たい雨かみぞれのような雪の中、コートを着て、一人で銀座の書店に佇む姿。
わたしのよく知るひっきりなしにお喋りをしている陽気で社交的な父ではなく、亡くなる少し前の、何かを秘めたような独りの姿、黙って何かを書いている姿と遺された父らしい饒舌なノートブックがふと浮かんで、俯いて英和辞典をひく想像の父とオーバーラップする。
 

*****

わたしが10代の終わりまで住んでいた家には、今も古いものがたくさんある。父のくにゃくにゃした独特の字で書かれたいろいろなものが、あちこちにそのまま置かれている。もうそろそろ、使う人が居らず埃をかぶったままになっているものは手離そうよと思うのだけど、今もそこにいる母にとってはそれほどさっぱりと変えられるものではないのか、そこに生きていた父がそこに置いた時のままのように、絵のように時を止めた古いものが、今もたくさんある。
 

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​ 今日は天気が良かったのでチョコレート入りのパンを買ったよ。

Posted on 28 12月 2015 by

​ふと、交換日記みたいなのをしたくなった。
皆んなでまわすオープンなノートブックも楽しそうだけど、今はごくごくプライベートな、密かなお喋りのような、心のやわらかいところをさわるような交換日記がいい。自分のノートブックには貼りものってほとんどしないんだけど、誰かに読んでもらうためのものだったら「ねーねー、こんなの見たよ」「こんなことしたよ」みたいな気分で色んなもののカケラを貼り付けてしまう気がする。

交換日記って小学生の時に一度だけしたことがある。いつもわたしにばかり意地悪をするクラスメイトの女の子に押し切られて気がすすまないまま始めることになってしまったんだけど、ノートブックの中のその子は、いつもの感じとはまったく違ってすごく優しくて、それから少し自信なさげで、彼女から渡されたノートを開くたび「本当にあの子?」とおぼつかない気分になった。「わたしが交換日記をしてるこの相手は、もしかしてあの子とそっくりの別の子?」と。

交換日記に使うノートブックは、黒い表紙の、掌にのるサイズのあれがいい。そしたらそれをコートのポケットに入れて、指の先で表紙の硬さや伸び縮みするゴムバンドや紙の切り口の角っこの丸みをを確かめながら、一緒に色々なものを見に行こう。

高校生の頃、授業中、ルーズリーフやノートをちぎって友達に手紙を書いた。音楽の話や夜中に観たテレビ番組や読んだ本のことなんかの他愛ない話をたっぷり書いて、時々はちょっとしたもの─ビーズの蜻蛉やクリップを曲げて作った飛蝗や雑誌の切り抜き─を入れて不思議な折り方で包んで留めた。毎日胸ポケットに入ってたあの小さな内緒話の手紙みたいなの。

内緒話といっても本当に内緒の話じゃなくて、誰にでも話すようなちょっとしたことがいい。特別な話じゃないけど一緒の時間を過ごしたらきっと話すはずの、だけど一晩眠ったら忘れてしまうような毎日のささやかな事柄がいい。小さな小さな日々が積み重なって、皆の知らないもう1つの輪郭ができてゆく感じがいい。

ライブの半券や美味しいものを買ったお店のレシートや、チョコレートの包み紙や銀紙の端っこ。買った服に付いてた洒落たタグや、革の靴を包んであった綺麗な色の薄紙。セロハンテープにくっつけて貼り付けた、風に晒された砂の欠片。

休日の朝の寝ぼけまなこのお喋りや、ちょっと近くに来たからとコーヒーを一緒に飲んだりする毎日を積み重ねるような感じ。毎日の出来事の断片と走り書きの言葉と意味のわからない絵が積み重なって膨らんだノートブックを、何処かの国の、吸い込まれそうに淋しい乾いてふわふわした草原の風景の、毎日ぼんやり眺めてた先月のカレンダーに包んで渡したりしたい。


 

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趣味は料理です、携えるノートブックは冒険の書

Posted on 13 11月 2015 by

食べものへの執着がやたらと強いせいか、それとも何かの縁なのか、いつも周りには誰かしら料理の上手な人がいました。そのおかげで、作るよりは作ってもらう方が好き、自分で食べる分くらいは作るけど人にふるまうほどの自信なんてまったくない、特に包丁はとても苦手でトントンと手際よくみじん切りなんてできないし、指を切ったり火傷したりも数知れず、手軽で楽しい料理の代名詞みたいな鍋といえば過去…当時の恋人と作り方を巡って喧嘩した過去の苦い思い出…etc. で、どちらかというと料理は苦手、積極的に手を出したくないという気持ちばかりが強かったのですが、今年に入ってちょっと思うところがあり(※注)料理を趣味として楽しんでみることにしました。

注: ”ちょっと思うところ”
理由の一つ目は、自己紹介のために。人から「趣味は?」と訊かれた時にいつも「えーと、特にこれといっては……」と、とても残念な答えしかできないのが以前からとても残念でw、何か社交的なちょっとした話題、会話のきっかけになるような趣味を作りたかったのです。
二つ目。じゃあ何に取り組むべきかと思った時に、以前konamaさんのリトルプレス( ※『リトルプレスが出来上がるまで』 )で紹介されてた本「聡明な女は料理がうまい」(桐島洋子・著)を読んで、とても印象的な一文があったのを思い出しました。

「あなたみたいな食いしんぼうが自分で料理できないなんて、あんまり不便で不経済で見てられないわ。

何だか色気のない部分の抜き書きになってしまいましたがw、他にも素敵なことがたっぷり書いてある本、私の中の、ずっと手元に持っておきたい一冊になった本です。(konamaさん素敵な本を教えてくれてありがとう!……読んだのは随分前で今更云うのもなんだけどw

この本を読んで、苦手宣言をしながら逃げ腰でいるよりも、ちゃんと料理と向き合って上手になれば、自分の食事だけでなく誰か別の人のためにも美味しいものを作ることが出来る、そうすればこれからの人生もどんどん素敵で楽しいものになるし、食文化に興味があり、食べるのが好きな自分にとって、料理が趣味って何よりもお得だ!と心から思ったからなんです。

ところで、
今わたしは3冊のモレスキンノートブックを使っています。
1冊目は、諸々のスケジュールとそれらに関する覚書用。
2冊目は、食事記録やあれやこれやの体調管理用。
そして3冊目は雑記帳。なのですが、これ、元々は英語の勉強のために使っていたノートブックで、自分の頭の中をうまく整理する方法がないかと試行錯誤するうち、絵日記のような絵本のようなものになってきたものです。

描いてる内容はその日に考えたことや思ったこと、忘れゆくままにするのではなく覚えておきたいこと。それを、XLサイズのモレスキンノートブックに思いつくまま描いています。元は英語の勉強用のノート、自分としては英語の勉強ノートのつもりもあるので、キャプションは出来るだけ英語で、それから、描いた“モノ”の名前も辞書で調べて書き込みます。

日記とはいっても思いついた時に描いてるだけなので、描くのは覚えておきたいことがあった時だけだし、特にテーマも決めてないし、ルールらしきものは“出来るだけ英語にする”だけなんだけど、見返してみると、どうもその自分にとっての「覚えておきたいこと」が、料理や食べ物のことばかりみたいなんです。

一番最近の、今日描いたばかりのノートは「ホットチョコレート紅茶」のレシピ作り。
ふと、ミルクティーとココアを足した飲み物ってどうだろう?と思いついたのが始まりで、“ふわっとした紅茶の香りにチョコレートでアクセントの効いた秋の温かい飲みもの”というイメージで色々と試してみた過程を描いています。

ホットチョコレート紅茶のノート
(※英語部分に関してはあくまで『勉強ノート』なので、間違いがあってもスルーしていただければと……特に文法とか文法とか文法とか…!)

いつもこんなにしっかりレシピを書いてるわけじゃなくてたいていは使った材料と調理法のノートだけだったりするんだけど、改めて見てみると毎ページ必ず何か食べものに関することを描いてるw レストランで食べたものの絵だったり、思いついた料理のアイディア、YouTubeで見たチーズの作り方や果物の切り方、キッチンの改造計画に、果ては、ベッドに寝転がった時のベッドパッドの感触がカリカリベーコンみたいだったとか……
これ別にね、趣味を料理としたからこうなったわけじゃないんです。元から頭の配分はこんなもんです、本能の赴くまま。それを思うとやっぱり、趣味を料理とするのはまったく無駄がない、お得だ!と思うんです。(技術が伴えばもっとあれだけど、そこらへんはまあその)

前出の本「聡明な女は料理がうまい」に、わくわくするようなノートブックのアイディアがあります。

(略)このノートブックはケチケチしないで、一生使えるような立派なものを買う。これは孫子の代まで伝える財産になるかもしれないものなのだ。

気に入った料理のレシピを書き込み、レストランや友人の家で食べた料理のメモを作り、新聞雑誌で興味をそそられた料理記事を切り抜きにして入れておく、書き込んだ料理録にはたっぷりの余白を残しておいて、新しい工夫をしてみた記録を書き加えたりもする、自分用の料理の虎の巻ノートブック、何だかとても楽しそうです。

 読む、作る、味わう、気に入る、そして書くの五段階を経てノート入りした料理がしだいに数を増すにつれ、そのノートの主は料理人としての貫禄を増していくだろう。

何年か前、伯母の遺品整理をしている時に、様々なものから切り抜いた料理記事と、それらを貼り付けてスクラップブックにした家庭雑誌が出てきたことがありました。
「伯母さん料理上手だったものね。でも(スクラップブックやノートブックじゃなくて)雑誌に貼り付けてるの、昔の人だからね」と皆で笑ったりしたのですが、半世紀前の家庭料理のレシピ、作り手がいなくなって作り方もわからず、二度と味わうことも出来ないだろうと思っていた料理のレシピが綴られたノートブックなんて、形式はどうであれとてもロマンチックなものだなあと思ったのです。

そうだ、やっぱりこれからも、趣味と実益を兼ねて料理をし、できるだけ腕を磨こう。
思い付くまま(そしてこれからはもうちょっと意識的に)ノートブックに美味しいものを遺してゆこう。

自分のために、それから誰かのために。
 
 

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You see fire?

Posted on 11 7月 2015 by

20150711_AppleMusic

Apple Musicが楽しい。

よく遊びに行ってたお店でいつもかかっていた曲や友達がアルバイトをしていた店で教えてもらった曲、画学校のテラスでイヤフォン片耳貸してもらって聴いた曲、海辺の町で安っぽいプレーヤーのカチャカチャした安っぽいスピーカーで聴いた曲、冷たくて湿気た部屋のあたたかい布団の中で聴いた曲……
何年か前に手持ちのCDとレコードを全部手放して、今は、新しい曲か、どうしても聴きたくなったものを買い直してるだけなんだけど、このあいだ Apple Music が始まってからは、昔よく聴いた曲を聴いたりもしている。

特定のアーティストやアルバムには特定の人や場所を思い出させるものもあって、それらは必ずしも“浸りたい思い出”ばかりではなかったりもするんだけど、記憶は風化して浄化され、曲と一緒に思い出すシーンもいつの間にか、苦い味の混じらない一枚の静止した絵か写真のようになった。淡々として美しい、心の中のひとつの景色。

昔よく聴いた曲と、ずっと聴き続けてる曲と、新しく知ってお気に入りになった曲。それらがブレンドされて、私の Apple Music の [For You] はどんどん楽しく育ってきているよ。

Otis Redding
Complete & Unbelievable: The Otis Redding Dictionary of Soul
The Immortal Otis Redding

Tom Waits
Swordfishtrombones

Donny Hathaway
These Songs for You (Live)

Sabu Martinez
Palo Congo

Ed Sheeran
x (Deluxe Edition)

Apple Music でガッツリ聴けるアーティストから、厳選に厳選に厳っっっ選したおすすめアルバムです。

Apple Music の何が一番嬉しいって、アルバム単位でまるごと聴けるのがすごく驚いたし嬉しかったんです。イマドキは聴きたい曲だけ落として聴くみたいなのが当たり前で、私も shuffle でバラして聴くことも多いけど、やっぱりアルバムは、アルバム順で聴くことで見える(聞こえる?)景色やストーリーがあると思ってます。
それで上記おすすめも、是非アルバムで聴いて欲しくて、あえて曲単位のおすすめやコメントを入れませんでした。

あたたかいランプの灯った優しいひとの待つ部屋や、夜の酒場や薄汚れたホテル、乾いて灼けた砂塵の舞う町や、きらきら輝く海へ……
どうぞ今夜もよい旅を!

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鈴木春信 R-18

Posted on 26 5月 2015 by

鈴木春信の浮世絵が好きだ。
だからといって江戸時代の風俗だの文化的な背景に関する知識や芸術的観点があるわけではまったくなく、ただただシンプルに、鈴木春信の浮世絵が好き。

はじめに「わあ」と思ったのは、洒落たキモノを着た女性たちのふわふわした可愛い錦絵だった。浮世絵といえば歌麿や北斎あたりの有名な絵の、トラック野郎てきなあの感じしか知らなかった私に、目からウロコが落ちるように浮世絵というものを見直させてくれた軽さ。“浮世絵らしい”余白やなめらかな線も、鈴木春信の絵はまた格別に、軽く、美しい。

20060917_w600
(上:はじめて鈴木春信『夕立』『清水の舞台より飛ぶ美人』を見た時にインスパイアされて描いた絵。2006年。風でふわーっとする感じ、地下鉄の出口)

だけどもね、当世風の町の女の子たちの1シーン、ファッション誌のグラビアを思い浮かべるような絵もそれは素敵なんだけど、鈴木春信は、春画もとてもイイんです。

*-*-*-*-* ここから 【Notebookers お題】18禁 *-*-*-*-*

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今は無い、本棚の話

Posted on 06 2月 2015 by

 

はじめて入った時から、しんとして冷やりとした、落ち着いた印象の部屋だった。明かりとりの高窓が付いた掃き出し窓や、二階から階段に射す光が目に入る。だけどその明るさは森の高い樹の隙間からやっと届く陽のようで、薄暗い部屋のつきあたりにある窓は、庭の緑を映した薄明るい硝子の壁みたいだった。窓の横には造り付けの棚があり、その、たくさんの本を置けそうな大きな棚を見た瞬間、理想の棲家に出会った気がした。
「ここに住みます」と言った時、庭を、猫が通り抜けて行った。

棚の横幅は2m強。床から5cm程度上がった最下段と、その上に40cmおきくらいで2枚の厚い棚板がある。
一番下にはレコード盤と画集や写真集なんかの重い本を入れた。中段には片側に雑誌や大判の本を収め、残りはぜんぶ単行本と文庫本。前後に二列と上下に二段重ねでパズルのように本の厚さを合わせ、上の棚板との隙間にもねじ込んだ。
一番上はスピーカーをブックエンド代わりにしてCDや地図や辞書を積み上げ、その隙間に籠や箱を埋めて、音叉や使わなくなったZippoやマッチ箱、オイルや磨き布や楽器の弦やカードゲーム、遊び道具の小物を入れた。
棚の上の壁には、カレンダーにオモチャのトカゲ、ポストカードとか写真とかを留めてるんだけど、カレンダー以外は上に上にと貼り重ねてゆくから、ほとんどのものは日に焼けて茶色く丸まって、風が通るとカサカサ音をたてた。

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ノートブックと、はじめまして

Posted on 26 1月 2015 by

はじめまして、たねと申します。2015年よりNotebookersライターに登録していただきました。
ノートブックも文房具も好きですが、あまりたくさんは持っていません。古の魔法使いや科学者のジャーナルや覚え書きの紙束やノートに強い憧れがありますが、同じようなものを作りたく何度も挑戦しては失敗し、結局それらしいことも出来ないんだと自覚して今に至ります。なので、自分のノートブックをテーマに語ることはほとんど出来ないんじゃないかと思います。

本とモレスキン

「人が立ち去った跡にもしばらく思念の香りが残ることは、だれもが知るとおりであるが、これをくわしく検討したり記録したりするためには、目に見える形に変える必要が生じてくる。
(中略)花タバコを一服ふかすと、その香りが我々に働いて、煙が次々といろんな形をとるように見えてくる。そのとき、その場に残された思念を静かに受け入れれば、いろんな形をとっていた煙が徐々にその思念を反映しはじめる。……
井上 直久 (1985). イバラード物語 青心社

絵であったり写真であったりMoleskineであったり、チラシの裏や紙コースターのメモや落書き、通りがけにもらった良い匂いの香水の紙片、会話や感触の反芻。
流れていつのまにか消えてゆくものを少しのあいだ傍に留めておくものが、紙と筆記具に限らず、自分にとってのノートブックかなと思います。そんな感じのことを、少しずつ書いてみたいと思っています。

「おいしい」の跡
「おいしい」。私の思念の香りはこんなのばっかりかもw

どうぞよろしくお願いいたします。

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