多分僕がそうなんだけど、初めて出会う人はそれまで会ったことのある人たちのファイリングの中から同じタイプの人を探すといった感じで探してしまい自然とカテゴリ分けしてしまう。基本的に、ある程度歳を重ねると、まぁ簡単に言うとおじさんになっていくと、知っている人間の割り当てカテゴリから漏れるのがけっこう許せない人もいるんではないだろうか?
こういった考え方をしていると、カテゴリから漏れるとなかなか混乱する。人間づきあいで、皆やってしまうのかもしれないけど、相手を理解している気分になってしまうのはなぜなんだろう?
「この人は私の理解の範疇である」といった気分は人を安心させるし、みなのやりたいことのひとつかも知れない。
こういった人たちもいる。
たとえば、友人や家族といった日本で古くからあるグループ分けを行わずに人間づきあいをしている人たちもいる。と、書いてもあまりピンとこない。
携帯電話のグループ分けも普通に機能的にあるくらいだから、一般的にはやはり人間関係はグループ分けするようにできているかもしれない。たとえば、学生時代だとしたらクラスには「おしゃれなトレンディグループ」、「ちょいとワルなグループ」、「アニメ大好きグループ」といったところかな。皆どこかに所属して安心しちゃう。特にこういった環境は子供時代シビアだ。お互いが理解の範疇である、といった安心感を確認する、といったところ。まぁタチが悪いのは、自分の理解の範疇を超える人に対して説教するおじさんに要注意。
世の中はもちろん広いので、「友情」や「愛情」が一切いらない人たちももちろんいるし、「家族」の定義が一つ屋根でたまたま育った関係さとクールに割り切っている人たちもいる。
僕らは2人以上集まった時点ですでにグループになっている。2人以上集まった時点で自分の価値観を測るようになる。
小学校2年生くらいだったと思うんだけど、僕が学校から帰ろうとすると二人の友達が「いっしょにかえろう」と話かけてきた。僕的には誰と帰ろうが一緒なんだけど、その二人は僕と二人きりで帰りたかったらしくって、「俺とかえるんだーい」とお互いにののしりあって殴り合いのケンカが始まってしまった。それで僕はなんだかアホらしくなって一人で帰った記憶がある。このことは今でも忘れられないくらい僕にとって重要なエピソードで、僕の人間づきあいのテーマだと思う。
けっきょく何が言いたいのか自分でもわからなくなってきたけど、お互いの価値観を測るというのは凶器にもなるのでご注意を。