僕にとってゲームとは・・・

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過去に何度か書いたことがあるんだけど、起源のあるような古いゲームが大好きだったりする。というか大好きというよりは僕にとってゲームの領域を通り越してけっこう狂ってた部類なのかもしれない。例えば僕の左腕に入っているタトゥーは、写真に写ってるバックギャモンというゲームの盤面をデザインしたモノ。
こういったゲームというのは、その時代に会っている人たちと共に良い時間を過ごすための、一種のコミュニケーションツールだったりする。
カードなんかゲームのやりすぎでもう真っ黒だし、ダイスカップもボロボロだし、バックギャモンのポイントマークも所々めくれてるし、手垢で黒ずんでても僕の宝物の一つ。ある意味血も吸ってるかも(笑)。僕にとってこれらの一つ一つは「ゲーム」というワクを通り越して、プライドであったし、誰とでもどこでもプレイした。
こうして写真にとってじっと眺めていると、なんでかわからないんだけど、夏の空気を思い出す。朝まで熱帯のような空気の部屋でドミノやりながらお酒を飲んだり、外のテラスでバックギャモンやりながら朝まで過ごしたり、浜辺で風の音を聞きながら、ビルのてっぺんで、その時代々々を共に過ごした人との時間がたっぷりと・・・いくらでも思い出がこもってます。もちろん一人で左手VS右手で一日プレイしたりもある。ダイスを投げてはゲームの背後にある「何か」を僕は今でも探してるんだと思う。またちょっと話を重くするんだけどさ、僕の生活の目的というのは何かを探したり、モノの見方を変えることに尽きるんだけど、「ゲーム」というのはその目的に限りなく近いのかもしれない。モノの見方を変化させないと、ポイントを失っては落胆することになる(村上春樹の言葉を借りると「歴代大統領の銅像が建てられるくらいの銅貨と取り返すことのできぬ貴重な時間」を失うことになる)。
自分の体をいろんなモノゴトが通過しては消えていってしまうんだけど、これらのゲームだけは僕の左腕に痕跡としてしっかりと残ってるし、今でもその「ゲーム」の背後にある何かのことをずっと考えてる。僕がこれらに多く費やした時間の間に、周りは一変して皆成長したのだろうけど、僕は今でも、ただモノの見方の角度を変えることだけに集中してる。「ゲームの目的は表現にあるのではなく、変革にある。エゴの拡大にあるのではなく縮小にある。分析にではなく、包括にある」とてもリアルでザラっとした良い言葉だ。もしも暇な方いらっしゃいましたら、札幌市豊平区「宮田屋」の広い2F席でのんびりとプレイしましょう。どんなにややこしいことをブログに書いていても、プレイはいたってのんびりで普通です。ちなみに、余談ですが、カードとチップの扱いはある意味プロ並ですフフ。あ、ちなみにドミノはクアンテット中心にプレイします。ゲームを覚えたいという人もどうぞ。僕もあんまり詳しくないですが教えることはできます。
さらに余談ですが、僕とゲームをプレイするにはまったくコミュニケーション能力は問いません。二人して一言も発さず、黙々とバックギャモンを行って、何も喋らずお互い別れるだけでも構いません。どういった人間関係だろうが国籍だろうが変態性欲者だろうがウンコ食べながらだろうと、クラスの隅っこにいつもいようが、肉体が無かろうが、猫だろうが、普段は彫刻だろうがまったくもって僕は意に介しません。ゲームボードを挟むというのはそういうことだと考えてます。

タカヤ

ヒッピー/LAMY・モレスキン・トラベラーズノート好き/そしてアナログゲーマー

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