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物語の中のフェルメール

Posted on 21 4月 2013 by

フェルメールと言えば、何を思い浮かべますか?

wikiでは>フェルメール と、こんな感じで…。

半年くらい前?神戸市立博物館で マウリッツハイス美術館展が開催されまして。
これと同じ時期に、ナガサワ文具センターさんが Kobe INK 物語の限定版として、フェルメールブルーを発売されたのは、Notebookers.jpに来られる方ならご存知かと。

ワタシは、このフェルメールという画家がすごく好きでして。
関西で公開された時は、できる限り見に行っています。
ここには『見に行く』と書きましたが、ノートブックには『会いにいった』と書いています。
その作品群は、もう何だか、すでに絵ではなく、一個の人格を持った友達、みたいな気がしている。
一番良く会っているのが『真珠の耳飾りの少女』で、四回くらい、全部合わせて一時間くらい?
そのくらい好きです。
もう10年くらい前ですが、イギリスのとある美術館に行った時、フェルメールを置いている小さい部屋に「いる」それだけでいい、もう絵を見なくていい、その作品がある部屋にいられたらそれでいい、という状態で、小一時間つっ立っていた覚えがあります。

『聖プラクセデス』

聖プラクセデス


一番好きなのは、コチラ。『聖プラクセデス』
フェルメールの代名詞『青』が全然、ない。そして、フェルメールが描いていないとか言われているんですが。
ドレスの朱色、ひだに光が当たっている感じ、これがもう、本当に素晴らしいです。
初めて見て、一瞬で何かに取り憑かれたように見入っていました。

ワタシに限らずですが。
やはり人気のある画家なので、物語の中にもよく使われています。
特にミステリと相性がいいようで、その理由としては、

・フェルメール本人もよくわかっていないことが多い。
・作品数が少ないため、真作 or 贋作について書ける。
・小さいので盗み出しやすい(レンブラントくらい大きいと、まず額から外すのに時間がかかる。逃げる際、持ち運びも大変)
・人気があるので、売り手はいくらでもいる。処分しやすい。
・人気もあるし、作品数も少ないので、高値がつく。フェルメールのためなら、いくらでも出すというマニアが多い。

が、挙げられます。

谷川俊太郎氏も『フェルメールへの渇き』というエッセイを書いています。
このNotebookers.jpのいくつかある背骨?のひとつ「見えないものを見えるようにする」、それを一歩進めたような、もしくは半歩横へ逸れたような、フェルメールはそういう視線を持っている、と書かれています。

見えるものを、見えるとおりに画こうとした人、基本的にはそういう風に私はフェルメールを理解している。すべての画家がそうだといえぬこともないが、フェルメールにおいて独自なのはその見えかただったのであって、見えるものとは彼にとって夢に見えるものではなく、幻覚に見えるものでもなく、観念に見えるものでもなかった。それは根本的には平凡な人間の、平凡な視覚に見えるものと何の相違もなかった。そういう自分の眼に見えるものをフェルメールは信じていた。(略)彼の眼には現実の事物や人間は、そのままで限りなく美しいもの、精妙なもの、不思議なものに見えていたに違いない……現実へのそういう信頼が彼の眼を深め、ついには写実力がそのままで想像力と化す奇蹟が起こったのだ。

物語の中で描かれた印象的なフェルメールをいくつかあげてみると……

■『偽りの名画』アーロン・エルキンズ
Amazonから〜内容(「BOOK」データベースより)
名画展を手伝うためにベルリンに赴いた美術館学芸員クリス・ノーグレン。展示されるのは、第二次世界大戦中ナチスに掠奪され、戦後返還された重要な作品ばかり。クリスは嬉々として仕事に向かうが、名画展の主任が「この中に贋作がある」と主張し始めた。まもなく主任は歓楽街で不可解な死を遂げた。やがてその裏に潜む意外な事実が明らかに…絵画にまつわる黒い策謀と人々の欲望が生み出す事件に“美術探偵”が挑む。

主人公の探偵役が、ノーグレンという美術館の学芸員。
このエルキンズの書く探偵は、学芸員とか学者とか、知識人が多く、ご本人は「読んだ後に、何かしら知識を得ているような作品を書きたい」と言っているそうで。
この作品で、すごく好きなシーンがあります。
ノーグレンが『クラヴィコードの前に立つ娘』を見ている場面。
(わざとこのタイトルにしているのだと思うのですが、『クラヴィコードの前に立つ娘』はヘラルト・ダウ作です。ノーグレンが鑑定しているのは『ヴァージナルの前に坐る女』かと。『クラヴィコードの前に立つ娘』に影響を受けてフェルメールは『ヴァージナルの前に坐る女』を描いたんじゃないかとされています)

わたしはフリットナーが向こうを向いているのを確かめてから、神がシスティナ礼拝堂の天井画のアダムに手を差しのべるときのように、そっと人差し指を彼女の手首にさわった。(中略)わたしがこういうことをする理由は、ぽかんと口を開けて絵を見ている観光客とまったく同じだった。何世紀もの時の流れを越えて偉大なるフェルメールに ”結びつきたい” という畏敬の念にみちた欲望のせいだ。ここ、彼の絵筆が、おそらくは彼の指そのものが触れた場所、そこに今、わたしは触れた。そして、わたしたち両者は、たとえ時を越えることはできなくても、空間を越えて出会ったのだ。(中略)これはわたしに深い、魂を満たす歓びを与えてくれる。しかも、ほかの誰でもなく、フェルメールの絵に触れるときが最高だ。わたしは彼女の喉を取り巻く真珠にさわった、純粋な光のしずくのような真珠にーー

これ、ものすごくよくわかるなあ。
絵に触れることによる、空間の上での画家との出会い。
『真珠の耳飾りの少女』を神戸に見に行った時に思ったのですが、あの小さい作品を見て、一体、いくつくらいの国の、何人がこれを見たんだろう、これが描かれて以来、何百年の間、何人がこの絵の前に立ち止まって、手を伸ばして触れようとして(もちろん、触れてはだめなので)その手を下ろして、握り込んだだろう、と。
小説なら、作者が書いた原稿、これを見ることは滅多にないです。
ですが、絵は本当にストレートにその画家が描いたもので、そのひとがいたかも知れない位置に自分も立っている、同じくらいの場所から見ている、と想像することができます。
ノーグレンのように、絵に触ることは、まず絶対にないけれど、だからこそ、共感とか憧れとか「すごくよくわかる!」「ワタシもやってみたい!」と、いいなあ、好きだなあ。

『ヴァージナルの前に坐る女』

ヴァージナルの前に坐る女

■『ハンニバル』トマス・ハリス
Amazonから〜内容(「BOOK」データベースより)
あの血みどろの逃亡劇から7年―。FBI特別捜査官となったクラリスは、麻薬組織との銃撃戦をめぐって司法省やマスコミから糾弾され、窮地に立たされる。そこに届いた藤色の封筒。しなやかな手書きの文字は、追伸にこう記していた。「いまも羊たちの悲鳴が聞こえるかどうか、それを教えたまえ」…。だが、欧州で安穏な生活を送るこの差出人には、仮借なき復讐の策謀が迫っていた。

映画化もされました。『羊たちの沈黙』で有名なレクター博士シリーズの三作目です。
映画には出て来なかったんですが、原作の方にちょろっとフェルメールの名前が出て来ます。
ちょっとネタバレになるので、名前は伏せますが、とある人物Aが人物Bを買収する際に、フェルメールの名前を引き合いに出します。

「かなりの大金が入っているからね、ここに。世界中のフェルメールを一回は見てまわるのに十分なくらいの金額だよ。二回は無理だろうけど」

えー、映画の『ハンニバル』もひどい話でしたが、原作は更にアレなナニで。
映画はビジュアルがアレなので、確か十八禁(のはず)だったんですが、やー、原作は。
もう、登場人物、(ごく一部を除き)どいつもこいつもアレでソレでナニで、文章が端正な分、事件のひどさが際立って、まー、本当に、内容を詳しく書いたら、Notebookers.jp 記念すべき初の削除対象になるかというくらいで。
そんな内容の中で、時々、レクター博士の趣味で、とても美しいものがさらりと描かれます。
博士の使っている特注のハンドクリーム、フィレンツェの図書館、古い文献、そして、このように、大金を表すのにフェルメールの名前を使う、などなど。
その美しいフェルメールのイメージと、博士のやらくらかすアレと、その対比がとても印象的で、心に残ります。

■『真珠の耳飾りの少女』トレイシー・シュヴァリエ
Amazonから〜内容:画家フェルメールに淡い思いを寄せ、名画のモデルになった少女フリートの運命は? 17世紀オランダ・デルフトを舞台に、神秘に包まれた巨匠の光と影に迫る。

こちらは、フェルメールご本人、そして『真珠の耳飾りの少女』のモデルの女性を扱った物語です。

2003年に英国・ルクセンブルク合作で映画化もされました。
ピーター・ウェーバー監督、フェルメールがコリン・ファースで、フェルメール家で働く耳飾りの少女、グリートがスカーレット・ヨハンソンです。
映画紹介もあげておきます。
yahoo映画より〜あらすじ:1665年オランダ。失明した父の代わりに家計を支えるため、画家フェルメール(コリン・ファース)の家で使用人として働くことになった17歳の少女グリート(スカーレット・ヨハンソン)。やがて、その美的センスをフェルメールに認められた彼女は、彼の手伝いをし始める。
(『グリート』『フリート』と表記が違うのは、スリナムの虎がグーリットとかフーリットと呼ばれていたのと同じかと)

小説からの視点で言うと。
とにかくフェルメールが繊細、そして職人肌の天才肌。
そしてフリートの研ぎすまされたような美的感覚が、肌にひりひりするようなエピソードで紹介されています。
台所でスープを作るために野菜を刻んでいるシーンがあるんですが、刻んだものを種類ごとに丸く並べていて、人参を真ん中に置いている、というくだりがありまして。
フェルメールがそれを見て尋ねます。

「白いのは別にしてあるね」「それから、橙色と紫色も一緒にしていない。どうしてなんだろう」
「隣合わせにすると、色が諍いを起こします」

(これと対照的に、フリートのいつもする仕事は、(故意に?)灰色が強調されています。洗濯物が濡れているところとか、お湯が濁っている様子とか)
物語そのものがガラス細工みたいで、うかつに扱うとひびが入る、砕ける、そんな印象です。
そして全編に散りばめられているフェルメールの作品、タイトルが(わざと?)表記されていないので、登場人物が見て、誰かに話すその台詞の断片から、「あ、コレはきっとこの作品だね」と想像する、それが謎解きみたいで楽しいです♪

いくつか書いておきますので、「コレかな?」とちょっと考えてみて下さい。
1)「わたし、旦那様に絵を書いていただいたことがあるのよ。牛乳を注いでいるところを。みなあれが旦那様の一番よい絵だって言ってるわ」
2)「パン屋の娘さんが窓際に立って、明るい光を浴びているの」
「体は正面を向いているけれど、右下にある窓の外を見ている。絹と別珍の胴着の色は黄と黒、濃紺のスカートをはいて、白い頭巾の二つのとがった角があごの両脇の下まで垂れている」
3)「絵の中の人物がこちらに顔を向けている絵は、あれが最後なんだよ」
「女中に、自分と一緒にモデルをさせたんだ。女中には夫人の赤いドレスを着せ、それから絵にワインを描くように計らった」

映画の方は、というと。
ワタシは英国映画が好きなんですが、何が好きかというと、どの映画も共通している『光の捉え方』。
この監督だから光の撮り方が素晴らしい、のではなく、英国映画は軒並みどれも皆全て丸ごととにかく美しい。
そのワタシの第一印象が「こんなに良い映画、もっと ”イイ” って、たくさんレビュー書いて下さいよ映画サイト!」だったのが、この映画です。
本当に光の存在が素晴らしい。
フェルメールが好んだ構図、左手の窓、壁の前の人物、窓から差し込む光、これらが三次元となって、そこにある、ホントにちょっと前のめりになって見ていました。

そして、スカーレット・ヨハンソン、スカヨハ嬢、ため息が出るくらい綺麗です。息を吹き込まれた人形みたいで、びっくりするような透明感。
人造的、サイボーグ的な美形とでも言えばいいんでしょうか。本当に、血の通っている人間というには『造られ感』がにじみまくり。
フェルメールが描いた絵の中の『真珠の耳飾りの少女』の方が、よっぽど血が通っているように見えるかも知れないです。
いいな、こういうブンガク的、ものづくり的な脱臼。

ネタバレになるので、割愛しますが。
映画には、原作にはない息が止まるような官能的なシーンがひとつありまして。
敢えて言うなら『真珠の耳飾りの少女』が生まれるその瞬間。
やー、もう、ノートブックにも書けない、ひとにも話せない、webにも乗せられない、そのシーンの瞬間を固めて、小箱の中に入れておきたいような、そんなシーンです。

最後に、フリートのお母さんの台詞から。
これには、たくさんの背景や事情があるんですが、もうフェルメールの絵を言い表している一言かと。

「そのお方の描く絵は、ひとの魂を誤らせると思うね」

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Profile: あなたと一緒に歩く時は、ぼくはいつもボタンに花をつけているような感じがします。

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