Notebookers HandBook #1 「失うこと、得ること」

最終更新日

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学生の頃、夏休みの度にバックパックを背負って旅をしていた。旅の中でのささやかな楽しみというと、一日が終わり疲れ果ててテントの中で眠る時に、キャンドルランタンに火を灯して眠くなるまで本を読むことである。

当時は自然や旅に関わる文学を読むのが好きで、ヘンリー・D・ソロー「ウォールデン 森の生活」やケネス・ブラウワー「宇宙船とカヌー」やM・トゥエイン「ハックルベリー・フィンの冒険」や星野道夫や椎名誠や野田知佑を読んでかなり衝撃を受けていた。おかげで、カヌーで旅をすることや、針葉樹の森の奥深くの樹上に小屋を建ててストーブに薪を放り込んで、訪れた友達にコーヒーや暖かな飲み物をふるまうことなどを夢想しながら何度も眠っていたと思う。好きな雑誌は「BE-PAL」…わかりやすいなぁ。

誰かと二人きりでいるときは、やはりそういった森の奥深くで火を灯すことや、雪降る夜の森の奥に灯る焚き火の暖かさについて経験したことも無いのに熱心に語っていた。これらは当時、あらゆるものを捧げても良いと思う程に大切な何かだったと思う。

炎というものは、それが例え小さくとも、一度からだの奥深くに何らかの形で灯ることがあるなら、それは何十年経っても消えることは無いのだと思う。あれから数十年経っても、「炎」というと、どこか自分が観たことも経験のしたこともない見知らぬ土地で燃える炎について連想するのは、これらの知識がきっかけとなっている。

小さな枝に小さな火を焚き付けるように何かに導かれ、ごうごうと燃える炎のように誰かと出会い、うっすらと漂う煙のように消えていく。そしてどこか見知らぬ土地でまた同じ炎を起こす。これらは「旅」のイメージだけではなくて、同時にこれらの炎は、自分が今衝動的に何かを行うときの最初のイメージや、最終的な結論をイメージするときのシンボルになっていると思う。

当時、愛用していたランタンは、タラスブルバの真鍮製のキャンドルランタンである。自分が中学生の頃、父親がお金を出してくれて買ったもの。コンパクトにたためるんだけど、ずっしりとして、何より銀色の鴨が羽ばたくラベルがヘビーデューティな雰囲気があって好きだった。ぶら下げるための小さな鎖がついていて、テントのひさしのところのポールにひっかけて、本を読んだ。

20歳頃に、何となく、もう旅をすることは無いなと思った時期があった。当時、好きだった女の子に今まで大切にしていたこのキャンドルランタンをポンとあげた。あげた後で気付いたのだけど、結局旅をやめることは無くて、10代の頃の何か大切にしていた時間をそのままパッキングして、消えてしまった感じがした。いつかまたどこかでこのキャンドルランタンと同じものに出会って、また同じ火を灯すことができたらいいなぁと思い続けていた。

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それからだいたい18年後、久しぶりに同じランタンを見かけた。まるで遠い日に出会った誰かに再会したように、心が一気に当時にまで引き戻されて、そのことしか考えることができなくなった。久しぶりにみかけたランタンは、その所有者の納屋の奥に90年代の初頭からずっと転がっていたようで、真鍮の表面も鴨のラベルもぼろぼろに腐食していた。不思議なものでちょうど失った年代と重なり、まるで手放した当時にその場所に保管されたように錯覚した。「時間を丁寧にパッキングして手放した感覚」がそのまま目の前に転がっているような感じがした。

少し話はずれるけど、自分は、過去を振り返った時に、それぞれの時代を代表する「道具」というものがあって、不思議なもので、ある一時期を通り越すとその時代を代表する「道具」というものは自然とどこかに行ってしまう。過去を振り返った時に、思い出される道具たちは想像の中でいつもピカピカと光っていて、まるで丁寧に手入れされていたようにイメージとして浮かんでくる。ただ少し異なるのは、それを手にして立っている自分を想像できないということだと思う。自分が欲しいものというのは、そのものの姿ではなくて、自分が手に持っている姿をイメージしないと手に入れることができない。ひとつは欲を満たすもの、もうひとつは自分を象徴するもの。

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最近、ずっと昔に夢中になったものや思い入れのあったものに再び出会うことが度々あった。少しの謝礼とともに自分のところへ戻ってくるものや、ただで譲り受けたものもあった。当時に自分を象徴するものであった道具が、少しずつ戻ってくることは、もちろん嬉しいのだけど、なんだろう、何か自分の中での時間の感覚を変化させたような感じがしている。一度手離したものに再会すると、不思議なもので昔の習慣が良いものも悪いことも含めて、もう一度繰り返される。
道具に対して、すこし特別な考え方がある。これらのおかげで、今所有している自分を象徴する道具に対して特別な愛情のようなものを感じている。

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タラスブルバのキャンドルランタンは、所有者に当時の思い入れを伝え譲り受けることになった。ホームセンターで金属用のパテと銀メッキ風の塗料を購入し、よく晴れた直射日光の強い日に時間をかけて修復した。本当はちゃんとメッキを行ってぴかぴかに仕上げたかったのだけど、丁寧にヤスリをかけて表面をなめらかに磨いて銀メッキ風のスプレーできれいにしてみた。

ひとりでテントを原っぱに張って、夕暮れ時に再び炎を灯すことができるようになった。遠い過去に、灯した同じ火をふたたび見つめることができる喜びは、何にも代え難い。何か大切なものをポンと手離して、ふたたび同じものを手にいれること。思い続けること。そこに意義があると思っている。ずっと遠い過去に燃えていた同じ炎を灯すことは、なんとなくひとつ、終焉を迎えた気がしている。「終わり」ということばを手にいれて、なにかひとつ失ったのだと思う。

時々、すべてのものを失った時のことを想像している。人もモノも何もかも。これは悲しい空想ではなくて、どちらかというと旅の時に感じる「一種の身軽さ」に感じる。何かを失って、再び手にいれること。そして再び失うこと。過剰と欠落のギャップが僕を日々生かしている。

タカヤ

ヒッピー/LAMY・モレスキン・トラベラーズノート好き/そしてアナログゲーマー

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