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Notebookers は手紙が好きなんじゃないかなあ #01

Posted on 11 1月 2014 by

2014年もよろしくお願いしますせらです。
今年最初の記事は、手紙について書こうと思います。
えー、多分、三記事くらいになるかと。
コレ、手紙を書こう実践編 物語の中の手紙 なカンジで三記事の予定で、ひとつどうぞよろしくお願い。
(そして、今年も繰り返しますが。ワタシはこういうコトばかり、ノートブックに書いている)

■手紙の歴史
紙、というのだから、羊皮紙、木 or 竹簡などが発明されてから… というわけでもなさそうです。

ここにいるひとの意思を、遠くのひとに伝えることが手紙としての役割なので、例えば、古代、王様が遠くの国の王様に対して、使者をつかわし、口上を述べさせることは珍しいことではなく、カタチとして残らない手紙、と言えるかも知れません。

また。
古代ギリシア、ローマなどで、スパイたちが雇い主に送った通信文もまた手紙と言えるかと。
(金貸し、娼婦、スパイ、というと世界最古の職業なので、この時代、イキイキと暗躍してます)
棒に皮を巻き、ある一面に通信文を書きます。そんで他の面には、文字を適当に書き入れて、皮をほどくと、何を書いているかわからない、という、これはスキュタレーという古代スパルタの通信文です。
敵に、その皮が渡っても読み明かせない、となります。
また、奴隷の髪を剃り、頭皮に通信文を刺青し、髪が伸びるまで待って、移動させ、遠くの味方に情報を伝えたという方法もあったそうです。(髪、伸びるまで待つって大変だな。かなり情報の鮮度が落ちるんじゃナイかと…)
通信文であり、暗号でもある手紙。

また、古代ギリシアでは、手紙は神様に人間の意思、願いを伝える手段でもあったようです。
くじでひとを選び、そのひとの身体に願い事を書き(多分、刺青とかそんなのだと)、えー、神様の許へ送る、端的にゆーと、えー、殺す、と。
もう少し時代が下ると、新約聖書には、使徒パウロが各国の教会に送った手紙が記されています。

このように、古代では、意思を遠くのひと(神様含む)へ伝えることは、王様、支配階級が政治的に必要だった、もしくは宗教的な儀式、儀礼だったわけです。
(「え、パウロが教会に手紙を書いてた頃の紀元一世紀を、古代って言っていいの?」と一瞬思ってしまった辺りに、ワタシの世界史に対する感覚のひずみをじんわり感じました…)

そのパウロが教会に手紙を書いてた頃の紀元一世紀、中国で宦官の蔡倫が紙を発明しまして。
それ以前にも、木 or 竹簡以外にも、麻などの植物繊維から紙(のようなもの)が作られていましたが、文字を書くことよりは、包装に使われていたようです。それに比べると、蔡倫の発明した紙は、表面がなめらかで、軽く、長持ちもする、と品質は格段に上だったようです。
この紙の発明は、ひとが遠くのひとへ意思を伝え、思想や歴史を記すことの母体、時代が下ると、世界三大発明のひとつ、印刷技術のなくてはならない相方ともなるワケです。

(さりながら。えー、以前、MDノートを〜 で書きましたが。ワタシはアイルランド、ケルトの文化が好きでして。ケルト人は『文字を作らなかった』『書き残さなかった』民族でして。彼らの文化のエッセンスは『現在性』『動き、変わり続けること』で、これは書き留めることはできないことだとされました。なので、今、コレを自分で書いていて、ものすっごいフクザツとゆーか、文字を書くことがダイスキなNotebookersの言葉でもないのですが、へー、そうなんだー(棒読み)なカンジで)
(ただ、『文字!文字ダイスキ!書きたい残したい!』文化と『文字を作らないことを選んだ』文化と、両方あることを知り、その間にいて、そのどっちでもない中途半端な立ち位置が、ワタシ、非常に居心地が良く楽しいです。)

■日本の手紙文化
紙そのものは、朝鮮半島を経由して、7〜8世紀頃には日本へ伝わっていました。
仏教が伝来した頃で、お経として入ってきたようです。
それを「これ、日本でも作れるんじゃね?」と、手漉きの和紙として改良、制作されていったようです。
9世紀、平安時代頃ですが、この辺りでは、もう改良が進み、和紙や薄様(グラシン紙、オニオンスキンみたいな?)と呼ばれる紙なども作られていました。この薄様は名前の通り、薄手の紙で、色の違うものを二枚重ねて、その組み合わせから生まれる色合いを楽しんだそうです。

この頃からNotebookersみたいな日本人いたんだー、紙モノが好きだったんだー、とそのくらい、紙、手紙にこだわりを見せています。
手紙を送る、返信する相手が同性でも異性でも。
まず、何に書くか、薄様にしてもどんな色のものか、薫き染める香は何か、その手紙を包む紙はどういったものか、どのように折るか、添える花や木の枝は、返事が遅くては考え込んでるように思われるから、とにかく早く使いの者に返信を持たせて帰さないと…、と、お互いにその美意識、教養を競いあっていたようです。
(もちろん手紙の内容(和歌であれ、漢詩であっても)は言うまでもなく)
(ココまでこだわるのは、お貴族様、もしくは物持ちのセレブリティに限ると思いますが)

『源氏物語』二十一帖『乙女』で、紫の上と秋好中宮が手紙を贈り合う場面があります。
秋を好きな中宮は、紫の上へ秋の草花や紅葉を添えて手紙を送ります。

心から春まつ園はわが宿の 紅葉を風のつてにだに見よ
(我から好んで、春の季節が待たれるように庭を設計されたあなたですが、私の庭の美しさを、せめて風に吹かれてそちらに伝わって行く紅葉でも見て想像して下さい。)

対して。春が好きな紫の上は、中宮からもらった文箱のふたに春のアレンジをして、手紙を返します。

風に散る紅葉は軽し春の色を 岩根の松にかけてこそ見め
(風に散る紅葉などは軽くてつまらないものでございます。それよりは、岩が根に生えている松の緑がひとしお常磐の色を添えるところに、春の趣を賞美しとうございます。)

紫の上の春のアレンジというのが、箱の蓋に苔を敷き、岩や松の枝をあつらえて、春の雰囲気を出しているものだった、とありまして。
それを見た中宮の侍女たちが「あの短時間でよくこんな素晴らしい返事が」と紫の上の趣向の上手さ、趣味の良さを褒めたと書かれています。

あと、紙、手紙つながりで、扇、扇子。
今は、夏に My 扇子 として使う方も多いですが、これはもともとメモ帳だったんだそうです。
奈良時代から平安初期にかけて始まったんだとか。
木簡を糸、紐で束ねたもので、忘れてはいけないことを書き留めていたようです。
例えば『大仏様の煤払い 忘れないこと』『奥羽から 砂金寄贈 お礼状 必ず』とか、書いてたんじゃないか(こういうコト書いてたのかなあ、ちょっと違うかも知れないけど)と。
(そしてなんで東大寺限定なんだ)

で。
平安中期にかけて、木の骨組みに紙が貼られた形の扇に変化していきます。
これが現在の扇の原型ですが、(あおぐことにも使われてはいましたが)この時点ではまだ、和歌を書いて贈ったりする手紙としての役割も大きかったようです。

また『源氏物語』のエピソードですが。
四帖『夕顔』で、とある家の夕顔の花を源氏が所望すると、その家の者が「なよやかな花なのでこの上に乗せればいい」と扇を出すんですが、その扇に歌が書かれていて、そこから源氏と夕顔の出会いに… てな流れに。

心あてにそれかとぞ見る白露の 光添へたる夕顔の花
(白露が一層光を添えた夕顔の花のように美しいお方を、おおかた源氏の君であろうと推量してお眺め申しました。)

(上記三首、現代語訳は谷崎潤一郎Vr.)

(ちなみに。手紙、和歌和歌と書いていますが。平安期のいわゆる殿上人、帝に仕える男性の学問は、まず『漢詩漢文を書ける 読める』です。和歌は、その頃できた仮名文字で書くもの、女性のものだったワケです。が、和歌の韻律は漢字では表現できず、また、女性への手紙には、男性も仮名文字で和歌を書いていました。その和歌が日本ブンガク、古典として残っているんですが、実は、平安以前には、いわゆる文学作品というものは(ほぼ)なく(歴史書その他はあるのですが)。…手紙文化が、そういったものを生む土台になったのだな、とシミジミ思います)

■年賀状
12月も後半になると、ツイッターのタイムラインなどで『年賀状まだ書いてナイー!』とか『ようやく書けたー!明日出してくるー!』などの書込みがちらほらあったのですが。
この歴史ってご存知でしょうか。

手紙文化が始まった平安期には、すでに年始の挨拶を文でやりとりしていたとの記録があります。
以降、戦国大名なども新年の挨拶文が現在にも残っているので、『年始の挨拶を手紙でする』ことは、日本人の遺伝子レベルで『したい!』コトなのかな、と。

江戸期になると、(江戸に限りますが)識字率の高さもあり、また飛脚便も多くなったため、庶民でも手軽に手紙が出せるようになりまして。その流れから、年始の挨拶の手紙は、特別なものではなく、かなりカジュアルにやりとりされていたようです。ただ、今のように1月1日に必ず届くというワケではなかったようなので、遠くの友人、知人、肉親に届くにはかなり時間がかかったようです。
それを笑った雑俳なども残っているようです。

そして近代。
明治維新も間もない頃。1871年(明治4年)、前島密によって郵便制度が創設されまして、その翌々年、1873年にハガキという通信スタイルが始まります。
これが年始の挨拶に結びつき、年賀状となります。つまり、141年間、郵政局は年賀状を配達し続けてくれているのです。

もともと年始の挨拶の手紙は、和紙に書いたものを封書で送っていたのですが、ハガキの年賀状が始まり、こちらへと移行していきます。ハガキなら、それほど長文を書かなくてもイイ、ちょっと干支のイラストに、賀詞、お正月の挨拶を2、3行書けばオッケー!なので、より気軽に出すことができる、と歓迎されたようです。
(クリスマスの記事、アドベントの3週目、クリスマスカードについて、でも、印刷されたカードに2、3行挨拶を書けば、気軽に送れると書いた覚えが)(どこの国も、また、いつの時代でも、挨拶系の手紙というのは敷居が高いものなのですねー)

元旦?三が日にツイッターで回ってきた画像ですが。
日本郵便の本気だそうです。

これほどでもないでしょうが、1873年以降、ハガキの年賀状がブレイクし、年中行事のひとつとなったため、年末の郵便物の通数が桁違いになり、郵便局は多忙を極めるようになります。
その対策として、1899年、普通郵便とは別に、年賀状は年賀郵便として特別枠が設けられました。

特別枠、具体的にどんなものかとゆーと。今の年賀状の扱いとほぼ同じです。
今は、年賀状の消印は印刷されていますが、当時は普通郵便と同じく年賀状にも消印が押されていまして。
年賀状なので、どうせなら1月1日の消印を押して欲しい、早めに送ると12月中に着いても困る、などなどの出す側の思惑があり、12月の年末から元旦にかけて年賀状が集中したんだそうです。

それはかなわん、と、郵政省側は年賀郵便という『12月後半に指定局に持ち込んだ年賀状は、1月1日の消印を押すよ、だいたい新年(元旦とは言い切っていない)に配達するよ』な特別枠を作ります。
この年は数局の指定局だけの扱いだったのですが、1905年には全国全ての郵便局で年賀郵便が送れるようになったそうです。
(つまり、今の年賀状の取り扱いシステムが100年以上前に(ほぼ)完成しているワケです)

■お年玉くじ付き年賀状
「わー、切手シート当たりー!」など、19日にはツイッターなどで回ってくるかと思われます。
このフツーにある日本の1月中旬の風景、その元となるくじ付き年賀状というのは、実は世界でも珍しい制度なんだそうです。
くじ付き年賀状が始まったのは、1949年、太平洋戦争後、ようやく少し落ち着きを取り戻してきたかな、という頃。
当時、京都在住の林正治氏(まったくの民間人)の発案でした。
・年賀状に当たりくじをつける
・一部を寄付金に回す、社会福祉に貢献する
林氏自ら、見本ハガキ、ポスターなどを作り、郵政省に持ち込んで、かけあったんだそうです。
戦後4年目、まだ物資も不足していたため、郵政省側は「そんなのんきなコトを言ってるバアイか」と乗り気ではなかったんですが、すったもんだのあげく『送り先の相手に賞品が当たる』という(どことなくクリスマスの精神のようだ(ちょっと苦しいこじつけ))お年玉くじ付き年賀状が実現しました。
これは、戦後復興に向ける国民の思い、日本文化に根づいた新年の挨拶、新しい年を寿ぐこと、また『お年玉』というちょっと楽しみな、わくわくできること、これらを反映したものとして受け入れられ、大ヒットとなり、2014年の現在まで続いています。

■オマケ:日本の郵便マークとヨーロッパの郵便マーク

日本の郵便マークです。これに目がついたりして、ウィンクしていたり、表情があったりすることも。
これは「逓信(ていしん)」(郵便物などを届けること)の最初の一文字「テ」をデザインしたもの。

ヨーロッパの郵便マークは、ラッパ、ホルンなのだそうです。

ヨーロッパの郵便マーク

郵便マーク。これはスウェーデンの。


15世紀くらいから、肉の買い付け人が農村へ肉を買いに来る時に角笛を吹いていた、その角笛からきているようです。
なんで肉の買い付け人と郵便マークが関係あるのかとゆーと、買い付け人が来ると、村人は「○○村に行く? ついでにナニガシさんに手紙、届けてくれる?」と頼んでいたそうで、肉屋さん兼郵便屋さんなカンジだったようです。
また、飛脚が角笛を吹いて到着を知らせ、次の飛脚にバトンタッチする、ということもあったようで、このホルン、ラッパは、郵便、手紙、配達人を思い出させるもので、現代でも、誰かからの便り、郵便のシンボルとなっています。

*****

次は、いつとは言えず『手紙を書こう実践編』かなあ…
寒い日が続きますが、皆様、お風邪などひかれませんように。

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Profile: あなたと一緒に歩く時は、ぼくはいつもボタンに花をつけているような感じがします。

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