物語の中のわんこ

Posted on 07 6月 2014 by

なたは犬派? 猫派ですか?

先日、ツイッターでは『犬と猫』で書こうとつぶやいたんですが、どうにも長くなるなあ、と思い、まずは『わんこ』で一本記事を書こう、と。

えー。
ツイッターでは、毎日、カワイイ、オモシロい、犬画像が流れてきます。
youtubeでも、カワイイ犬がもふもふしている動画が、何千回、何万回と再生されていまして。

有史以来、人間のベストパートナーであったとか、今は、ペットというより、アニマルコンパニオンと呼ばれて、より親しい、特別な存在とされていたり。

そんで、また。猫派ももちろん。
確か『パタリロ!』で、世界愛犬家協会と愛猫家協会が血で血を洗う抗争を繰り広げている、というエピソードもあったような気が。
(犬も猫も、より古くから人間と共にいた存在だと言って譲らない、そういうふたつの組織が争っていて… と、そういう話だったような)

犬と猫で書こう、と思っていて、今まで読んだ本を ぱらぱら と読み返していたんですが、えー、それで気づいたことが。
犬は、どちらかというと冒険小説、猫はミステリと親和性がある、というカンジでした。
(犬のミステリもあります。アシモフ先生が『犬はミステリー』というそのものズバリのアンソロジーを組んでおられます。宮部みゆき氏の『パーフェクトブルー』という犬の一人称ミステリも)
どうだろう、犬、機動力があり、身体も大きい(犬種もあり)ので、なにかと助けになる。
そんで猫は、というと、動きが静か、身体つきのしなやかさ、変わる目の色などから、神秘的、ミステリアスなイメージがあり。
(日本では、鍋島の猫騒動があるので、よけいにミステリアス、かも。オカルティック?)

わたしは、犬とか猫とか、見た目がカワイイとか、所作が愛らしいとか、そういうところよりも、より、本能的であること、とか、その野性、とか、そういったものに興味があります。
たとえば、家から出たことがない、自分を人間だと思っている犬、猫がいるわけですが、それでも、なにか一瞬、刺激に対する、理性ではない野性での反応、に、ワタシはものすごく魅かれるなあ。

なので、今回選んだのは、そういったわんこたちで、えー、犬としての特性が、よりとんがって描かれている物語です。
*4作品紹介しています。微ネタバレあり。白文字反転なしなので、ご注意を*

物語の中のわんこ、まず一本目。
■犬橇
1978 ジョゼ・ジョヴァンニ 佐宗鈴夫訳 ハヤカワ文庫

犬橇表紙

カッコイイでしょう。

Amazonから〜
内容(「BOOK」データベースより)
自然を愛するあまり違法な狩猟者を射殺し、獄中生活を余儀なくされた男ダン・マーフィ。彼が住みなれたアラスカへ舞い戻ってきたのは、事件から5年後の冬のことだった。目的はアイディタロット1800キロ犬橇レース。毎年、数十組の参加者が争う危険きわまりないレースだ。ダンはあえて死を賭けた苛酷なレースに挑むことによって、もう一度生きる証を立てようとしていたのだ。激しい雪嵐、ライバルの妨害、飢え―数々の闘いが待ちうける雪原へ、彼は犬たちを駆る!仏暗黒小説の名手が厳寒の地アラスカを舞台に謳いあげる鮮烈な男のドラマ!

アラスカでは、毎年、三月に『アイディタロッド』という犬橇のレースが行なわれます。
出発がアンカレッジ、ゴールはノームという街です。
約1800キロのレースで、3〜4週間ほどかかるとか。
出場者は、自分のペースで走り、ビバークする場所やタイミングを決めます。
80キロごとにチェックポイントがあり、犬の様子を点検されて、走り続けられない(と思われる)犬は、そのポイントで外されるんだそうです。
また、ポイント以外の地点で、出場者の判断で橇から犬を外し、そこで置き去りにしたり、捨てたりすると失格になるんだとか。
なので、犬の調子が悪い、もしくは運悪く犬が死んでしまったりすると、次のポイントまで橇に乗せるか、前のポイントに戻って犬を預けるか、という流れになります。
あまりに過酷な環境、ルートのため、(犬ももちろん)フツーに、人死にも出る、というレースだそうです。

ノームという街は、金鉱がある地域で、なので、アイディタロッドの道筋は、もともとはノームへ郵便物や物資を送るルートだったそうです。
1925年、ノームで伝染病が発生し、血清を運び、街を救った犬橇チームの業績を記念して、そのルートをレースにしたんだとか。

主人公ダン・マーフィは、もともとは生物学の教授で、北極圏の動物が専門だったのですが、シロクマを殺そうとした人間を殺したため、服役していまして。
この時点で、ダン・マーフィは、人間世界では生き辛いひとなんだと、もうもう、初めて読んだとき、ものすごくそう感じました。
その『人間世界では生き辛い主人公』と、本一冊分、冒険を共にするワケです。
物語の前半、えー、アイディタロッドに参加するための費用のやりくりがある、とか、その準備がままならないとか、肝心の犬が揃わない、揃えられないとか、あるんですが。

その準備期間で、ダン・マーフィの犬たちの強烈なエピソードがあります。以下、引用。
ダンは、自動車が故障して立ち往生していたある母娘を橇に乗せて、家まで送ります。
そこでもてなされるのですが。

「ほんとうにどうもありがとう、マーフィさん。あなたがきてくださらなければ、凍死していたでしょう」
ダンは短い挨拶をのべようとしたが、そのとき喉をひきさかれるような犬の鳴き声が聞こえてきて、それどころではなくなった。
ダンとイリクが戸口のほうへとんでいった。橇はあいかわらず鉄柵のところにあった。しかし、曵綱につながれている十三匹の犬には行動できるだけのゆとりがあり、丸々とふとった一匹のボクサー犬の行手をふさいだのだ。
相手の犬は、大声をあげている飼主の鎖につながれたまま獰猛な極地犬におそわれ、血まみれになりぐったりしていた。ここが町であり、この犬たちが仲間以外の犬ならなんでも食べてしまうことを、ダンはうっかりしていたのだ。
(略)
ダンはふとい尻尾をつかんで、犬たちをけんめいに排除しようとした。しかし、ボクサー犬のもぎとられた四肢、はみだしたその臓物の魅力にかなうものはなかった。
鉄棒でなぐられても、極地犬はひるまなかったろう。

ダン・マーフィの犬たち、内訳としては、シベリアンハスキー5頭、コヨーテとの雑種犬10頭、マレミュート犬2頭、と混成部隊なのですが、これらの犬は、強烈な排他性を持っているんだそうです。
そのうえに、より野性に近い、もしくは野性そのものを持っている。
なので、自分たち以外で、同じくらいのサイズの生き物は、獲物なワケです。

犬が獲物を食べるのは、いまに限ったことではなかった。ボクサー犬も、ダックスフント犬も、スパニュエル犬も、それ以外の犬も、獲物でしかなかった。
ダンやイリクやその家族たち、それに昔ながらの犬橇、彼らにたいして、誤解のようなもの、根本的なずれがあった。それは今後も、書物や抗議や映画では正されることはないだろう。ただ、ひたすら逃げるしかなかった。さいわい、逃げることもまた身を守るひとつの手だてだった。

この食べられたボクサー犬は、ダンが助けた母娘の犬なのですが、えー、そういうことになってしまって、ダンとイリク(ダンの助手(のような)で12歳の男の子)は、いたたまれず、その場を去ります。
ダンにとっては、犬たちがよそんちの犬を食べる、攻撃するということは当たり前で、その攻撃性、野性を知らない町のひとたちのギャップがとても大きく、ダンはその場から去ることで、何かを断ち切る、吹っ切れた心持ちになり、レースへ改めて意識を向けるようになります。
そして犬たちは、同じボクサー犬を食べたことで絆を深くする、という結果になり。

同じ『犬』というくくりでも、犬種が違うと仲良くできるのかな、ケンカしたりしないかな、という程度の認識はあったのですが、違う犬種、仲間ではない犬を攻撃する(ケンカとかいうレベルではなく)、食べる、ということは考えたこともなくて、だからコレを初めて読んだ時は、ものすごく衝撃的でした。
(ボクサー犬も、愛玩犬というよりは、番犬とか、そういう強い大きい犬なので余計に)
犬の野性、というものを改めて考えたのはこれがキッカケだったような。

ダンの橇を曵くリーダー犬が、シベリアンハスキーでエクリュークというおんなのこです(おばあさんですが)。
このエクリュークが、もうホントーにダンが好きで好きで、かつ、とんでもないヤキモチを焼くのですが、いや、もうホントに。

あたしを特別扱いしなさいよ。
あたしがリーダー犬よ、他のリーダーなんて認めないわ。
ダンのいちばんのお気に入りはあたしよ。

と、エクリュークは、このみっつを全面に押し出しながら(ダンから見ると、押し出されながら)、(かつ、野性と攻撃性ももちろん保ったまま)練習をし、他の犬たちとのかねあいや、サブリーダーの犬とのケンカとか、たくさんあって、レースの日になるのですが。

もうひとつ、「知っている」と思っていた『犬』の習性で、これまたショックだったことが、ひとつの事件として書かれていました。

レース18日目で、ダンは凍った川に落ちてしまいます。
犬たちは橇を曵いたまま、どんどん先へ進んでしまい、ダンはひとり穴にはまったまま、取り残されるんですが。
これが。
牧羊犬とは違い、こういった極地犬は呼んでも戻らないんだそうです。
(そして野性が強過ぎるのか、帰巣本能も少ない、もしくは『ない』んだそうです)

飼い主、主人が『呼んでも戻らない』のです。
これって、犬を飼っているうえでの、なんていうんだろう、行動の基本形じゃないの? と思ったのですが、極地犬は、その基本のそとにいるワケです。
そして、ワタシは、こういったことに『基本以外のことがある』と思ったこともありませんでした。
(そして、主人公のダンも、基本である『ひとの世界』の枠のそとにいる)

エクリューク、とても良い場面がありますので、ご紹介。

月のような水色の眼で、エクリュークが見つめていた。彼は身体をおこした。雌犬は白い毛を口にくわえていた。彼の手のちかくに、北極うさぎが置かれた。背骨が噛みくだかれていた。だが、ぬくもりはまだ残っていた。

文庫本では、ほんの2、3行の文章なのですが、本当にもう、読んだひとは皆、「そうなんだよ『月のような水色の眼』なんだよ、ヤツは!」と言ってしまうくらい、この場面はほんとうにすばらしいのです。

主人に忠実でない犬たちもいる。
極地にあっては、主と従、だなんて括りは(ひょっとしたら極地でなくても)、ニンゲンがそう考えているだけで、犬たちにとっては「言うことを聞いていたら、ごはんをもらえる」程度のものかもしれない、とか、そういったことを考えた作品でした。

(おまけ。舞台がアラスカなので、そこのエスキモーたちの民俗が書かれていて、とてもオモシロいです)

(ダンは)シュアード半島のエスキモーと、カスコクウィム川のデルタのエスキモーが、おだやかな口調でそれぞれ自分のところの方言を自慢しあっているのを耳にして、足をとめた。おたがい相手の訛りをおもしろがっている。あげくのはては、年嵩のほうがダンに同意をもとめてきた。
「どっちが美しくていい言葉だね?」と訊かれたのだ。
「解氷を告げる風に似てるほうだ」エスキモーは、自分のところの方言でそう言った。


■火を熾す

1908 ジャック・ロンドン 柴田元幸訳 スイッチパブリッシング
柴田元幸氏が、近代アメリカ文学トップ3に選んでいたその1本です。

こちらも、舞台はアラスカ、ユーコン川のほとり。
ヘンダスンクリークの支流にある、古い採鉱地へ向かう途中の道。

気温がコト細かに書かれています。
物語が始まった時点で、零下75度、氷点は32度なので、氷点下107度。
(華氏表記です。えー、日本で使われている摂氏だと、マイナス77度くらいだそうです)

要するに「とても寒い」ということだ。くらいしかわからないなあ、と、読んだ時、これまた想像の枠の外にある数字でした。
(考えたのですが、えー、このくらいの気温になると摂氏と華氏の32度の差って意味あるのかなあ、と。摂氏マイナス77度と、摂氏マイナス107度では、前者の方が過ごしやすいのか、とか、「あー、やっぱりマイナス3桁は寒いわー!」と思うんだろうか、とか。
だから例えば、

「気温? マイナス107度だよ」
「えっ!? マイナス100度以上!?」
「あー、ごめんごめん、華氏でマイナス107度な、摂氏ならマイナス77度くらいかー」
「あー、びっくりしたー、なんだー、マイナス77度かー」

と、なるのか、とか。もう、自分でも何言ってるんだか)

こちらの物語にでてくるわんこもエスキモー犬です。狼犬とも書かれています。
『犬橇』のエクリュークとは違い、名前はありません。
かつ、エクリュークからダンへのらぶらぶオーラも、こちらにはなく、『苦役奴隷』とあるので、ホントに家畜の扱いの一匹、かと。

この犬と一緒に主人公は、採鉱地へ向かいます。

九時。空には雲ひとつないのに、太陽は出ておらず、出る気配もない。曇りでもないのに、あらゆるものの表面に見えない帳が下りて、微妙な翳りが朝を暗くしていた。太陽が出ないことには慣れていた。もう何日も太陽を見ていなかったし、まだあと何日かしないと、あの陽気な球体が山並みのすぐ上に顔をのぞかせてまたたちまち視界から消えることもないはずだ。

(雲ひとつないのに、太陽が見えない、というのが、ホントにちょっと想像ができないのですが、こういう『想像ができない情景を知ることができるのが、海外モノを読む楽しみ』かと)

こういった気候の中を、ただ(名前もない)主人公が歩く、それだけの物語なのですが。
もう本当に『火を熾す』、これをものすごく考えました。
プロメテウスが人間に与えた文明の象徴。
永遠にハゲタカに肝臓を食い破られる罰(そんなに重い罪なのか、と思ったのですが、…これを読んだとき、ちょっとナットクした覚えが)。
より高い温度の火を熾すことから、青銅技術、製鉄技術へ、武器、兵器へ。
(あまりめでたくない連想ばかりですが、や、これ以上にすばらしいことも発明されてきたんですが)

主人公は、そのアラスカの辺りは初めてで、あまりその土地を知りません。

だがこうした、延々とのびる神秘的な道も、空に太陽が出ていないことも、すさまじい寒さも、そうした何もかもの不思議さ奇怪さも、男には何の感銘も与えなかった。もう慣れっこになっていたからではない。男はこの地では新参者であり、ここで冬を過ごすのはこれが初めてだった。男の問題点は、想像力を欠いていることだった。人生の諸事を処する上では迅速であり抜かりなかったが、あくまでそれは具体的な事柄に関してであって、それらの意味については頭が働かない。華氏で零下五十度といえば、氷点の八十何度か下ということである。その事実は「寒くて不快」という思いを男のなかに生じさせたが、それだけだった。そこから発展して、体温を有する、一定の暑さ寒さの狭い範囲のなかでしか生きられぬ生き物としての自分のもろさ、あるいは人間一般のもろさに考えが至りはしなかったし、さらにそこから、不死であるとか、宇宙における人間の位置であるとかいった観念の領域におもいを巡らすこともなかった。零下五十度とは、痛みを伴う凍傷を意味し、手袋や耳覆いや暖かい鹿革靴(モカシン)や厚い靴下によって防衛する必要を意味する。男にとって零下五十度は、まさしく零下五十度でしかなかった。そこにそれ以上の意味があるなどという思いは、およそ脳裡に浮かばなかった。

主人公は、これこのように(わりと)のんきです。
そして、お供の犬は、というと。

とてつもない寒さに、犬は気を滅入らせていた。いまは移動などしている場合ではないことを犬は知っていた。判断力が男に伝えたよりも真実の物語を、本能は犬に伝えていた。事実、いまは単に零下五十度より寒いどころではなかった。(略)温度計などというものを犬はまったく知らなかった。その脳のなかには、男の脳にあるような、極寒の状況というものをめぐる明確な意識もなかっただろう。だが獣には獣の本能があった。(略)犬は火の何たるかを知っていた。そしていま、火を欲していた。でなければ、雪の下にもぐり込んで、冷たい大気から離れてその暖かさを抱え込みたかった。

『犬橇』では、レース中、ダンが犬たちに革靴を履かせるシーンがあります。
(革靴というか、犬の足を革で包むだけですが)
道が凍って、硬くなりすぎてそのとげとげが、犬の足を痛めるということで、その対策だそうです。
『火を熾す』の犬の方は、こういった人間からの気遣いが、まずゼロなので、そりゃー寒いだろう、裸足だし、(毛皮はあるとはいえ)裸だし。

そしてココの箇所以外にも、何度も犬の視点として、『こんな天気の日に歩きたくない』『ぬくぬくしたい』というような記述が何度かあります。
この、きっぱりした意識の違いが、道を進むにつれて、どんどん人間側が不利になっていきます。
主人公、最初は、ごはんに持って来たパンとベーコンのことなどを考える程度のよゆーはあったのですが。

その状態で(零下五十度の中を)(華氏の)歩いていると、まず鼻や頬の感覚が麻痺するんだそうです。
(現地のひとは、その対策のためにフェイスカバーみたいなのをつけているらしい)
(あ、フェイスカバーといっても『アクマのイケニエ』のアレではないです)
主人公、この時点では「頬が凍傷になるだろうなー」くらいしか考えていません。

読んでいると、犬とひとの、なんていうんだろう、防衛本能? 自分を守る本能というものが並列して描かれていきます。
そのエピソードのひとつとして、犬が水たまりに落ちて、足が濡れる場面があるんですが。

前足が両方、かなりの深さまで濡れてしまっていて、くっついた水はみるみる氷になっていった。犬はすばやく脚を舐めて氷を剥がしにかかり、それから雪のなかに座り込んで足指の間に固まった氷を噛みちぎりはじめた。これは本能の反応だった。氷を放っておけば、足はやられてしまう。犬はそのことを知っていたのではない。ただ単に、その身の奥深くから涌き上がって来る神秘的な促しに従ったまでだ。

ここでちょっと「わー」と思ったんですが。
『ただ単に、その身の奥深くから涌き上がって来る神秘的な促しに従った』
ワタシがこういった野性に惹かれる理由ってこういうことかなあ。
例えば、渡り鳥もそうなんですが、彼らは磁石もGoogleアース装備のiPhoneも持っていないのに、季節が来ると、ある一定の方向を目指します。
海を越えてくる種もあり、海の上なんて目印もないのに、太陽?(やー、曇りの日もあるだろう)を見て移動するの? …きっと体内に磁石があって、それが「こっち!」と行く先を示すんだろうなあ。
経験や理屈ではない、身の内にもとからある『神秘的な促し』、こういったものに憧れます。

で、話を戻して。
この犬の足の氷を、主人公も剝ぎ取ってやるのですが、素手になったのはほんのわずかな間なのに、カンタンに感覚がなくなり、感覚を戻すために 手袋をした手を『胸にどすどすと叩きつける』のです。
この後も、指の感覚がなくなるたびに、胸だったり膝だったりに、手を打ちつける、という描写が続きます。

その状況になったら、『身体に手を打ちつける』、そうするのか、と思いまして。
(なにしろ、何もかもが想像の枠外にあることなので、すべてが新鮮で)

この主人公も、この土地は初めてで、冬も初めてなので、誰からも教えられてはいないのですが、この『手を身体に叩きつける』というのは、人間の本能のひとつではないかなあ、と。
『知っていたのではない、ただ単に、その身の奥深くから涌き上がって来る神秘的な促しに従った』んじゃないかと。

で。ひとしきり歩いて、昼食もとって、また歩き出すんですが。
(この時、犬が非常に嫌がるシーンがあります。火のそばにいたがるんですが、主人公はその犬を脅して、連れて行きます)

そして。主人公、やってしまいます。水たまりに足を踏み入れてしまうのです。
犬と同じように舐めて氷を剥がすわけにもいかず、足が凍りつかないように、火を熾して、靴や靴下を乾かさないといけないのですが。
火を熾すためには、立ち止まらないといけないので、さっきまでは歩いていて、全身に血が流れていたのに、まず足が凍りつきかけていて血が流れない、身体の方にも流れている気がしない、もう、早急に火を熾して暖まらないと命にかかわる、そういう状況です。

そのぎくしゃくした身体で、なんとか小枝や葉っぱを集めて火を熾すんですが、えー、やはり、現地を知らないため、大失敗をします。木の下で火を熾したため、枝から雪が落ちてきて、火が消えてしまうのです。
主人公は、凍傷で足の指を何本かなくす覚悟で、それでも開けた場所で、もう一度、火を熾そうとします。
腕を振り回し、手を身体にばしばし打ちつけて、失った感覚を取り戻そうとするんですが、まったく、思うように感覚が回復しません。

そこで、主人公、閃きます。

犬の姿を見て、途方もない考えが浮かんだ。吹雪に閉じ込められた男が、仔牛を殺して死体のなかにもぐり込んで助かったという話を男は覚えていた。自分も犬を殺して、麻痺がひくまでその暖かい体に両手をうずめていればいい。そうすればまた火が熾せる。

ココを読んだとき、考えたのですが。
(犬と同じ次元で考えるなと言われそうですが)
犬も同じように足が濡れたんですが、割とさらっと「さ、行こうか!」と事態が収拾できています。
が、主人公は、相方である犬の命まで損なうことを考えて、そこまで事態が大きくなっています。
これが野性と、ひとの違いかなあ、と。

えー。
フツーに考えれば、極地生まれの野性の血が勝る犬を、殺意を持って見ながら、捕まえて、腹部を開くとして、人間側の歯の強さ、と、犬側の(それなりに丈夫だと思われる)毛皮、皮膚を考えると、歯で食い破れるワケがないんじゃないか、と。
犬の毛皮、皮膚を裂いて、内臓にまで達する傷をつけるなら、それなりの大型ナイフくらいの鋭利さが必要で、ひとの歯ってそんなに丈夫なのか、と。
でも、それは、極限状態にある衝動なのだろうなあ。できるできない じゃなくて。

そして犬側。

男は犬に話しかけ、ここへ来いと呼び寄せた。だがその声には奇妙な恐怖の響きが混じっていて、それが犬を怯えさせた。(略)何かがおかしい。犬の疑り深い本性が、危険を察知した。どんな危険かはわからなかったが、とにかく脳のどこかに、どうやってか、男に対する不安が湧き上がった。

そして、

男が鞭打ちの響きを込めた声で、有無を言わせぬ口調で話し出すと、犬はいつもの忠誠を取り戻して男の方へ行った。

『いつもの忠誠』がどの程度のものなのか、それでもこの言葉が出て来る程度には、犬は人間の本気を感じとり、『生き残る』ために従っているんだろうなあ。

非常に静謐で美しいエンディングです。
興味のある方はドウゾ。

火を起こす – ジャック・ロンドン
Egoistic Romanticistさんから

摂氏と華氏の対照表

◎オマケ◎摂氏と華氏の対照表:モレスキンデイリーダイアリーにありました。


わりと(かなり)殺伐としたわんこ話が続いたので、ほのぼのわんこ話を短篇から
■友の最良の人間
1987 ジョナサン・キャロル 浅羽莢子訳 パニックの手収録 創元推理文庫
(世界幻想文学大賞(短篇部門)受賞ー!)
ちょっと変わったタイトルですが。
えー、いわゆる『人間の最良の友』の逆ヴァージョンです。
どういうことかというと、主人公イーガン・ムアは、ペットのテリア、フレンドをかばって電車に片脚を切断されたのです。
そして、ペットの名前が『フレンド』なのにひっかけて、メディアが書き立てたキャッチコピーが『友の最良の人間』
このイーガンが、病院でジャズという7歳の女の子と知り合います。
ジャズはフレンドをとても可愛がって、えー、話ができるようになります。

「イーガン、これからはフレンドが力になるって。(略)そのこと、イーガンにしゃべってもいいって言ってた」
「ほんとかい? どうしてくれるんだい?」
「いろんなことよ!何をしてあげるのが一番いいか、考えてたんだって。(略)びっくりさせるんだから、今は言えないけど」
「フレンドの声ってどんなだった?」
「ちょっとポール・マッカートニィみたいだった」

キャロルは、ご本人もテリアだったかブルドッグを飼っていて、ご本人曰く「話さないけどね」。
作品に出て来る犬は、わりとふつーに話をします。
それが意外ではなくて、作品世界にしっとり馴染んでいて、えー、【ナットク】させられます。
その作品世界がホントに独特でワタシはすごく好きなんですが、どの角度から終わりが始まるのか、予想もつかないのがキャロル作品でして。

ヤゼンカ(ジャズ)からの二度目の電話はもっと長かった。(略)
「イーガン? またあたし。あのね、よく聞いて。動物たちがたちあがろうとしているの。思ってたよりずっと早かった。(略)もうたくさんだって。助けてもらえるのは友達だけ(略)」

「この電話を切ったらすぐ地図出して。ギリシャにフォルモリって島があるの。F・O・R・M・O・R・I。明日すぐ行って。三日たったら何もかも始まる」

ラスト三行がこれまた非常に美しいです。

ちょっとほのぼのを外してしまったので、次こそは。
■ドッグズ
2001 アーサー・ブラッドフォード 小川隆訳 世界の涯まで犬たちと収録 角川書店

2013年に読んだなかで、もっともユルくて、のっっっったり した短篇集。
タイトルもそのものずばり『ドッグズ』犬たち、です。
冒頭を引用します(この作品のスゴさは、説明できない)。

ぼくが恋人の飼い犬と寝ているといったら、きっと変なやつだと思われるだろう。でも、それはぼくにとっていちばん困った秘密ってわけじゃない。
ぼくたちの関係はある日の午後、撫でたり体をすり寄せたりしているうちにしだいに発展して生まれた。ぼくたちは、ぼくも犬も二人とも、そうなってしまったあと、どう考えればいいのかわからなかった。ことの成り行きにちょっと驚いて、ただ座って途方に暮れていた。

そんで、その飼い犬、エルイーズは妊娠して子供を産むのですが…
本当に。キャロル作品の犬たちと同じく、こちらのわんこたちも話をするのですが、えー、かなり今風の話し方で、オモシロいです。

ぼくんちの家系図

読んだ時のノートブックのメモから。子供たち、愛するひとと出会い、こういった展開になるのです。

■おまけ#01

■おまけ#02
『犬橇』『火を熾す』とアラスカ作品がつづいたので…

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Profile: あなたと一緒に歩く時は、ぼくはいつもボタンに花をつけているような感じがします。

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