Notebookers ようやくSSL対応させました。
ほれ、アドレスのところ見ると鍵マーク付いてるよ。
久しぶりの投稿なので画像で手書きの記事UPしておきます。





Posted on 10 7月 2020 by タカヤ・モレカウ
Notebookers ようやくSSL対応させました。
ほれ、アドレスのところ見ると鍵マーク付いてるよ。
久しぶりの投稿なので画像で手書きの記事UPしておきます。
Posted on 03 10月 2019 by タカヤ・モレカウ
いつも遅れて配信していてすんません。
今回はめずらしく2019年10月から2019年12月まで「3か月分」まとめてUPします。
★2019年09~12月のカレンダーです
ポケット用_10月
https://notebookers.jp/calendar/calendar2019_10.pdf
ポケット用_11月
https://notebookers.jp/calendar/calendar2019_11.pdf
ポケット用_12月
https://notebookers.jp/calendar/calendar2019_12.pdf
ラージ用_10月
https://notebookers.jp/calendar/calendar2019_10_L.pdf
ラージ用_11月
https://notebookers.jp/calendar/calendar2019_11_L.pdf
ラージ用_12月
https://notebookers.jp/calendar/calendar2019_12_L.pdf
Posted on 26 7月 2018 by タカヤ・モレカウ
アブストラクトゲームというものがある。
一般的にそれは、ゲームの中にテーマと言うものが無く(抽象的)、ゲームにおける情報が全て開示されており、まったく運要素がないゲーム全般を示す。アブストラクトゲームは、相手のミスでもない限りすべて実力で決着がつき、圧倒的に強い相手とゲームをした人は大体において、ゲーム嫌いになるシロモノである。
文学の中に現れるゲームというと大半において、このアブストラクトゲームであり、登場人物たちはあれやこれやと頭を悩ましており、興味を持つことが多い。
デュシャンは「美は、カルダーのモビールのような意味で一つのメカニックといえる。チェスのゲームには運動の領域で美が存在する。美を作り出しているのは、頭の中で作られている身振りの想像力なのさ」と言っている 。
僕はだいたいのアナログゲームが好きなのだけど、目の前にそのゲームがない状態で、頭の中で想像するその仕草や動作、数手先に完結する二度と現れないそのパターンの美しさに興味がある。
マルケスの「百年の孤独」の中では、チェッカーを行うシーンが出て来る。マルケスの表現では、チェッカーを「基本的な原則について一致を見ている二人の人間の間で争う遊び」と定義していた。
シャーロック・ホームズのワンシーンでひとりの男がチェスをするシーンがある。
「よくチェスをやるのかい?」彼は部屋に置かれたチェスボードに目をやり、たずねた。「ノー、よくってほどじゃない。たまに1人で駒を動かしながら考え事をするんですよ」「チェスは2人でやるんじゃないのかい?」
最近ひとりでできるアブストラクトゲームを探していて、面白いゲームに出会った。「Hive」というイギリスのアブストラクトゲームである(二人用です)。駒のデザインの美しさに魅せられ、ふと買ってみたところこれがまぁおもしろい。そこで複数人にゲームのルールを教えて、何人かと対戦してみたところ、皆が一様に言う事はただひとつ。「全く面白くない」である。
これはもう割り切って、ひとり用のゲームだと考えて至るところでプレイしている。僕にとってノートブックを書くことは遊びなのだけれども、それに似ている。
【Hive】デザイナー: John Yianni
Hiveとは昆虫の群れや巣を表すことば。ボードゲームであるけれども、ボードは存在せず、机そのものがボードとなる。昆虫の六角形コマが数種類あって、交互に配置や移動を行い、最終的に相手の「女王バチ」のコマを取り囲むと勝ち。
【勝利条件】
「女王バチ」の周囲をすべて取り囲むと勝ち
自分のコマだけではなく相手のコマが含まれていても良い
【基本的な流れ】
コマを配置するか、移動するかの2択
最初は何もない状態からスタートする
【配置ルール】
1手目のみ相手のコマに接触して置くことができる
2手目以降は、自分の色のコマだけに接触する場所に置くことができる
相手のコマに一辺でも触れている場所には置くことができない
女王バチのコマは4手目までに置かなければならない
【移動ルール】
女王バチ配置後からコマの移動ができる
[ワン・ハイブルール]
全体のひとカタマリを(HIVE/ハイブ)と呼び、カタマリを分断する動き方はできない
基本的にコマはスライドして移動する
スライドできない場所には移動できない
ただし、バッタやクワガタのみ、狭くすぼまった場所への移動が可能
【各コマの動き方】
女王バチ:1スペースずつ移動できる
アリ:どこまでも進むことができる
クモ:きっちり3マス進むことができる(3マス以下の移動はできない)
バッタ:コマを飛び越えて進むことができる
クワガタ:1スペースずつ進む。コマの上に乗る(降りる)ことができる
【オープニング】
白が先手、黒が後手。
先手1手目は、好きなコマをひとつ、配置する。後手1手目は互いに接触した状態で置く。
2手目以降は自分のコマだけに接触している場所に配置する。
相手のコマに一辺でも触れている場所には配置ができない。
4手目までに必ず女王バチを置かなければならない。
女王バチ配置後から既に置かれているコマを移動することができるようになる。
さてここからが本題。
チェスや将棋のようにボードが存在しないと言う事は、座標が存在せず「Rh6 Kg7」もしくは「▲7六歩」のように縦軸と横軸の座標を記すことができないということである。そこで一週間ほど、この六角形のコマの配置方法(棋譜)をノートブックにどのように記載するかずっと考え続けていた。
僕の友人からまずもらったアドバイスがこちら。
フィールドサイズがはっきりしないゲームの棋譜、特に駒が六角形だった場合の棋譜は、どう記すのが合理的かを昨日からぼんやり考えている。多分、Honeycomb + Addressingで出てきた、こういうのが合理的なんだろうな。https://t.co/YPoQ17ks2g pic.twitter.com/aB0ugibImS
— lemonade_air (@lemonade_air) July 5, 2018
しばらくこの「Honeycomb Addressing」の方法で考えていたんだけど、第1手目を「0・0」の座標として設定して、その後配置した駒をアドレスで記載していくと、フィールドが確定していないため、座標が増幅し、ものすごく複雑な記載となることがわかった。例えば、コマを配置した後に第1手目「0・0」からどれくらい離れた座標に配置したのか、第1手目からの位置関係についてしばらく考えなければならない。
次に考えたのは、最初からフィールドを確定した状態でマスを記載し、そこに配置したコマを記入していく「マッピング」の方法である。
相変わらずコーヒー飲みながら六角形のコマの棋譜の取り方について考えている。チェスのように1手ごとに座標を記載するのではなく、格子状のマップにマッピングしていく(1手ずつ置いていく)という記載方法がしっくりきている。後はコマが移動した時の記述方法について考えればこの問題は解決できそうだ pic.twitter.com/4JOoCCN8yO
— タカヤ・モレカウ (@blanq) July 11, 2018
実はこれにも欠点があることが分かった。
ゲームの仕様上、フィールドが拡大していくため最初から用意したマスの中に記載することがだんだんと難しくなることが判明した。それともうひとつ、コマの配置には適しているのだが、コマの移動を記載するときに、ひとつのマスから別のマスに移動した時の前後関係がわかりづらいという難点があった。
そこで発明したのが、「辺記載法」と「横書き法」である。
※正確にいうと「横書き法」はSCYTHE 大鎌戦役というストラテジーゲームがあるのだけど、それをヒントにしている。
再びHEXコマの棋譜の話。六角形の上辺を1とし、右時計回りに2〜6と定義し、コマを配置するごとに接触しているコマの辺を記すと、座標を示せる事に気がついた。コマを移動した場合は、移動先のコマの辺を記載するという「辺記載法」(俺発案)。今、コッペパン食べてる。 pic.twitter.com/il5xxupXDl
— タカヤ・モレカウ (@blanq) July 23, 2018
複数コマに同時に接触している場合、複数辺を記すのが面倒なので、横書き法で接触している第①のコマの辺のみを記す事にした。 pic.twitter.com/qprpv6lwUh
— タカヤ・モレカウ (@blanq) July 23, 2018
【辺記載法について】
自分から見て六角形コマの上辺を1と定義し、時計回りに2・3・4・5・6と番号を割り当てる(図1参照)。配置したコマが接触した「もともと置いてあったコマ」の辺を記載するという方法である。では複数のコマに接触した場合、複数の辺を記載しなければならないのだけど、1辺だけを記載するだけで解決する方法があった。それが「横書き法」である。
【横書き法について】
六角形コマをびっしりと埋めた場合、左から右へ順序よく並ぶのだけど、左上のコマを優先として右下のコマを下位とするという解決方法。文章を記述するときに左上から真横に書いていき、右下まで文章埋めていく横書きの行為になぞらえて横書き法とする。
例えば、図1でQW(5)のコマを配置した場合、横書き法で優先して接触しているのはSW(1)のコマの4辺目に接触しているので、「QW4SW」とSWの4辺目のみ記載することで配置場所を特定することができた。
【複数同色のコマの判定】
では次に複数同色のコマが既に配置している場合、どのコマの何辺目に配置したかを特定するために、横書き法で「①・②・③」と、第何番目のコマであるかを記載することにした。例えば、既に白のバッタが2個置かれて置かれていて、バッタに接触して配置する場合、どちらの白バッタコマに接触しているのかを横書き法で第何番目かを示す。
例:
③AB->2①BW 横書き法第3番目のアリ(黒)を第1番目カブトムシ(白)の2辺目に移動した。
GW5②AW バッタ(白)を横書き法第2番目のアリ(白)の5辺目に配置した。
【記述方法について】
あと、配置した場合は、「AW3SW」といったように「配置するコマの名称」+「接触したコマの辺」のみで記載。
移動した場合は「AB→4②AW」といったように、「動かすコマの名称」→「移動後に接触したコマの辺」として記載することにした。「#」はチェックメイトを示す。
[コマの名称の記述方法]
QW:女王バチ(白) /QB:女王バチ(黒)
AW:アリ(白) /AB:アリ(黒)
BW:クワガタ(白) /BB:クワガタ(黒)
GW:バッタ(白) /GB:バッタ(黒)
SW:クモ(白) /SB:クモ(黒)
以上の試行を重ねて、このHIVEというゲームの完成した棋譜がこちら。
1. SW
2. SB1SW
3. AW3SW
4. AB2SB
5. QW4SW
6. GB6AB
7. BW5SW
8. QB5GB
9. AW->6QB
10. AB->6GB
11. BW->4QB
12. GB->4QW
13. AW3SW
14. AB->4②AW
15. QW->6GB
16. AB4AB
17. GW4BW
18. ②AB->5QW
19. GW->2①AW
20. AB4①AB
21. AW2②AW
22. ②AB->6QW
23. ②AW->4①AW
24. BB5②AB
25. BW2GW
26. ③AB->2①BW
27. GW5②AW
28. SB->3③AW
29. ②GW->4①BW
30. GB4GB
31. GW6①AW
32. ①AB->6③GW
33. SW2①BW
34. ①AB->2①SW
35. ③GW->4②GW #
あまり面白くない棋譜ですが、興味がありましたら再現してみてください。以下画像が投了図。
Posted on 09 3月 2018 by タカヤ・モレカウ
遊びの仕組みにものすごく興味がある。
遊びの中で、数学的なルールがあったりすると頭の中で延々と計算を繰り返し、なぜこれを楽しいと感じるんだろう?ということを考えていることが多い。
ドイツのボードゲームの本を読んでいて、有名なゲームデザイナーの方のインタビューが掲載されていた。あなたにとってボードゲームの魅力は何でしょうか?という質問に対して、その人は即座に「それは簡単だよ、ボードゲームには人々の営みが表現されていて、遊ぶ人は何かを探して発見して学ぶことができる。それが魅力だよ」と答えていたのが印象に残った。「何かを発見し学ぶことができる」というのは、文学や映画とも共通している項目だと思った。
そういえば、その昔アンディ・ウォーホルのインタビューで、彼の映画について尋ねた内容が掲載されていて似たようなことが書いてあった。「僕の初期の映画は、人がどう振る舞い、他人に対してどう反応するのかを示してくれる。観客がこれは応用できるものだと思えば、それは立派なお手本の役目を果たしたことになる。どこかの誰かの役立つものなわけだし、今までひそかに抱いていたそれらの疑問を解決してくれる」エンパイアー・ステート・ビルを延々と撮影した映画をどのように応用するかは置いておいて、人々の営みや喜怒哀楽をただ写した実験的な映像からは何かを発見し学べると思う。
ノートブックを使って、自分が楽しいと感じることは何だろう?なぜこれは面白いんだろう?と考えている時間は楽しい。その遊びが、人間の営みである限り、僕らは学ぶことができるし発見できるわけだ。
ボードゲームでは様々な世界観を楽しむことができる。それは世界の果ての異国の街であったり、象の背中のような架空の世界であったり、物理法則の少し違う隣の宇宙だったりする。だいたいどの箱を開いても12匹の伝説の猿がきっちりと姿勢良く収まって飛び出すのをじっと待っているような濃厚な物語がコンパクトな箱にぎゅっと詰まっている。年間で毎年1000タイトル以上のアナログゲームがリリースされるにも関わらず、憧れの監督が作り上げた新作の映画の封切りと同時に映画館に一斉に押し寄せるように楽しまれている。
「ラバト、カサブランカを通り過ぎてエッサウィラまで来た。
旧市街の北のビーチにはタイルの破片がたくさん流れ着く」
最近インスタで世界中を旅していた女の子の写真を眺めていたんだけど、この投稿が深く心に残っていて、心の片隅に海岸に流れ着く色とりどりのタイルのことをずっと考えていた。旧市街という響きにとてもエキゾチックなものを感じる。常に異国のことを妄想するという病「Exophrenia」を患っているので、モロッコ北部の港の市場に集まってくるペリカンの鳴き声まで想像してしまう。深い青の夜空に月を背にして、恋人を抱擁しユリとケシの花束の上空を飛ぶシャガールの絵も確か旧市街の物語だったなと思い出す。旅の中では、僕らは多くを学び発見することができる。旅の中では常に細部を観察しているし、少しでもその場の空気を吸い込もうとして、毛穴のひとつひとつを開いて味わっている。
モロッコ北側の海岸に流れ着くタイルのことを考えていたところ、先日こんなゲームがリリースされた。ドイツのミヒャエル・キースリング氏のデザインで「アズール(AZUL)」というゲーム。
ストーリーはこうだ。「アズレージョとは、ムーア人によってもたらされた美しい装飾タイルです(元々は、白と青の陶製のタイル)。ポルトガル国王マヌエルⅠ世は、スペイン南部のアルハンブラ宮殿を訪れた際に、このムーアの装飾タイルの衝撃的な美しさに魅了されました。アルハンブラの美しい内装に心を打たれた王は、すぐにポルトガルの自らの宮殿の壁を、同様のタイルで装飾するよう命じました。「アズール」は、プレイヤーがタイル・アーティストとなり、エヴォラ宮殿の壁を装飾するゲームです」
ポルトガル国王マヌエルⅠ世は実在の人物で、場所はポルトガル・アレンテージョ地方(Alentejo)の中心都市であるエヴォラ(Evora)の城のこと。このアズレージョの歴史も古く、5世紀にわたって作られている。スペインを経由してムーア人からポルトガルにもたらされ、ムーア人らはペルシャ人から工芸を習得したため、アラビアの影響を受けた装飾となっている。主にデザインは、幾何学的に組み合わせた曲線や、花のモチーフを使用する。王に命じられ城の装飾を行うということは、失敗するとそれは死を意味するということだ (すみません、最近ゲーム・オブ・スローンズに影響されています。デナーリス・ターガリエンのファンです)。
先日眺めていたそのInstagramのタイルのこともあって、さっそく買ってみたところ、ものすごく面白いゲームだった。
ゲームの流れはこうだ。大まかな流れのみ。
①タイルの購入
円形のお皿がタイルを作っている工房を表しており、そこに4つずつタイルが乗っている。そこからプレイヤーは「1色だけ」タイルを取ることができる。余ったタイルは円形のお皿が並んだ中央の場に押し出す。
- 黄色を取る
- 余りを中央に押し出す
つまり丸いお皿の上からはタイルが無くなり、丸いお皿の並んだ中央部分にタイルが集結していくことになる。中央部分からも1色ずつタイルを取ることができる。最初に中央部分からタイルを取った場合はスタートプレイヤーを示すタイルも一緒に取る。タイルが無くなるまで交互に1色ずつ取っていく。
②タイルの一時的な配置
個人ボード左側部分(階段状になっている列)に取ったタイルを一時的に配置する。1列ごとに1色のみ右詰めで配置することができる。あふれてしまったタイルは個人ボード下部の床ライン(-1,-1,-2,-2,-2,-3,-3)と記載されている場所に左詰めで配置する。③壁の装飾
②の一次的な配置で個人ボード左側の階段状の各列を満タンにすることができた場合、そのタイルを1枚だけ個人ボード右側の壁面に配置することができる。配置した際にポイントが計上される(個人ボード上部の黒いキューブが移動する)。配置後は個人ボード左側の階段状の各列はリセットされる。床ライン(-1,-1,-2,-2,-2,-3,-3と記載されている場所)に並んでいるタイル1枚ごとにポイントを減算する。以上繰り返し。スタートプレイヤーのタイルを持っている人から同様にタイルを取得していく。誰かが宮殿の壁(個人ボード右側)で横一列のタイルをそろえたラウンドで終了。最終得点を計上して一番勝利点が高い人が勝ち。
ボードゲームのルールというのは割と単純だ。上記ルールを何度読んでも面白さが伝わってこないと思うのだけど、このゲームは信じられないほど深い。僕はこういった単純なルールの中で神がかり的なアイディアを見つけるとものすごく快感を感じる。
例えば上記①の手順の中で、「余ったタイルは円形のお皿が並んだ中央の場に押し出す」というのがものすごいアイディアだと思う。中央部分からもタイルを取れるという手順がひとつ追加されることによって、タイルの取り方のバリエーションが増えており、簡単な数学的な計算でゲームの流れが読みづらくなっている。ミヒャエル・キースリング氏のインタビューにも掲載されていたけれど、このアイディアは本人曰く「天が北ドイツの空から送ってくれたかのように決定的なアイデアが降りてきた」という。この言葉のおかげで、中央部分から1色タイルを取るたびに、何か云いようのない快楽を感じるわけ(変態)。
常に遊びのことを考えているものだから、最近頻繁に遊びのことを頼まれるようになってきた。ホイジンガの著書「ホモ・ルーデンス」にも記載があったけれど、 遊びの歴史は古くて、「ホモ・ファーベル」(作る人)よりも「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)が先にある。
クリエイティブな行為というのは2種類ある。素敵なデザインの椅子や安らぎの空間スペースを生み出す芸術的な「創作」の行為。もう1つは自分の痛みや他人とのズレに生まれる葛藤を見つめて、それをポジティブなものに変えて行こうとする「変化」の行為。それよりも先立つものが「遊び」なわけさ。
遊ぶことで、昨日までこの世に無かったものが新しく出来上がるなんてすばらしいと思う。
ヘイ、Notebookers!いつか一緒に遊べる日を楽しみにしているよ。
※ちなみに現在この「アズール」ですが品薄でなかなか手に入りません。日本での定価は6000円くらいなのでご注意願います。
Posted on 04 6月 2017 by タカヤ・モレカウ
最近、とある本を読んでいて面白いなぁと思ったのは、「だるまさんがころんだ」をさらに面白くしてみるという内容だった。
まず「だるまさんがころんだ」の曖昧な部分となっているルールを指摘していた。
【問題点】
①終了条件が曖昧になっているため、繰り返し行われる際に飽きてしまう点
②鬼にタッチをした担当者に対する「小さなごほうび」が用意されていない点
③大股〇歩、小股〇歩と、子が鬼の歩数を 指定するところ(つまり、子から鬼に条件を与えるためタッチすることができないことがある)
【解決方法】
①全員が鬼をプレイしたら終了。もしくは特定のポイントをクリアした際に終了とする。
②ポイント制にする。子は鬼にタッチをした際に1ポイント、鬼は決められた歩数で子にタッチができた場合1ポイント。
もしくは全員を捕まえることができたら数ポイントなど鬼に大量得点のルールを与えるのも面白い。
③鬼の歩ける特定の歩数を「大股10歩、小股20歩」と予め決めておく。
アレックス・ランドルフの 「すべての遊びは進化の途中であり、進化の連続から新しいゲームが誕生する」 ということばで締められていた。こういうの、読んでいるだけで興奮してしまった。「だるまさんがころんだ」に類似した遊びは世界にいくつもあり、ドイツでは”Ochs Am Berg(山の牛)”、イギリスでは「Green Light Red Light(青信号赤信号)」というゲームで、どちらも親が後ろを向いている間に近づいてタッチする遊び。日本の遊びではなぜか皆が鬼になるのを嫌がる傾向があるが、ヨーロッパでは鬼に自由な特権が与えられており、どちらかというと鬼になりたがる人が多いらしい。
僕はこのような、人が「楽しいと感じる」システムに興味があって、いつもダイスを持ち歩いている。小さなころ、親が僕をおもちゃ屋さんに連れて行って、お誕生日だから好きなの買ってあげると言ったんだけど、しばらく悩んだあげく僕は一番小さな70円のサイコロがショウウインドウに入っているのを見かけてそれを買ってもらった。人生で初めて能動的に手に入れたおもちゃである。安上がりな子供で親も安心したと思う。
しばらくはダイスを転がしながら、1~6の目がランダムに出るのが不思議でしょうがなかった。ばあちゃん家のアパートの外階段でサイコロを転がしていると、興味を持った近所の子供が話しかけてきてルービックキューブを教えてくれたのを今突然思い出した。
ある程度大人になった今でも、23種類の順位をダイスひとつで抽選するには?とかダイスひとつで平文で暗号と複合を成してみるとか、ダイスをn回降った時にp回だけ特定の目が出る率 (※上図:一番左側の “p” は正しくは “P” です。nCmの部分はコンビネーションの公式です。)とか、自分で問いを作ってそれを机上で解く道具として使っている。ダイスはひとつの考えごとを提供する文房具だと考えている。
小さなころのファーストインプレッションというのは大人になっても継続するもので、ダイスひとつで退屈しない大人になったなぁと思う。楽しいと感じるシステムについて考えるのが楽しい人は、サイコロひとつ持ってても楽しいのだろうと思う。これらの楽しいと感じるシステムはどこか遠くの時代に、世界の誰かがつくったものだ。それがダイスを通じて今の僕に届いているということを想像すると割と興奮する。世界の誰かが考えたものが、道具を通じて、小さな文化となって伝わっていくというところにドラマチックさを感じる。
最近ではすっかりスマホやコンシューマのゲーム機が有名になってしまったけれども、たまには誰かとひとつのテーブルを囲んで、アナログなゲームもお勧めする。誰かが作りあげた画期的な「楽しいと感じるシステム」がたっぷりと詰め込まれていると思う。ドイツではボードゲームの生活における比重が全く日本と違う。毎年ドイツで10月ごろ行われるボードゲームの祭典「Essen Spiel」では毎年数十万人が世界中から訪れ、40か国600ブースを超える出展、そしてイベントが行われるエッセン市ではまるごとゲームのお祭りの様相をほどこし、街のあちこちでボードゲームの世界大会が行われるといった状況で盛り上がっている。
ボードゲームには、テーブル上に公開された情報のみで遊ぶチェスや将棋や囲碁のようなアブストラクトゲームと言われるものもあるが、不思議なことにドイツでは敬遠されるようだ。また、すごろくを代表するただのレースゲームのような、操作する情報が運のみのゲームも敬遠されるようである。
つまり、ドイツのボードゲームは他プレイヤーとの相互に関わる要素「交渉、競り、交換、対戦」が程よくミックスされ、コンポーネント(駒やマーカーの類)が木製で立体感があり美しいものが好まれ、雰囲気満載のボードが扱われることが多い。日本では「ドイツのボードゲーム」もしくは「ドイツゲーム」と呼ばれるこのジャンルは当のドイツではSpiel(シュピール/遊び)と呼ばれる。デザイナーが重視されており、箱やすべての広告にデザイナーの名前を冠して販売されることが多い。これは日本で言うところの出版物に似ている。つまり著作者が出版社を変えて本を出したとしても本が売れる仕組みと同じだ。デザイナーの名前が看板となっている。
ドイツのボードゲームのデザインは、ゲームのテーマから入る人と、システム構成からデザインを始める人がいるらしい。複数のアイディアを重ねていき、最終的に出来上がったものを何百回と繰り返しテストプレイを行う。ここで作品をマッシュアップしていくのである。
「よくチェスをやるのかい?」
彼は部屋に置かれたチェスボードに目をやり、たずねた。
「ノー、よくってほどじゃない。たまに1人で駒を動かしながら考え事をするんですよ」
「チェスは、2人でやるんじゃないのかい?」
ボードゲームについて人と話していて思ったことがひとつ。
複数の人数でプレイすることも楽しいのだけど、一人で考え事を楽しむ道具でもあると考えている。ヘッドフォンやノートブックやそしてボードゲームも、結局のところひとりで楽しむ道具のように感じている。自分の考えというものは、誰か他人に話すことでそれが楽しいことであるか判断できるんだけれど、一人で考えたことを誰かに話すための道具、そういうものも世の中には存在している。
最近はノートに、ボードゲームの中で自分が楽しいと思ったシステムをメモしておく癖がある。また冒頭に書いたような、既存の遊びを楽しく変えるアイディアがあったら書き留めておいている。仕組みだけメモしておくと頭の中でイメージしながら何度も繰り返して遊べるからだ。
クリエイティブな行為には2種類あって、新たなものを作り出す行為と既存のものを変化させる行為である。僕は既存のものをいろんな角度から見て視点を変えるのが好きだ。普段の生活の中で自分が楽しいと感じるシステムについて考えるのはとても楽しい。既存の何かを楽しいと感じるように変化させるのが割と好きだ。
身近なモノをゲームにすると考えるなら、非日常的な視点で見るべきかも。例えばノートをゲームにするなら、「1冊のノートを複数人数で取り囲んで一斉に書く」もしくは「複数人数で数冊のノートを向かい合って置き、互いのノートの境界線を越えて線を引き合う」等。まず楽しむ。後でルールを付加する。
小さい頃から紙の上でのゲームはよくやってたけど、最近ちょっと面白いものを見かけた。
出題者から各自に配られた「キリン」や「餅つき」などの「お題」を、みんなで1つの紙の上に少し(一筆)ずつ絵で描いていくというゲーム。ただし、そのうちの1人は配られた「お題」が白紙になっていて鬼?になる。つまりひとりだけお題を知らずに描いていくことになる。お題が空白だった鬼は、他の人が描いている断片から推測し「知ったかぶり」して描く。全員が2回ずつ筆を入れたとき、鬼が今回のお題を当ててしまうと得点は鬼のものになる。 他のお題を知っている一同は、鬼にお題を悟られないようにしつつ鬼が誰かを特定できれば得点となる。「鬼には解らないだろうけれどもお題を知っている人には解るはず」と考えて線を描いていくと絵はだんだんとよくわからない方向に変化していくオモシロさがある。「これなら解るだろう」の尺度が人によってそれぞれ異なることを楽しむゲーム。これならノートブック一冊を使って、それぞれが違う色のインクのペンを使って遊べるなぁと思っていた。
最近「Dixit」というボードゲームを買って、そのシステムに感動した。『DiXit』とは、ラテン語で「(彼が)言う」の意味で、フランスでは根拠なき主張を揶揄するときに使う言葉らしい。数十種類の不思議なカードが同梱されていて、各プレイヤーが6枚ずつの手札を持ち、1人ずつ交代で語り部をプレイする。語り部は自分の手札1枚を選び、その絵柄から連想される言葉(歌でもパントマイムでもなんでも良い)を全員に言い、他のプレイヤーは自分の手札からその言葉にもっとも似ていると思うカード1枚を選ぶ。全員がカード1枚ずつを出したら、語り部がそれをシャッフルして並べる、語り部以外のプレイヤーは「語り部の選んだカード」と思ったカードに投票し、その投票結果によってポイントを獲得できる。
このポイントの配分方法がギネス級のアイディアなのでよく読んで理解してほしい。
全員当たり、または全員外れの場合、語り部にはポイントは 0点。この場合は語り部以外のプレイヤーが全員2点ずつ点数が入る。では語り部の選んだカードに誰かが投票し、かつ外したプレイヤーもいる場合は、語り部に3点、当てたプレイヤーにも3点入る。
そして、上記の点数配分に加えて、語り部以外のプレイヤーが出した「似ているカード」に誰かが投票した場合は、そのカードを出した人に1点が入る。
上記のポイントの配分が絶妙過ぎるのでぜひイメージしてほしい。つまり、語り部はモロわかりでも的外れでもない、適度にあいまいな言葉を要求されるジレンマを楽しむことになる。
最後にボードゲームのインスト方法について記載しておく。
第三者とボードゲームをプレイするときに必要な行為なんだけど、初めてプレイをする人に対して、「どのような手順でゲームを行うべきか」説明を行うというのが重要な行為となっている。これは通称インストと呼ばれる。インストラクターのインストと同意。手順は以下の通り。
【インスト手順】
①ゲーム背景の紹介
ボードゲームの持つ世界観・雰囲気・テーマ・ムードについて説明し気分を盛り上げる。
②終了条件・勝利条件の説明
どのようにするとゲームが終了するのか、勝つのか説明することで何のために何をするのかが明確になる。
└ 質疑応答
ところどころで質疑応答を挟む
③ボードの説明
スタート地点・ゴール地点・駒を動かしても良い場所の説明
④おおまかな処理手順の説明
どのように進行していくのか説明。
⑤それぞれの処理手順の説明
一般的な処理と例外の処理を分けて説明する。
└ 質疑応答
⑥最終決算もしくは得点計算の説明
最終的に決算でポイントがどのように変動するのか説明。
⑦特殊ケースの説明
一定の条件でしかできないアクションについて説明する。
└ 質疑応答
【追加オプション】
⑧適度な助言
よくある展開、最終的に皆が達する平均的な点数について説明。
⑨明らかに有利・不利な点の説明
自分の経験上と説明したうえで、有利に戦うコツについて説明。
こうやって眺めてみると、何か別なプレゼンにも使えそうな気がする手順である。
Posted on 30 3月 2017 by タカヤ・モレカウ
ヴォイニッチ手稿がノートを書くときのお手本だったりする。
ヴォイニッチ手稿( 英: Voynich Manuscript)は、1912年にイタリアで発見された古文書のこと。読みたい方はこちらからどうぞ。割と重たいけれども、PDFをダウンロードできる。→ ダウンロード
何が書いてあるかわからない?読めない?
だいじょうぶです、今のところこの本を読めた人は世界にひとりもいません。現代においても未解読の文字が記され、多数の奇妙な絵が描かれている。暗号なのか、人工言語なのか、それすらも分からない状況。
いまだに誰も読めない文書というのが痛快で、お気に入り。WEB上でも、生活の中でも、目にするものの大半が「実はコマーシャル」というのに僕は少々疲れていまして、iPadに、ヴォイニッチ手稿のPDFを入れて電車の中とかで読んでいる。ヴォイニッチ手稿に描かれている植物がセクシーだなぁと思っていて、知らない惑星をノソノソと歩く植物について想像してみたりしている(←こういう想像が割と好き。手塚治虫の火の鳥「望郷編」の、見知らぬ惑星をごろごろ転がる石が好きな人ならわかるかな)。イラストレーションをデザインとして作り直してステッカーにしたら素敵だなぁ。
僕は常々、ノートブックを書くなら「どこの国のものでもない言語で書いてみたい」と考えている。どこの国にも属さない何も意味を成さない自分でも読み返してみたいと思わないものを、命を懸けて書いてみたいと思う。そういうノートの1ページを増やしていきたいと思う。せめてもの自分のノートブックの1ページくらいはどこにも属したくないのです。
Posted on 17 3月 2017 by タカヤ・モレカウ
僕にとって書くことは、居心地の悪い世界に対するちょっとした反抗だと思う。
さて今日は10代の頃について書いてみようかなと思う。高校生の頃、いつも教室の隅っこで寝てるタイプだった。修学旅行にも行かなかった。高校には友人が極度にいなかったのだけど、じつは家に帰ると、幼馴染の友人たちを含め、様々な人種の人々が昼も夜も常にいる感じだった。高校三年生の頃に僕は、幼馴染の友人と二人でアパートを借りて生活を始めたので、様々な人種のたまり場になっていったことが理由。これが僕の人生に大きな影響をおよぼした事象のひとつだ。この当時のことが影響していて、僕は他人が好きなことをして好きなように過ごしているのを見るのを好きだ。
おそらく人生でいちばん人と会い、いろんな考え方に触れた時期のような気がする。
1DKアパート暮らし。和室を僕の幼馴染が使い、となりのダイニングスペースを僕が使った。ものすごくお金がなかったので、カーペット代わりに部屋中に段ボールを敷き詰めて暮らし、好きな場所にアクリル絵の具で絵を描いていた。拾ってきた家具を使うという感じで少しずつ快適にしていったわけなんだけど、僕が拾ってきたボロボロの工事現場用の三脚を、これ一生使うから拾ってきた、いやいや使わないので今すぐ捨ててきてと友人とモメたのをなぜかよく覚えている。その三脚はその後洗濯物を干すのに愛用。干すたびに洗濯物がサビだらけになった。
狭い部屋なので、遊びに来た友人たちと身を寄せ合って、灯油切れのストーブを横目に、机の下に頭を突っ込んでひとつの布団の中で一緒に寝た。バイト先でもらってきた大量のお惣菜をメインの食事に充てた。毎日から揚げとマヨネーズを和えたマカロニサラダが蔓延する食事。それに見かねた料理の得意な友人たちが、食事を用意してくれた。覚えているのは、最近亡くなった友人が当時作ってくれた「ネギ鍋」。固い半煮えのネギしか入っていなかったので美味しくなかったことだ。洗濯機もなかったので風呂場でかき混ぜるように足で洗濯をした。家具も無い部屋の中で、僕は段ボールの上にあぐらをかいて、傍らに本を積み、時折、積み上げた本の上に椅子代わりに座り、ギターを弾きながら無口に生きていたわけだ。この環境を珍しがって、一緒に住む友人のそのまた友人や、僕の幼馴染たちの友人やそのまた友人、様々な人種が入れ代わり立ち代わり訪れた。もちろん破壊的な女の子たちもいて、その部屋で初めて出会ったときに、僕のちんちんを丁寧に触ってくる女の子もいた。僕は触らせるがままにしていた。どんなことが起きても動じてはいけないのだと考えていた。当時僕はウォーホルの本を頻繁に読んでいたので、そこには頻繁に70年代の不健康そうな物語が載っていて、例えば高層ビルの一室でのパーティの際に目の前で飛び降り自殺をしようとしていた人がいても、「あ、あの人飛び降りるよ」とつぶやくのだが誰も止めないというようなシーンがあって、その日初めて出会う女の子に、たとえ丁寧にチンチンを触られていても動じてはいけないのだと考えていたのである。
暇さえあれば僕は寝っ転がりながら、ノートに落書きやら文章を書き連ねていた。無印のノートかコクヨのノートにMONOの水性ボールペンで書いていたのだけど、この前実家に帰った時に見つけて読み返してみたら、当時出会った人々から夜な夜な聴いた話を書き留めたり、もらった手紙やらを挟んでいたり、紙切れを貼り付けていたり、サンマの塩焼きを熱心にスケッチしていた。当時考えたことは、数十年の経過ののち、汗のようにじわりと体から染み出る感じがする。残された僕のノートの中には、「好きなものを好きだと言い続けることは誰かを救う」と書いてあった。僕にとって書くことは、居心地の悪い世界に対するちょっとした反抗だ。
このノートを読み返していると、随分と反抗的なことばかり書かれていた。自分を押しつぶそうとする世界に対して。押し返す力として。そういうノートが必要な時がある。今でも僕は、自分の周囲にゴムのようなものが貼られていてぎゅうぎゅうと押し込まれているような感じがする時がある。何か心理学的に言うと子宮なのかもしれない。押し返す力としてノートを使う。
Posted on 26 2月 2017 by タカヤ・モレカウ
先日アップしたバージョンの続き。
トラベラーズノートブック10周年記念缶用の週間ダイアリー用、
3/20-5/31のページを作ったのでダウンロード用のURL載せておきます。
notebookers.jp/calendar/MINI_TN2017diary_02.zip
見開きのサイズは縦:41mm x 横:44mm
表のページと裏のページがPDFで同梱しています。
ひっくり返して、両面に印刷してください。
最近LAMYスクリーンを愛用しています。
2WAY仕様、スタイラスペンとボールペンが一体型になっています。
iPadと手帳を同時併用することが多いので非常に役立っています。
Posted on 08 1月 2017 by タカヤ・モレカウ
トラベラーズノートブック10周年記念缶を手に入れたので、ミニトラベラーズノート用の週間ダイアリーをふと作ってみた。
ちなみに2017年12週目のページで力つきた。
3月半ばくらいまでとなりますが、よろしければダウンロードどうぞ。
https://notebookers.jp/briefcase/MINI_TN2017diary.zip
見開きのサイズは縦:41mm x 横:44mm
表のページと裏のページがPDFで同梱しています。
ひっくり返して、両面に印刷してください。
Posted on 27 9月 2016 by タカヤ・モレカウ
こんにちは、モレカウです。
基本的にアウトドアというものはヒマである。そもそも野外で過ごすということは、焚火か料理でもしていない限り、特にすることがないのである。最近のアウトドア系の雑誌ではアクティビティだなんだと煽るのだが、することがないので、しょうがないので暇をつぶすことを探すというのが正しいアウトドアの過ごし方だと思う。
ヒマだと、何かクリエイティブなことでもしてみようという気分になるから不思議だ。ということで、ロープでブランコを作って乗っていてブラブラと揺れながら退屈していた。そういえば2011年の横浜トリエンナーレの副題が「世界はどこまで知ることができるか?」だったなぁと思い出していた。ことばの限界が世界の限界だよ、と言ったのはウィトゲンシュタインだったかな。では「モレスキンを書ける限界」というのはあるのか試してみた。エクストリーム・スポーツ的モレスキニングというジャンルはなかなか新しいのではないだろうか?
【リバース・モレスキニング Reverse Moleskining】 難易度:★★★★☆
最初から難易度4の大技である。ただの逆立ちではなく、ペンを持たなければならないので片手で立つ必要がある。下半身のブレが文字のブレにつながるので注意だ。頭に血が上るので落ち着いて字が書けないデメリット有。撮影のために10回程度逆立ちをしていたら、ポケットに入っていた小銭を紛失した。損失:220円。
【ゼロ・グラヴィティ・ランディング Zero gravity Landing (無重力着地)】 難易度:★★☆☆☆
倒れる俺。
【クールガイ・トゥ・チャレンジ・メニー・タイムズ・モレスキニング “Cool guy to challenge many times Moleskining” (何度でも立ち向かうカッコいい俺)】 難易度:★★★★☆
このとき周辺で俺を見つめる子連れの主婦が数人いたが足早に立ち去っていった。
【ツリー・クライミング・デスクリプション “Tree climbing description” 】 難易度:★★★☆☆
あっ!しまった!モレスキンが枝に引っかかってしまった!という感じで、モレスキンが樹木などの高い場所に引っかかってしまった場合に有効だ。樹に引っかかったモレスキンは孤独に見えた。記述のことをデスクリプションっていうんだぜ。
ちなみに、樹にモレスキンが引っかかってしまったときに、ゴムバンドでページを押さえていると見開きで固定されるので比較的書きやすい。
ヤシの実をとる職人が、足に輪っかになったロープをひっかけて高い場所まで登ってしまうという技があるのだが、そんなに高い場所にあったら怖いので2mくらいの場所で実践した。
このとき気が付いたのだが、松ヤニでモレスキンと手がベタベタになった。野外で手が松ヤニでベタベタになるとそれはもうとても厄介なのである。なぜかいうと松ヤニは水に溶けないので、アルコール系で落とす必要がある。アルコール系のウェットティッシュがあればいいのだがそんなもの持っていないので家に帰るまで手とモレスキンが、もうベタベタだった。
ちなみに以前僕が考えた「責め苦」で「手にたくさんのチョコレートを持たせて砂漠を歩かせる」というのがある。暑さでチョコレートが溶け出し、手がベタベタになるのである。長時間手がチョコレートでベタベタの状態で歩き続けなければならないことがどれだけ人にダメージを負わせるかというのはあなたは知らない。他にもあれだ、霧吹きで水をかけたあとに細かく切った数ミリの髪の毛をパラパラとまぶすという責め苦も思いついているのだがここでは割愛させていただく。
【スラックライン・モレスキニング(Slackline Moleskining)】 難易度:★☆☆☆☆
細いロープや柵などの上でバランスをとりながら書くモレスキニング。バランスを崩し、踏み外したとき、それは死を意味する。本来のスラックラインはクライマーの中で登山の合間の遊びとして生まれたらしい。ダウン系、フリップ系、バウンス系と様々なトリックがある。バランス感覚や集中力が必要となるモレスキニングである。公園のブランコの周辺の柵で練習ができるので試してほしい。関係ないけど、ブランコの周辺の柵っていまだに必要性がよくわからない。無いとクレームが多いのかい?
本日の実験結果。
使用したペンはLAMYのScribble 。ペンの名前にふさわしい使い方をしたのではないかと思う。この記事をここまで書いておきながら、なんてつまらない記事を書いたんだろうとけっこう後悔しているが、そのまま掲載してしまおうと思う。本当はファイト1発モレスキニング(崖などの高い場所で片手でハンギングしながら、もう片方の手でモレスキニングを行う)というのも思いついていたんだがそれは次回に行う。
人間はあらゆる状況でもノートを書くことができる。
How many miles to Notebookers.jp?
世界の果ては遠い。
Posted on 16 9月 2016 by タカヤ・モレカウ
本日の文章はほぼ推敲無しで一気に書き上げるカタチで書いた。
おおざっぱで申し訳ないが、僕の興奮を伝えるには一番ではないかなと考えている。
僕は、TOBIU CAMPに行く前に必ず近隣の公園でテントを張って寝泊まりして、朝イチで太平洋を見ていく。太平洋は日本海と違って煤けておらず、演歌を感じず、実に開放的で爽快なのである。札幌に住んでいると太平洋は、なぜか姿勢を正して見てしまう癖がある。波が高く、震災の時のような自然に対する恐れがあるからだと思う。遠くを見ながらもハワイはこっちかなと微妙に角度を変えながら見る。めったに見ない太平洋を見ながら、朝ご飯を食べ、ザッパーン!という波の音を聞きつつ、午後から始まるイベントの軽い興奮を想像して楽しむわけである。
TOBIU CAMPに参加すると必ず僕は自信を失って帰ることになる。
普段からコミュニティデザインのようなものに興味があって、このTOBIU CAMPが象徴するようなコミュニティに参加すると、自分ができないこと、自分が実現したいけれどもどのように行動したらよいのかわからないものに気が付いて、自信を失うのである。
前回のレポートにも記載したのだけど、CAMPの目的は大なり小なり、「都会から離れた人々が都会に影響を与えること」が目的である。そういう意味で、このCAMPは都会と自然を行き来する僕に少なからず影響を与え、新しい視点をくれる。
その視点のおかげで新しいものが見えてしまう。そして僕は自信を失う。だいたいにおいて人間は最初からいろんな偏見に満ちているのだけど、いろんな価値観を知ることでその偏見を緩和することができる。僕はその偏見を緩和するときに自信を失うのである。TOBIU CAMPを素晴らしいと思う。新しい気付きに満ちているのである。
「緩和することができる」
僕はこういう言い方が好きだ。もしもあなたがTOBIU CAMPに参加したならそういった偏見を緩和することを心がけてみると良いかもしれない。例えば知らない人と手をつないで踊るというシーンはあまりないと思うけれども、このキャンプではアイヌのウポポ(輪唱)を聴きながら炎の周りで踊るシーンがある。
月並みではあるけれど、勇気を出して知らない人に声をかけてみると良いかもしれない。オノヨーコも言っていたけれど、「知らない人と話すのは怖いけれど、もう二度と会えないかもしれないと思えば、自然と勇気が沸いてくる」ということばを、いつもこの時に思い出す。二度と会えないかもしれないなと頭の中で反芻すると、よし声をかけてみようかなと勇気が出るのである。このことばはTOBIU CAMPの間じゅう、夜を通して僕のこころのなかで反響する。
TOBIU CAMPの森の中には小さなたき火があって、少人数でのサークルがつくれる場所がある。そこに外国のヒッピーの方々が数人、お酒を片手に談笑しているとき、そこに勇気を出して座ってみるのをお勧めする。お菓子をそっと渡す、もしくは暖かいのみものをひとつのククサに入れて回し飲みするなど、炎を目の前にしたコミュニケーションがあなたはできる。そしてそういう行為がまた、似合う場所なのである。
NYでジョージ・マチューナスが作った、とあるアート?の団体「フルクサス」において、そこに12個ある基準にこんなのがある。ひとつめは「流動的で制限しないこと」そして二つ目は「参加する人々とアーティストの垣根が存在しないこと」というのがある。たびたび美術の世界では、アーティストと観客の視点の違いが明確かもしくは曖昧かというところがテーマになるのだけど、僕はこのTOBIU CAMPにおいてもその参加する人々と演奏家の曖昧さ、境界線の無さを感じていた。こんなフェスは見たことがない。例えば、TOBIU CAMPに参加するフリーエリアで演奏するミュージシャンたちは演奏する場所も時間も長さも決められていないようなのである(タイムテーブルが存在しない)。そして彼らのために特設された舞台というのも存在しない。森を散歩していると、一見すると誰もいないような場所でうすぼんやりとした最低限の光の中で演奏しているのを見かけるという雰囲気である。一見すると楽器を持っていない人(歯笛で演奏する等)もいるので演奏者かどうかも見分けがつかない場合が多い(笑。※ちなみに今年はさらに照明を最低限度にしたそうです、目をこらすといろいろと見えてくるのも違うのかもしれないという考え方から来ているそうです。
僕はこの境界線の曖昧さがイベントを面白いものにしているのではないかと思っている。イベントのスタッフにしてもなんとなくスタッフっぽいTシャツを着ているのだけど一見するとスタッフであると気づかない(実際に一般入場者と間違われて学生にアンケートを受けていた→そして断るでもなく自然に回答していたのを見て感動した)。森を管理する人々と遠くから訪れた人々の境界線が曖昧であるがために、一線を構えることなく、僕らはなんとなく森を作っていくのを手伝っている感じがする。このCAMPに参加することで森づくりに参加していると感じられるのである。嘘じゃないよ、実際にごみの分別手伝ったもんね~。コロナビールの瓶の中にレモンを押し込んだまま捨てるのはやめましょう。
演奏する人々と参加者が曖昧であることを楽しむために今度は自分もギターの一本でも持って行こうかなと思っている。なんとなく、今後のTOBIU CAMPでは楽器を持ち歩く人々が増えそうな気がする。なんとなく楽器を持ってきた人々が、誰かの弾いたコードになんとなく合わせてみたり、なんとなく集って談笑するようなシーンが見てみたいですね。きっとこれは、スタッフではなくて、TOBIU CAMPの魔法の焚火が叶えてくれそうだ。
このイベントに参加するほどに、アイヌのことばや文化にとても愛着を持てる。自分が住んでいる北海道の場所について考えるようになる。その地名の由来は何か?そこでどのような人々が暮らしていたのだろうか?ということにも興味が持てるようになる。例えば僕が育った土地の名前の由来は「オッカイ・タム・チャラパ」(男が刀を落としたところ)の意味がある。そういった昔のアイヌの物語を知ることで、その遠い過去にこの土地を歩いた男が落とした刀のことを考えるようになるのである。
そういえば、昨年この飛生の森に来た時に樹木の高い場所に大きな黒い羽が刺さっていた。今年来てみて、その場所を見上げてみると黒い羽のそばに、巨鳥にさらわれた子供なら5~6人ほど入れそうな大きな巣ができていた。夜のトークショーでちらっと聴いたけれど、来年は「大きな卵」になるかもしれないとのことであった。この森の中は物語に満ちている。森の成長とともに、その物語も成長しているようなのである。
さて、TOBIU CAMPで行われていたコンテンツについても少し書いておこうかなと思う。今回は昨年度に比べて、音楽よりもトークセッションの内容にボリュームを当てられていたと思う。そのためか、ステージのひとつを砂場(いやほんとに砂場になってました)にして大きな音をかける機会をわざと少なくしたような感じがする。音楽はさらに自由度を増して、森のあちこちに点在するミュージシャンにひょっこりと遭遇したなら、その場に座って音楽を聴くという感じ。フードエリアでも小さなトラックの荷台をステージにして、こじんまりとしたライブが行われていた。そういえば夜間に茶室的な場所で、ハンドパンを叩いている方いましたね。森の中でうすぼんやりとした光の茶室的な場所で響くトロピカルな音(←どうでしょう、意味わからないでしょう)。近くにいって聴けばよかったなぁ。
トークプログラムは日比野克彦さんとOKIDUB AINU BANDのOKIさんの同級生トーク。非常に面白かったです。なんと二人は芸大の時代の同級生とのこと。日比野克彦氏は僕も若いころから大好きなので、ひょっこりとフードエリアで会えた時はこっそりとかなり感動してました。OKIさんがトンコリと出会うまでの物語というのはじっくり聴けてよかったと思う。OKIさんが大学時代は工芸というまったく音楽とは異なる道を歩んでいたそうだが、映像の道を歩み始めた矢先に仕事がなくなり、親戚と飲んでいるときに彼が突然棒を投げてきたそうだ。「その投げられて掴んだ棒がトンコリ」だったとのこと。こんな楽器との出会いもあるのだなぁと笑ってしまった。
奈良美智さんのトーク&スライドショー、実は満員で体育館に入れなくて音だけ聞いてました(涙。本人の気さくな雰囲気や日常の何気ない風景を写真で納めることの面白さなどについて語っていた。
夜間のマレウレウのマユンキキさんと大友良英さんとTOBIU CAMPの主催側の方々とのトークは、札幌国際芸術祭と飛生芸術祭との対比などについて語っていた。僕はあまり大友良英さんという方は申し訳ないけれどあまり詳しく知らなかったんだが、なんと札幌国際芸術祭2017のディレクターの方で、NHKのあまちゃんというドラマの音楽で有名になったそうだ。この方がトークの中で語った、札幌国際芸術祭と飛生芸術祭の対比が面白かった。「イチから森を切り開いてコミュニティを作り上げた人と札幌市がお金を出して呼ばれた人とでは大きな差があるんですよ」ということばが良かった。大友良英さんの「底にあるもの」がなんだか良いですね。とても好きになった。芸術祭は参加する人々が作るのかもしれない。札幌国際芸術祭も積極的に参加していこうと思った。
夜のOKIさんのトンコリ弾き語りライブでアイヌDUBという不思議な世界へ誘ってくれた。深夜帯は体育館でズムズム音楽をかけて踊れるんだけど、これがまたものすごく音がいい。体育館をクラブにしちゃうというのがこれまた良くて、面白かった。体を揺らしながらじっくりと聴いてしまう。普段聴けないような音楽を聴く機会なのでこれがいつも楽しみなのだ。TOBIU cypherの方々のB-boyっぷりがすごい圧巻だった。強烈なライムで心の底から揺すられる。複数人数で行われるフリースタイルのラップって今まで間近で聴くことがなかったので非常にかっこよかった。HIROOさんや、タイ在住の日本人DJで活躍されるmAsa niwayamaさんの強烈な異国情緒あふれる音楽もすごかった。途中退場して、遠くで体育館から漏れ出る音を聴いているとき、なんとなくタイの、ドラッグクイーンがベンチに座って休憩するプーケットの裏路地にいるような気分がしていた。アイヌからB-boyそしてタイの裏路地。今回のTOBIU CAMPは森の百物語というのがテーマだったようだが、音楽性においても百物語が表れているようなのである。
「アヨロ・パラレルワールド」の展示とトークが実はかなり興味深かった。昼間に展示を見たときは海からの漂流物の展示なのかな?程度でさらっと見て終わる感じだったのだが、夜間のトークイベントに参加してみたところ見解がいろいろとわかって深みを感じた。彫刻家と写真家と文筆家(←たしか白老のポロトコタンのアイヌ民族博物館の学芸員の方なのかな?)がチームを組んで、白老町南部のアヨロという土地をさ迷い歩き、自分たちの見たこと調べたことを独自の視点を再現しパラレルワールドとしてこのようなアートとして展示されているようなのである。
※Sound Cloudでトーク聴けます。
https://soundcloud.com/ayorolaboratory
アイヌの「あの世の入り口」と称される遺跡が今の海岸線から離れた山腹にある理由についてスライドを使って教えてくれた。何千年の前の海水面の上がった場所を想定して、岬となる位置にアイヌの人々は神聖な雰囲気を感じていたんではないだろうかという見解だった。先住の物語を調べ上げ、荒野を独自の視点で歩き、地質を調べ、その日常を非日常ととらえる視点に影響を受けてしまった。独自の視点でとらえたものを、彫刻や文学そして写真など強烈なアウトプットをしている。そうかと思っていたら本人たちはかなりのお酒好きのようでして、奥の2枚の絵画も、登別で3人で酔っぱらって海まで出たときにぼんやりと見た「海の岩」が原型とのこと。他にも登別市内の変な博物館の写真やら登別パークニクスのカブトガニ、登別の廃墟の中国庭園的なパークの写真など、妙なユーモアをチラリズムで見せてくるあたり僕のツボでした。普段生活している圏内を独自の視点を持って荒野を歩く人々という印象。
TOBIU CAMPにおける、スタッフと訪れた方々の分け隔てない境界線は、大げさかもしれないのだけど、国境のない世界を想像する。
「コミュニティの鍵は「貢献」にある。貢献は交換とは異なる。貢献の根底にはPay forward、つまり先に捧げるという考え方が存在する。世の中には足りないもの以上に、既にあるもので満たされている。しかし既にあるものが適切に使われないために問題が起きる」。飛生の森の中では、何かこういったすでにあるものが適切に使われるようにバランスが取れているような感じがしている。
最初のほうの話に戻るけれども、人と人をつなぐ壁や境界線のようなものを緩和することで僕らは偏見をも緩和していくことができると思う。隣の人が近くなったなら、自分が持っている既にあるものが適切に隣の人のために使われ始める感じがしている。「黒き鳥なり此鳥多きにより名く」一陣の風に吹かれて、大きな羽をもった黒い鳥が心の中の空をすっと横切っていく、そんなキャンプをあなたはまだ見たことがない。ぜひ飛生の森でお会いしましょう。
毎回恒例TOBIU CAMP帰りの支笏湖の夕日。
Posted on 16 6月 2016 by タカヤ・モレカウ
最近ようやくわかってきたんだが、僕は「道具を自分の思い通りに想像した通りに持ち歩く行為フェチ」だと思う。暇さえあれば、この道具はこのように持ち歩くと面白そうだとか、カバンのこの位置にこの道具が付けばよいのになぁとか執拗に繰り返して想像しては興奮している。ホセ・アルカディオ・ブエンディアがメルキアデスから手に入れたと思われる天文観測儀を利用して「地球は丸い」という結論に達したときに、メルキアデスは彼を褒めたたえ、錬金術の工房と道具一式:たくさんの土鍋、漏斗、レトルト、濾過機、水こし、原始的な窯、首の長いガラスの試験官、哲学者の卵(まがいもの)、ユダヤ婦人マリアの三本腕のランビキ風蒸留器、七つの星にそれぞれ振り当てられた金属の見本、金の倍化方法や賢者の石の調整も可能な霊液エリクサの処方が記されたメモ・絵図面一式をプレゼントされるんだが、おそらく1493年スイスに生まれたパラケルススの「パラミールム(邦題「奇跡の医書」)」に記載されている通り、土星-鉛、木製-錫、火星-鉄、金星-銅、水星-水銀、月-銀、太陽-金がセットされている金属の見本のことを想像してどのように収納されているんだろう?壁にかけるようなタペストリー型のようなポケットタイプだろうか、ガラスのケースに収納された縦横区切りの箱だろうか?と想像するに至る。文学の中で、ものは‐づくし【物は尽(く)し】がされ、不可思議なアイテムが列挙されるときに僕の頭の中は、それぞれがどのように収納され、どのように持ち歩かれるのだろうか?という本編とは少々ずれた不毛な空想に至るわけである。
普段持ち歩くものをひとまとめにして持ち歩くのを眺めるのが好きなフェチな人たちがこの世には多数いると思う。文房具のユーザーやアウトドア好きの方々に割と多いのではないだろうか?と踏んでいる。普段持ち歩くようなこまごまとしたものが、ひとつにすっきりとまとまっている光景は想像するだけで、好きな人はゴハン3杯はいけてしまうと思う(ほれ、あれだ、つくし文具ペンケース好きな人は間違いない!)。このような「もちあるくものひとまとめ」知識は、海外では『EDC』と呼ばれ様々な場所で知識(?)スキル(?)的なものが紹介されている。
EDCとは“Every day carry”の略語で、「毎日持ち歩くもの」という意味である。たとえばEDCにおいてもスタイルというものは複数あって、普段持ち歩くものをすっきりまとめてオシャレに持ち歩けたらいいよね!的な考え方でバッグインバッグを利用したり、旅行の際にトラベル用品をひとまとめにしてするためのポーチを利用する等の都会的スタイルや、アウトドアにおいて生存するための道具「コンパス、ワイヤーソー(携帯型のこぎり)、サバイバルマッチ、トラップワイヤー(くくりわな等の狩猟に使用)、スペクトラライナー(防弾繊維)中型獣に使用するトラップワイヤーとしても使用できる、ロウソク、釣具一式、針と糸、安全ピン、過マンガン酸カリウム(消毒着火などに使用)、塩のタブレット、コンドーム(野外では即席水筒に早変わり)、コットン、メタルマッチ(火打ち石)」などのサバイバルキットを山間地を歩くときにコンパクトに持ち歩こうというアウトドア派のスタイルでもある。最近では防災意識も高まっていると思うので、「いつでも持ち出せるように道具をひとまとめにしておく」という意識づけも昔に比べると変わってきているのかもしれない。
割とEDC界においてポピュラーな道具「Maxpedition」のポーチを買ってみた。このMaxpeditionについていろいろと調べていたんだけど、このメーカーはなぜかアジア側で展開する際には「Magforce」 と名前を変えて展開しているようである。少々タクティカルな雰囲気があまり好きではないんだけど、この手の道具は非常に頑丈なものが多いのを知っているので選択肢に入れていた。なるべく日常使いできるようなものが良いなと思ってブラックにしてみた。手持ちの日常品を片っ端から詰め込んでみたんだけど、その収納力に驚いた。モレスキンポケットサイズ1冊、ペンが6本、ナイフ2本、iPhone用のケーブル、LEDライト、鍵束、ファイアスターター、印鑑、朱肉、頭痛薬などがギュッと収まる。
MAXPEDITIONのポーチには数種類のサイズが展開されており、以下サイズで展開されている。海外サイトのインチをCmに置き換えているだけなので実寸は間違っているかもしれない。念のために黄金比1.618との対比も気になる方がいるかもしれないので比率も記載しておく。
①#0262 “Micro” L:8.89 × W2.54 × H:13.97 cm /比率:1.57
②#0259 “Mini” L:10.16 × W2.54 × H:15.24 cm/比率:1.50
③#0246 “EDC” L:12.7 × W2.54 × H:17.78 cm/比率:1.40
④#0261 “Fatty” L:12.7 × W5.08 × H:17.78 cm/比率:1.40
⑤#0266 “Beefy” L:15.24 × W6.35 × H:20.32 cm/比率:1.33
文房具ユーザーでいうなら実用的なのは③のその名もEDCポーチくらいから使えると思う。アウトドアユーザーなら④からちょうどよいと考えていたので、④を購入してみた。背面にはベルトループやバッグに固定するためのループがついているので、専用のTactieを利用していろんなところに固定することができる。先日から考えていた自転車に固定してモレスキンや文房具を持ち歩くというのもこれで実現できそうだ。
閉じるとこんな感じ。でっぷりはちきれんばかりに太ってはいるものの容易く破けそうな雰囲気はどこにもない。
野外ではバックパックの外側に固定して持ち歩くのがよさそうだ。
以下はEDCに興味がありそうな方々は参考にしてみると良いかもしれないサイトのリンクを貼っておく。
Posted on 27 4月 2016 by タカヤ・モレカウ
春なので、トラベラーズノートブックとコラボで知られるTOKYOBIKEのクロスバイクを買ってみた。これがまた、軽く早く。速度を上げても、ゆったりとのんびりと走るのも楽しい自転車だ。つい先ほども音楽聴きながら、部品をピカールで磨いて楽しい時間を過ごしていた。フレームの塗装もやってみたいなぁと考えているところ。
新しいカバンを買うと、いつも考えることは一緒で、その限られたスペースの中にどのように文房具を収納しようか?ということを考える。自転車を買っても同様に、文房具をどのようにハンドルやフレームに固定して持ち歩くかということばかりを考えている。カゴのない自転車の場合、文房具はカバンに収納するか、どこかに固定するかの二択だ。
カバンに文房具を収納した場合は、その莫大な重量により体の負担が大きいため(そう、それはものすごい重量なのだ)、車体に直接固定するのが望ましい。
例えばモレスキンをフレームに固定する方法について考えていた。自転車でさーっと街中を走り、信号待ちでモレスキンをさっと取り出し、おもむろにメモを取って再び固定して走り出すなんてことを妄想しているわけですよ。
①MINOURAのクランプをハンドルに付けて、モレスキンにつけたメス型のボルトを固定する。
②スマホ固定用のホルダーをモレスキンサイズで開発する。
③ボトルケージのデザインを変更して、モレスキンケージを開発する。(ボトルケージ側のボルト部分にモレスキンを固定するアダプタを設置し、モレスキン側に片手で連結する部品を取り付け固定する)。
④トップチューブにぶらさげる。
というようなことを話したところ、自転車乗りのモレスキンユーザー達から以下回答をいただいた。
①トップチューブに固定するバッグに収納する。
■THEODORE トップチューブバッグ
■BROOKS FRAME BAG
■Deuter Framebag
②サドル背面のスペースに収納。
■Mud Flask
③素直にキャリーをつけてカバンを取り付ける。
■MAKR×tokyobike Pannier Bag
あ~どれを見てもおしゃれやね。生活の中で行動がガラッと変わるアイテムを買うのってなんかいいね。春だ。
Posted on 03 1月 2016 by タカヤ・モレカウ
こんばんは、管理人のモレカウです。
2016年度 Notebookersライター新規募集を開始します。
自分が大好きなものについて、それが大好きだと語るとき、その言葉は必ず誰かを救います。
存分にNotebookersで語ってみてください。
参加希望の方は以下フォームを入力願います
http://bit.ly/1xwPwLZ
期限: 1/14 23:59まで
多くの参加を頂いた場合は抽選となります。
確定後、1/15以降メールを順次送ります。
Notebookersはこんなサイトです
https://notebookers.jp/?page_id=6
Posted on 27 12月 2015 by タカヤ・モレカウ
12/6 渋谷LOFTでモレスキン・ギャレリアOPENに伴って、モレスキンのトークイベントとワークショップ「旅人の地図を作る」で高谷宏記 講師をさせていただきました(掘さん、YOKOさんありがとうございました!)。この日は午前中に恵比寿でNotebookersミーティングをおこない、昼はLOFTでモレスキン・トークイベントに登壇し、夜は渋谷で再びNotebookersの面々とお酒を酌み交わしまして、丸々一日中モレスキン漬けで過ごし、たっぷりと人と話ができた。楽しかった。この日のことは、いろんな場所でたくさんの人がブログで書いてくれているのでここでは割愛させていただく。ノートブックのことだけでたくさんの人が幸せになったと思う。
さて、ワークショップでおこなった通称:「旅人の地図」と呼ばれている折り方の完全版を載せておきます。ワークショップで折り方を披露してからは、ノートブックに地図を納める業界においてはかなりの影響を与えたのではないだろうかと思う。ネット上でじわりと広がっていくのが面白い。※この折り方は国内での紹介は初なんじゃないかなと思います。詳細は下記参照。
もうひとつおまけに、A4サイズのテンプレートも載せておきます。折り目が入っているので動画を見ながら一緒に折ってみてください。
本当はモレスキンにイラスト書いて説明しようと思ったのですが、面倒くさくて挫折しました。
旅人の地図テンプレート:
https://notebookers.jp/briefcase/mapfold.pdf
ワークショップであまりディテールまで語ることができなかったので、そもそものきっかけから話したほうがおもしろいと思うので書き留めておく。
2010年、とある飲み屋さんで友人とお酒を飲んでいたところ、マスターに家飲みに誘われ店を閉めたあとに、すぐ近くの彼の家に二次会とばかりに移動してお酒を飲む。マスターとその奥さんと話をつまみにウイスキーを飲んでいると、お互いに映画監督ジム・ジャームッシュのファンであることに気がついた。NYで、映画の中の登場人物に実際に会った話を聞いたり、映画の中に登場するシーンやニューヨークの街並みのことなどについて話をしていると、タカヤくん面白いのがあるよ、とニューヨークの地図を持ってきてくれた。二人がニューヨークを歩くときにジーンズの後ろのポケットに収まるように畳んで持ち歩いていた地図らしい。その風変りな畳み方をする地図にすっかり夢中になってしまう。酔っ払いながらも、細部まで観察してメモをとった。
今回の渋谷LOFTワークショップ前半のトークイベントでも語らせていただいたが、「何気ないメモがその数年先のことを変えていく」というのは本当の話だ。この酔っぱらいながら取ったメモを、最近ふと夜中に思い出して、過去のモレスキンを引っ張り出し、その折り方を調べるために、ただの白紙のA4用紙をあ~でもないこ~でもないとぱたぱたと何度も折り返して時間を過ごした。研究しているうちに向かい合う同じ比率の線は対角で重ねて折ることができることに気が付いて、この何気ないメモから折り方を数学的に導き出すことができた。このメモから折り方を発見したときは、心の中でパズルがぴたりと合うときのカチっという音がした。さっそく動画にアップしたところ、モレスキナリーのYOKOさんから真夜中に「ワオワオ!これものすごく良いですね!ワークショップでやりましょう!ワオワオ!」と興奮気味にメールがきたのである(笑。
まず人に出会う、そこでその人の何かに関心を持つ、そこで起きたことをメモに取る。まずは何もかもがそうなんだけど、おもしろいことは人から始まる。2010年のモレスキンの1ページから始まり、折り方を調べたことが最終的に今回のワークショップにつながった。何気ないメモが数年先のものごとを確実に変えている。
この地図をポケットにいれてニューヨークを旅したバーのマスターご夫婦の奥さんは今では亡くなられ、マスターは店を閉めた後、南国で漁師をされている。なんとなくこの地図を開け閉めするたびに、そのご夫婦二人が腕を組んでボブ・ディランのジャケット写真のようにニューヨークを闊歩する姿を今でも想像するわけである。
Posted on 11 11月 2015 by タカヤ・モレカウ
あなたの目の前に、突然、海底二万里のノーチラス号とネモ船長が現れ、この船での生活は衣食住すべてがそろって何不自由なく、美術や博物などの知識もたっぷりと保有し、快適な生活が送れる旨ひと通り船の説明を受け、「この船で世界を永久に航海できる。そしてまだ未解明の海の秘密を解き明かす冒険ができる。しかし二度と降りることができない」と言われたときに、そこにあなたは飛び乗りますか?
現代における移動式生活(MOBILIS IN MOBILI)というスタイルについて考えてみたい。
思想としては、現代におけるジプシーのスタイルとはどのようなものになるかというところ。常日頃、自分の理想の生活や環境やユートピアについてヒマさえあれば考えているので、割とこういう空想は好きだ。自分の理想の生活は、都市と自然を行き来するという生活がテーマになると思う。 都市における仕事や義務的なものから僕らは解放されたときに、都市にいる必要性を感じない人々は、徐々に移動を開始する。日本という国がもしも国境のない大陸続きのスンダランドだったとしたなら、寒い時期には南に下り、暑い時期には北国へ移動し、住みやすい環境をその場その場で作り、都市で起きていることを意に介さず物ともせず気にもとめず飄々と暮らしていく新しい人々が現れ始めると思っている。現代においてそれは車での移動であるかもしれない。もしくは大規模な馬での移動になるかもしれない。町でも村でもない新しい集団の単位が発生していくと思う。
例えばモンゴルでのお話。ゲル1帳は、おおむね夫婦を中心とする1小家族が住み、遊牧民たちは一般に2~3帳のゲルからなる拡大家族集団を「アイル」(「仲間」や「村」の意味もある)と呼び、アイルでまとまって遊牧を行うらしい。同じ地域で遊牧を行う複数のアイルの集合体がいわゆる部族(アイマク)と呼ばれる。部族の極小の単位がゲルに相当するわけである。テント1帳が自分が属する社会の極小の単位であるなんて非常にシンプルでグッとくる。19世紀以前のモンゴルでは、アイマクに王侯貴族がいて、隷属民まで含めゲルが何十何百も集まった大型の集落が存在していた。つまり移動する都市である。まるでヴェルヌの移動する砂漠の都市みたいだ。これを中世モンゴル語ではクリエン、近世モンゴル語ではフレーといった。
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小さなころに読んだ本や映画が良い具合に影響を与え想像力を刺激してくれている。文学で言うと、ハックルベリー・フィンの冒険、宇宙船とカヌー、宝島、蝿の王、なかでも「海底二万里」は特別な本。それぞれの本が描き出すそれぞれの特殊な生活環境は僕の憧れとなって、具体的に僕の理想の生活としてしっかりと根付いている。ヴェルヌの描き出すノーチラス号での生活は「MOBILIS IN MOBILI」のことばに相応しくまさしく移動する生活の代表格である。その都市から隔絶されたノーチラス号の世界観は移動式生活に対するヒントがいくつも隠れている。物語の中では潜水艦の中での生活・美術・経済・学問・衣食住について徹底的に考えられていて刺激になる。関係ないけど、物語を僕らが創造するとき、少なくとも2種類のアプローチの方法があると思える。一つ目は、何かが過剰な部分と何かが欠落した部分のギャップのある「特殊な人間の創造」。二つ目は一般的ではない「特殊な生活環境」の創造。そのことについて徹底的に考えられたとき、そこに物語が発生すると感じる。良い意味合いで海底二万里はその二つを実現できていると思われる。
ツリーハウスはハックルベリー・フィンの冒険でもお馴染み。ケネス・ブラウワーの「宇宙船とカヌー」では、40m級の杉の大木の上に建てられたツリーハウスが登場する。よく冷えた針葉樹の森。杉の枝が螺旋階段となっていて、樹上の小屋の中ではベッドと本棚と暖房替わりの小さな古びた鉄のストーブ。ストーブの上のシュンシュンと音を立てたコーヒー。木の麓には手作りのカヌー。トイレは板の上で済まして、フリスビーのごとく力いっぱいに遠くまで飛ばすシーンが印象的。彼方へうんこがキラキラと輝きながら飛び去っていくのである。
アルチュール・ランボーの人生において、不思議な経緯がいくつもあるけれど中でも好きなのは、フランスの詩人だった彼がある日突然のように砂漠に渡り商人になってしまうという話である。おかげさまで彼が旅する姿を想像すると、何か文学的な姿の砂漠のキャンプを思い浮かべる。それは、砂漠の旅人であっても瀟洒な彼のこと、なんとなく洒落た雰囲気のある暮らしだったのではないだろうか。現代においても「Gramping」といってグラマラス(Glamorous)なキャンプ(CAMP)のスタイルというものがある。まるで砂漠の王族が過ごすかのようにコットンのテントに家具を設置して滞在するスタイルである。モンゴルでいうところのゲルやパオ(包)のような住居に近いと思う。現在、実際に購入することができるものでいうとCanvasCamp社のシブレーなどが理想に近い。
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— CanvasCamp (@CanvasCamp) 2014, 11月 12
このタイプのテントのよいところは、居住空間が広く取ることができ、夫婦1組+子供1人くらいまでは理想的な広さを確保できるところにある。家具を設置して中央部分にテーブルを設置し、内側側面にストーブをインストールし快適な環境を作ることができる。最近でもテント・ビレッジなどでラグジュアリーな環境作りでもこのコットンで作られたテントが一役買っていて、アウトドアであっても快適な環境を提供し、ホテル並みのサービスを提供しているところもある。
このテントの姿を見てからというもの、読んでいる本の中で、移動式の生活をしている人々を思い描く時、つい思い浮かべてしまう。中でもガルシア・マルケスの「エレンディラ」で、祖母のために街はずれで身を売るエレンディラのテント(外には順番を待つ兵士の行列、その行列に物を売る商人の数々)、そして「百年の孤独」で登場する宝箱のチェストに氷を沈め、磁石を引きずり、絨毯に乗って空を飛ぶ、何やらガチャガチャと騒がしいジプシーたちのテントである。 最近この住居の姿にものすごく興味がある。このテントを使い、一つの移動式コミュニティを作り上げていくことが僕の当面の夢となっている。このテント1張で移動し、その生き方や生活に興味を持った人々を迎え入れ、徐々にその単位を増やしていき、移動式の村を作り上げいくこと。そしてあらゆる町や村に所属せずに、境界線に住むこと。僕はこういうことを考えるだけで興奮する。
Sibley 500 Deluxe Mesh https://t.co/nohiAL6Z13 pic.twitter.com/vXRPaWyncI
— CanvasCamp (@CanvasCamp) 2014, 11月 12
とりあえず、想像しよう。
コットン張りのテントの両サイドに羽毛入りのふかふかのベッドを配置し、真ん中のポールには木製の小さなテーブルを置く。テーブルの上にはコーヒーの道具、ポーレックスのコーヒーミルとコーヒーサーバも兼ねたビーカー数個。床にはペンドルトンの毛布や、色とりどりのラグマットを敷き詰め、足の裏にやさしい感触を与える。テントの外側には旗めくタルチョ(チベットの三角旗)。ストーブの上ではケトルに入ったお湯が沸騰し、部屋を暖めている。すぐそばには毛の長い大きな黒い犬。ぽこぽこと音を立てる水タバコのパイプ。そしてベッドの上に目を向けると、赤いペディキュアを塗る白い肌の裸体の女性。はい、ここで重要なのは、こういうアウトドア的な生活を思い浮かべる時なんだが、大半のケースでは妙に健康的な風景を思い浮かべてしまうのだが、いかがわしい感じのイメージをインストールすると、突然のように物語性が現れるのでお勧めする。
Cryptozoic(クリプトゾイック)ということばがあって、意味は文明の隅っこで密かに生きることを覚えてしまった野生動物のこと。または、港に停泊する古びたボートの中で寝泊まりする、樹上の小屋でコーヒーを入れながら暮らす、ハンモックで眠り、焚き火と共に過ごす人々のこと。そして、ヒンズー語なのかな?「アンテヴァシン」という言葉にも惹かれる。意味は「境界に住む者」。そのためにいろんな物事を捨ててしまった人々の意味もあるらしい。未開の森の奥深くで暮らす賢者でもなくて、賑やかな街に住むわけでもない。そんな人々に興味がある。常に境界線に住んでいて、世界をいくつか渡り歩きながら生きて行かなければならない人というのは、きっと荷物を小さく小さくしなければならないと思う。鞄にうまくぎゅうぎゅうと収めて、ふらっと行ってしまう、そんな感じ。いつか、皆さんも家を捨てて大陸を移動する時はどこかで合流しましょう。
さて、冒頭の「あなたの目の前に、突然、海底二万里のノーチラス号とネモ船長が現れ、この船で世界を永久に航海できる。そしてまだ未解明の海の秘密を解き明かす冒険ができる。しかし二度と降りることができないと言われたときに、そこにあなたは飛び乗りますか?」の質問ですが、僕はそこにエロいのがあれば迷うことなく飛び乗ります。ピース
Posted on 16 9月 2015 by タカヤ・モレカウ
まず、キャンプの目的は何かというと「都会から離れた人々が都会に何か影響を与えること」である。北海道白老町の飛生(とびう)で行われた「TOBIU CAMP」に参加してきたのだけど、そういった視点で勉強をすることができた。規模に関わらず、大であれ小であれ、キャンプの目的は自然の中に分離した人々が都会に影響を与えることである。アメリカのバーニング・マンのキャンプもそうかも。砂漠の中心に分離した人々は木造の巨人に火を放つ。その炎は都会に住む人々の心を魅了する。
会場内でモレスキンをぶら下げて歩いていた人を見かけたなら僕です。イベントのMAPやタイムテーブルをノートブックに縮小コピーして貼り付けて持ち歩くと便利なのだ。Notebookers的視点でこのイベントについて書いてみたいと思う。不思議なもので、イベントという言葉が何かしっくりこないイベントなのである。
TOBIU CAMPについて概要を書くと、北海道白老町の旧飛生小学校を共同アトリエとして30年前に開設し、地域に向けた「飛生芸術祭」を2009年から開始、そもそもは飛生に住む若手芸術家たちの発案によるもの。彼らは同時に「飛生の森づくり」プロジェクトを立ち上げ、地域内外の人々を巻き込み活動を開始している。その飛生アートコミュニティが行っている活動や表現のお披露目として、旧飛生小学校の木造校舎と周辺の森を舞台にしたイベントである。飛生芸術祭の最後の二日間をキャンプとして行い、大きな炎を燃え上がらせ、森のあちこちに隠れた音楽や芸術やパフォーマンスを探しながら森を探検しながら夜通し遊ぶ。
参加してみて思ったのだけど、地域のお祭りにありがちな閉じた空間ではないことに気がついた。会場内で行動しているスタッフのひとりひとりが何か目に見えない何かを作り上げている。またその活動が、大きく都会の人々に影響を与えていることだと思う。この飛生の森のアーティストたちが行っている行動が都会に住む人々にちゃんと届いていて、また別の芸術家やアーティストに何か少し変化をもたらしている。都会から離れた人々が都会に影響を与えている。
音楽フェスであると考えて参加しているとガツンと頭を殴られたような衝撃を受けると思う。
何が違うのかうまく言えないのだけど、このイベントは森づくりや森を楽しむ行為がまずあって、音楽と芸術を先頭に持ってきているのではなくて、森を夜通しふらりふらりと歩く行為の最後に音楽や芸術が置かれている感じがする。
特設のステージは森のあちこちに設置されているものの、目に見えない場所や人が歩かないような場所にアートの作品が小さく設置されていたり、樹木を高く見上げてみると高所に大きな黒い鳥の羽の彫刻が設置されていたり、ふと見えない影で何か音がするなぁと思って覗いてみたら、ウクレレを隠れて弾くパフォーマーが校舎の中庭にいたり、森の中に子供達に囲まれながら大きなシャボン玉を作るパフォーマーがいたり、突然暗闇の中で生演奏をBGMに人形劇が始まったりする(お楽しみ劇場ガウチョスさん最高でした。
二人であの生演奏、人形操作、場面展開、セリフすべてをやっているというのがすごい。しかも最後には人形劇を見ていた人には素敵なプレゼントが!大人も楽しめる夜の人形劇)。
音楽のパフォーマンスは、国境のない無国籍な雰囲気の音楽が終始流れている感じがした。森の奥深くから管楽器の音が聞こえて来る光景が忘れられない。
今年は僕の大好きなリトル・クリーチャーズの青柳拓次氏が参加していた(もちろんモレスキンにサインもらった)。彼はミュージシャンと名乗らない。たしか「ミュージック・アクティヴィスト」。彼が今まで活動してきた音楽的な活動のそれぞれがまさしく国境のない雰囲気を持つ活動であり、音やことばが国境を乗り越えてじわりじわりと広がっていく姿勢を持っている。それらがこのTOBIU CAMPの雰囲気に妙にマッチしていた。彼が今回TOBIU CAMPで行ったパフォーマンスも、歌詞はどこの国にも属さないことばを使い歌い上げて、観客と一緒に音楽をつくりあげていくものだった。
今回、TAIKUH JIKANG(滞空時間)の河村亘平斎氏も参加していた。いやーこの人、影絵と音楽のすばらしいパフォーマンスだった。すっかりファンになってしまって、YOUTUBEでもたくさん動画見てみましたが、ガムラン奏者でもあり、インドネシア的ダンスやら歌やら、影絵やら多方面での表現をされているらしくて、異国のことばを使うMCや、ガムランをサンプリングした音楽で踊る影絵のダンスでぐいぐい心を引きつけられ、猿のニシオカさんとカエルの山田さんのかけあいで笑わせるという最強の表現をされていました(笑。
これ見逃した人マジでもったいない。早い時間は愉快なパフォーマンスで引きつけて、夜間にはアイヌのぞっとする物語をアイヌのサハリンロックことOKIさんのトンコリやマレウレウのかけあいと共に影絵で表現して、インドネシア音楽とアイヌミュージックで異国の世界に皆を連れていってた。
夜深くには、タイのバンコクで北海道出身の日本DJでオーガナイズされているパーティ「GIANT SWING」をそのまま飛生小学校の体育館に再現して皆をがんがん踊らせていた。これがまた、無国籍な音楽をサンプリングした音作りで最強にカッコよかった。しかもめちゃくちゃ音がディープで深くてよかった。
関東圏の方々もこの前は別な会場で目にしていたと思うけれど、浅井祐介氏の巨大な泥絵の壁画が会場内体育館の壁面を埋め尽くしていた。6種類の泥絵の具をボンドを混ぜて塗っているらしくて、スタッフの方々も触っても落ちませんよ安心してください⭐︎と子供達に声をかけていた。その名も「種をたべた獣たち」、種を食べてにょろにょろと伸びていく大きなけもの。圧巻。
森の中を歩くと作品が点在している。石川大峰氏の「topusi」は竹で編んだトンネルで、近くにビールが売っている場所が2件あったので、お酒をもって頻繁にくぐっていた。異国への入り口のようで、森の中の雰囲気にマッチしていた。潜り抜けるたびに小人国に紛れ込んだりするような気分だった。もしくはトトロが昼寝している場所。
くぐり抜けるとその先には、国松希根太氏の「topiuの羽」が樹木に突き刺さっていた。樹上の高い場所にあったので、この作品に気づいた人わりと少ないのではないかなと思う。そして森の中を歩くと森迫暁夫氏の不思議な形をした巣箱があちこちに設置されていた。ちなみに「飛生」はもちろんアイヌ語が語源となっているのだけど、由来は「ネマガリダケの多いところ」そして「黒き鳥なり此鳥多きにより名く」という二つの解釈がある。そのためかこれらの作品は対を成していると思う。
ダンスパフォーマーが踊っていた舞台も作品の一つである。そのステージは葉っぱが敷き詰められ、異国情緒漂うダンサーたちは葉っぱを巻き上げ(食べている人もいたw)泥だらけになりながらフラフラになるまで踊っている姿が印象的だった。
TOBIU CAMPのクライマックスでもある大きな大きなキャンプファイアーは、腹のそこからズシンとくる太鼓のパフォーマンスと、当日出演したダンサー全員が点火前の薪の周囲をぐるりと廻るダンス。リード太鼓のお姉さんの真後ろにいたものだから、その歌声と太鼓がズムズム体にしみ込んだ。そして炎に点火して大きな炎、燃え上がる炎の周りでアイヌの方々と歌いながら皆で廻る。これがまた最高に面白かった。
ウコウクという輪唱に合わせて踊るのだけどアイヌの輪の周り方(リムセというのかな?)は、手を打つと同時に左足を体側面に動かして、左回りをするそうで、けっして左を向いて歩いたり、右には回らないとのこと。最初は教えてもらった通り廻るんだけど、みんなお酒も入っているのでだんだんと好きな感じのダンスになっていって、僕も最終的にはその日初めて会った人々と自然と手をつないで笑いながら好きなように踊っていた(笑。
みんながみんな、ダンスや歌が自然とつながっていく、大きな炎は天高く燃えて、小雨の降る会場を暖めて、そしてアイヌの言葉が会場内に響き渡り、心の底からここちよくてトリップ状態になる。
イベントの最後では札幌のアーティスト富士翔太郎氏とCHUVA CHUVAと地元の竹浦小学校のこどもたち「ほしのこどもたち」によるライブ!大雨の中での演奏だったけれども、最高でした。小学生のみんなが直立不動で元気いっぱいに歌う姿に感動した。音を楽しむことがものすごく大事で、音程なんか気にすんな。大きな声で歌い上げる姿は本当にすばらしい。ほしのこどもたちメインボーカルの中学2年生のさっちゃん、ものすごくまっすぐでいい声してましたね。
中でも「Akasha」という曲がこのイベントを代表しているような曲で、印象的だった。この曲は富士翔太郎氏が白老町に滞在制作しながら竹浦小学校のこどもたちと「みんなが世界のスターだぜ」というテーマで一緒に歌を作る過程に大切にしたプロジェクトで作り上げられた曲とのこと。スローテンポで歌い上げるその曲の持っている雰囲気、音を作るという強さを感じた。
まだまだ書きたかったことはたくさんあるんだけど、ざっと書くとこんな感じだったと思う。このブラックバードの森ことTOBIUの森のキャンプで行われていた行為は、森の中からすこしずつコーヒーカップの雨水のように溢れ出し、世界にじわりと広がっていくのである。大きなものであっても、小さなものであっても、キャンプの目的は「都会から離れた人々が都会に何か影響を与えること」である。このような視点で物事を眺めることから、物事の見方を変えることにつながっていくのである。TOBIU CAMPで行われていることは、都会に住む人々の心に強く影響を与えていると思う。「黒き鳥なり此鳥多きにより名く」一陣の風に吹かれて、大きな羽をもった黒い鳥が心の中の空をすっと横切っていく、そんなキャンプをあなたはまだ見たことがない。ぜひ飛生の森でお会いしましょう。
Posted on 10 5月 2015 by タカヤ・モレカウ
業務連絡(ライター向けの連絡)ですが、あえて、みんなに見えるように書いてます。
Notebookers Marketにご協力いただけるライターの方は
まずは、https://notebookers.jp/?page_id=30232
利用規約およびガイドについて隅々まで確認をお願いします。
そして了解いただけましたら、http://bit.ly/1Peb8jwで販売者登録をお願いします。
こんにちは、管理人モレカウです。
長らく、PC版のNotebookersの右側にストアが表示されていたので気づいている方も多数いると思いますが、Notebookers Market(ノートブッカーズ・マーケット 通称:ノトマケ?NM?Market?お好きな感じでどうぞ)を開始いたします。簡単に言うと、Notebookers (https://notebookers.jp) 内に小規模なショッピング機能が搭載されます。
特に別サイトを用意するわけではなくて、現在のNotebookersにショッピング的なコーナーを設けるだけです。Notebookers Marketを通じて、Notebookersライターがストアとなり、購入者へ商品を発送します。ある意味、Amazonマーケットプレイスに似てる感じかなと思います。あまり似た形式で販売しているサイトも無いことと、Notebookersでしか手に入らないものなども出ることと、アクセス数もそれなりにあることから、そこそこモノが流通するんじゃないかなと考えています。
Notebookers.jpは、2012年から「ノートブックそのものよりノートブックを使うその人が面白い」というコンセプトで運営し、ノートブックユーザーの遊び場として、たくさんの人たちに訪れてもらっていました。ライターたちが、何を見ているのか、何を好きでいるのか、ノートブックに何を書いてきたのか、それぞれがこれらを記事にしてきました。Notebookersを始めてからずっと思っていたのですが、封筒やZINEや手作りのノートリフィル等を相手に送りたいけど、お金のやりとりや個人情報の取り扱いが大変という声をよく聞いていました。さて、Notebookersをノートブックユーザーのための遊び場にしていきます。Notebookersのサイトが、やりとりや流通などの仲介役となります。あなたが積み上げてきたものを、形にして、販売してみませんか。
とりあえず、Notebookers Market 当初は小さなショッピングカートの機能としてスタートします。
これは大きな資金を稼ぐことを目的とするというよりは、最初はショッピング機能をつける程度で、ひじょーに小規模なスタートとなります。他の通販サイトのように、即日対応もできないし、販売者が自分でしてもらうことも多いです。それも併せて、楽しんで下さい。例えば、Notebookers Market には、他の通販サイトのようなおそろいのパッケージはありません。だからこそ、あなたが梱包から工夫をしてみて下さい。買った人が、受け取った荷物の包装紙を切り取って、ノートブックに貼り付けて残したくなるような、素敵な紙を選んで下さい。買った人へ、ミニカードや一筆箋に、お気に入りのインクで書いた一言を、添えてみて下さい。規模が小さいからこそ、できるやりとりを楽しんでもらえたら嬉しいです。
Notebookers Marketには遠く実現していくためのビジョンがあります。
目標としては、独自の流通の経路が欲しいのと、「自分たちでしか わからないこと」を見つけていくことにあります。自分たちだけが知っていることをたくさん積み上げていき、最終的に独自の経路を利用し、それを広めることができたなら良いなと思います。Notebookersという孤独なサイトにぜひご協力いただけたらうれしいです。Notebookers.jp は、このNotebookers Market が最終目標ではありません。
お楽しみは、まだまだこれからです。
Notebookers Marketにご協力いただけるライターの方は
まずは、https://notebookers.jp/market_guide/
利用規約およびガイドについて隅々まで確認をお願いします。
そして了解いただけましたら、http://bit.ly/1Peb8jwで販売者登録をお願いします。
Enjoy.
あ、そうだMarketについてライター同士で夜な夜な話をしている場所があります。
Google Hangoutご利用の方がいらっしゃいましたら、Molecow検索してお声かけください。招待します。
そして、今回のNotebookers Market運営開始に伴い、たくさんの方にご尽力いただきました。
この場を借りて、お礼申し上げます。
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【簡単FAQ】
Q.販売者登録は、誰でもできるのですか?
A.Notebookers.jpのライターに限ります。
Q.登録料は?
A.無料です。ただし、1点販売につき、10%の手数料を頂きます。
Q.販売できるものは?
A.基本、フリーマーケットで販売できるもの、と考えて下さい。
ただし、食品全般は、現時点では取り扱いできません。手作りのポストカードやZINE、ノートリフィル、古本や未使用の文房具など。
Q.発送はどうするのですか?
A.販売者から、直接、購入者へ送って頂きます。
Q.売り上げについて。売り上げの振込などは?
A.1点も売れなくても、リスクはありません。
売り上げは、販売者から依頼があった時、約10日後、指定の口座へ入金します。
(ただし、売り上げ合計から手数料を引いた額が501円に満たない場合は、振込できません)
※金融機関によって反映日時は異なります。
Q.送料の設定は?
A.全国一律で、それぞれの作品に合わせて配送会社のサービスを選んで下さい。
販売金額は、【送料込み】での設定をお願いします。
Q.販売金額の設定は?
A.200〜10,000円でお願いします。上記にもあるように、送料込みで設定して下さい。
現時点では、0円の商品は取り扱いません。
Q.品質的には(クオリティは)どんなものでも販売できますか?
A.マーケットに掲載する前に、簡単な審査をします。
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Posted on 22 4月 2015 by タカヤ・モレカウ
映画「バグダッド・カフェ」の中で登場する黄色いポットを覚えているかな?
その中には、ドイツから旅をしてきた夫婦の淹れたコーヒーがなみなみと注がれている。このコーヒーの入った黄色いポットが映画の中での重要なキーポイントとなっていく。そのポットは、アメリカのモハーヴェ砂漠の片隅で拾われて、終始イエローのフィルターのかかる風景の中でマグカップに注がれては「濃い」とか「苦い」と言われて、お湯を追加で注がれる。ヨーロッパとアメリカの誤差。人と人との「ずれ」や「違い」について、カメラは優しげに向けられていて、これを象徴するアイテムが「落し物の黄色いポット」になっている。エスプレッソをカップになみなみと注ぐ時、たまにそんな話を思い出す。遠い砂漠の地平線からコーランのように湧き上がる主題歌「calling you」がエスプレッソの湯気のように揺れる。
今日のカバンの中身
今日はとても天気が良かったので、近日立ち上げ予定のNotebookers Marketのロジック作りのためiPadを持って野外で作業していた。濃厚なコーヒーを飲みながら作業するのは楽しい。最近すぐに眠くなってしまうのでちょいとコーヒーがあったほうが良い。野外にはいつも直火式のエスプレッソのポットを持っていく。
愛用しているのはビアレッティ社の「モカ・エクスプレス」6カップ用。6カップといっても、マグカップ6杯分ではなくて、ヨーロッパの規格でデミタスカップ(50cc)6カップということらしい。ということは、300cc用。直火式のポットで入れたコーヒーは、お店で飲むエスプレッソとはちょいと違うけれども、これはこれでとても美味しい。濃厚な香りのする濃いめのホットコーヒーといった感じ。濃いめのコーヒーが欲しい人は丁度良いと思う。普通にドリップで入れるよりも、わりとこっちのほうが好きだと思う。
どうやら、最近は改良型の「ブリッカ」とか「ムッカ・エクスプレス」といったクレマを発生させたり、カプチーノを作ったりといった新作のポットも出来ているらしい。うーむ欲しい。
このポット使っていくうちに良い香りになっていくような感じがする。道具好きにはたまらないのだけど、使っていくうちにコーヒーの香りが染み込んでいるような気がする。道具の良さをしみじみと感じる。しかもお手入れ簡単なので野外向き。いいよ、これ。
コーヒー豆を詰める
アウトドア用のコンロとガスカートリッジがあれば、野外でエスプレッソ用のポットでコーヒーを入れるのはとても簡単だ。まずは500ccの水筒にたっぷりと氷を入れて、水をぎりぎりまで注いで持ってくるのが準備。アルミのフィルターにエスプレッソ用に細かくひいた豆をつめて(あんまりぎゅうぎゅう押さなくても良い。ならす程度)、ポット下部のボイラー部に水を目印の場所まで注ぐ。
コーヒー豆をつめている時、一時保管場所にモレスキンのゴムバンドが意外と役立った(←Notebookersである旨強調)。あとは、弱火でコンロに火をつけて上に置いておくだけ。数分経つとポコポコと良い音が聴こえてきて、あっというまに濃いめのコーヒーの出来上がり。
蓋を閉める
さて、最初の淹れたてを持ってきたカップに注いで少し飲む。自分の場合は、ある程度楽しんだら、アイスコーヒーにしてしまう。水筒の中には、たっぷりつまった氷とまだ少し残っている水が入っているので、そこに一気に注いでしまう。あとは冷たくなるまで待ってアイスコーヒーで頂く。キンキンに冷えているとは言い難いけれども、濃いめのコーヒーがちょいと薄まって、これもまた美味しい。
注いで飲む
ちなみにこの300ccの抽出量にはこだわりがあって、500ccの水筒に氷をびっちり入れて、300ccのエスプレッソを抽出して、これを再び500ccの水筒に戻すとちょうど良い量でアイスコーヒーができます。
式でいうと”500cc氷水ー300cc水+エスプレッソ300cc”
良い春の日をお過ごし下さい。
Posted on 22 2月 2015 by タカヤ・モレカウ
友人の女の子が言う。
「本を読まない男の子とは何かほんの少しだけ “合わない” 感覚がある」という。この言葉を誤解の無いように伝えるんだけど、その女の子は一人を上手に楽しむタイプで、つまり相手と「一人を楽しむ」という感覚にズレが生じるのではないかなと思う。読書はいつも孤独だ。そして楽しい。
読書というのは時々不思議なことが起きる。
以前、野外で本を読んでいたら足元に穴が空いていて、そこからヘビがにょろにょろと這い出ていた。気づいた頃にはヘビはかまってもらえずに窮屈な巣穴にまた戻るところだった。つまり僕は足元でヘビが這い回るその上で静かに集中して本を読んでいたわけである。
南米の文学が好きだ。特にマルケスは「マジック・リアリズム」と呼ばれる作風で、日常の中にさらっと現れる超現実的な表現が、そこの場所に吹いている風に似合っていて、世界にピタッと合う感じがする。例えば、恋をした状態でガラスに触れるとそれが緑色に変色する。オレンジを割るとダイヤモンドが現れる。古ぼけたテントの中で主人公の女の子が1日で100人もの男を相手にして「ガラスが砕けて骨の中に入ったみたいだわ」とつぶやいたり、ハンモックで眠るその下でカニが這い回り、空から老いたヨレヨレの天使が落ちてくるし、海の中に薔薇の花が密集していて、雨を降らせるために雲に銃弾を打ち込んだり、パンツに鍵かけちゃったり、怪しげな行商人は磁石を引きずったら村じゅうの鍋がごろごろとくっついてきて、氷を触らせると燃えていたり、不死身のクスリを大衆に向かってプレゼンしていたと思ったら毒蛇に噛まれて突然死んじゃったりするわけである。
一時期、本を読むたびに、その作家の比喩表現をかたっぱしからノートブックに書き上げていた。僕は本を断片的に読む傾向があって、物語を読むというよりは、何かを探しながら読んでいる。たぶん物語を読みたいというよりは、そこにぎゅっと詰まっている「濃密なことば」を探している。
いつも比喩表現というものは物語の中で切り離されていて、そこだけ孤独を強く感じる。作家がその表現までたどり着くまでの長い時間を想像して、孤独を感じるのかもしれない。そこに書かれていない長い時間を想像することが、たまらなく好きだ。「見えるものは、見えないものの終点である」と考えながら本を読むと、また違った物語がそこにある。
マルケスの比喩表現を書き留めておく。まだ読んだことのない人が、南米の監督アレハンドロ・ホドロフスキーの映画みたいに遠く異国の世界の果ての、不気味で美しい光景が感じられたらいいなと思う。異国のお酒を飲んだ時に漂うオークの樽の香りや熟成の長い時間を感じるように、作家の比喩表現という孤独に触れて、ずっと遠くの場所を感じてみてください。本を読むというのは、香りを嗅ぐということに近い。書きとめられた言葉から、その物語を想像してみるのもよいと思う。見えるものは見えないものの終点である。
参考文献:「百年の孤独」「族長の秋」「迷宮の将軍」「エレンディラ」「予告された殺人の記録」「落葉」「悦楽のマリア」「ガルシア・マルケスひとつ話」…その他いろいろ
Posted on 10 2月 2015 by タカヤ・モレカウ
小学校の頃に郷土史について学んだ時に知ったのだけど、僕が育った北海道の土地の名前の由来は「オッカイ・タム・チャラパ」(男が刀を落としたところ)の意味がある。学校帰りに、近道で森の中を突っ切って歩いている時に、その遠い過去にこの土地を歩いた男が落とした刀を見つけてやろうと思って、いつも探して歩いていた。
この土地には大きなヒグマが住民を襲撃した民話が語り継がれている。怪我を負って遁走したヒグマが住民を辺り構わずかみ殺してしまう。学校の渡り廊下には、大きな熊が赤ちゃんを噛む、遠い昔の物語を語ったものものしい大きな壁画が掲示されていた。そういった一連の遠い時代のおそろしげな物語は、小さな頃の僕の頭の中で膨らんで、神話のような雰囲気を持っている。
男は遠い昔に、恐ろしげなこの場所を歩いて、曽祖父の時代から受け継がれた大切な刀を失って、とぼとぼとうつむきながら森の中を抜けて帰ったのかもしれない。夕闇の森の中で野宿して、迫り来る熊の姿を想像していたのかもしれない。そんな彼のために、いつか刀を見つけてやろうと思っている。それは、今でも土の下に埋もれ、誰かに発見してもらえるのを待っているのかもしれない。
民族が携えている道具に興味が有る。
フィンランドのサーミは自分の生活の中で手に入る木の根、白樺の樹皮、トナカイの革や角など身近にあるものを材料にものを作る。彼らが携えている道具は、「プーッコ(Puukko)」というナイフと「コーサ(Kåsa 日本では”ククサ”と呼びますね)」と呼ばれる白樺のコブから削り出したカップを持ち歩いていたらしい(もちろん伝統的なものなので、現在では携帯する人は少ないらしい)。
アウトドアショップでフィンランドのKupilkaのカップを見つけてから愛用している。木のチップと樹脂の混合した材料で作られていて、木材と違うので手入れが簡単で、飲み口も薄い。腰にぶら下げて持ち歩くのに最適だと思う。これを持ち歩くようになってから、なかなかお茶をするのが楽しい。試しにスタバに持って行って、ホットコーヒーを注いでもらうように頼んでみたら笑顔とともに快く応じてくれた。最近はこれにブレンディのコーヒーをティースプーンで2杯入れて、冷たい牛乳で溶いて飲むのが気に入っている。誰かとお茶をするときに、カバンの中からコップを取り出すと大半驚かれる。
どこかで読んだのだけど、ククサは木に含む水分を乾燥時に飛ばすために最後の仕上げで塩茹でされているので、使い始めの最初の一杯は必ず飲み物はしょっぱいらしい。そんな一節を読んでから、ククサで飲むドリンクを想像するたびに口の中に塩味が広がる。
「Hot Drinks around the World 世界のホットドリンク」という本があって、世界中の温かい飲み物について書いている本がある。レシピだけに限らず、世界中の人々の、小さな頃に飲んだ温かい飲み物に関する思い出や、温かい飲み物を通じた考え事についても触れているのが面白い。
僕は個人が持っている日常の何気ない出来事の、それぞれの取り方受け止め方の違いを知るのがとても好きだ。温かいお茶を持って対面する二人は、世界の果てでお茶を通じて、二人の世界を触れ合わせている。というようなことを考えながら飲むお茶はおいしい。それが自分のお気に入りのカップであればなおさらである。
まず人と会う。そして話した時に気になったことを頭の片隅に置いておく。家に帰ってからむくむくと湧いてくるアイディアを書き留めて、そのことについて調べる。ノートブックに貼る。人と話したことを大まかなブロックのようなイメージで覚えていることが多い。その形を書き留めておく。
僕のノートブックは、考え事の、その時の瞬間が切り取られている。瞬間を過ぎてしまうと、ノートブックの中は大半何が書いているのかわからない。数日後にパラパラとめくってみても何が書かれているのかピンとこない。それは暗号のような一節だったり、何かの構造だったり、記号だったりする。意味の存在しない世界でノートブックを書き留めている。
星野道夫はアラスカを「意味の(存在し)ない世界」と呼んでいた。「意味の存在しない世界」を歩くことが旅なら、自分はノートブック上で旅をしていると思う。文学を衣服のようにまとって、ことばというナイフを研いで、ノートブックの上を旅している。
民族がモノを携帯するその姿が好きだ。日本でナイフを持ち歩けないのは時々残念に思う。1930年代のフィンランド大統領は「ナイフは服装の一部である」と言って、彼の腰にはいつも銀製の プーッコをぶら下げていたらしい。種まきのときに、畑の四隅にナイフを突き立てて豊作を祈ったり、悪夢を払ったり、未婚の女性はナイフの空シースをぶら下げて、求婚者の男性の持つナイフを受け入れたり、そんな一連の日常の中の儀式的な意味合いを想像するたびに、道具の大切さが伝わってくる。
僕がカバンの中にお気に入りの道具をびっしりと入れているのも、何か民族的な意味合いがあるのかもしれない。ひとり民族。そんな感じでカバンの中にモノを詰め込む。お気に入りのカップを詰め込んで、意味の存在しない世界を歩いてみてください。
ちなみにモレカウはものすごくものすごく、アイヌの人々をリスペクトしています。
Posted on 05 2月 2015 by タカヤ・モレカウ
2015年度版のNotebookersの公式ロゴの印刷用ファイルを配布致します。
印刷用のファイルの詰め合わせ(*.aiとEPSとPDFです)。
downloadはこちら
各種印刷物やコラージュ、明らかな営利目的以外の使用であればご自由にお使いください。
雑誌・新聞など各種メディアの掲載の場合はもちろん連絡ください。
もっと気軽に印刷してステッカーとして使いたい方は↓こんな感じの作っておきました。
プリンタで印刷して、ちょきちょきと切って使ってやってくださいませ。
さりげなく、今まで配布したことのない四角タイプのステッカーも2枚入ってます。
Posted on 22 1月 2015 by タカヤ・モレカウ
ライター向けの業務連絡ですんません。
管理人タカヤ・モレカウです。
2015年度ライター、今回ご応募いただいた「全員」を登録いたしました。
さきほど、全員にメールで連絡済です。
メールが届かなかった方、twitter→@blanq
もしくはinfo@notebookers.jp宛に連絡くださいませ。
んでは。これから末永くよろしくです。
Posted on 02 1月 2015 by タカヤ・モレカウ
こんばんは、管理人のモレカウです。
2015年度 Notebookersライター新規募集を開始します。
(1/14 23:59 締め切りました!多くのご応募ありがとうございました!)
自分が大好きなものについて、それが大好きだと語るとき、その言葉は必ず誰かを救います。
存分にNotebookersで語ってみてください。何かが起きます。
参加希望の方は以下フォームを入力願います(1/14 23:59 締め切りました!多くのご応募ありがとうございました!)
http://bit.ly/1xwPwLZ
期限: 1/14 23:59まで
多くの参加を頂いた場合は抽選となります。
確定後、1/15以降メールを順次送ります。
Notebookersはこんなサイトです
https://notebookers.jp/?page_id=6
Posted on 27 8月 2014 by タカヤ・モレカウ
ヘイ、こんばんはタカヤです。
最近はみなさん焚き火しているかな?地平線は見たかい?
山から平野に抜けてさまよっていると、ヒッピーの村によくたどり着く。そこではいろんな人々が暮らしているのだけど、不思議なことに大半地図には載っていない。メルヴィルの白鯨にもあったように、「そこはどんな地図にも載っていない。ほんとうの場所はけっして載らないものなのだ」。海外からの移住者も多く、山の急斜面であっても畑を耕して、自給自足で自分の国の野菜を育てて暮らしている。日本ではあまり見たことのない野菜や自家製の燻製を分けてもらったり、BBQとビールをごちそうになったり、地面を掘って湧き出た井戸水を分けてもらってお米を炊いたり、干し草をつめこんだ温室で眠らせてもらったりしながら、再び野に出てさまよっている。
先日深夜に湖に潜る機会があって、シュノーケルをして水深2~3メートルくらいのところに潜ってライトで底を照らしてみると、びっしりと目を光らせたエビがいた。
最近狩猟について学んでいる。ヘッドフォンで海外のハウスとかエレクトロニカを聴きながら、獣の痕跡を探して口笛ぴーぷー吹いて歩いている。山野をさまよっていると気が付くのだけど、自分はアウトドアとして楽しんでいるというよりは、文学的に世界をとらえている節があって、都会にいるよりも野外にいるほうが、世界がなんとなくリアルだ。不思議な人々に出会い、おもしろい出来事にぶつかる。蚊に刺されながら腰からぶらさげたモレスキンに考え事を書き留めていく。情報カードはデータベース的に使うのがよろしいと最近気が付いた。さまよいながら学んだことなど、トラップに関する知識や、狩猟鳥獣の知識などフィールドで役立つようにトラベラーズノートブックのジップフォルダーに収めて入れていく。
荷物を軽減するためにテントは持ち歩かず、Amazonで1000円で買ったハンモックと寝袋だけで十分眠れることを知った。山の斜面であっても樹木が二本立っているだけで、地面を気にせず眠ることができて、しかも快適だ。森中から枯れ枝を集めてきて焚き火しながら近くにハンモックをぶらさげて眠るとぐっすりと眠れる。そのまま眠るとお尻がスースーするので、ハンモックの上で寝袋に入って、上から毛布をかけて眠る。朝方はひどく寒いから。
深夜しーんとした山の中で読書するのだけど、最初はものすごく怖かった気がする。遠くから枝をふむパキという音が聞こえただけでビクっとしたんだけど、 今では特に気にもならず、むしろ誰か炎にでもあたりにくるといいのにと思ってる。たとえば、深夜に炎を起こして本を読んでいるときに、森の奥から誰かがとつぜんあらわれて、無言で炎の近くに座ったとしても、いつでも「サンドイッチ食べるかい?」とか「コーヒーでも飲むかい?」と声をかけることができる。過 去に、「タカヤさんは森の奥の家の暖炉の前で炎に当たりながら、ぐるっと丸まって眠る黒い犬だと思う」といわれたことがあるのだけど、ものすごく気に入っ ている。そういうイメージに自分の姿を少しでも近づけていくことが、自分の世界での目的なのかもしれない。おかげで地平線上に燃えるシリウスを探すことが多い。
森をたっぷりと歩いて、持てるだけの枯れ枝を拾い、あなたのために焚き火を燃やしたなら、僕のできる限りの歓迎です。
Posted on 31 7月 2014 by タカヤ・モレカウ
Moleskine Voyageur Traveller’s Notebookが販売されましたね~。ちなみにもう、Amazonでは販売してますね。
旅行に特化したノートブックのようです。4.5 x 7 inchなので通常のMoleskine ラージサイズよりひとまわり小さいのかな?ポストカードをピタッと挟めるサイズは、旅をテーマとしたノートブックとしては必須だと思う!
帯に書いてあるキャッチコピーもデジタルエイジのトラベラーズノートブックと書いてあるので、どうやらMoleskineのテンプレートがダウンロードできるページMoleskine MSKと連動していろいろ貼れるようです。ほかにも、荷物リストやToDOリストをつくってピリピリっとちぎれるページなど。
※ひとりごと→ パッと見、Midoriのトラベラーズノートブックを意識したかも!みたいな評価は海外でもいくつか語られている様子…
販売に伴って、ちょっとした応募をTwitterで行うみたいです。
http://mymoleskine.moleskine.com/community/2014/07/i-am-here.php
2014/08/31までに、「I am Here」テンプレートをMSKからダウンロードして、一緒に撮った写真をTwitterに #M_iamhere をつけてアップロード。
Moleskineのホームページと連動してアップされるようです。人気の人Best3にモレスキンのトラベラーズキットが当たるのかな?
Posted on 24 5月 2014 by タカヤ・モレカウ
僕が1日を生き抜くための道具には定義がある。
それらをパッキングとして持ち歩いた時に、ふと世界の反対側にテレポートして見慣れぬ街に不時着したとする。
そこで2週間もしくは数ヶ月そこに居続けなければならないとなった時に「耐久できるもの」だと思う。この「耐久」ということばは、たとえ世界の反対側でひとりぼっちであったとしても、見慣れた道具が側にあることで「その世界を過ごすための耐性になること(安心感を得れること)」と、「道具として頑丈である」ということと、一日の中で起き得る出来事に柔軟に対応できることと、自分が数年間に渡って使い続けるにあたって「飽きない」 「ヘビーデューティな道具」であることが条件にある。
1日を生き抜くための道具を眺めている時にいつも思うのだけど、これらは「孤独の道具」の集合体であると思う。世界の果てにもしもあなたが移動し た時に、ものすごく孤独であったとしても、耐えることのできる道具。もしくはどこにいても、孤独であるために使う道具。そういった視点で道具を選んでいる のだと思う。重要なのは自分をどれだけ、世界から切り離せるかだと思う。”1 Day Life Packing” ということばは、高城剛氏の著書「ライフパッキング」からきているのだけど、著者のライフスタイルに共感を得た。初めて彼について興味を持ったのは、世界中のどこかに現れる「日食」を求めて旅をするなんて、とても良いと思った。著書を通じて、世界中を移動しながら過ごしている感じがビリビリと伝わってくるのだけど、常に世界から自分を切り抜いて見える。たとえば、一枚の大きな紙に自分のかたちの輪郭を描いて、そこからハサミでちょきちょきとその輪郭に沿って、切りぬいたように見えた。その切り取ったエッジはやはり鋭い。「道具」というものは携えることで常に、単焦点のレンズで映したようなぼんやりとした世界を背景に、「自分自身がビビッドに見えている必要があるんだ」と思った。
■スイス BALLY社 “TAPRUS” ブリーフケース
基本カバンは、ブリーフケース型を愛用している。実は肩からかけるものがあまり好きではなくて、ベルト無しのブリーフケースを使うことが多い。荷物が少ないときは、ゼロハリもたまに使っているのだけど、さすがに文房具が多いのでたっぷりとマチのあるカバンに落ち着いた。中身はちいさな小物を入れる部分とメインの部分に分かれていてちょうど1 Dayで収める道具がきっちり無理なく入る。革の質としても上質で、手触りがすごく良くて飽きない。カバンを探していた時、ドレスアップしたときにも普段のカジュアルな格好にも合うことが条件にあった。シックでフォーマルすぎないデザインをものすごく気に入っている。
■鍵束
鍵束にはカラビナ(大1個・中2個)をつけて持ち歩くことが多い。野外で過ごすことが多いので、ランプをひっかけて使うときとかLEDライトをポケットに引っかけておく時など、アルミ製の軽いカラビナを数種類持ち歩いていると割と役に立つ。文房具ユーザーの方から頂いたスリーセブンのクラシックなホテルの鍵と、中学生の頃親友にもらったフィジーの穴空きコイン、パンデイロのネジの調整工具が一緒に引っかけてある。
■WENGER ソルジャーナイフ
ポケットナイフとしてはかなり定番。アルミハンドルものを1995年から文房具的に愛用している。関係ないけど映画「127時間」を観た人はちゃんとしっかりとした頑丈な道具を使いたいと思うはず。このポケットナイフはかなり頑丈で、長年のアウトドアでの使用にもしっかり耐えてきた。ナイフの部分はかなり鋭利に研いであって、木材を削るときもスルリと音も無く、削ぐ。黒檀のハンドルのナイフも欲しいなぁと思っている。小さな頃からナイフは身近な道具。
■Paul Smith 時計
大好きな黒&銀のシンプルな時計。この時計もフォーマルとカジュアルどちらで使用しても違和感がないので気に入っている。完全アウトドアになったときはプロトレックのWWFモデル(ライトをつけるとアルマジロが浮かび上がる)を使用している。
■ZIPPO ライター
スターリングシルバーのシンプルなものを愛用。野外で炎を灯す時にも使用するので風に強いものであり、機構がシンプルで壊れづらいものを選ぶと自然とZIPPOのライターにたどり着くと思う。スターリングシルバーの感触が良くて、ポケットの中で、手によくなじむ。銀製の道具というものは、手入れしたときになんとなく気分が良くなる。
■Panasonic スティック型USBバッテリー/ENELOOP PRO 4本
iPhoneの充電用に持ち歩いている。このスティック型バッテリーにENELOOPが2本入る。残り2本は予備。実はあまり大容量のバッテリーはあまり持ち歩かない。旅行のときもこのセットだけで困ったことが無いかも。このENELOOP PROはヘビーな使い方でもなかなかヘタレないので気に入っている。旅先でも非常に使い勝手が良い。
■プレシジョン・ダイス 2個
ダイスは自分にとって、わりと重要な道具。生活の中でのちょっとした乱数発生機。そして、アナログでコンパクトなゲーム機でもある。何か選択をするときにも使っているし、パスワード生成のときとか、テーブル上でダイス2個を使用した簡単なゲームもできるので時々取り出しては使っている。カジノで実際に使用されているプレシジョン・ダイスを愛用している。通常のダイスというのは、各面に穴が空いていて、それぞれの面の比重が異なるため数値発生の際に影響を及ぼす(6の面が一番多く穴が空いているため軽くなる)のだけど、プレシジョンダイスは実際にカジノで使用されているものと同じで、全面が同じ比重の樹脂で埋められており数値発生確率に影響しない。
■AKG K451 ヘッドフォン
孤独の道具。常に歩いているときやカフェで過ごしているときは音楽聴いてる。前モデルのK450から愛用している大好きなヘッドフォン。K451はiPhone操作用のリモコンが追加されたモデル。前モデルはイヤーマフが外れやすかったけどK451はなかなか頑丈でいいね。リモコンボタン長押しでSiriの呼び出しもできる。音質は低音ズムズム、ボーカルがこそばゆい感じ。デッドな空間でのフルアコのギターが傍で鳴っているような気分になる。金額のわりにものすごい音が良いと思う。音漏れも皆無。ヘッドフォンも、家にいるときと外を歩くときにでも同じものを使えるようにコンパクトなものを選ぶ。
■つくしペンケース/LAMY2000等 ペン類/他
つくしペンケースはまさにヘビーデューティということばが似合う。しっかりとした手触りの良い帆布に大容量のペンを収納できる。ペン類は、じつはちゃんと好みがあって、シンプルでクールなものが好きなので、やはりLAMYが多くなる。ペンもフォーマルとカジュアルどちらにでも順応できるものを選ぶ。じつはシャープペンシルは1本も持ってません。
■モレスキン&トラベラーズノートブック
常に持ち歩いているノートブックは2冊。トラベラーズノートブックはリフィルを、スケジュールとプレーンの2冊入れ。仕事関連の書き物/ToDo関連。驚くことに、今年から初めてスケジュールを手帳に書くようになった。今までは情報カードに書いたTodoやスケジュールを、使い終わったらポイポイ捨てていた。
モレスキンは普段の考え事用遊び用/既に過去記事でご覧になった人もいると思うけど、ご存知、右脳左脳系(右脳系→視覚や直感的使い方/左脳系→ことば的ストックや計算)。最近はオノ・ヨーコの”GRAPEFRUIT”から派生して感じたことなど書いたり、狩猟に関する知識、ガルシア・マルケスの文章の気に入ったことばや比喩表現、Notebookersに関するアイディアやWordPressやPHPやCSS、JavaScriptに関するアイディア、その他平面を3Dで動かすときの計算式など書き留めておいてます。
■MacBook Pro 13 inch / Moleskine ラップトップケース 13インチ
Macのケースはモレスキンのものを愛用。モレスキンのケースはいろいろ出たけれど、このMac用のケースは内側のセーム革っぽい手触りが良くてなかなかお気に入り。MacにはWeb系とグラフィック系のソフトを入れてあって、どこでも色々いじれるようにしている。iCloudとiTunes Matchのおかげでまったく容量を気にしなくなった。データの持ち運びはLaCieのiamakey USBメモリや、SDカードを数枚トラベラーズノートブックのジップケースに入れてあって、好きなの選んで使ってる。WEB上で大容量のレンタルサーバいくつか契約していて、そこに必要なデータやファイルもたっぷりとぶっこんであるので、端末がどれであっても実はあまり困らない。
■Books
本は2冊くらいを常に持ち歩いている感じ。最近はケネス・ブラウワーの「宇宙船とカヌー」、オノ・ヨーコの”GRAPEFRUIT”。ゆっくりと音楽を聴きながらじっくり読みたい本と、拾い読みしながら楽しむ本など2冊をチョイスすることが多いかも。
■THERMOS 真空断熱ケータイマグ 500ml Color:チョコレートブラウン
今はこの色発売されていないのかな?これ本当よい水筒です。冬でも夏でも常にアイスコーヒーを入れている。最近はカフェというよりも森や山など野外にいることが多いので、そこで美味しいコーヒーが飲めるのは幸せ。
ざっと眺めていて面白いことに気が付く。僕が孤独の道具として選ぶものは、あらゆるシーンでスイッチしなくてもよいものを選ぶ傾向にあるらしい。例えば、Stay or go、もしくはフォーマルとカジュアルの 境界で物を仕切らず、どちらでも利用できるような物を選ぶということに気がついた。なので、どちらかというとカラフルというよりはシックでモノトーンなも のを気に入るようだ。ただし自分の持ち物の中で「モレスキン」だけは逸脱していて、カラフルな色彩の表紙をしている。たぶんモレスキンだけは、自分の道具 の中でちょっと違う役割を持っているんだと思う。
「世界から自分を切り離す」という考え方は、ストレンジャー(よそ者・異邦人)な考え方である。
道具を通じて、世界から自分を切り離す。すべての人が同じ考え方をして並列化しているという「実際には存在しないファンタジーな世界」から自分を切り離すために、道具が必要なのさ。そんな気持ちで、今日もその日を生き抜くための道具を、カバンに口笛ぴーぷー吹きながら詰め込んでいるわけである。
Posted on 22 5月 2014 by タカヤ・モレカウ
時々、本棚というのはセクシーだなぁと思う。
ものすごく長い年月をかけて、限られたスペースを埋めて行くことで本棚の姿は変化していく。重みで歪んで行くその姿はすこし色っぽいと思う。『書物はすべて、ナツメグのように、異国から招来される香料のにおいがします』ということばを教えてもらってから、時々本棚の近くで香りを嗅ぐ。自分の生活圏外から訪れた古書から、漂ってくる「かすかな香り」を嗅ぎながら、自分の知らない世界について想ってみるのもなかなかいい。
僕の本棚は、主に文学と人文と美術デザイン関連と世界中のテーブル上で行われる遊戯関連と音楽と食文化の本で埋められていると思う。こうして自分の本棚を眺めていると気付くのだけど、大小様々・ジャンルも様々。堅苦しい本もあるけれど、ところどころに顔を出す趣味関連の本がいいアクセントになっているのだと思う。ひとは「とらえどころない姿」が本当の姿だと思うので、そういうのが本棚にじわりとにじみ出ると思う。
本は絶対に手放さない主義。そしてデジタル化はあまり興味が無い方。小さな頃から集め続けた本達は今も数カ所に分けてそれぞれの本棚をぎっしりと埋めつくしている。その昔、雑誌のバックナンバーを全て資料として保管していたので、今も実家の自分の部屋はすべて本で埋めつくされていて、足の踏み場もないくらい。両親も僕が異常に本に執着することを知っているので、捨てないでいてくれています、感謝。
何度も何度も本を読み返す癖があるので、メインとなる生活の場所の一角を多くのスペースを使って埋めつくすことになる。それぞれ本達は本棚の奥のスペースを使って、常に2列に並べられており、「ずっしりとしたその重み」で歪んだ棚板がセクシーに感じる。
本棚の姿がそばにあること、その姿を眺めることが自分の支えになっている。旅に出る時には、本棚の前にコーヒー片手にあぐらをかいて、その「旅の夜に寄り添う本」を長い時間をかけて選び出す。眠る前に本棚からよく眠れそうな本を選び出して枕元に積み上げて、ぱらりぱらりと拾い読みしながら眠る。椅子に寄っかかって、後ろに重心を倒し、本棚に衝突し上からばらばらと何冊も落ちてくる。数十冊大型本を抜き出して、床に置き簡易テーブルを作り、上にコーヒーを乗せる。本棚の前でたまたま抜き取った本に夢中になり、そのまま立ち読みをする。本を数冊枕にして眠る。本のページの隙間から、当時付き合っていた女の子が残した秘密の手紙を発見する。本棚に寄り添う自分の生活が好きさ。
何の映画だったか忘れちゃったけど、部屋の中の家具が一切無くて、積み上げられた本を椅子代わりにしてお客さんに座らせるシーンが好きだったな。本は家具代わりにも使用できる。そういえばポール・オースターの小説「ムーン・パレス」でも、古書をベッド代わりにして眠って、それを少しずつ読んでいくというのもあった。生活の中で現れる異形の本棚(?)の姿にゾクゾクくる。文学における最高にセクシーな本棚は「海底二万里」のネモ船長の本棚だと思う。彼の本棚にはものすごい分量で様々な本があるんだけど、世間から離れてノーチラス号で暮らす彼の本棚には「政治」と「経済」の本は一切無い。ぎっちりと埋めつくされた壁一面を覆う本棚と数々の生物標本、美術品、海底を眺める大きな窓の外には巨大なタコ、ごうんごうんと船が動く低音、異国のナツメグの香り。筒井 康隆の小説「旅のラゴス」で登場する、旅の行く末にたどり着く古都の、柔らかい光がたっぷりと差し込む書庫の姿もものすごく色っぽかった。
理想の書庫や書斎について徹底的に想像してつくりあげていくと、それはそれだけで文学として成り立つような気がする。
僕の理想の本棚のある環境は、天井までびっしりと埋めつくされた壁一面が脚立を使って登るような本棚で、近くに大きな窓があって独りがけのソファーとコーヒーテーブルを置いて、風通しの良い場所に風鈴がぶらさがっていてちりんとなるような環境がよいなと想像する。書物を手放していくようなデジタル化が流行する中で、これからも逆行して本棚を埋めつくして行こうと思う。あなたが本棚に寄り添う時に、『書物はすべて、ナツメグのように、異国から招来される香料のにおいがします』ということばをふと想像してみてください。部屋の中で、ものすごく遠くにいるような気分になるから。
Posted on 16 4月 2014 by タカヤ・モレカウ
こんにちは、Notebookers管理人 タカヤ・モレカウです。
2008年に「blanq_text」でタカヤが書いた記事のリライトです。
中学校のころに夢中になったゲームブックの話。
J・H・ブレナンの「ドラゴン・ファンタジー・シリーズ(原題:『グレイル・クエスト』Grail quest)」という80年代の名作ゲームブックがある。ゲームブックというのは、「宝箱を開けるなら26へ、開けずに通り過ぎるなら52へ」というように、番号で分割された各パラグラフに飛びながら物語を進行していくというモノ。
そもそもこの本との出会いは14歳ごろ、友達の家に遊びに行ったときに、彼の本棚に格好良くズラッと並ぶタイトルが気になったのがきっかけだったことを覚えている。数冊その友達に借りてプレイしてハマり、その想像力をぶっちぎる冒険の世界にドキドキしたものでした。
全8巻+αを少しずつ少しずつお小遣いを貯めながらそろえたのだが、その後誰かに貸した後に、全てをなくされるという悲しい運命をたどる。そのときのあまりの悔しさを覚えており、大人になった今ついつい懐かしくなって、当時を思い出して全巻をそろえてしまった!(後述しますが、このシリーズは復刊されているものもあるんだけど、あえて当時のバージョンが欲しかったのさ)
アーサー王のエクスカリバー伝説や円卓の騎士の時代を、相棒のエクスカリバー・ジュニア(話す剣)を携えて、全8巻にて洞窟や海や塔などの様々な舞台を冒険するストーリー。ファンタジーとしては王道なありふれた世界観なのだが、著者 J・H・ブレナンの独特なユーモアあふれる文章で味付けされて一味も二味も違う。
この部分は、まさに「天才的なユーモア」で、あっという間に世界に引きずり込まれるといった表現がふさわしいと思う。古めかしい大きな宝箱を開いたと思ったら「チクチクする指輪」が入ってたり、ポエム好きの魔神に出会ったと思ったら魔法のアヒルをもらったり、おかしいくらい強いウサギやニンジンが襲ってきたりと、最初から最後まで、肩すかしをくらうジョークや、不可思議で魅力的な(そして理不尽な)人物や敵が現れ、主人公の受難っぷりはなかなかの読み応えがあると思う。そして文章に添えられる、フーゴ・ハル氏の鉛筆画のものすごいイラストレーションも必見。けっこうぞわぞわ来ます。
この物語の中には、まぁ理不尽な人物や敵が大量に登場する。特に好きな人物は、「魔術師マーリン」である。
彼が魔法をかけて、本を読んでいる現代のあなたに呼びかけて、アーサー王の時代までさかのぼって、魔術書である本書を使って引き戻すというメタフィクション的な雰囲気からストーリーが始まるのだけど、この魔術師マーリンはものすごい「変わり者のふてぶてしいおっちゃん」で、主人公を連れてきて冒険に行かせようとするわりに、冒険をする理由もあまり詳しく説明してくれない(笑。その上、旅に持っていく装備品のカタログを渡してくるのだがこれがまた不思議なものが毎回渡される。
冒険の始まり部分。冒険に出かける君の装備を点検するマーリン。
「まず最初に…… ん?」マーリンは急にことばを切って顔をしかめた。「剣はどうした?」
「それが…その…家に忘れてきたんです…」きみは悪いことでもしたかのように答えた(なぜ悪いことをしたと感じたのはわからないが)。
「間の抜けたことを。怪物に出会ったらどうするんだ?たちまち喰われちまうんだぞ。しょうがない…取ってきてやろう。…さてと、そろそろ装備を点検した方がいいな」(装備品のカタログを渡すマーリン)【装備品リスト】
斧、人工アリクイ、毛布、包帯、本喰い虫、青い粉、調理器具、釣り針、オイル瓶、アイゼン、着替えの服、クリック・スティック、犬の首輪、金モール、ハープ、掛け金、革紐、ジョークブック、ナイフ、リュート、羊皮紙、インク、羽根ペン、白ぶどう酒、ノコギリ、火口箱、水袋、木琴、ハンマー「あのう…なかによくわからないものがあるんですが…」
「本当か?わしには、どれもこれも冒険にふさわしい品物ばかりだがな。どれがわからない?」
「たとえば、人工アリクイっていうのは?」
「それはわしのちょっとした発明品でな」さも自信ありげにマーリンが言った。
「アリを喰う一種のロボット・ネズミなんじゃよ」
「本喰い虫というのは?」
「文字通り、本を喰う虫じゃ。それくらいのこともわからんのか?」
「でも…なぜそんなものを?…」マーリンはじれったそうな顔をするだけで答えない。
「じゃ、青い粉っていうのは…?」しかたなく、たずねてみた。
「ああ、それ?なかなか便利なものでな、何かに追われた時にその青い粉を撒いて使うんだよ。追ってくるものが何であれ、足を滑らせて首の骨を折るんじゃよ」
「それから、クリックスティックというのは?」
「それもわしの傑作発明品でな。そいつがあれば、コオロギと話ができるんだ。いわば、コオロギ用通訳機械じゃ」
きみは不審に思っている品物を立て続けにきいてみた。
「金モールとか、ジョークブックとか、木琴がなぜ必要なのですか?」
「じゃ、ハンマーやノコギリは、なぜ必要なんだ?」逆にマーリンがきき返した。
「たぶん、役に立つからでしょう?」
「金モールやジョークブックや木琴にしたって、同じことじゃよ」マーリンはもっともらしい顔で答えると、
「こういう冒険ではどんなものが役に立つかわかりゃしない。だが持っていくかどうかはおまえが決めることじゃ」「どうやらきれいなブーツを持ってこなかったようじゃな?かわいそうに、お前が履いているブーツは磨かないとならんな。ひどいものだ。だが、ま、かまわんだろう。彼も頭が混乱しているから、そこまで気付くまい」
「彼、というと?」マーリンのやり口を知っているきみは少し身構えてきいた。
「王に決まってるだろうが!世の中が手に負えなくなる前に、わしらは彼に会わなければならんのだよ。」
「王に会うんですか?そういう服装じゃないですよ?——- 」他人の話などめったに聴かないマーリンだ。君の話などうわのそらだ。彼の目はどんよりと曇り、両手を振って何やらつぶやいている。古代ウェールズ語、偉大なる英国の魔術師の謎に満ちたことばだ。王の謁見終了後
「ほれ出発じゃ。」
「え?ちょっと待ってください。魔界の門なんてどうやって行ったらよいかもわからないんですが?!」
「やりかたさえわかってしまえば、簡単なものよ。おまえがどこにいようとも、一番不気味そうな方角へ進め。足を止めたときも、また一番不気味そうな方角へ進め。もっとも不気味そうな方角へ進むんじゃ。魔界とは不気味なところだからそれでたどり着くようになっておる……」(グレイル・クエスト「魔界の地下迷宮」より)
魔術師マーリンは終始こんな感じ。しかし女性にもてるなかなかニクイ老人なのである。毎回、魔術師マーリンはその隠れ家を変えるんだけど、これがまた不思議な場所に住んでいる。丸太の城→ 水晶の宮殿→樫の木の中→井戸の中→サイコロ型の隠れ家→樽の中→ロック鳥の卵の中→行方不明。毎度のことながら、まったく話を聞かないのがわかってくると、だんだんマーリンと話すのが楽しくなってくる。こんなマーリンを終始相手にしているのだから、主人公の振り回されっぷりも、ものすごいことになっています。
当時、この本を読んでいて思ったのが、わりと古代ウェールズとかスコットランドの文化についてさらっと書かれているのでためになるなぁと思っていた。ハギス (Haggis) とは、羊の内臓を羊の胃袋に詰めて茹でたスコットランドの伝統料理なんだけど、ハギスはこの物語の中では一筋縄では行かない敵のキャラクターとして登場する。そして、「ハギス牧場」なるものも登場します。WEBも無いような中学生の頃、この得体の知れないハギスを一生懸命図書館で調べた記憶がある。
スコットランドで古来より存在が信じられている伝説の生物。ハイランド地方の山中に密かに生息し、満月の夜に心の清らかな者だけが目撃できるとされ、くちばしを持ち全身が毛で覆われて丸っこいカモノハシのような姿であったり、長い3本足ですばやく動き回ったりなどさまざまな姿が言い伝えられている。この料理は見た目があまり良くないことから、「伝説の動物の肉」を使っているのだという冗談の種にもされる。毎年末には「ハギスハント (Haggis Hunt)」という捜索イベントが開催されている。(@ wiki)
だが、このグレイル・クエストの中での表現はこうだ。
囲いの中から漂ってくる臭いと神経を逆なでする、身の毛もよだつあの独特の鳴き声。他でもない、ここは内臓風の化け物ハギスの飼養場だ。
「だけど、生きてるハギスなんてみたことないぜ?」E・J(主人公が持つ、おしゃべりする剣)が言った。
「見たくもないよ」きみは落ち着いて言った。「ドラゴンとイタチを別としたら、ハギスほど気味の悪いいきものはないね。気味が悪いだけじゃなくて、凶暴なんだ。見ろよ」と指さしながら、「あいつらを飼っている柵の丸太の太さ。それに丸太を縛っているロープだって普通の二倍はあるぜ。だいたい柵の高さも並じゃない。ハギスは自分の背丈の七倍の高さでも飛び越えるっていうからな。それに見ろよ、柵の上に埋め込んだガラスの破片を。周りにも深い壕が掘ってあるだろ?万が一あの化け物が一匹でも逃げたら溺れさせるためなんだ」—— (グレイル・クエスト「ゾンビ塔の秘宝」より)
もはや完全にハギスは凶暴なモンスターで描かれている。イラストレーションも「内臓っぷり」がものすごい感じです(笑。このアイルランドのこの作家が、ニヤニヤとしながら書いている姿が想像ができてしまうところにとても愛着が沸く。
さて、ゲームブックの中の「冒険」をノートブック上で想像したり、考え事をすると、それはなかなかカオスのような痕跡を残すことになる。自分にとってノートブックは考え事の痕跡の集合みたいなものなんだけど、本に夢中になってからページをぱらりとめくってみると、もう暗号のようになっていて、一見何が書かれているのかさっぱりわからないのがポイント。
ここに載せたノート写真は全て、ゲームブック上の考え事を記載しているページなんだけど、「地下迷宮」の状況や「セクションの数字」を書き綴った ページや、魔人から手渡された「暗号」を数学的に式を作って考えているページや、文章だけではピンとこなかった部分をWEBで調査して簡単な挿絵を入れておいたりと、次々と埋めつくされていく。
巨大なモンスターのお腹の中から「真鍮製の頭」が出てきたり、「数字の割り振られた鍵」など、手にいれるものは不可思議なものが多いので、ノートブックを使って持ち物リストのチェックもなかなか楽しい。
中学生の頃に熱心に読んでいた本を再度読みなおすと、王妃グィネヴィアとランスロットの不倫関係や、円卓の騎士たちや、ギリシャ神話に登場するイアーソンの「黄金の羊」などにまつわる物語等、大人になってからわかるジョーク等も隠されていることに気付く。なかなかに奥が深い。
ちなみにこの記事を読んでゲームブックに興味を持った方は朗報、当時のグレイル・クエストは絶版で入手困難だが、復刊されたバージョンは2014年4月現在、amazonで購入することが可能だ。「暗黒城の魔術師」→「ドラゴンの洞窟」→「魔界の地下迷宮」→「7つの奇怪群島」→「魔獣王国の秘剣」の第5巻までは復刊されている(ちなみに同作家の別刊「ドラキュラ城の血闘」も復刊済)。残り、「宇宙幻獣の呪い」と「幻城の怪迷路」と「ゾンビ塔の秘宝」の復刊を楽しみに待っている。
読み始めたなら、魔術師マーリンが読み手に呼びかける呼び声で、最初の2ページで一気に引きずり込まれるので注意願います。そういえば、どこかのWEBで読んだけど、「ゲームブック」というジャンルの読み物だけが「中の登場する人物が、読み手であるあなたに、ずっと呼びかけることができる唯一の物語」であるとのこと。これはなかなか目からウロコな考え方だった。ミヒャエル・エンデの「ネバー・エンディング・ストーリー」も読み手であるあなたに話しかけた物語だったけど、ゲームブックなるものは、ずーっと最初から最後まで、中に描かれた魅力的な人物が、あなたに話しかけてくることができる。そういう「物語」だ。そういう文学に出会ったことがあるかい?
P.S ちなみに大好きなモンスターはグレイルクエスト3巻目「魔界の地下迷宮」に登場する不気味な姿の「ボタボタ」です。このモンスターが6歩歩くとそれはもう大変なことになります。どれくらい大変なのかは、本を読んでチェックしてみてください。