8月20日、ずっと住んでいた大阪から、高知へと移住した。
借りた家は、庭と縁側のある築60年の平屋。すぐ裏は山、近くに川が流れ、すこし歩けばおだやかな内海(湖のよう)に出る。
家の周りに外灯はなく、晴れた夜には星がたくさん見える。
人の気配もほとんどない、静かな、静かな暮らしを始めた。
9月に入ってすぐ、庭に、一匹の子ども猫がやって来た。白地に、縞のブチ模様。
細いからだ、きびしい表情から、野良暮らしだろうことが一目でわかった。
猫が大好きで、いつか一緒に暮したいと夢見てきた我が家みんなは色めき立った。
煮干しを、遠くからそーっと差し出してみる。
ほんとうに恐る恐る近づいてきて、パッとそれを奪い、離れたところで食べ始めた姿に、食べてくれたうれしさと、今までいろんなことに怯えて生きてきたんだろうな・・という哀しさ、両方の気持ちが心の中で渦巻いた。
その日から、猫は我が家にやってくるようになった。
最初は夕方だけだったけれど、そのうちに朝、そして昼にも顔を見せるようになった。
月のきれいな頃に初めて会ったから、つきみ と、私が名付けた。
あれから1か月半が過ぎた。
つきみは生まれた時から我が家にいるかのように、すっかり甘えんぼうの猫になった。
朝夕はかならずやってきて煮干しを食べ、日中は散歩がてら気の向いたときに姿を現し、庭で日向ぼっこをしたり、私のひざの上で昼寝をする。
やさしい人間のいるベースキャンプを得た彼女は、ますます猫らしく、すきなときにすきなように振舞って暮らしている(ふうに見える)。
で、観察と思考のすきなわたくし。つきみと毎日会っていて気づくことが数多ある。
その中でも一番感動したことが、
「猫は、必要なものをすべてを持って生きている。」ということ。
まず猫は服がいらない。夏には夏の、冬には冬の、ふさわしい毛に生え換わる。
暗い場所でライトがなくても平気な眼。車いらずの俊足。ひらりと昇降し、どんな場所も縦横無尽に進めるやわらかなからだ。出し入れ自由な爪。ブラシになる舌、全身を舐めて身支度が整う。包丁みたいに切れ味鋭い牙。いろんな音を集める耳。
食べ物は、基本、素材そのままを。虫も魚も肉も、生で食べる。
そして夜、丸まった場所が寝床になる。前足を枕に、暖かな毛を毛布に。帰る家を持たない。
生まれた時から、死ぬ時まで、猫は自分のからだだけを携え生きている。シンプルライフの極み。
つきみを見ていると、にんげん生活がなかなかに大変なものに思えてきた。洗濯したり、掃除したり、買い物したり、ふだんの暮らしのあたりまえは、にんげん独特のもの。学校とか、家を買うとか、流行りとか。生きることにくっついてくるいろいろの、なんとたくさんなことだろう。
でも、ノートブックで遊ぶ愉しみは猫にはないものだ!にんげんだけの、とくべつ。面倒なことが多くても、ノートブックを携えられるにんげんがやっぱりいいな。
わたしはにんげんで、そしてノートブックが好きでよかった。改めてそう思った。そういうおはなし。