Tags: , ,

World Tapir Day 27.4.2021

Posted on 27 4月 2021 by

はじめに

今年もやってまいりました。「世界バクの日」
獏部としては、以前投稿した「今、会いに行けるバク」を更新したり、twitter上でバクを愛でたりする活動が主になっていて、動物園に会いに行くこともあまりできていないので、今年は、「マレーバクは私たちを救います」という文を、さまざまな言語で投稿することにしました。(以下の内容は、グーグル翻訳とwikipediaによるものです)

「マレーバクは私たちを救います」

4.27.2021 World Tapir Day! 

日本語:主に日本国内や日本人同士の間で使用されている言語。事実上、日本国内において唯一の公用語。1億3000万人。
マレーバクは私たちを救います。

英語:主として西ヨーロッパ、北ヨーロッパ、東南アジア、北アメリカ、オセアニア、西インド諸島の一部など
Malayan tapir saves us.

アイスランド語:使用範囲はアイスランドのみ。約30万人。
Malaískur tapir bjargar okkur.

アイルランド語:アイルランド共和国の第一公用語であり、2007年以降欧州連合の公用語の一つ。35万5千人。(うちアイルランドに26万人)
Sábhálann tapir Malayan sinn.

アゼルバイジャン語:アゼルバイジャンの公用語。イラン北西部にも多くの話者がいる。ジョージアやアルメニア、イラク北部、トルコ、ロシア連邦内のダゲスタン共和国などにも話者が分布している。2500~3500万人
Malayan tapir bizi xilas edir.

アフリカーンス語:クワズール・ナタール州以外の南アフリカ共和国全土に広く普及。ヨーロッパ系言語の中で最も新しい言語。第一言語:600万人・第二言語:1000万人
Maleise tapir red ons.

アムハラ語:エチオピアの事実上の公用語。アラビア語に次いで話者人口が多い。表記はゲエズ文字(アムハラ文字)2100万人。
ማላዊ ታፔር ያድነናል።

アラビア語:主に西アジアや北アフリカのアラブ世界で話されている。世界で3番目に多くの国と地域で使用されている言語(アフリカ北部の領域を中心に27か国で公用語)2億3500万人。
التابير الملايو ينقذنا.

アルバニア語:アルバニア語は約600万人によって話されており、そのうち350万人がアルバニア国内で、それ以外では主にコソボ、マケドニア共和国、モンテネグロ、セルビア、ギリシャ北西部で話されている。また南イタリアとシチリア島においては約25万人によって話されている。
Tapiri malajas na shpëton.

アルメニア語:カフカス(コーカサス)地方の一国アルメニアの公用語。700万人。
Մալայական տապիրը մեզ փրկում է:

イタリア語:おおよそ6千万人ほどが日常的に使用しており、そのほとんどがイタリアに住んでいる。
Il tapiro malese ci salva.

イディッシュ語:世界中で400万人のアシュケナージ系ユダヤ人によって使用されている。
מאַלייַיש טאַפּיר סאַוועס אונדז.

イボ語:ナイジェリア連邦共和国南東部のイボ人を中心に約1800万人が使っている。声調言語であり、ラテン文字表記を用いる。
Malayan tapir na-azọpụta anyị.

インドネシア語:東南アジア。母語話者2,300万人、総話者数1億6,500万人
Tapir Melayu menyelamatkan kita.

ウィグル語:新疆ウイグル自治区、中央アジア。1000万人
مالاي تاپېر بىزنى قۇتۇلدۇرىدۇ.

ウェールズ語:ウェールズでは母語として話され、イングランド、ア・ウラドヴァ(アルゼンチン、チュブ州にあるウェールズ人入植地)の一部の人々によって話されている。ウェールズ政府は、2050年までにウェールズ語話者を100万人にする計画を持っている。
Mae tapir Malayan yn ein hachub.

ウクライナ語:キリル文字を使用する言語。ウクライナ国外においても、諸外国に住むウクライナ人によって使用されている。本国での話者人口は3680万人。本国以外に、ロシア、ベラルーシ、カザフスタン、ポーランド、カナダやアメリカ合衆国などの南北アメリカ、オーストラリアなどにも話者がおり、それらを合計すれば約4500万人になる。スラヴ語派においてはロシア語、ポーランド語に次いで第3位の話者人口。
Нас рятує малайський тапір.

ウズベク語:ウズベキスタンの公用語。ウズベキスタンでは1992年以降は公式にはラテン文字で表記されるようになったが、それ以前はキリル文字で表記されていた。1850万人。
Malayan tapir bizni qutqaradi.

ウルドゥ語:北インドを中心に、世界で20番目に多い6100万人の話者人口を持ち、パキスタンの国語になっている(公用語は英語)。
ملایان ٹپیر نے ہمیں بچایا۔

エストニア語:話者は約110万人で、エストニアの主要言語であり、また公用語となっている。
Malaisia ​​tapiir päästab meid.

エスペラント語:ルドヴィコ・ザメンホフとその弟子(協力者)が考案・整備した人工言語。母語話者200 – 2,000人。第二言語話者100万人 – 200万人
Malaja tapiro savas nin.

オランダ語:オランダおよびベルギー北部を中心に2300万人以上が使っている言語。南米のスリナム共和国の公用語でもある。
Maleise tapir redt ons.

オリヤ語:インドの公用語の一つで、東インドのオリッサ州の公用語。3200万人。
ମାଲାୟାନ ଟାପିର ଆମକୁ ବଞ୍ଚାଇଥାଏ |

カザフ語:主に中央アジアで使用される言語の1つであり、カザフスタンの国家語に制定されている。800万人。
Малайя тапирі бізді құтқарады.

カタルーニャ語:スペイン東部のカタルーニャ州に居住しているカタルーニャ人の言語。カタルーニャ地方のほか、バレンシア州、バレアレス諸島州、アラゴン州のカタルーニャ州との境界地域、南フランス・ルシヨン地方(北カタルーニャ)、イタリア・サルデーニャ州アルゲーロ市などに話者がいる。アンドラ公国では公用語になっており、またスペインではガリシア語、バスク語と並んで地方公用語(カタルーニャ、バレンシア、バレアレス諸島各自治州)となっている。母語:約322万人~410万人。第二言語:510万人。
El tapir malai ens salva.

ガリシア語:スペイン北西部ガリシア州でガリシア人を中心に使われている。179万人。
A anta malaia sálvanos.

カンナダ語:南インド4州の一つ、カルナータカ州の公用語。独自の文字、カンナダ文字が使われる。約3770万人。
ಮಲಯನ್ ಟ್ಯಾಪಿರ್ ನಮ್ಮನ್ನು ಉಳಿಸುತ್ತಾನೆ.

キニヤルアンダ語:主にルワンダで話され、同国の公用語の一つとなっている。ウガンダ南部やコンゴ民主共和国東部でも話される。700万人。
Maleziya tapir iradukiza.

ギリシア語:東地中海諸地域における共通言語の一つ。1200万人。
Το Malayir tapir μας σώζει

キルギス語:キルギス共和国(以下キルギス)の国語。300万人~500万人。
Малая тапир бизди куткарат.

グジャラート語:インド西部のグジャラート州の公用語。4600万人。
મલયાન તાપીર અમને બચાવે છે.

クメール語:カンボジアでは、全人口の約9割を占めるクメール人(約1400万人)が用い、カンボジアの国語および公用語となっている。さらに、隣国タイ、ベトナム、ラオスのカンボジアとの国境に近い地域にも母語とする人々(約200万人)が住む。また、アメリカ、フランス、カナダ、オーストラリアなどの第三国に、(約23万人)の話者が定住している。1600万人。
ម៉ាឡេនថេរៀជួយយើង។

クルド語:トルコ、イラク、イラン、シリア、アルメニア、アゼルバイジャンなどのクルド人の間で話されている言語。1600万人~2600万人。
Tapîrê Malayî me xilas dike.

クロアチア語:クロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴビナの公用語。500万人。
Spašava nas malezijski tapir.

コーサ語:南アフリカ共和国の公用語の1つ。約790万人。南アフリカではズールー語に次ぎ2番目に多く用いられる土着言語。
I-tapir yaseMalay iyasisindisa.

コルシカ語:フランスのコルシカ島(コルス島)およびこの島の出身者が多く居住するパリやマルセイユの集住地区で使われる。10~40万人。
Tapir malese ci salva.

サモア語:サモア独立国とアメリカ領サモアの公用語。37万人。
Malayan tapir sefe tatou.

ジャワ語:インドネシア・ジャワ島の中央部から東で話されている言語。ジャワ島以外にも、スマトラ島ランプン州 (Lampung)、マレーシア、ニューカレドニア、南米のスリナム共和国などにジャワ語圏がある。7500万人。
Tapir malaya ngirit kita.

ジョージア語:南コーカサスにあるジョージア(グルジア)の公用語。410万人。
მალაური ტაპირი გვიხსნის.

ショナ語:ジンバブエやザンビア南部に住むショナ人の母語。北ンデベレ語や英語と同様に主要な言語。1074万人。
Malayan tapir inotiponesa.

シンド語:パキスタンのシンド州の公用語。2136万人。
ملئي ٽوپي اسان کي بچائي ٿو.

シンハラ語:スリランカで話されているシンハラ人の言葉。1500万人。シンハラ語とタミル語はスリランカの公用語。
මලයාන් තාපිර් අපව බේරා ගනී.

スウェーデン語:主にスウェーデンで使用される。930万人。
Malaysisk tapir räddar oss.

ズールー語:南アフリカ共和国のズールー族の95%、約900万人によって話される言語。
I-Malayan tapir iyasisindisa.

スコットランドゲール語:スコットランドで話されるインド・ヨーロッパ語族のケルト系言語である。58000人。
Bidh tapir Malayan gar sàbhaladh.

スペイン語:スペイン語は、アメリカ州のうちイスパノアメリカ、スペイン、その他の旧スペイン植民地などの地域における主要言語で、スペイン語を第一言語とするものが約4億8023万人さらに第二言語として日常使用しているものを含め約5億7700万人の話者がいると推定されている。
El tapir malayo nos salva.

スロバキア語:スロバキア共和国の公用語。520万人。
Zachraňuje nás malajský tapír.

スロベニア語:話者人口は約220万人で、主にスロベニア国内に居住する。
Malajski tapir nas reši.

スワヒリ語:ケニア、タンザニア、ウガンダ、ルワンダでは公用語。500万人(第一言語)3000万~5000万人(第二言語)
Tapir ya Malayan inatuokoa.

スンダ語:インドネシアのジャワ島の西部で話されている言語。3000万人。
Malayan tapir nyalametkeun urang.

セブアノ語:[1]フィリピンのセブ州、ボホール州、ネグロス・オリエンタル州、レイテ州西部、さらにミンダナオ島西北部などで広く話されており、他にもごくわずかにサマール島に話者が存在する。第一言語話者1800万人・第二言語話者: 1000万人(推定)。
Malayan tapir ang nagluwas sa amon.

セルビア語:表記にはキリル文字とラテン文字の両方が用いられる。話者は主にバルカン半島に分布し、セルビア人を中心にセルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアおよび他の国で話される。1100万人。
Спасава нас малајски тапир.

ソト語:。南アフリカ共和国・レソト両国の公用語。500万人以上。
Tlapi ea Malayan ea re pholosa.

ソマリ語:アフリカ東部の「アフリカの角」、すなわちソマリア、ソマリランド、エチオピアのソマリ州、ジブチ、ケニア北東部で話される。1500万人~2100万人。
Malayan tapir ayaa na badbaadiya.

タイ語:タイ王国の公用語。2600万人。
สมเสร็จมลายูช่วยเรา

タガログ語:フィリピンのうち首都マニラを含むルソン島南部を中心に用いられている言語で、英語とともにフィリピンの公用語。2200万(第一言語)5000万(第二言語)
Inililigtas tayo ng Malayan tapir.

タジク語:主にタジキスタン共和国とウズベキスタンのタジク人が母語としている言語で、タジキスタン共和国の公用語。850万人。
Тапири Малайзӣ моро наҷот медиҳад.

タタール語:ロシア連邦に属するタタールスタン共和国の公用語。ウクライナやトルコ、中国など広い範囲に話者が分布している。800万人。
Малай тапиры безне коткара.

タミル語:南インドのタミル人の言語。インドではタミル・ナードゥ州の公用語、また、スリランカとシンガポールでは国の公用語の一つ。7400万人。
மலையன் தபீர் நம்மைக் காப்பாற்றுகிறார்.

チェコ語:チェコ共和国のチェコ人と、周辺国やアメリカ合衆国、カナダ等にコミュニティを作るチェコ系住民に話されている言語。1200万人。
Zachraňuje nás malajský tapír.

チェワ語:マラウイの国語(公用語は英語)で、マラウイ中南部を中心に、モザンビーク(テテ州など)やザンビア(東部州やルサカを中心に)で話されている。930万人。
Malayir tapir amatipulumutsa.

テルグ語:インド南東部のアーンドラ・プラデーシュ州およびテランガーナ州の公用語。7000万人。
మలయన్ టాపిర్ మమ్మల్ని రక్షిస్తాడు.

デンマーク語:、デンマーク本土などで話される言語で、デンマーク民族の母語。550万人。
Malaysisk tapir redder os.

ドイツ語:ドイツ、スイス、オーストリアとその他38カ国。1億3000万人。
Malaiischer Tapir rettet uns.

トルクメン語:トルクメニスタン、イラン北東部、アフガニスタン北西部などの地域で話されている。トルクメニスタンの公用語。756万人。
Malaýzi tapir bizi halas edýär.

トルコ語:トルコ共和国の公用語。北キプロス・トルコ共和国の公用語。このほか、ブルガリア、ギリシャ、マケドニア共和国やコソボにも母語話者がいる。ドイツ・オーストリア・スイス・リヒテンシュタインなど西ヨーロッパ東部〜中央ヨーロッパのトルコ系移民社会でも話されている。母語話者は7570万人、母語話者と第二言語話者の総計は8800万人。
Malaya tapiri bizi kurtarır.

ネパール語:ネパール、ブータン、インドのシッキム州やミャンマーの一部で話される。1600万人。
मलायान तपिरले हामीलाई बचाउँछ।

ノルウェー語:ノルウェーで話される。460万人。
Malayisk tapir redder oss.

ハイチ語:ハイチで話される。また、移民や難民などで西インド諸島の特にバハマ、キューバ、ドミニカ共和国の他にカナダ、アメリカ合衆国、フランスなどでも話される。1000万人。
Tapir Malayan sove nou.

ハウサ語:主にナイジェリア北部からニジェール南部にかけて用いられる。2400万人(第一言語)1500万人(第二言語)
Malayan tafir cece mu.

パシュト語:アフガニスタン、またパキスタンの西部に住むアフガン人(パシュトゥーン人)の話す言語。4000万人~5000万人。パシュート文字を用いる。
مالیان ټایر موږ وژغوره.

バスク語:スペインとフランスにまたがるバスク地方を中心に分布する孤立した言語で、おもにバスク人によって話されている。66万5800人。
Tapira malaysiarrak salbatzen gaitu.

ハワイ語:英語とともにハワイ州の公用語。1000人~2000人。
Mālama ʻo Malayan tapir iā mākou.

ハンガリー語:主にハンガリーで話されている言語。1450万人。
A maláj tapír megment minket.

パンジャブ語:パンジャーブ語の話者の多くはパキスタン東部のパンジャーブ州に住んでおり、パキスタンで最も多い人口の39%(2017年)の母語であるにもかかわらず、パキスタンでは公用語にはされていない。また在外インド人の主要な言語のひとつでもあり、カナダでは43万人、イギリスでは27万人。ほかにオーストラリア・アメリカ合衆国のカリフォルニア州などにも分布。1億2200万人。
ਮਲਾਯਾਨ ਤਪਿਰ ਸਾਨੂੰ ਬਚਾਉਂਦੀ ਹੈ.

ヒンディー語:インドの主に中部や北部で話されている。4億9000万人。
मलयन तपीर हमें बचाता है।

フィンランド語:フィンランドで用いられる。600万人。
Malaijilainen tapiiri säästää meitä.

フランス語:世界で英語(約80の国・地域)に次ぐ2番目に多くの国・地域で使用されている言語。
Le tapir malais nous sauve.

フリジア語:オランダのフリースラント州周辺およびドイツの北海沿岸にまたがるフリースラントで用いられる言語。40万人。
Maleiske tapir rêdt ús.

ブルガリア語:ブルガリアの公用語。ルーマニア、セルビア、トルコ、ギリシャ、ハンガリー、モルドバ、ウクライナ、ロシア、アメリカ、イスラエル、カナダなどで話されている。1200万人。
Малайският тапир ни спасява.

ベトナム語:ベトナム社会主義共和国の総人口のおよそ 87% を占めるキン族の母語であり、ベトナムの公用語。中華民国(台湾)、アメリカ合衆国、オーストラリア、カナダ、フランスなどに居住しているベトナム系移民によっても話される。7000万人。
Heo vòi Malayan cứu chúng ta.

ヘブライ語:イスラエル。一度日常語として使われなくなった古代語が復活し、再び実際に話されるようになったのは、歴史上このヘブライ語だけ。900万人。
הטפיר המלאי מציל אותנו.

ベラルーシ語:ベラルーシ共和国の公用語。700万人~800万人。
Ратуе нас малайскі тапір.

ペルシャ語:おもにイラン・タジキスタン・アフガニスタン及びウズベキスタン・ロシア・コーカサス地方・バーレーン・イラクの一部でも話される。母語話者は4600万人を超えるとされている。イラン、タジキスタンでは唯一の公用語とされ、アフガニスタンではパシュトー語とともに公用語とされている。ペルシア語は複数中心地言語のひとつであり、イラン、アフガニスタン、タジキスタンでそれぞれ標準語が別個に定められている。 7000万人。
تاپیر مالایایی ما را نجات می دهد.

ベンガル語:ベンガル人の言語。主にバングラデシュおよびインドの西ベンガル州とその周辺で話されている。バングラデシュの国語。インドでも西ベンガル州とトリプラ州の公用語。2億6000万人。
মালায়ান তপীর আমাদের বাঁচায়।

ポーランド語:ポーランドの公用語。5000万人。
Ratuje nas tapir malajski.

ボスニア語:ボスニア・ヘルツェゴビナをはじめとする、旧ユーゴスラビア諸地域において、特にセルビア・クロアチア諸語を話すイスラム教徒の多くは自身をボシュニャク人と規定し、その母語をボスニア語と考えている。250万人。
Spašava nas malajski tapir.

ポルトガル語:主にポルトガル及びブラジルとその他の9の国と地域で公用語として使われている言語。2億5000万人。
A anta malaia nos salva.

マオリ語:ニュージーランドの先住民族マオリの言語。14万9000人。
Na te Tapir Malayan tatou e whakaora.

マケドニア語:北マケドニアの公用語である他、アルバニア、セルビア、モンテネグロ、ギリシャでも一部で使われている。記述の際にはキリル文字を使用する。200万人。
Малајскиот тапир нè спасува.

マラーティー語:インド西部のマハーラーシュトラ州の公用語。隣接するゴア州、グジャラート州、アーンドラ・プラデーシュ州などにも多数居住。7200万人。
मलयान तापिर आम्हाला वाचवते.

マラガシ語:マダガスカル島で話される言語。マダガスカル共和国の国語であると共に、フランス語と並んで同共和国の公用語。1900万人以上。
Mamonjy antsika ny tapir malayan.

マラヤーラム語:南インドのケーララ州などで話される言語である。3600万人。
മലയൻ ടാപ്പിർ നമ്മെ രക്ഷിക്കുന്നു.

マルタ語:マルタ共和国の公用語。オーストラリアやアメリカ合衆国、カナダへ移民した人々の間でも使われている。60万人。
Tapir Malajjan isalvana.

マレー語:マレーシア(マレーシア語)、シンガポール、ブルネイ、の公用語。他に、フィリピン、南方のタイ(ジャウィ語)。2500万人。
Tapir Tanah Melayu menyelamatkan kita.

ミャンマー語:ミャンマー連邦共和国の公用語。他にバングラデシュ・マレーシア・タイなどにも話者がいる。第一言語3200万人・第二言語1000万人
Malayan tapir ကျွန်တော်တို့ကိုကယ်တင်သည်။

モンゴル語:モンゴル国の国家公用語。中国内モンゴル自治区、ロシアのブリヤート共和国、ロシアのカルムイク共和国など。500万人~600万人。
Малайз tapir биднийг авардаг.

モン語:話者はミャンマーおよびタイの両国に暮らすモン人。85万人。
Malayan tapir cawm peb.

ヨルバ語:西アフリカのナイジェリア、ベナン、トーゴに居住するヨルバ人の人々。2000万人。
Malayan tapir fi wa pamọ.

ラオ語:ラオスの公用語。330万人。
Malayan tapir ຊ່ວຍປະຢັດພວກເຮົາ.

ラテン語:略
Malayan tapir et salvet nos.

ラトピア語:ラトビア共和国の公用語。140万人。
Malajiešu tapīrs mūs izglābj.

リトアニア語:主にリトアニアおよびその周辺国の一部の地域で用いられている言語。246万人。
Malajiečių tapyras mus gelbsti.

ルーマニア語:ルーマニアの公用語であり、またその周辺地域でも使用されている言語。モルドバ、セビリア、ウクライナ、ギリシャの公用語。2600万人。
Tapirul malayan ne salvează.

ルクセンブルグ語:、ルクセンブルクの国語、公用語のひとつ。 ベルギー、フランス、ドイツ。30万人。
Malaiesch Tapir rett eis.

ロシア語:ロシア連邦の公用語。国語表記には、キリル文字を使用する。1億8000万人。
Нас спасает малайский тапир.

韓国語:主に朝鮮半島で使用されている言語で、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の国語。中華人民共和国(中国)の吉林省延辺朝鮮族自治州と長白朝鮮族自治県でも公用語として使用されている。 8250万人。
말레이 맥은 우리를 구합니다.

中国語(簡体):中華人民共和国(中国)・中華民国(台湾)・シンガポール共和国の公用語であるほか、世界各国に住む華僑・華人の間でも使用されている。各方言を含む中国語を母語とする人は約13億9000万人[1]、第二言語としても約2億人が使用しているといわれており、世界最大の母語話者人口を有する。
马来亚tap拯救了我们。

中国語(繁体):略
馬來亞tap拯救了我們。

クリンゴン語:クリンゴン人が使用する架空の言語。
‘uSDu’lIjDaq jItuchjaj.

おわりに

昨年は国内のマレーバクの出産や死亡が相次いだ年でありました。どうか今年一年、バクが安らかに過ごすことができますように。もちろん、マレーバクに限らず、すべてのバクの平穏と繁栄を望みます。

SDGsで、獏の生息環境を守ることができるだろうかと、考えます。数年前は「エシカル消費」という消費者主体の全般的な運動の機運が高まりかけましたが、SDGsは企業側がイニシアチブをとる形になっているように感じます。おそらく、それでは資本主義の原理は緩まないでしょう。消費者の観点から、フェアトレード、焼き畑などの栽培方法によらない生産品を求めるなどの、意識改革をしていくことが、バクを守る、地球を守る、人類を救う、という風に繋がっていくのではないかと思います。

バクのいない星では愛せないだろう。バクを守りましょう!

※上記の言葉は、この曲のタイトルからの引用です。
モーニング娘。’20「雨の降らない星では愛せないだろう?」ピアノ伴奏バージョン

Comments (0)

Tags: , ,

小さなノートの話

Posted on 27 1月 2021 by

小さなノートの話だ。

ほぼ日手帳weeksMEGAと、ダイソーのハードカバーの手帳、妹がくれたインド土産のノートの三冊を、自転車のチューブが入っていた袋にいれて持ち歩く。

これさえあれば、どこでどのような待ち時間が発生しても大丈夫な一式だ。

今回は、読むための小さなノートの話だ。

俳句や短歌は、とても小さな器だ。
その小さな器に満たした感動を、小さなノートにコレクションしていく。

それは、すべてが自分好みのアンソロジーだ。
テキストというのは、容量こそ小さいけれど、その凝縮度たるや、他のメディアに比べて圧倒的に高く、そして濃い。

俳句の抜き書き帳は現在12冊。その日の気分で何巻目を携えていくかを決める。

短歌はこのノートに書き写している。

当初はゆったり書いていたけれど、それはどうやら僕のスタイルじゃないらしい。隙間を見つけて、とにかくこのノートに書けるだけ書き込んでいく。

いわゆる「歌集」から引いたものは、別のツバメノートなどに書き写してあり、

小さなノートに書き写しているのは、入門書、解説書、twitter、ブログなどで見かけた、通りすがりの短歌たちばかりだ。

脈絡なくスペースを融通しながら列記されている短歌を眺めていると、不思議な連帯や反目を感じ、そこに別の短歌が現れてくるような気がしてくるのが不思議だ。

電子データにしてしまえば、もっとコンパクトに、この数億倍の情報を持ち運べるだろう。実際、電子手帳は辞書を何十冊も、古今東西の名作を何百編も、画像や音声を数千種類も、片手で持てる端末内に収めているのだから。

でも僕は、手書きで書き写した小さなノートを携帯し続けるだろうし、電車や待合室などでは、電子端末よりも、これらの小さなノート(か、本)を見たり読んだりするだろう。(もしくは書いたり、描いたり)

僕の文字は我ながら読みにくいけれど、書いたときの状況や心情を留めていて、電子的なフォントでもなく、ツルリとした画面の向こう側でもないリアルが、空気感を保存してくれている気がする。

そういう気分は、小さなノートを広げるたびに流動し、その体験がまた、創造につながっていくような気がしている。

だから、小さなノートの大きなコレクションを、僕はいつも携帯していたいし、どんどん書き足していきたい。

それは世界の何兆分の一の情報量でしかないのだろうけれど、僕の一分の一の世界なのだと思う。

Comments (0)

Tags: , , ,

ワーズワースの庭 ―『ウォークス 歩くことの精神史』

Posted on 28 12月 2020 by

ゆっくりと読もうと思っている本。

ウォークス 歩くことの精神史
レベッカ・ソルニット著
東辻賢治郎訳
左右社2017年7月30日 第一刷
ウォークス 歩くことの精神史 レベッカ・ソルニット著 東辻賢治郎訳
左右社2017年7月30日 第一刷

17章490頁の本書の、第七章192頁まで読んだところ。思ったよりも「政治的」な志向のある内容だが、ワーズワースの歩行を知ることができただけで、私にとっての本書の意義は十二分に満たされたと思った。

それは第二部第六章「庭園を歩み出て」から同第七章「ワーズワースの脚」に詳しい。「歩く事」が「健康のため」と「どうしようもない場合の移動手段」でしかなかった当時、「歩くこと」によって自然に美を見出し、自然と一体化し、自然の中に身を置くことで成長するという価値観を見出した、ロマン派の詩人たちに関する記述だ。

note01
第一部「思索の足取り」アンリ・ルソーを中心に

「歩行のための歩行史」にとって、「庭園」は欠かすことができない要素であり、その「庭園」のルーツは、「迷路」や「迷宮」で、それらは「巡礼」の象徴だった。

英国風景庭園は、フランス幾何学庭園に対抗して、「自然への回帰」を目指した。そのとき景色は風景画として鑑賞すべき芸術となった。ここから、「崇高」という概念や、「観光」という文化が生じる。

歩行は、庭内から始まり、その庭園が自然との境界を曖昧にしていった結果、自然を歩くことに価値観を見出すことができた、ということになる。そのためには、裕福さと治安の良さが確保されていなければならなかったが、庭園を出ていくことにより、それらとは真逆の徒歩旅行に身を投じる者たちも現れる。それはバックパッカーのルーツといえるのかもしれず、「巡礼」への先祖返りの感もある。

歩行の身体性について

さて、ワーズワースだ。

かつて『ワーズワースの庭』『ワーズワースの冒険』というテレビ番組があった。主題歌だった「シャ・リオン」は今でもとても好きな歌の一つだし、渡辺満里奈さんもかわいかった。

ぼくはこの本を読むまで、このテレビ番組のタイトルの意味するところを理解できずにいた。たんに、自然好きな詩人だから、という程度の認識だったのだが、ワーズワースの庭。とは「自分と世界」の謂いだったのだ。

ただいま彼は歩いています。今朝はずっとひどい雨が降っているのですが、戸口を出ていってこの方、二時間になります。天気が悪いときは傘を持ち、なるべく雨に濡れない所を選んでそこを往復するのです。四分の一マイルから半マイルほど歩くこともありますが、まるで独房の壁のように選んだ範囲をきっかりまもるのです。詩作をするのはたいてい戸外で、没頭していると時間や天気の良し悪しなどは気に止まらないのです。

前掲書 1804年 ドロシーワーズワースによる友人への書簡

その態度は、著者をして『思索を肉体の労働に変えることでもあった』といわしめる。実際、そのように創作されたワーズワースの詩には、歩行のリズムと流れが刻み込まれている。

ワーズワース兄妹

わたし自身、同じ屋内を何周も歩き回る仕事を続けており、そうした中で、感じたことを言葉に書くという生活を続けてきた。胸ポケットの”pocket mod”にジェットストリームの黒の0.7で走り書きした断片を、ほぼ日weeks MEGAのnoteへ一時的に集積する。(今年は、このnoteをほぼ使い切ることができた。俳句や短歌のメモおよび校正や、本の抜書など、かなり乱暴に使っても1年もってしまう分量に、あらためて信頼を厚くした次第)

それから、しかるべきノートへ転記しながら、その内容から感じたことや想いだしたことを付け加えていく時間が、この上なく豊穣だ。

歩くことは、外部を体験することだ。自らの足で地球を感じながら、その風景との連帯を感じることだ。空っぽになり充たされることだ。それは、自転車がもたらす恍惚とは異なるハイな体験だ。

今年はどれだけ歩けただろうか。

来年はどれだけ歩けるだろうか。

それらを記すためにわたしのノートはあるのだと思う。

以上。2020年最後の記事として。piecesmaker.

Comments (0)

Tags: ,

「「「書く」」」

Posted on 15 11月 2020 by

ノートに記されたもの

ノート(文庫本サイズ144枚 DAISO)×ZEBRA Surari 0.7

「書く」は「書いた」としてしか現れないのに
「書く」ことが「書けている」ように感じるのはなぜか?

ほぼ日手帳weeksMEGA×Pentel VICUÑA 0.7

わたしが「書く」を「書こう」としているとき
「「わたしが「書く」」「書いた」を
わたしが書いていると錯覚できるのは
「書く」→「書いた」の時差(主に遅れ)を
さらなる遅れで吸収しているかように感じさせるからだ

LIHIT LAB.TWIST RING NOTE×uni sign pen リブ×STABILO 6 color pencils

わたしは「書く」を書けないが
「書いたわたし」は「書くはずだったわたし」に
とてもよく とてもよく 似ている 似ている

TRAVELER’S notebook×LAMY2000×GRAF VON FABER-CASTELL Hazelnut Brown

「書かれなかった「書かれるはずだった「書いているわたし」」」の
「書こうとした「書く」」は「書くことのできない「書く」」だ
その「書く」を「書いた記し」がノートであり
それはやたらと「」がついた「書いた」だ

「書く」→「書いた」の狭間には無限の「」があり「書いた」を防御している
「」を外すため「書いた」ではなく「書く」を「書きたい」と考えている。

Comments (0)

Tags: ,

Note of the note―ノートの調べ p.11 寺山修司歌稿ノート

Posted on 12 10月 2020 by

「Note of the note -ノートの調べ」 と題した不定期シリーズ。
このシリーズでは、著名人のノート、手稿、手帳、日記などを紹介し、そこに込められた作法と思いを検証していく。
 今回は、寺山修司さんの歌稿ノートを味わう。

出典

寺山修司未発表歌集
『月蝕書簡』表紙
寺山修司未発表歌集『月蝕書簡』表紙

寺山修司未発表歌集『月蝕書簡』(2008年2月28日:岩波書店)巻末資料

はじめに

寺山修司さんが短歌に関わったのは、十代の終わりから二十代半ば過ぎまで、デビューして最初の十年ほどである。

(同書 p.217 解説 佐佐木幸綱)

寺山修司にまた短歌を書いてみようと思い立たせたのは、1973年(昭和48年)三月二十二日のことである。
 当時、「海」の編集者の吉田好男氏に(・・・)「寺山さんがまた短歌でも書いたら僕のところで載せるよ」。

(同書 p.201 『月蝕書簡』をめぐる経緯 田中未知)

1973年から十年かけて作られた短歌は、いろいろな紙片にメモされ、私の手元に遺された。そのうちでも、短冊形に切られた紙に一首ずつ、4Bの鉛筆できれいに清書したと思われるものは、一応完成作品と判断した。これが六十首ほどを占める。
 写真資料に中にある大判の画帖には思いつくままのことばの断片が縦横無尽にしたためられている。(・・・)そのほか、旅行中のノート、航空便箋、絵葉書の裏など、手元にあったと思われる用紙に、なぐり書きしている。

(同書 p208 同上)

写真1

z
歌稿ノート

ほぼ、句としてまとまったものを書いたものだろう。後出の画帖に掻き出したイメージを一行短歌形式にコラージュなどして書き連ねて調子をみているものと思われる。助詞と形容詞が検討され、さらに不要な言葉、さらに適切な言葉を求めているところか。それにしても驚くほど訂正が少ないと思う。語順の入替はほぼ見受けられない。「水の音―」のとなりの行に表れている「墓石を」が、行を改めて「満月に墓石はこぶ―」として記されているところに、私はひじょうな興奮を覚える。また「名付け親―」の下の句が空欄である点もおもしろい。

写真2

図版2短冊貼り付け
短冊貼り付け

 先述した「短冊に一首ずつ清書されたもの」である。画用紙を切ったものだという。写真1、のようにノートで推敲を重ねたのなら、完成作を完成作用のノートに書けばよいと思うのだが、わざわざ別の紙に書いて貼り付けるというのがおもしろい。
 三首目はさらに「に漂ふ」を「を泳ぐ」と直している。また、五首目の下の句「地球儀の中は空洞」の行の「中は」の右に「内なる」と書かれている。本編収録短歌は「地球儀の内なる空洞」だが、この段階ではまだ「中は」が消されていない。
 推敲という果てしない苦悩。おそらく、ノートに書いている間は、推敲が終わらないのだろうと想像する。別の紙に書き出すことでようやく、その短歌を推敲していたノートのページを離れることができたのだろう。「もういい」という気分になるのに違いない。それでもまだ直したくなる。
 というのは想像で、単に、歌集収録の際の順番を決めるため、短冊にしておいたほうが便利なのだろうと推察する。
 短冊は束となって残されていて、分散しないようノートに貼ったのは田中氏とのことだ。

写真3

図版3 メモ
布製カバーの大判画帖

田中氏の解説によれば

詩集、歌集など、一冊にまとめようとするときは布製カバーの大判の画帖を使用。ページごと縦横無尽に思いつくまま、メモ書きされている。

(同書 <資料>歌稿ノート 写真・文 田中未知)

とある。
 天地もなく、矢印や丸囲みが頻出するこうしたメモ書きを見ているのが好きだ。何も決まっていないところから思いつくままに言葉を書きだし並べていくノートは大きければ大きいほどいいと思う(全体が一目で見渡せることが大事)。目の端にでも映ればそれは必ず刺激となる。むしろフォーカスのない部分のメモ書きをなぞっているような気さえすることもある。「文」を「句」と「語」に分節し、繋ぎ変えて、付け足し、削除し、組み換え、また付与し減衰させていく作業は、ひじょうに「空間的」な感覚がある。そういうとき、時間はあっという間にすぎさっていく。

写真4

写真4 ノートに記される断片
ノートに記される断片

ここから始まる。全てが寺山調である。
 私は以前、寺山修司さんの短歌のうち、ぶったぎって俳句になるものを列挙し、改めて短歌と俳句の違いを考えるという、たいへん失礼な読み方を楽しんだことがあるが、この断片にも、「三枚の畳をわれの枯野とし」や、「演説や十一月の海の杭」などがあって、興味深いが、むしろ、文字数に囚われない語句がもつポテンシャルに痺れてしまう。
 「指人形は」の部分に長くひかれた矢印の先に「だまされて」があり、この距離が生まれた理由などをあれこれ類推するのもまた楽しい。
 こういうノートこそが「ネタ帳」とよぶにふさわしいのだろう。ここから、写真3、写真1を経て、写真2、の短冊へと昇華していくのである。

おわりに

 義母十夜「主婦の友」より切り抜かれ悪夢の中の麗人となる

と、書いてみる。
 それから、『主婦の友」がいいか『少女倶楽部』がいいかについて考えてみる。

同書 p197 個への退行を断ち切る歌稿―一首の消し方 寺山修司 (『月蝕機関説』所収、冬樹社、1981年)

寺山 ぼくらは体温三十何度かの血の流れているスピーカーですよ。しゃべっている言葉だって、おととい書物で読んだり、きのうテレビで聞いたりしたものばかり。それが頭の中でコラージュされて、通過して出ていくわけですよ。あしたはもうからだに残ってない言葉もあるし、うまく出ていかないで、何年も体内に残っていたりするものもあるかもしれない。いずれにせよ、それは、その程度のものだと思うんですね。それが、日本という一つの全体性の過去の復元過程の中で文芸としてとらえられていくか、あるいは自分が記憶と記録のはざまの中で、自分のからだの中にとどめられてあるか。

現代短歌のアポリア―心・肉体・フォルム 佐佐木幸綱・寺山修司 月蝕書簡栞より

最近、短歌でも俳句でも(散文だとそういうことはない)、ほぼ日手帳weeksMEGAの方眼ページに、写真4や写真1のようにうなりながら書いていて、それはたいてい、twitterや投稿サイトで公開するために作っているものなので、手帳の上でほぼ形になったところで、フォームに入力するのだが、その、フォームに入力した直後に、さらによい(と自分が信じる)形がパッと浮かんでくることがよくあって、それが不思議だ。
 アナログだから思いつかない、というのではないだろう。たぶん、自らの手癖のある文字で見ているのと、フォントに直されたものを見るのとでは、気分が変わるのだろうと思っている。だから、寺山さんが、画用紙に清書をする気持ちは、これと似ているのではないかと勝手に想像しているのである。清書の瞬間こそが最大の校正チャンスであり、その瞬間を味わいたくて私は何度でも推敲したいのだと思っている。

Comments (0)

Tags:

まだ僕は庭の外にも出ていない最強のONE PIECEを探す/俳句

Posted on 21 8月 2020 by

思いついたらとりあえず書いて見る

俳句はログだと、この間申したところだが、「最強の俳句」とは何だろうと考えさせられる事態がおきた。

私は上記twitterを投稿なさり、今回俳句杯を主催される星野いのりさんの俳句に衝撃を受けた者である。

「六枚道場」第八回〈詩・俳句〉部門A
星野いのりさん「うたかた」より、抜粋
口淫は嘔吐に終はる麦茶かな
蜻蛉の翅みづみづしき葬後
病みゐたる月は己を凍て殺す

わたしの俳句脳では、こうした語彙は拾えないと思った。そう思ったとき、いつの間にかわたしは「俳句脳」「短歌脳」「散文脳」のような脳の専門モジュール化が進んでいたことに気付き、これはまるでネアンデルタール人の脳ではないかと愕然とした。

新人類クロマニョン人の特質である「大脳新皮質」という、極度に自由横断的な、フレキシビリティ溢れる脳を活性化させなければ、「俳句」「短歌」「散文」、つまりまとめて「詩」を書く事なぞ不可能なのだぞと。

癖としての一句一章を離れたい

兼題は「月」
月のある風景、月との関わり、月の記憶を探る。折悪しく今は新月に向かう時期で、月はない。小説、詩。イナガキタルホ。ハギワラサクタロウ。魔的イメージに結びつく月とそれ以外の何かを模索し続けた。

水月と薬のターン

だが、絶望的に跳べない。因果に凝り固まっている。元来、このような因果を外す装置として俳句はあるはずだった。SF、ファンタジー、ホラー。さまざまなシチュエーションを思い浮べては、その情景にでてくるオブジェをまさぐり、俳句らしきものを探す。だが、このような方法自体が「俳句脳」なのだと気付き茫然とする。

このアカウントはわたし
コラージュを試す

短歌では、ワードを書き留めておいて後に、コラージュによって作品を製作する方法は一般的で、上の句と下の句とのつかず離れずの比喩、意外な取り合わせを見つけ出すには最適だ。これが私はあまり好きでなかった。作品のための作品。言葉遊び。になりはしないかと危惧されたからだ。
 しかし、言葉がもたらす衝撃によって、世界に亀裂をあたえられたり、偶然併置した言葉動詞の関係性によって、時空がねじ切れたり、ワープできたりするのなら、それは有効だと思うようになった。それは、「写生」か「空想」かという問題とは、別の、単に方法論として有効だと、現在も思っている。つまり、コラージュと写生とは両立すると考えている。先述した星野さんの「麦茶」の存在感。これは写生句といってよく、季語は動かない。わたしはこういう俳句を拾いたい。

エントリー作品はしかしまだ大人しかった

六日間。「月」のことばかり考えていた。他の俳句はほとんど読めず、なにを見ても「月」を置いたらどうかと、そればかり試していた。そして、自ら定めた〆切時間、グルグル○をつけた句でエントリーした。
 それは、やはりまだネアンデルタール人の句だった。だが、作ってはtwitterに上げて退路を断ちつつ進んできたつもりだった六日間は、無駄ではなかったと思う。

月の嘘堅い床には薬瓶 六文風鈴  (これは今、ノートを見て作った句)

ノートはダイソーノート(文庫本サイズ)144枚
ボールペンはZEBRA Surari0.7を使用しています。

Comments (0)

Tags:

獏爆誕!&手帳派アナーキズム

Posted on 15 7月 2020 by

はじめに

2020年7月7日、日本平動物園の、フタバ君とオリヒメさんの間に赤ちゃんが生まれました! めでたいめでたいめでたい。詳細は後日発表があるとのことです。とにかく、丈夫に無事にスクスク育ってほしいです。フタバ君もオリヒメさんも、ますます元気に長生きしてほしいです。また、会いにいきます。
https://www.nhdzoo.jp/news/naka.php?id=1493&p=4
以上、獏部歓喜のご報告でした。

では、

手帳派でいいじゃない。だって俳句はアナーキズムなんだもの

以下の記事は、『俳句の世界』小西甚一さん著、のごく一部に関する感想と、別のブログに書いた過去記事とをミックスしたものです。

手帳派とは

子規の本意は客観的世界の尊重にあったわけですが、子規と言えどもそれが何時の間にか事実の尊重と置き換えられて、あのような愚作が詠まれたに違いない(…)言わば創作の一つの安易な手段として写生が考えられているのです。物干竿を見ていたら一匹の蝶が飛んできた。そこで一句が出来るという具合であります。これを手帳俳句と言います。「それは事実だった」―それが手帳俳句の考えであります。
 だが作品はあくまでも一つの完結した世界であって、偶然経験した事実の破片が言葉の上に移されただけでは、やはり断片は断片で、それだけでは完結性は与えられていないのです。

前掲書 p.197

という具合です。これは、piecesmaker1という名前で、写生を信奉する私に対する批判ですね!
こうした、いわゆる「(反写生派の主張する)いわゆる写生」によって作られた断片の寄せ集めを「タダゴト句」とよび、上っ面な、表層的な、真実に到達していない上滑りな、たんなるLogでしかないもので、なんでこんなものをわざわざ句にするのか、と、萩原朔太郎さんも疑問を呈していました。

何のために、何の意味で、あんな無味平淡なタダゴトの詩を作るのか。作者にとって、それが何の詩情に価するかといふことが、いくら考えても疑問であった。所がこの病気の間、初めて漸くそれが解った。(中略)退屈もそれの境地に安住すれば快楽であり、却って詩興の原因でさへあるといふことを、私は子規によって考えへさせられた。

萩原朔太郎『病床からの一発見』より

 作者の小西さんは『俳句は作品でありそれは「完結性」をもたねばならない』としています。
 ですが俳句という短い詩形が「完結性」を持つためには、どうしても「読者」による補完が要請されます。(これはどんな形式の作品でも同じでしょうが、とくに俳句は補完に頼る度合いが大きくなります)句作者の「本意」をおもんぱかるためには、句のみでなくその句作者の人生と句が作られた状況をもかんがみ、読み手としての願望も少し交えながら最大限のそんたくをせねばなりません。その機構が「結社」です。

俳句のアナーキズム

 (以下は過去ブログの採録です)
 俳句は連歌の発句であることを止めたとき、現実に対する一個人の批評となり、絶対に物語を構成しない、権威主義を離れた「自在」なものとなったと思う。
 とことんまで、「個」と「世界」とを突き詰めたところに結晶する十七文字。それこそが俳句であり、そこにこそ、「普遍」が現われるはずだった。
 だが、この十七文字という極端に短い詩形であることが、俳句の読者に、自動的に「補完」を強いてしまう。いや、むしろ、それを期待しているのが俳句である。
 だが、それはあるあるネタの同感などという共同体を強化するタイプの補完ではなかったはずだ。
 全てを言い表すのではなく、そこに切れ目をいれておくこと。その切れ目は、読者が想定してない切れ目であり、そこから垣間見える「本質」または、そこから垣間見られる眼差しなど、に「ぎょっとさせられる」体験こそが「補完」されべきなのであるが、一般的には補完する際、「共同体」を「シイタケ駒」のように呼び込んでしまう。

 しいたけ俳句
 そして気が付けば、「俳句」の内部は「共同体」の菌糸でねとねとになってしまうのだ。こうなると、あとは放っておいても、同じDNAによる「シイタケ俳句」が雨後のタケノコのようにビラビラと生えてくる。それが結社である。
 つまり、「個」は「共同体」という「類」にとって変わられてしまうのだ。
 それは、「個」の拡大ではない。
 「類」において、「個」は「類的本質」という「物語」として均質化された上、アンタッチャブル化されてしまう。
 それこそが「一般」と呼ばれるものであり、そのように解釈されてしまった「上手な句」こそが一般のなかの一般の、まさしく「タダゴト俳句」であり「月並み俳句」と呼ばれるべきだ。
 この場合、世界とは「一結社」にすぎない。その中で上手と認められたものが「特別な俳句」としてもてはやされ、特別な俳句が作れる特別な人がカリスマとして、崇めたてまつられるのだ。

 しいたけ結社からしいたけ国家へ
 大勢の一般市民が、カリスマ的指導者を崇拝し、それぞれのISMをもって、争っている。俳句は国家の内部に小さな国家を形成する。そして他を外部とみなし、外部からの干渉を嫌い互いに地上でも地下でも、争いあう。

Notebookersは、Logを尊重します(私見)

 俳句の歴史は「芸術たらん」とする俳人たちの苦闘の歴史でもあったようです。とくに結社を維持運営する上ではそういった格式は必要なのでしょうが、そういったモノに、とことん無関心な「手帳派」としては、徹底的に「事実の断片」をコレクションしていければそれでいい、という考えです。こっちには、俳句に貢献したいという熱意もなければ、俳句のために生きる義務もなく、ただ、自分の今ある「この(一つの)世界」にのみ関心があるわけですから。
 Notebookersは、Logを尊重します。愚鈍なまでに「写生的(主観的=客観的)事実」を尊重します。凡庸な私が、五・七・五の制限のなかで、「悟りを記そう」(俳句の完全性が「悟り」だということは、長くなるので書きません)などと考えるなど、おこがましい限りです。
 だって真理は自然の表層に常に顕れており、それは因果を離れて縁起しあっているのですから、二物衝撃とかなんとか頭をひねったところで不純になるばかりです。
 日常の中の、「下手な考えより奇なる現実に」あふれるありふれた事を、因果や説明が不可能な、五・七・五に記録することが、手帳派の写生俳句だと思います。

アナーキズム論

(再び別のブログから)
 非常にシンプルなルールに則っていながら、無数の亜流を生み出し、大同小異の小異にのみアイデンティティーを見出して、大同を認めない。同じ一つの国にあって、それぞれの切り口は全く異なっているため、そもそも同じ一つの国などという事実ですら認められない。この差別主義は人間性にも及ぶ。

丸い地球も切りようで四角
 俳句はあらゆる場面を切断することができる。その際、球体がその切断の仕方によって、無数の断面を形成するように、世界は一つではなくなる。というより、われわれは存在論的に、世界を分断しなければ認識できないのだ。それは『分断以前の一』のあることの証明でもなく、『多様性』の証明とするでもなく、「上手」「下手」、「特別」「タダゴト」、「本物」と「偽者」、「深い」「浅い」、「分ってる」「分ってない」というに差別に利用する姿勢がしみついてしまっている。

句会
 句会はいい。さまざまな句を読むことはいい。その句読んだ感想を言い合うのもいい。互いの「個」をもって自らの在る世界を鑑賞しあい、自分のそれとの差異を、無責任に楽しめるのであれば。何かを変えようとか、何かになろうとかしないのならば。ただ、自分にとっての社会と自分とのスタンスの差を感じ、その差異を「広さ」と感じることができるのであれば。

つまらない素人としての私
 そして、そのような「拘束された自由」を育む結社とは全く無縁に俳句を詠む私は、何の影響力ももたぬ有象無象である。私はそのように俳句を詠む。

そして、そこにしかアナーキズムはありえない。

(続き)客観写生の主観性が要請するアナーキズム

団結は不用だ。
 アナーキズム運動は、運動であるべきではない。それは、組織されてはならない。

同胞の支援は不要だ。
 支援を受けるなら、それぞれの抗う相手から支援を取り付けるべきである。

暴力は不要だ。
 アナーキズムは好戦的である必要はない。暴力は古い物語としてかならず「しいたけ国家」を産む。

敵は不要だ。
 多様性が認められなければ、選別と排除の理論が「王」を産むだろう。

アナーキズムはグラバカだ。
 アナーキズムの美しさは、K-1的ではなく、グラバカにある。互いに離れたところから単発的に相手と対話を交わす関係ではない。
 相手とぐずぐずに溶け合って一つになる。巻き込み巻き込まれた一体化の果てに各々の「個」を確立することこそが、アナーキズムの姿勢である。

アナーキズムは不用だ。
 それを名づけてはいけない。名指してはいけない。旗印としてはいけない。指導者をもってはいけない。バイブルを携えてはいけない。
 アナーキズムはもう、あなたの心のなかにある。その心の中にあるものを実現すべく、自らの居場所で、自らの周辺にある自らの事実を、愚直に書き留めること。
 声に出す必要もない。作品など書かなくてもいい。
 信じることを行うこと。
 認められることに意味は無い。アナーキズム活動歴何年とか、アナーキズム活動実績は、とか、関係ない。それで飯を食おうとするな。もはや、それはアナーキズムでない。よりどころを求めるな。アナーキズムは常に流浪するものなのだ。

おわりに

 途中に、なかなか勇ましい部分を挿入してみましたが、
「せっかく作ったタダゴト俳句を上手に散文に戻して感想文を書かれてしまった(泣)」という、トホホさ加減が少しでも伝われば幸いです。(嘘)

 俳句っぽい俳句というものは確実にあって、俳句っぽい俳句を作る方法は巷に溢れていますけれども、世界をその俳句の文法で切り取ろう、というのは本末転倒なのではないかとも思います。重要なのは、慣れ親しんだ因果関係による思考を離れることに尽きます。
 ところで、短歌は、因果を入れることが十分に可能な形式なのですが、現代短歌は、上句と下句を別々に作っておいて、現代短歌っぽい組み合わせをランダムに拾うというような作り方で、遅れてきたシュールレアリズム短歌を量産しているようです。その脈絡のなさそうでありそうでなさそうでありそうな感じに「俳句的」な余韻を持たせようという風にも思われます。
 昭和のころから「短歌が俳句的になり、俳句が短歌的になっている」との指摘はなされてきたようですが、手帳派なので、どーでもいーです。
 五・七・五にはまればそれで、七・七があったほうがよければそれで。散文を否定するものでもありません。
 日常の「感じ」を書き留められればそれでよいので、スケッチだって除外しないし、写真だってかまわないです。

手帳派は偶然に遭遇した事実の断片の「美しさ」を思わずLogに残してしまい勝ちなだけの、個人なのです。

おまけ 正岡子規さんのタダゴトでなさそうなタダゴト俳句選

(こちらも過去のブログからの転載です)

時雨るゝや海と空とのあはひより

馬子一人夕日に帰る枯野哉

ぬぎすてた下駄に霜あり冬の月

散る花のうしろに動く風見哉

夕立にうたるる鯉のかしらかな

門を出て十歩に秋の海広し

夕顔や裏口のぞく僧一人

涼しさや石燈籠の穴も海

夕風や白薔薇の花皆動く

秋風や道に横たふ蛇のから

一列に十本ばかりゆりの花

フランスの一輪ざしや冬の薔薇

鷄頭の十四五本もありぬべし

Comments (0)

似たい

Posted on 21 5月 2020 by

本当のことに似たいから私はノートを書いている
本当のことには近づくことさえできないのだから
近づくことができることは本当のような本当だけ
このように存在する私たちの地平線のこちらがわ
本当のことは地平線の彼方の宙の斜向かいにある
それをそのまま感知することは絶対不可能なのだ
その上手ごわいことに本当は似る事すらできない
それは手本でも元型でも祖型でも形でもないから
概念ですらこの世界では型にはまっているのだし
情報は劣化を免れるけれども媒体は物質なのだし
物質は劣化するのだしレディーメードは記号だし
記号は意味を喪失していて実はそれこそが情報で
本当とはほど遠く気配すら感じることができない

万物流転(パン・タレイ)

オリジナルなんてどこにもないことは確かなのだ
リスペクトやオマージュや剽窃のようなコピペは
歴史的であり似ているようであり進化系のようで
そのような編集こそがオリジナリティなのだねと
したりがおでのたまうエセ評論家のことは無視し
先人たちが似たかったまだ見ぬ本当に似たいのだ
今あるものに似ているだけでは当然もの足りない
似せる過程としては模写も模倣もアリなのだけど
そのような手本ですら本当に似たかったものとは
距離や時間といった隔たりの指標が無意味なほど
いってしまえば理想とする本当には似てなかった
だからこのように存在する私たちにできることは
確実に失敗する似るためのたゆまぬ試行錯誤だけ
おいそれと似ることのできない本当に似るために

似てる

※「似てる」はこの間久しぶりに見返していた『音楽寅さん』という番組において桑田佳祐さんが、「うまくいった」「ぴったり」「最高」という時に「似てるっ!」と叫ぶ、ことに由来します。私はこの「似てる」に痺れて、私も感極まって「似てる!」と叫べるようなものを形にしたいと思うようになったのでした。



Comments (0)

Tags: ,

『美しい痕跡』手書きへの賛歌 読書メモ

Posted on 27 4月 2020 by

美しい痕跡 手書きへの賛歌 フランチェスカ・ビアゼットン著 みすず書房

Francesca Biasetton (1961-)
 ジェノバ生まれのカリグラファー、イラストレーター。

本書の第10章(p.92-)からはカリグラフィーに関する内容。なのでこの記事では第9章までの内容についてのメモ。

手で書かれたものは動いた跡であり、手が筆記具を介して媒体に痕跡を残す。何世紀もの間、人間はさまざまな道具や文字、媒体を使い、書くことで考えや知識を記録してきた。
 私たちはいま、速さという誘惑に身を任せ、質や唯一性、物語といったものを犠牲にしている。

同書 裏表紙

私は、書いた「距離」が分かる筆記具が欲しいと、常々思っている。痕跡は「文字の連なりとしての意味」以外の「意味」をもつ。距離もその一つの要素だろう。
 p.18での「サインは手書きだからうれしい」という指摘は腑に落ちる。それは質であり唯一性であり、物語という「体験」の証となる。
 「質や唯一性、物語」とは、つまりは「個人の存在」ということだ。効率重視は多様性を許容し難い。

紙は私たちの思考のさすらいを語り、私たちはノートやメモ帳を前や後ろに繰り、書き留めたことを探す。そして紙たちはカサカサと音を立て、馴染んでいく……

同書 pp.8-10
本書の抜書及び感想メモのページ

手書きが非常に繊細な「運動」であるということは重要だ。それは書くことでしか体験し得ないもので、ディスプレイをにらみながらキーボードを叩くという運動とは全く別の技能だ。そして、その運動のフィールドの広さ(狭さ)も、両者では、まるで異なる。それは腕や指の使い方のみならず、認識し判断を迫られる空間そのものが異質だということだ。

「書くこと」は文字を書くという以外に、模倣する、空間を必要とする、アイデンティティを明らかにするということでもある。(…)そして紙に向かうこと、紙の一部になるということでもある。

同書 p.14

文字を手で書くとき、私たちはひとつの空間、つまり紙の空間を構造化しようとし(…)

同書 p.8

どのようにノートを書くか? それはどのように「考える」かと同じだ。フォーマットに則って考えること。考えによってフォーマットを決定すること。いずれの場合も、それは身体内部をかけめぐる「思考」の、おそらくはとびきり不正確な「手探りよりはマシ」という程度の地図であり、巨大な洞窟へたった一本の蝋燭を灯しただけで進んでいくようなものだ。

字を書くとは具体性と秩序とを与えるささやかな行為なのだ

同書 pp27-28

そのとき探索しているのは、自らの身体内だ。

手書きの文字は紛れもなく身体性を前提とし、そして内包している。つまり、文字自身が書く身振りの視覚的な形跡なのだ。

同書 p.8

「文字」を書こうとすること。書いていること。
「文章」を書こうとすること。書いていること。
「考えていること」を書くことと、何かを「書き写す」こと。
これらは全て「別の体験」を感覚させる。だが重要なのはその「違い」ではなくむしろ「共通性」だ。

(…)線や図を書くというのは広い意味では紙の上に思考を移すということである

本書 p67 (リッカルド・ファルチネッリ『ヴィジュアル・デザインのポータブルクリテッィク』p.272)

身体機能や肉体そのもの退化や鈍化、劣化といった影響は別として、自分が充実した時間を過ごせているか(過ごしたか)、自分が豊かな体験をしている(した)と感じられるか、こそが重要なのだと思う。手書きノートを書いた後で、私はそれらをはっきりと実感できる。確かな何かが身体に残った、と感じることができる。ノートを書くことはインプットで、キーボードを叩くことはアウトプットだ。

別の本の読書メモ

手で書く時間は考える時間だ。いま、これを書きながら、考える時間は緩やかに流れている。緩やかであればあるほどいい。手で書く時間は、考える時間を尊重する。むしろ手で書いていると、考える時間が作られ、そこから表現が生まれる。

本書 p.40

 手書きは思考に追いつけない。それはキーボードでも同じことなのだが、キーボードは追いつくことを強いる。それはジムにあるランニングマシンのように、走ることを強いるが、自然の中を実際に走る体験とは全くことなっている。
 手書きは思考に追いつけない。ならば共存すればよい。競争は身体と思考とを分裂させ、書くことを「作業」へ貶めかねない。
 そのように急ぐ私は、一体、何をしたかったのか?

かつては考えたことを書いていた。今日では書くことを考える。この論理の逆転は、書くことも考えることも乏しくさせる。

本書 p45 (パオロ・クレペット 『ネットの外でキスして』(p.16))

しかし、時間を「失う」ことがそんなに問題だろうか? 本当は、時間を「失う」ことこそ最良の仕方で時間を使うことなのではないだろうか?

本書 P.31

「手で書くこと」と「考えること」とは同じ。だが、そんなまどろっこしいことをしている暇はない、と思うこともある。
 思考はサビだけをよく知っている歌のように叫ばれていて、その全部を歌うことができる気になっているせいで、それが膨大な量だと思い込んで思考の全てを慌てて書き写そうとして、実は大部分の不明瞭な部分を、勢いで上滑りして、継接ぎしてしまいかねない。
 ならば、蜘蛛が腹から糸を繰り出すように、その不明瞭な何か、漠然とした予感のような思考の糸口を、丹念に手書きすればいいと思う。
 それこそが書く=考えるという「体験」だ。それを一刻も早く「経験」にしてしまおうとなどせず、心ゆくまで「体験」を味わっていたい。
 と、思った。

4月27日 世界バクの日

Comments (0)

Tags: , ,

短歌を写すノート

Posted on 15 3月 2020 by

twitterなどを流れていく短歌を書き写しておきたいと思いまして、そういえば、

短歌拾遺
短歌拾遺ノート

妹から以前もらったインド土産のノートがあった、それは丁度良いサイズ感。

ノートの表紙
ノートの表紙。インドっぽい

紙質は正直悪そう。分厚くてケバケバしているけれども、

厚みなど
全貌はこんな感じ

Surari0.7で書いてみると、ひじょうにひじょうに心地よかったので、

見開き
書き心地がよい

まずはせっせと書き始めましたけれども、

大き目の字から
大き目の字で書いていた

だんだん、いつもの癖がでてくるわけで、字が小さくなって、

字が小さくなる
字が小さくなってくる
がちゃがちゃになる
がちゃがちゃになる

可読性よりも、ページを埋める快感にはしりました。

読み返すときには多少、苦労しますけれども。苦労すると一生懸命読もうとするので、自分のためのノートならOKかなと。

好きな歌人さんは、俵万智さん。寺井奈緒美さん。兵庫ユカさん。です。以上!

Comments (0)

Tags: ,

Ω(肉の抵抗)

Posted on 10 2月 2020 by

今書こうとしている話の話
死ぬ前に見る現実を語る話

仮題「アウトロ」

文庫本サイズノート一冊へ
参考文献からの抜書と評価
採用文体のバリエーション
テーマとモチーフのリスト
思い浮かんだことを自由に
それらの全てを手書きする

思考は筆記に引き留められ
キーボードの速度を渇望し
置いていかれる口惜しさに
肉体の重さと不自由さとを
嫌というほど実感するのだ

ダイソーノート(文庫本サイズ)144枚

だがテーマが死である以上
観念と身体との邂逅の間で
思念が肉体に肉体が思念に
拘束されている閉塞を感じ
その間接的不自由さこそが
生きる死ぬ物体の重力の証

だから肉体が打鍵によって
チートする怠惰が導入する
形而上学的で値打ちのない
上滑りを綿密に排除する為
とにかく手書きにこだわる
肉の抵抗値を測る為である

華厳経ノート

Comments (0)

Tags:

非人情読書活殺剣

Posted on 21 1月 2020 by

「二人とも殺すつもりで読んでいる」

「二人」というのは作者と読んでいる私
「殺す」というのは変えるということで
「つもりで」というのは覚悟を意味して
「読んでいる」とは真剣勝負することだ
「真剣」とは触れれば傷つくものであり
「触れれば」とは触れねばならぬもので
「傷つく」とは従来の型を断ち切ること
「もの」とは変化する刹那刹那の顕れだ
「変化する」とは死んで生き返ることで
「刹那刹那」とは死んで生き返ることで
「顕れ」とは死んで生き返り続ける二人
「死んで」とは相手を自分の内に入れて
「生き返る」とは自分と相手との融合だ
「自分」とは他人と融合し変化する自分
「相手」とは自分と融合し変化する自分
「融合」とは自分を他人で変革すること
「他人」とは自分を殺し自分に殺される
「殺し」とは相手を自分の意のままにし
「殺される」のは従来の自分の他になく
「殺されのは従来の自分」が読書であり
「読書」とは作者と私との交合であって

「交合」の結果生まれるのが作者と私だ

Comments (0)

Tags:

呼応

Posted on 27 12月 2019 by

読んでる本がコールしてくるからノートにレスポンスをかえす
辺りの景色がコールしてくるからノートにレスポンスをかえす
何気ない話がコールしてくるからその人にレスポンスをかえす
ふとした顔がコールしてくるからこころにレスポンスをかえす
激しい感情がコールしてくるから日記帳にレスポンスをかえす
暖かな静寂がコールしてくるから思い出にレスポンスをかえす
刺さった棘がコールしてくるから人差指にレスポンスをかえす
書いた手紙がコールしてくるからポストにレスポンスをかえす
読んだ手紙がコールしてくるから万年筆にレスポンスをかえす
レスポンスがコールしてくるからノートにレスポンスをかえす
そのノートがコールしてくるからノートにレスポンスをかえす
私のコールがコールしてくるから私の私にレスポンスをかえす
私自身の体がコールしてくるから神経系にレスポンスをかえす

ノートの写真
トラベラーズノート(レギュラー) ・ダイソーノート(文庫本サイズ)・ほぼ日weeksMEGA・

私の脳味噌がコールしてくるから感覚器にレスポンスをかえす
世界中の脳がコールしてくるからSNSにレスポンスをかえす
脳は世界中にコールしてくるから私自身もレスポンスをかえす
レスポンスがコールしてくるからレスポンスはコールをかえす
コールがレスポンスしてくるからコールはレスポンスをかえす
レスポンスはノートしてくるからノートはレスポンスをかえす
脳はコールアンドレスポンスから私のコールをノートにかえす
ノートを閉じるときコールアンドレスポンスはノートにかえる
全ての変化がコールしてくるから移動することはレスポンスだ
生きることはコールするからだレスポンスは存在するコールだ
呼応するコールアンドレスポンス相互に参照しあうノートと私

(kokorokarada)

Comments (0)

Tags: , ,

バク達に会う日

Posted on 07 12月 2019 by

白い睫毛(眉毛?)愛らしい

2019年12月6日(金)くもり
急に決まった連休の二日目。妻とバク達に会いに行きました。
日本平動物園には、フタバ君とオリヒメさんの二頭が住んでいます。

オリヒメさんは去る11月3日がお誕生日でした。おめでとう!

少し前には体調調整のため奥で休んでいるとのアナウンスがありましたが、

https://www.nhdzoo.jp/50th_anniv/news/detail.php?id=1382

9月からはまた一緒にいるとのこと。
 今回、二頭が一緒にいるところが見られたらいいなと思いながらでかけたのでした。

今回は新幹線とバスで、日本平動物園で向かいました。

静岡駅北口のバス停、しずてつライン11番線乗り場「静岡日本平線」に乗って、23分(300円)で、「動物園入り口」へ到着します。そこから徒歩8分で入り口です。

旅先で路線バスに乗るのは、少し奇妙な感覚がありますね

日本平動物園は、今年50周年! さまざまなイベントを開催していました。

雲が厚くなり風が冷たいです。バク達は元気でしょうか。

ペンギン、ダチョウ、シロサイ。そしていよいよ、マレーバク達に対面です。

外に出ているのは1頭でした。たぶん…フタバ君だと思う……

前回会いにきたのは去年の4月でした。そのときは、しきりと鳴いて、近くにくることはあまりなかったのですが、

こっちへ来てくれる

今回は、まったく鳴くことはなく、しきりと柵のそばに来ては、柵の外の「笹」みたいな草を食べようと鼻を突き出してきたり、後足で立ち上がったりしていました。
(あまりに近づいてきてくれることに、「手を触れないで」「えさをあげないで」などの看板の存在がとても気にかかりました。なにかエサをもらった経験があって、こちらに近づいてくるようになったのかも、と思ったからです。以前、スーパーボールなどを投げ込む人がいるというニュースがありましたが、動物に、触れたり、ものを与えたり、騒いだりしないでほしいと思いました)

もう一回、大きく掲載。

オリヒメさんが加わったことで、紹介掲示も新しくなっています。

家系図大事。それぞれの性格を読むのも楽しい

※ 見ていたときは、外に出ているのがフタバ君と思っていましたが、もしかしたら逆なのかもしれません。

ご飯は前回と同じで。

レストハウスで昼食

帰り際。

寝ています

再びバクに会いにいって、外から見ることのできる部屋を見ましたがそこにもバクはいなくて、静かなところで休んでいるのだろうなと思ったのですが、よく見ると、もう一個奥の部屋で休んでいる姿をガラス越しに見ることができました。
 8月のような展示中止のアナウンスはないので体調不良ということではないのだと思います。

帰りの新幹線

今度は、暑いときに訪れて、水浴びなどをするフタバ君とオリヒメさんに会えたらいいなと思いながら帰りました。

動物園は曇り空の冬の平日のわりには、賑わっていました。遠足の園児たちも多数見学にきていましたが、マレーバクの前を素通りする子達が多いのは何でだろう。こんなにかわいいのに……
 一方「でけぇ~。想像以上にでけぇ~」と走り出す彼を微笑んでみている彼女。というとてもよい場面に遭遇することもでき、「そうでしょう。マレーバクはバクの仲間のなかで最大サイズなのですよ」と心の中でつぶやいて幸せな気分にもなりました。

日本平動物園では、クリスマスフェス2019を開催するそうですよ。

マレーバク関連では
 日時:12月22日(日)11:15~
 場所:マレーバク舎
マレーバクにクリスマスケーキのプレゼント

です。
以上。獏部報告でした。(機材enchant MOON)

Comments (0)

Tags: ,

MEGA NOTE 2019―ほぼ日手帳weeksMEGAの威力

Posted on 20 11月 2019 by

はじめに

ほぼ日手帳weeksMEGAを使い始めて二年が過ぎ、来年の手帳も迷わずMEGAを選びました。その理由は、使い始めようと決めた時から変わりません。
213ページもの方眼ノートがあること。の一点です。

ほぼ日手帳weeksMEGA2017-2019表紙

ほぼ日手帳weeksMEGA2018-2020表紙

11月を終えようという現在までに、私はノートを163ページまで使用しました。
1年目には「途中でなくなってしまったらどうしよう。ノート専用ノートを別に持ち歩くのは嫌だな」と萎縮していた部分がありました。でも、2年目になるとそんな躊躇はなくなりました。
そこで、ほぼ日手帳weeksMEGA2年目の私が、NOTE部分をどんな風に使っていたのかを見返して、3年目につなげようという企画です。

※ MEGAを使うようになって、TNはメモとMEGA NOTEの集積所という位置づけになっており、現場で直接TNに書き込む頻度は減っています。毎日の移動中の記録はMEGA NOTEに記し、それらの収穫物をTN上に広げていくとき、新たな、そしてずっと続けている旅の続きをしているような、気分になります。

MEGA NOTE 2019

MEGA NOTE 01

ブログ用資料のリストアップメモとして

MEGA NOTE 02

調査データの仮置き場として

MEGA NOTE 03

日々の俳句帖として

MEGA NOTE 04

読書メモとして

MEGA NOTE 06

好奇心の受け皿として

MEGA NOTE 07

俳句抜書きの仮置き場として

MEGA NOTE 08

既知から未知へ至る曼荼羅として

おわりに

文字が小さいのと、乱雑なのは、もともと悪筆なくせに、大急ぎで書いているからです。かつては、「すぐ忘れるようなことは書き置いてもしかたのないこと」と考えていましたが、今は、「残せるものは残しておきたい」と思っています。
MEGA NOTEは、信頼できる「仮置き場」として、旅を支える重要な鞄になりました。
来年度から、職場環境が変化する予定です。ノートはどのように変化していくのか。その変化に、ほぼ日weeksMEGAは対応できるのか。そんなことを楽しみにしながら、2020年を迎えたいと思います。それでは。

Comments (0)

Tags:

俳句拾遺ノート

Posted on 24 9月 2019 by

五・七・五 で完結する俳句をコレクションするノートを紹介します。
といって、特別なことは何もしていません。いいな、と感じる俳句を見聞きしたらば、それを”ZEBURA Surari 0.7 黒”で、ひたすら書き写すのみです。

使用ノート

ダイソーA6 Leather type notebook black 96枚→80枚・64枚

現在のところ9冊分

文字は三菱ペイントマーカー 細字油性不透明 で書いています。

見返し

通し番号と、書き写した書名をメモしておきます。

書式

このノートは横罫19行なので、これを縦書きで一行おきに俳句を記して、一頁に10句。160ページなら、最大1,600句を収蔵できます。初期には、見開きで文字を大きく書いたり、空行無しで詰め込んだりもしていましたが、読み返しやすさから、この書式に落ち着きました。

数えていませんが、現在まで、おおよそ14,000句ほどをコレクションできたと思います。

改良すべき点

一冊ごとの「目次」を作っていなかったこと。作者別の索引を考えていなかったこと。の二点です。
現在、「増補 現代俳句大系 1~15巻 角川書店」の抜書分のみ、目次を作成中で、その過程でページ数を書き込む作業中なので、ゆくゆくは、目次と、索引を充実させて、活用できるノートにしていきたいと考えています。

カッコ内の数字は、書き写した句数。これで自分の俳人の好みが分かります。

付録(自分のための忘備録)

以下に、書き写した本をまとめておきます。ご参考にな…… りませんね。(失礼)

  • ネットから拾った俳句
  • 正岡子規記念館HPの俳句検索より shikihaku.lesp.co.jp/index.html
  • 与謝蕪村全句集 おうふう(社)
  • 日本の詩歌(30)俳句集 中央公論新社
  • 現代俳句文庫22 攝津幸彦句集
  • 鑑賞俳句歳時記 夏 文芸春秋
  • 百人百句 大岡信 講談社
  • 一茶俳句集 岩波文庫
  • はじめての俳句づくり 辻桃子 阿部元気 日本文芸社
  • 決定版 俳句入門 角川学芸出版
  • 句会遊遊 NHK出版
  • 馬酔木俳句集
  • 現代俳句全集 一 みすず書院
  • 現代俳句全集 一 ~ 六 立風書房 (五は未読)
  • 現代俳句コレクション 上・下 ほくめい出版
  • 仰臥漫録 正岡子規 岩波文庫
  • 機嫌のいい犬 川上弘美 集英社
  • 句集 白體 柿本多映
  • 増補 現代俳句大系 一 ~ 一五 角川文庫

因みに、私が最も好きな俳人は 高野素十さんです。
それではまた。

Comments (0)

Tags:

きちきちの跳ね出るみちや魔法陣

Posted on 12 9月 2019 by

トラベラーズノート(茶)レギュラーをメインノートとして、心に映り行くよしなしごとをそこはかとなく書きなぐる日々です。
メインノート、というからには、サブノートというものがあるわけで。それは、トラベラーズノートで展開させていく種となる雑多なメモの体裁をとります。

ダイソー
「文庫本と同じサイズのノート」
ダイソー「文庫本と同じサイズのノート」

使い勝手のいいのは、この無地144枚の、ノートです。こちらに、キーワードを、気分で配置していくわけです。

新感覚派の世界的位置
日本の新感覚派の世界的位置についてのメモ

新感覚派(日)、ヌーボーロマン(仏)、ロシアアバンギャルド(露)、ドイツ表現主義(独)などを軸として、「言語と文章」の世界的潮流を考える図

写生文という言語
写生文とありのままの叙述との違い

ありのままを叙述する、という場合の、非日常性と修辞の問題を考える図

ネイキッド
ありのままと当たり前と裸と素朴に関するメモ

裸であることと、ありのままであること。意味を放棄することと痴ということ。捨てるべき我を捨てようとする我について、ガンダムと相田みつをさんと、レスリーニールセンさんと、裸のマハなどが顕れてくる図

徹子の部屋。ゲスト滝沢カレンさん
徹子の部屋。ゲスト滝沢カレンさん

徹子の部屋に滝沢カレンさんが出演した際に顕れたコミュニケーションの特色についての図

エラリークイーン著 「首吊りアクロバットの冒険」について
エラリークイーン著 「首吊りアクロバットの冒険」について

エラリークイーンさんが同作品で展開した推理の穴を考察する図

萩原朔太郎 meets 梶井基次郎
萩原朔太郎 meets 梶井基次郎

両者の年譜を調べ、朔太郎さんが京大入試を受けた際に、タイムスリップして梶井基次郎さんの檸檬事件を目撃しており、それをステレオタイプカメラに撮影していたことを、後年、伊豆で話し合う、という短編のメモ

世界の構造
仏教による「真如」と「世俗」の世界モデル

「一」であり、絶対無分別かつ絶対静寂であるはずの「真如」が分割され、この世という「物質存在世界」があるように感じられる世界モデルの試作図

イデアなき世界の芸術とは
イデアなき世界の芸術とは

あらゆるものの原型たる「イデア」を否定する立場から、絶対的美という在り方も否定されるとしたら、芸術とはどのようなものを指すのか、について考察する図

と、いう感じです。

既知と既知を図式に現す過程で、相関を想定していなかった既知が次々と想起され、しかるべきラインや座標に配置されて姿を現した曼荼羅に、創発ともいえる作用が起こり、未知が召喚されてくる。

私にとってのノートとは、そうした魔法陣のようなものなのでした。
というご報告でした。それではまた。

Comments (0)

かわりつづけるからかわらない

Posted on 16 6月 2019 by

かわらないものはなにもない から かわるものはなにもない
かたときもかわらないでいる もの はどこにもありはしない
とめどもなくかわりつづける もの にはかわり目などはない

脳は諦めない

ちがっているもの どうし をくらべることは
もとよりできない かわり つづけることには
慣れることさえも 不可能 であるはずなのだ

報告可能性

かわりつづけるのなら かわりたいものに
かわろうとするべきだ かわりたいものに
かわりつづけることで かわっていく世界

意識の経験

かわりたくない むかし にもどりたい
などと祈るのは どだい むだなあがき
なにしろなにも かわる ものなどない

2019年5月のマンスリー絵日記
2019年5月のマンスリー絵日記

かわることをおそれず かわらないことをみとめ
過去と今とを比べずに 逃れようのない今の形を
満喫していく全肯定が 唯一の真実だと信じてる

Comments (0)

Tags:

未来はノートの外にある

Posted on 07 5月 2019 by

未来はノートの外にしかない。
ノートがなければ未来はない

覚えておきたい本文は書き抜いておく

本か手紙かのいずれかを処分せよ、といわれても動じない。
必要な、本は抜書きしてあるし手紙はスクラップしてある。

資料を書き抜き、思いつきをメモする

過去を現在にもってくるのがノートだと思う。
現在を未来へと解き放つためにノートがある。

書いている途中に挿入される無関係なことがら

メモからノートへ、一切を遮断して記す作業もあれば、
さまざまな音や景色の中に埋没しつつ記すこともある。

捕まえたモノは決して離さない

どこかで何かがつながる。時間をもたない様々な事物。
しかし、それらを解読し展開する時空は限られている。

次元の異なる雑多なものを結ぶ

見開きという限定された容器の中に醸成される織物。
脆くとも見苦しくとも、害悪であったとしてもよい。

展開する左頁をアンカーする右頁

抜書きは解体され、思いつきと衝突事故を引き起こす。
思いつきは分解され、抜書きの行間に溶け込んでいく。

言葉だけでは足りなくなる未来の形

今の少し過去までの膨大な功績がもつれるノートの中。
お陰で少しだけ風通しのよくなった今の少し先の未来。

ノートは未来の外にあるから、
未来はノートの外にしかない。

おまけ 4月マンスリー絵日記

世界バクの日ありましたからバク週間があります。

Comments (0)

Tags: , , ,

World Tapir Day 4.27 世界バクの日!

Posted on 24 4月 2019 by

とりあえず獏部の野望 

獏部野帳なんか作ったりもしたい

デザインは(仮)です

KOKUYO CUSTOM FACTORY
測量野帳スケッチのレイアウトイメージ作成画面

それは、さておき、4月27日は
World Tapir Day 世界バクの日です!

4月27日は「世界バクの日(World Tapir Day)です!
世界バクの日とは、絶滅のおそれのある世界のバク類をより多くの人々に知ってもらうため2008年に設立され、世界各国の動物園や保護団体等が催しを行っています。

横浜動物園ズーラシア HP 世界バクの日 より

そこで、今年「世界バクの日」の催しがある日本の動物園を公式HPから拾ってみました。抜けがあるかもしれませんが、随時補足してまいります。GWは、バクに会いにいこう!

世界バクの日イベント一覧

動物園名・所在地・あいにいけるバクの種類・イベント内容
※順不同 ※各リンクはイベントページへのものです。

東武動物公園 埼玉県白岡市爪田ヶ谷425番地 マレーバク
2019年4月27日(土)14:00〜(約10分)マレーバク展示場前

4月27日は世界中でバクの保護を呼びかける「世界バクの日」です。
それに伴い、当園のマレーバク展示場にて、特別ガイドを行います。
当園で暮らす2頭のマレーバクの紹介はもちろん、野生のマレーバク達がおかれている現状を詳しくお伝えします。
是非ガイドを聞いてマレーバクについて少しでも知っていただければ幸いです!

同園イベントHP

千葉市動物公園 千葉県千葉市若葉区源町280 マレーバク
平成31年4月27日(土曜日)①11:15~12:00、②14:15~14:30
・お面づくり
・絵本の読み聞かせ
・飼育担当者のバクガイド
場所 バク展示場前
その他 当日、ご参加いただいた方にオリジナルバクグッズをプレゼントします

横浜動物園ズーラシア 横浜市旭区上白根町1175-1 マレーバク
4/27(土) 4/28(日) 4/29(月) 4/30(火) 13:30~ ※15~20分程度 マレーバク展示場
特別イベントでは、マレーバクに特別なエサをあげたり、飼育員がマレーバクにブラッシングを行いながらガイドをします。

とべ動物園 愛媛県伊予郡砥部町上原町240
2019年4月27日(土)13時~ (アメリカバク)13時30分~(マレーバク)マレーバク舎前およびアメリカバク舎前
世界バクの日にちなみガイドイベントを実施します。

4月27日の「世界バクの日」は、絶滅にひんしているバクの現状を知っていただくために設立されました。当園でもバクについてもっと知っていただくため、マレーバク、アメリカバクそれぞれのバクについてガイドイベントを行います。ぜひお越しください。

同園イベントHP

広島市安佐動物公園 広島市安佐北区安佐町大字動物園 マレーバク
平成31年4月27日(土)11時30分~11時50分 マレーバク展示場前
バクの生態や野生のバクの現状について、啓発パネルなどを用いて解説します。

安佐動物公園では、4月27日の世界バクの日(World Tapir Day)にちなみ、4月27日(土)に当園で飼育しているマレーバクの解説や啓発パネルの掲示などを実施します。

同園イベントHP

福岡市動物園 福岡市中央区南公園1番1号 マレーバク
日時:4月27日(土曜日)14時30分~ 場所:マレーバク舎

4月27日は「世界バクの日」です。「世界バクの日」は開発のため生息地が減少し、絶滅が危惧されているバクの現状を多くの方に知っていただくために設立されました。
福岡市動物園では「世界バクの日」にちなみ、当日、マレーバクのガイドを開催します。
ジュリ(オス) 1988年5月31日生まれ  ※「ジュリ」は国内最高齢です
ジュムリ(オス) 1996年1月6日生まれ
ユメコ(メス) 1991年12月19日生まれ

同園イベントHP

長崎バイオパーク 長崎県西海市西彼町中山郷2291-1 マレーバク
4/27-5/6 ①11:00~ ②14:00~ 各10分程度 マレーバク展示場

白黒にはっきり分かれた体色が特徴のマレーバクについて、担当飼育員が解説を行います。
飼育員ならではのこぼれ話が聞けるかもしれませんよ。

同園イベントHP

京都市動物園 京都市左京区岡崎法勝寺町 岡崎公園内 ブラジルバク
4月27日(土)14時~ゾウの森 ブラジルバク舎 東側
今週の4月27日(土)に、世界バクの日~World Tapir Dayのイベントを開催します!

当日は普段なかなか見ることができない“健康診断”の様子を公開します!
体重測定や獣医による診察の様子を公開する予定です!
併せてバクについてのガイドも行いますので、ぜひ動物園へお越しください(^U^)

同園イベントHP

池田動物園 岡山県岡山市北区京山2丁目5番1号 アメリカバク
平成31年4月27日(土)11:30~ アメリカバク舎
無料エサやり、ブラッシング バクさんのことを知ろう!!

愛媛県立とべ動物園 愛媛県伊予郡砥部町上原町240 アメリカバク
平成31年4月27日(土) 13:00~ アメリカバクガイド

鹿児島市平川動物公園 鹿児島県鹿児島市平川町5669-1 ブラジルバク
4月27日(土)、28日(日) 午後1時30分~ バク舎
4月27日「世界バクの日」にちなんでバクの解説を行います。どなたでもご覧いただけます。

以上です。
このほかにも、さまざまな取り組みをなさっている方々がいらっしゃいます。
 この春、マレーバク界隈は赤ちゃんが生まれたり、移動があったり、とても賑やかですね。
 さて、獏部はどこへむかうのか。野望は実現するのか…
みなさま。どうぞバクに関心をもって、バクのためにできることにとりくんでいきましょー!

バク豆知識
バクの妊娠期間は400日と長く、しかも一回に一頭ずつしか産まれませんから、減ってしまった個体数を増やしていくのは、とてもたいへん。
(バクのいない星では愛せないだろう 獏部でした。)

Comments (0)

Tags:

瑣末な抹消の書式に関する煩瑣な事項

Posted on 17 4月 2019 by

線は一本? 二本? ヘアピン型? 稲妻型? ぐるぐる型?
塗りつぶす派? 楕円形に? 四角形に? 何往復もさせて?
目玉つけて虫にしたりする抹消キャラ的なものがありますか?
修正ペンなら液体派? テープ派? マステでデコるタイプ?
訂正箇所は続けて? 罫線の上?下? 上から強引になぞる?
誤記訂正の痕跡は残すべき? それとも最初からしきり直す?
×印を使用する人のことを忘れてるぞ って思ってましたか?
訂正する場合に筆記具を 赤とか蛍光ペンとかに替えますか?
面倒なのでそのまま突っ走っていくのもありだと思いますか?
ノートに訂正が入るのが嫌な場合は鉛筆で下書きをしますか?
下書きの文を忠実になぞって書くことが苦手は人はいますか?
はい。私は苦手です。そして誤字もものすごく多いのですが、
勢いを押し留めることができないので訂正はとても乱暴です。
訂正が多いノートはそのノートの価値を貶めると思いますか?
訂正が多かろうが少なかろうが書かれた事自体が重要ですか?
なぜそんな誤記をしたのかについて自分で説明ができますか?
誤記には理由があるという考え方についてはどう思いますか?
誤記は抹消加筆によって なかったことになると思いますか?
誤記を見つけて訂正するときあなたは誤記を憎んでいますか?
誤記を消す際 誤記に敬意を表するというのはどうでしょう?
あなたの意図せぬモノの手触りを誤記から感じはしませんか?
その誤記にこそあなたのリアルが潜んでいたりはしませんか?
あなたの誤記への姿勢は他の何に対する姿勢に似ていますか?
この瑣末な抹消の書式に関する煩雑な事項をどう思いますか?

三月のマンスリー絵日記

2019年3月分


Comments (0)

Tags: ,

1=0.5=2=∞=1

Posted on 16 3月 2019 by

どんなに頑張っても半分までしか分からない
だからその半分が全部だと思ってしまうけど
全部の半分を隠している幕に映る半分のこと
半分を隠さないと何にも分からないのが人間

隠れた半分に映る自分以外はみんな自分以外
自分と自分以外でこの世の半分ができている
あとの半分は自分以外の自分の半分があって
そこでは他人と他人以外の他人が映っている

半分と半分を足して一つになる計算だけれど
一つと一つを足せば二つになる計算だけれど
半分と半分を足して二つになる世界があって
一つと一つを足して一つになる世界があって

自分がいて自分以外の全てがいる世界があり
他人がいて他人以外の全てがいる世界があり
自分と他人がお互いを認めあえる世界があり
他人と自分との区別がなくなる瞬間があって

隠れた半分とそこに映る半分とが明滅しあい
明滅する半分のそれぞれに接する半分があり
その一つ一つの半分ずつとが響きあう刹那に
全ての半分が一つになり無限の一つが現れる

(存在)

おまけ マンスリー絵日記

2019年1月分
2019年2月分

Comments (0)

嘘つき

Posted on 27 1月 2019 by

嘘を書こう 分厚いモレスキンに
嘘を書こう 四角い紳士なノート
嘘を書こう 嘘が教えてくれる物
嘘を書こう 婚姻届の立会人欄に
嘘を書こう システム手帳聖書判
嘘を書こう 測量野帳のレベル罫
嘘を書こう リツイートの言葉で
嘘を書こう 鳩居堂の便箋一杯に
嘘を書こう 資金調達PRとして
嘘を書こう 美術館の絵葉書裏に
嘘を書こう 自伝エッセーの中に
嘘を書こう リフィルの見返しに
嘘を書こう ノートブッカーズに
嘘を書こう 確定申告の記載欄に
嘘を書こう 仲直りの手紙の全文
嘘を書こう 思いつく限りの嘘を
嘘を書こう 企業の内部告発文章
嘘を書こう ヌラリフィル滲ませ
嘘を書こう 十年日記帳を埋めて
嘘を書こう 美しいガラスペンで
嘘を書こう 目撃証言覚書として
嘘を書こう ペリカンM800で
嘘を書こう マークシート試験に
嘘を書こう クーピーのお尻側で
嘘を書こう 読書感想文の丸ごと
嘘を書こう スケッチブック一杯
嘘を書こう 七夕の短冊の全てに
嘘を書こう 離婚届の理由記載の
嘘を書こう 毎朝の抜書帳として
嘘を書こう 嘘専用ノート以外に
嘘を書こう 興信所の調査報告書
嘘を書こう ムーンプランナーに
嘘を書こう 国勢調査アンケート
嘘を書こう ほぼ日MEGAのメモ
嘘を書こう 取調べの供述調書に
嘘を書こう 薄墨のご芳名記載時
嘘を書こう 日めくり付箋に短く
嘘を書こう 消費者金融の借用書
嘘を書こう サンタさんへの手紙
嘘を書こう 実録怪談へ投稿作品
嘘を書こう 別の名前で書く手帳
嘘を書こう 初診の際の問診票へ
嘘を書こう ツバメノート立太罫
嘘を書こう 遺産配分の遺言書に
嘘を書こう 古典インクを用いて
嘘を書こう 出生届けの名前欄に
嘘を書こう 通信簿の行動記録へ
嘘を書こう 分数テストの答案に
嘘を書こう 無印良品メモパッド
嘘を書こう 老老介護の家族の話
嘘を書こう 毎朝書いてる夢日記
嘘を書こう 本当に少し混ぜた嘘
嘘を書こう 嘘を書いた事は事実

(虚実)

Comments (0)

Tags: , ,

初日記

Posted on 11 1月 2019 by

初日記インクの玉をおとしけり 浦野鷗城

角川俳句歳時記・新

鍵付日記帳を始めて見た
泊まりに来た妹の友達が
キキとララのカヴァーの
鍵付日記帳を書いていて

日記は書きたくなかった
でも鍵付日記帳が欲しい
日記帳だからではなくて
鍵付ノートだったからさ

鍵付ノートに何を書こう
人に知られたくない秘密
人に知られたくない感情
人に知られたくない野望

そんな持ち合わせは無い
僕は読書ノートを書いた
鍵をかける必要など無く
鍵も金具も邪魔なだけだ

やがて鍵をみんな失くし
タブを鋏でちょん切って
鍵付ノートは失くなった
この話はこれで終しまい

思慕

Comments (0)

欠片製造者&おまけ

Posted on 21 12月 2018 by

眉を動かすだけで世界は砕ける
探求は砕く方向にしか進まない
収集した破片を不器用に固める
自分がいない世界を知るために

砕ける以前の世界なんて無いし
そこが完全世界だなんて幻想だ
対称性の破れ、余りものの破片
この世はもともと砕かれている

砕かれたものを知るために砕く
砕いたことを恐れて繋ぎ合わす
そうやってマレーバクは生まれ
大脳辺縁系は爆発的に進化した

見失われた欠片を補う想像力は
砕かれる以前の世界を捏造した
砕けた欠片の砕かれた世界の中
ないものを信じる力に囚われた

絶対に舐めて溶かすな噛み砕け
前歯で割って奥歯ですり潰して
浜の砂より片栗粉より石灰より
微細な粉塵にして吹き飛ばして

さざれ石の磐となりて苔の生す
そんな輪廻を乗り越えるために
渦撒く思念までも吹き散らして
全ての全てが一にまとまるまで

(贈与)

おまけ

文具俳句(コンパス・消しゴム・筆箱・絵具)

コンパスの一肢がおどり冬雲刺す             小暮洗葦
コンパスが描きちらしたる曼珠沙華            三嶋隆英
燈台をコンパスとして海涼し               下村梅子

消しゴムを借りしかの人かの時間             上野草魚子
消しゴムは投げ捨ててゆく初潮の日            畑井貴晶
消しゴムの消屑をわが掃納め               鷹羽狩行
山笑う消しゴムでその山を消す              清水冬視
真四角な消しゴムをのせ受験票              森田公司
ささくれ立つ消しゴムの夜で死にゆく鳥          赤尾兜子
紙に掬ふ消しゴムの屑啄木忌               奥谷亞津子
春愁や消しゴムの屑手にあつめ              足立 とみ
消しゴムがもう少し痩せた頃に夏             櫂未知子
消しゴムを買いためている桜桃忌             たまきまき
私を消す消しゴムがない晩秋               栗林千津
消しゴムや麓の川を川蒸気                攝津幸彦
消しゴムと鉛筆の机蓬餅                 瀧井孝作

筆箱の中の宇宙の鬼やんま                正岡 豊
げんげ道筆箱が鳴るランドセル              吉原文音

色のない絵の具で熊手塗りにけり             猪原丸申
そり返る絵の具のチューブ夏旺ん             平吹史子
白き皿に絵の具を溶けば春浅し              夏目漱石
かはせみや絵の具を流すおのが影             馬光
絵の具箱明日は林間学校へ                西村和子
落ち葉道描くとき絵の具ねむらせる            栗林千津
初冬や石油で洗ふ絵の具筆                栗林千津
蓮池の水もて絵の具溶きにけり              辻桃子
菊さけり蝶来て遊べ絵の具皿               服部嵐雪
新緑やこつてリ絵の具つけて描く             高田風人子
幾春の絵の具や兀し涅槃像                松岡青蘿

Comments (0)

Tags:

迷うことには迷いはない

Posted on 08 12月 2018 by

迷うことを迷わないで
迷うことこそ前向きだ
迷うことを悩まないで
真正面から迷えばいい

迷うことを悩むなんて
迷うことが無駄になる
迷うことを迷わないで
一心不乱に迷わなきゃ

迷うことこそが全てだ
だから次々と迷いたい
世界に迷路を見出して
どこでも遊び続けたい

堂々巡りに陥ったって
全ての道を失ったって
迷うことを諦めないで
最期まで迷い続けたい

(謳歌)

おまけ:11月のマンスリー絵日記

Comments (0)

Note of the note ―ノートの調べ p.10 三島由紀夫 「豊饒の海」創作ノート

Posted on 23 11月 2018 by

Note of the note -ノートの調べ」 と題した不定期シリーズ。
このシリーズでは、著名人のノート、手稿、手帳、日記などを紹介し、そこに込められた作法と思いを検証していく。

第10回目は、三島由紀夫さん『豊饒の海』の創作ノートを記録する。

出典

写真・解説『決定版 三島由紀夫 全集 14』新潮社
解説   『決定版 三島由紀夫 全集 13』新潮社
解説   『三島由紀夫 幻の遺作を読む もう一つの『豊饒の海』』井上隆史 光文社新書 2010.11.20

はじめに

昭和44年11月25日。陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹の日、『豊饒の海』の最終原稿が編集者に渡された。この作品には出典書執筆時点で「創作ノート」23冊が確認されている。

多くはB5版の大学ノートであるこの「創作ノート」には、全四巻に及ぶ「大長編」の構想、取材記録、さまざまな確認内容、草稿スケッチ、日記などが記載されている。

研究者にとって重要なのは、この小説が、当初、五部構成の、どちらかというと「救済」の物語であったものが、第三巻執筆にあたって、四部作のアンチ物語ともいえる内容へと大改編されている点にある。ここに、三島由紀夫さんと日本、日本の歴史とのかかわりを読み取ろうという研究がなされるわけだが、私に興味があるのは、「創作ノート」そのものだ。

その意味で、23冊ものノートのうちの数枚しか、写真を見つけられなかったのが、とても歯がゆい気持ちである。(よく探せば、公開された図版はもっとあるのかもしれない)
今回は、出典資料にあったノートの概括(サイズ、表紙などへ書き込みの一部)をリストとしてまとめおくのみとなることを、あらかじめお断りしておく。

第一巻 「春の雪」 創作ノート 5冊

1「大長編 Sketch ① 三島由紀夫」(21.7×15.2)
2「大長編ノオト 1 三島由紀夫」(22×15.5)
昭和39年秋~昭和40年前半
3「大長編ノート 2 三島由紀夫」(21.3×15.4)
原稿用紙二枚ホッチキス留め有
4「大長編ノオト(尼寺)」(23×16.4)
[第三巻 第四巻に関係あり…]
5「大長編ノオト(尼寺②)1965 三島由紀夫」
添付メモ(14.3×10.6)18枚、寺のパンフ

コラム1

三島由紀夫さんは、はじめに最後までの構成を固めた上で書き始める作家だそうだ。その点からも、この作品は特異なものであるといえる。

「もっと大きなドラマティックな展開、神と悪魔のやうなものがないと四巻のラストとしては重みがない」

「世界はどうあっても存在しなければならないからだ。しかしなぜ? なぜなら迷界としての世界が存在することによって、はじめて悟りの機運がもたらされるからである」

第二巻 「奔馬」創作ノート 7冊

1「奔馬 三島由紀夫 Solarismの小説 日輪と崖上の自刃のイメーヂ」(21.4×15.2)
2「奔馬 ② 夢日記」(21.4×15.2)
[大正3年3月清顕20歳で死す、神道の「中今」と仏教の「同時交互因果」の時間概念と…]


上:杏子色の地に白い杖に緑の葉に黄色の花のステンドグラス
下:法廷の図

3「Sketch ② 三島由紀夫」(25.3×17.8)
[川と霧と田 猟銃の値段…]
4「大神々社 三島由紀夫 1966.8月」
5「神風連 三島由紀夫 〈地図及び方言集〉」(21.4×15.1)

6「奔馬(刑務所」(21.3×15)
[市ヶ谷は水洗か否か…]
7「奔馬」(25×18)

コラム2

畳半分ほどの紙に登場人物や年代を書いた一覧表数枚と取材ノート数十冊をかかえて、三島氏の自負と意欲とエネルギーはビクともしそうになかった。
「地球につめ跡を ―わが構想」(読売新聞 昭和42年2月2日)

第三巻 「暁の寺」創作ノート 5冊

1「バンコック取材〈バンパイン離宮〉」(22.5×16.3)

2「薔薇宮①」
(22×15.4;タイで購入したと思われる学習帳。表紙に象に乗る王と衛兵の絵 Naresuan THE GREAT KING 裏表紙にはタイの地図)
3「laos,India & Bangkok 暁の寺 三島由紀夫 1967」(21.4×15.3)
4「暁の寺 戦後篇」(22.5×16)
5「暁の寺」

コラム3

「すなわち「暁の寺」の完成によって、それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完成し閉ぢられると共に、それまでの作品以外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になったのです。(中略)
しかしまだ一巻が残ってゐる。最終巻が残ってゐる。
この「小説がすんだら」といふ言葉は、今の私にとってのタブーだ。この小説が終つたあとの世界を、私は考へることができないからであり、その世界を想像することがイヤであり怖ろしいのである」
『小説とは何か』(「波」昭和45年5月6日)

第四巻 「天人五衰」創作ノート 5冊

1「第四巻 plan」(22.8×16.2)昭和45年3月~4月
裏表紙[Coffee Shoe Brush Fountain Pen → PX …」※PXは米軍基地内の購買店
2「第四巻 月蝕 三島由紀夫」(23×17.2)
スパイラルノート

3「円照寺 〈1970.7.22〉」
表紙余白に以下の記載
第四回( 8月)海(夕刻)狂女、アパート 海(午後)
第五回( 9月)下田から船で清水へ航海
第六回(10月)養子縁組と本多の実務教育
第七回(11月)本多の死の準備とい平穏な生活

4「清水 8/10」(21.6×15.2)
5「横浜取材 岸壁から手記を捨てる」(22.8×16.1)

コラム4

取材ノートに記載された、町並み、港、海などの描写は、単に「記録」という味気ないものではなく、かといって、作中のペンキの書割のような芝居染みた文体でもない、生粋の「写生文」である。これらを読み、、改めて、三島由紀夫さんは、物語作家なのだと感じた。

物語を書き続けた作家が、最後の最後で、すべてを「無(空ではない)」に帰する、アンチ物語の物語、を書いたというところが私には面白い。

おわりに

図版が少ないため、創作中の情熱や逡巡を十分に感じ取ることができなかったのが残念だ。

主要部分はほぼ活字として読むことはできるのであるが、やはり、「線」が見たい。私はノートの文字を読み取るのではなくて、「感情線とでもいうほかない痕跡」を見たいのだと思う。

「豊饒の海」は20歳で死んで、転生を繰り返す主人公を見守りながら醜く老いていく男の一代記である。
それは、ガンダムシリーズにおける、キャスバル・レム・ダイクンの物語であり、帝都物語における鳴滝純一の物語なのだ。
私はこれまでに読んだ三島さんの作品のなかで、この作品が一番好きだ。その読後感は、山田風太郎さんの「柳生十兵衛死す」に比肩するものだと思っている。

Comments (0)

Tags:

手帳のパズル。粘土のノート。

Posted on 09 11月 2018 by

捨ててもいいタスクなんてない
忘れてしまえる思いなんてない
サインをもらえばタスクは完了
カタチにできれば思い出になる
次々とタスクは投げかけられて
どんどんと思いは募っていって
限られた居場所を圧迫していく
片付けはあまり得意じゃなくて
捨ててしまうのも好きじゃない
角と角をそろえて隙間を埋めて
試行錯誤をして思いをカタチに
手帳のパズル。粘土のノート。
限られた居場所に二種類の時空
タスクをはめこむ緻密なパズル
思う存分に思いをこねる粘土板
首に鈴をつけて放牧するタスク
地層の深部から声を上げる思い
きちんとできるものならば簡単
四角いものならぴったりはまる
きちんとしてないものには驚嘆
丸ごと抱えて徹底的に交わって
今までの今のそしてこれからの
全てがこの手帳とノートにある

(双系)

おまけ 10月のマンスリー絵日記

 

 

Comments (0)

Tags: , , ,

Note of the note p.9 正岡子規「仰臥漫録」―ライフログの壮絶

Posted on 27 10月 2018 by

はじめに

Note of the note -ノートの調べ」 と題した不定期シリーズ。
このシリーズでは、著名人のノート、手稿、手帳、日記などを紹介し、そこに込められた作法と思いを検証していく。
第9回目は、正岡子規さんのライフログ、『仰臥漫録』に向き合ってみる。

出典

図版00
仰臥漫録 岩波文庫

『仰臥漫録』の状況

まず、このライフログがどのような状況下で綴られたのかを、同書巻末の阿部昭さんの解説から引用する。

『仰臥漫録』の筆を起した明治三十四年(1901年)、子規は三十五歳、すでにその肺は左右ともに大半空洞となっていて、医師の目にも生存自体が奇蹟とされていたという。翌三十五年、病勢はいよいよ募り、春以降は麻痺剤を用い、九月初旬足の甲に水腫を見、同月十九日未明遂に絶命する。「仰臥」とは、俯すことが出来ぬので文字通り仰むけのまま、半紙を綴じたものに毛筆で記したのである。(p.191)

私がこれを、ライフログと呼ぶのは、動かせぬ体と激痛の最中、病床六尺を一歩も出ることなく、ある種の貪欲さをもってこれを書き継ぐ「文章人」の気魄に飲み込まれぬためである。
写生俳句、写生文を提唱し、文明開化後のあらゆる「文」の改革を自らの使命とした正岡子規さんが、自らをも、写生し尽くそうとする態度を、憐憫や英雄視などで歪めぬためである。
それにはただ、向き合うしかない。その命までをも写生する唯一無二なるライフログとして。

健啖と後悔と

淡々と献立を記すというのは、円谷幸吉さんの遺書にとどめを刺すが、『仰臥漫録』においても、日々の克明なる献立の記述と、食いすぎた後の煩悶。また食えなかった時の苛立ちが腹に染みる。

図版25(下記引用とは別頁)

朝 粥四椀、はぜの佃煮、梅干し(砂糖つけ)
昼 粥四椀、鰹のさしみ一人前、南瓜一皿、佃煮
夕 奈良茶飯四椀、なまり節(煮て少し生にても)、茄子一皿
この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす
二時過牛乳一合ココア交て
煎餅菓子パンなど十個ばかり
昼飯後梨二つ
夕飯後梨一つ
服薬はクレオソート昼飯晩飯後各三粒(二号カフセル)
水薬 健胃剤
今日夕方大食のためにや例の左下腹痛くてたまらず、暫くにして屁出で筋ゆるむ (pp.11-12)

何たる食欲。門下生夏目漱石さんも、ジャムなど食べ過ぎて胃をいぢめいたが、子規さんにも驚かされる。そしてこの健啖ぶりは、衰えることがない。
食らうのは体である。病とは体の病である。「私」とは徹頭徹尾「体」であった。そんな体に囚われながら、子規さんは「六尺では広すぎる(『病床六尺』より)」と言い、句作を続ける。

病床の景色

とにかく、動くことができない。仰向けに寝ているだけ。聞こえるもの、来客、家族との会話、お土産もの、そして庭から映る様々のこと。

図版31

病床所見
臥して見る秋海棠の木末かな
秋海棠朝顔の花は飽き易き
秋海棠に向ける病の寝床かな(p.30)

動けないから、句が読めない、などとはいわない。しかも写生俳句である。
以前私は『異邦人』の主人公ムルソーが、第二章において牢獄にとらわれている間にすっかり凡人となり下がることが残念で、「彼は写生俳句を作るべきであった」と思った。それはブーメランのように、自分に跳ね返ってくる。

図版87
病室前の糸瓜棚 臥して見る所(p.87)

図版34

此蛙の置物は前日安民のくれたるものにて安民自ら鋳たる也
無花果に手足生えたと御覧(ごろう)ぜよ
蛙鳴蝉噪彼も一時と蚯蚓鳴く (p.34)

俳句の俳諧性。これは世の中に滑稽さを感ずることだと思う。端的にいえば、己を去って、面白がる姿勢だ。ここに「皮肉や、冷笑」などは一欠けらもない。それは俳句を、いや文を、そして自らを濁らせるものだ。
お土産の蛙を手にとり、ためつすがめつするところは、夏目漱石さんの『門』で、宗助が起き上がり小法師で遊んでいる場面を髣髴させる。

則天去私から則私則天。そして則私去私へ

図版99

前日来痛かりし腸骨下の痛みいよいよ烈しく堪られず、この日繃帯とりかへのとき号泣多時、いふ腐敗したる部分の皮がガーゼに附着したるなりと
背の下の穴も痛みあり 体をどちらへ向けても痛くてたまらず
この日風雨 夕顔一、干瓢二落つ(pp.98-99)

この状態で、なお風物を気に留め、描きうる胆力に言葉もない。だが、こうして文や、俳句にしようとするとき、現実の惨状は、対象となり句材となる。そのとき、「私」は「天」の方へ少し離れる。このわずかの距離に文人は最大の愉悦を覚える。

図版107

(前略)さあ静かになった この家には余人一人となったのである。余は左向きに寝たまま前の硯箱を見ると四、五本の禿筆一本の験温器の外に二寸ばかりの鈍い小刀と二寸ばかりの千枚通しの錐とはしかも筆の上にあらはれている さなくとも時々起らうとする自殺熱はむらむらと起こって来た(後略)(p.105)

この時は、恐ろしさ(死ぬことよりも苦しむこと。死損なうこと、刃物そのものの)に煩悶し、しゃくりあげて泣き出していると、母が帰宅して、実行にいたらない。そして、小刀と千枚通しの絵を描き残すのである。

作品と私生活とに距離のない時代だった。私小説とは、作家の生活そのものとして発表された。そんな中で、「写生文」は、「心境描写」を徹底的に排除することにより、私と作家との間に空隙を確保した。その空隙に「天(普遍)」が入る余地をもたらした。

「日記」ではない。「写生日記」である。ライフーログとは、まさに事実をそのまま記録する姿勢である。記録者であることはつまり、自らを自らという観測器の技師の地位におくことに他ならない。

われらなくなり候とも葬式の広告など無用に候 家も町も狭き故二、三十人もつめかけ候はば柩の動きもとれまじく候
何派の葬式をなすとも柩の前にて弔辞伝記の類読み上候事無用に候
戒名といふもの用ゐ候事無用に候 かつて古人の年表など作り候時狭き紙面にいろいろ書き並べ候にあたり 戒名といふもの長たらしくて書込に困り申候 戒名などはなくもがなと存候
自然石の石碑はいやな事に候
柩の前にて通夜すること無用に候 通夜するとも代りあひて可致候
柩の前にて空涙は無用に候 談笑平生の如くあるべく候(pp.113-114)

「私」と「天」との間には、不透明で重たい「体」が存在する。「体」を離れて「私」はなく、「体」に囚われていては「天」には至らない。「私」は「体」に癒着し「体」を抜け出ようとする抵抗の中にのみ「天」を感じることができる。写生論が唯物主義であるのは決して、「体」を無視することができないからである。ライフログとは、「体」の記録でなければならない。

さいごに

『病床六尺』の最後の回の載った翌九月十八日、覚悟の子規は妹律らにたすけられて辛うじて筆を持ち、画板に貼った唐紙に辞世の句を書付けた。「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」。痰を切り、ひと息いれて、「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」。また一休みして、「をとゝいのへちまの水もとらざりき」。そこで、筆を投げた。穂先がシーツをわずかに汚した。そしてその日のうちに昏睡におちいった子規は、越えて十九日の午前一時に、息を引き取る。三十六歳。いまふうに数えて、三十五歳になる直前であった。
(『病床六尺』解説 上田三四二 p.193 岩波文庫)

図版7
明治三十四年九月二日 雨 蒸暑し

銘記すべきノートである。

Comments (0)

Tags: ,

the note of jam organ とおまけ

Posted on 07 10月 2018 by

無罫を好む五線譜さえも不要
音と音符の声と言葉の不適切
声から始まることだけが真実
頭から声を取戻すための叛乱

肺の小腸の心臓の腎臓の声や
副鼻腔の十二指腸の横隔膜の
肝臓のランゲルハンス島の声
手から声を取戻すための叛乱

第六感とはオルガンを聴く力
五臓六腑をノートにぶちまけ
フリーインプロビゼーション
頭はオルガンの共鳴箱である

(零度)

おまけ 9月のマンスリー絵日記

Comments (0)

Photos from our Flickr stream

See all photos

2021年9月
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930  

アーカイブ