Archive | Book

Tags:

notebookers’s guitar & sister

Posted on 11 2月 2023 by

妹にもらったギター
ノートブッカーズにとってギターとは

ノートブッカーズにはギターが似合う 気がして
もちろん ベースもドラムもサックスもフルートも似合う と思うのだけれど
なにしろ
ギターは抱いて爪弾く楽器で
それは手帳に似ているのではないかと感じたりも する

触覚に関する抜書
触覚に関する抜書

手帳に書くということを 楽器になぞらえたことが あったはず
なかったかもしれないけれど
なかったとしたらそれは わたし不徳の致すところで
筆記具と紙面とが触れ合う感覚を偏愛する ノートブッカーズの繊細な
メルケル盤よ マイスナー小体よ バチニ小体よ ルフィニ終末よ
そして何よりも感謝すべき
C触覚繊維 よ
それは有毛部に存在し 接触によって生じた感情の信号を時速3.2km/hで伝達する
軽いタッチに敏感なセンサー その特性によれば
完璧な愛撫とは 32℃の温もりによる毎秒2~10m

だから ゆっくりと 弾けばいい
今は未だ絃とフレットを たどたどしく数えながらであっても やがて
種々のメカノレセプターと小脳に蓄積された経験値によって自動化されて
純然たるC触覚繊維からのたゆとうような信号のみが
大脳辺縁系に届けられるようになるのだろう

だから ゆっくりと 書く行為そのものを楽しみながら 書けばいい
そうして
クリスマスまでになにか一曲 諳んじて弾けるようになれたら

ところで
今回のタイトルの & sister については
この2本のギターをわたしにくれた妹については
尊敬と感謝の念を抱きつつ
いずれ書き記すこともあるかもしれない
ないかもしれない

そんな感じ

(参考文献『皮膚、人間のすべてを語る』 モンティ・ライマン/塩﨑香織訳 みすず書房』)

トラベラーズノート近影
トラベラーズノート近影

Comments (0)

Tags: , ,

2021年の積読の進捗について

Posted on 28 11月 2021 by

はじめに

 ほぼ日手帳weeksMEGAの、MY100は、読んだ本と読了日を記載している。

今年は50冊

 通常、買ってあるのにまだ読んでない本を積読と呼ぶのだろうが、私は「読みたいと思うがまだ読んでいない本のリスト」を積読と称して、手帳のNOTEの最後尾215Pからを、そのリストに充てている。

現在109冊ほど

 新刊ばかりではなく、むしろ古書店や図書館に主軸を置いて「読みたい」本をリストにする。その際に目安になるのは、やはり他の人のレビュー・感想だ。特にtwitterには、興味深い書籍情報が次々と流れてくる。それらを書き留めて「いつか読みたい」とストックしておき、読むことができたものは線を引いて消していく。

 この習慣は4年前、「ほぼ日手帳weeks MEGA」を使うようになってから始めた。その年に読むことが出来ず、なおかつ次年度に持ち越しても読みたいと思える本は年を跨いで書き写す。そのようにして続いている私の「積読リスト」。

今回はそれを書き写す。ただそれだけの内容である。

積読リスト 20211127現在

科学と文学 寺田寅彦 角川ソフィア文庫

忘れられた日本人 宮本常一 岩波文庫

月の客 山下澄人

プライヴァシーの誕生 日比嘉高 新曜社

円をめぐる冒険  紀伊国屋書店

コンビニに生まれかわってしまっても 西村曜

新古今の惑星群 塚本邦雄 講談社

視覚的人間 岩波文庫

失踪の社会学 中森弘樹

小林苑を句集 点る  ふらんす堂

鑑賞の書 山口誓子

ポオ評論集 岩波文庫

山崎俊夫作品集

drawing Indian artist Vasudeo.S.Gaitorde

古典の未来学 荒木浩

実験小説名作選 日本ペン倶楽部編 筒井康隆選 集英社文庫

空海「秘蔵宝鑰」をよむ 福田亮成 国書刊行会

ゆび先の宇宙 生井久美子 岩波文庫

歩くひと ー完全版ー 谷口ジロー 小学館

翻訳 訳すためのストラテジー オックスフォード大学出版社

ビルバオ ニューヨーク ギャン・ウリベ 白水Uブックス

竹とヴィーナス 大滝和子

聖なるもの ルドルフ・オットー 岩波文庫

シンメトリー ヘルマン・ヴァイル

偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論 イーヴァル・コクランド

パロディーの理論 ハッチオン

物の体系 記号 消費 J・ボードリヤール

新視覚新論 大森荘蔵

相互扶助の経済 無尽講 報徳の民衆思想史

ヒューマニズムとテロル モーリス・メルロポンティ

テクストのぶどう畑で I・イリイチ

精神分析と横断性 制度分析の試み F・ガタリ

ランシュール 新〈音楽の哲学〉哲学の現代を読む5

心のなかの身体 想像力のパラダイム マーク・ジョンソン

ワット サミュエル・ベケット

紙葉の家 マーク・Z・ダニエレブスキー

短歌に親しむ 佐佐木幸綱

今日はじめるひとのための短歌入門

性食考 赤坂憲雄

20週俳句入門 藤田湘子 角川俳句ライブラリー

地図集 薫啓章

ある感傷的な小説 アラン・ロブ・グリエ

脱ぎ捨てて 箱森裕美

魔の山 トーマス・マン

記者のスランプ デイビッド・マークソン

消失点 デイビッド・マークソン

最後の小説 デイビッド・マークソン

小島一郎写真集成 インスクリプト

岡本かの子全集9 筑摩書房

夜の水平線 津川絵理子 ふらんす堂

宇宙の音符 豊里友行 沖縄書房

めるくまーる 樋口由紀子 ふらんす堂

カフェにて 能城檀 ふらんす堂

さくらさねさし 水原紫苑

びあんか うたうら 水原紫苑

世界史の実験 柄谷行人 岩波新書

「世界史の構造」を読む インスクリプト

風とマルス 花山周子 塔21世紀叢書

屋上の人屋上の鳥 花山周子 塔21世紀叢書

短歌タイムカプセル

2666 ロベルト・ポラーニュ 白水社

紙の民 白水社

告白 アウグスティヌス

身ぶりと言葉 新潮社

俳句という遊び 句会の空間 岩波新書

量子力学が語る世界象 ブルーバックス

新短歌の教室の歌集 ナナロク社

短歌という爆弾 穂村弘 小学館

光聴 岡田一実 素粒社

パーティーは明日にして 木田智美 書林侃侃房

みじかい髪も長い髪も火 平岡直子

水の聖歌隊 笹川諒

かくれた次元 エドワード・ホール みすず書房

女がいる エステルハージ・ペーテル 白水社

動物意識の誕生 上下 勁草書房

幻想の重量 葛原妙子の戦後短歌 書肆侃侃房

嗅ぐ文学、動く文字、感じる読書 自閉症者と小説を読む ラルフ・ジェームス・サヴァリーズ みすず書房

すばらしい人体 あなたの体をめぐる知的冒険 山本建人

きみの体は何者か 伊東亜麻 筑摩書房

永遠の家 エンリーケ・ビラ=マタス 書肆侃侃房

地図の物語 アニ・ルーニー

メイキング人類学・考古学・芸術・建築 ティム・インゴルド 左右社

音と文明 大橋力

認知症世界の歩き方

病んだ言葉、癒す言葉、生きる言葉 青土社

松浦シオリ画集 わたしを知らない

以上です。

Comments (0)

老眼鏡を買ったお話。

Posted on 02 11月 2021 by

お久しぶりのkonamaです。

最近、仕事以外のインプットが少なくなって、ちょっと味気ない気分を味わっております。


この場合のインプットとは、ちびちびと大事に読みたくなるような本を読むとか、知らない国の映画を見るとか、仕事帰りに思いつきで美術館によったり、食べたことのない料理を食べてみるとかそんなものです。

いつもなら、旅にでること(出張も含めて)でこの欠乏は部分的に回復できるのですが、そのほとんどが中止かオンラインに置き換えられて、歯の治療のあとに麻酔がのこっている状態みたいな気分がつづいています。

とはいえ、本が読めないというのは自分の調子のバロメーターでもあり、ネオフォビア的な自分の行動(新しいものより、安心の知っている定番を選ぶ)への苛立ちもあり、なんとかせねばなあと思っていました。

眼が悪いわけではないがメガネは初めてではない

実は今年の職場の健康診断では2.0と1.5と言われたのです(若い頃は矯正のためにメガネをかけていたけど、現在は裸眼)。まあさすがにそんなに見えてるとはおもわないんだけど、老眼鏡をすすめられたとき、え、まだいいかなあと思って。仕事での読書は何とかなっているので、おそらく物語に没入する集中力が欠けているのだろうと。

でも、そういえば最近細かい作業がちゃんと見えてないなあ(経験とこころの眼で作業)、この間なんて画数の多い漢字を手先が見えにくいから適当にぐしゃって書いた気がする……という証拠が積み上がって、観念して作ってきました。

眼鏡屋さんの店員さんと色々話してみた結果、老眼としてはまだ初期だけど乱視が進んでいるから手元作業には軽い度数の老眼鏡+乱視矯正がよかろうと、新しいメガネを手に入れました。ふんふん、それなりに新しいギアには気分があがるものです。

そして、使ってみているわけですが、これは良く見え~る。ちょっとメガネの視線の先だけ世界が拡張してるみたいですけど。視界がクリアになった分本の読み方が元に戻ったきがします。たぶんぱっと見たときにフォーカスがあうエリアが大分減ってたんでしょうね。まだまだ積ん読の消化は進みませんが、読書やノートを細字の万年筆でびっちり書くとかそいういう楽しみは徐々に戻って来つつある感触があります。

しかし、上の写真でも写っている訳ですが、昭和の新潮文庫の字のサイズと、現在のものを比べるとなんと甘やかされていることか。むしろこれを良く読んでたなあとしみじみと見てしまいました。小さい字の細部をごまかしてかいているのも味だと思えば……と思いたかったのですが、新しいメガネをかけて見直して悲鳴をあげています。

Comments (0)

Tags: , , ,

ワーズワースの庭 ―『ウォークス 歩くことの精神史』

Posted on 28 12月 2020 by

ゆっくりと読もうと思っている本。

ウォークス 歩くことの精神史
レベッカ・ソルニット著
東辻賢治郎訳
左右社2017年7月30日 第一刷
ウォークス 歩くことの精神史 レベッカ・ソルニット著 東辻賢治郎訳
左右社2017年7月30日 第一刷

17章490頁の本書の、第七章192頁まで読んだところ。思ったよりも「政治的」な志向のある内容だが、ワーズワースの歩行を知ることができただけで、私にとっての本書の意義は十二分に満たされたと思った。

それは第二部第六章「庭園を歩み出て」から同第七章「ワーズワースの脚」に詳しい。「歩く事」が「健康のため」と「どうしようもない場合の移動手段」でしかなかった当時、「歩くこと」によって自然に美を見出し、自然と一体化し、自然の中に身を置くことで成長するという価値観を見出した、ロマン派の詩人たちに関する記述だ。

note01
第一部「思索の足取り」アンリ・ルソーを中心に

「歩行のための歩行史」にとって、「庭園」は欠かすことができない要素であり、その「庭園」のルーツは、「迷路」や「迷宮」で、それらは「巡礼」の象徴だった。

英国風景庭園は、フランス幾何学庭園に対抗して、「自然への回帰」を目指した。そのとき景色は風景画として鑑賞すべき芸術となった。ここから、「崇高」という概念や、「観光」という文化が生じる。

歩行は、庭内から始まり、その庭園が自然との境界を曖昧にしていった結果、自然を歩くことに価値観を見出すことができた、ということになる。そのためには、裕福さと治安の良さが確保されていなければならなかったが、庭園を出ていくことにより、それらとは真逆の徒歩旅行に身を投じる者たちも現れる。それはバックパッカーのルーツといえるのかもしれず、「巡礼」への先祖返りの感もある。

歩行の身体性について

さて、ワーズワースだ。

かつて『ワーズワースの庭』『ワーズワースの冒険』というテレビ番組があった。主題歌だった「シャ・リオン」は今でもとても好きな歌の一つだし、渡辺満里奈さんもかわいかった。

ぼくはこの本を読むまで、このテレビ番組のタイトルの意味するところを理解できずにいた。たんに、自然好きな詩人だから、という程度の認識だったのだが、ワーズワースの庭。とは「自分と世界」の謂いだったのだ。

ただいま彼は歩いています。今朝はずっとひどい雨が降っているのですが、戸口を出ていってこの方、二時間になります。天気が悪いときは傘を持ち、なるべく雨に濡れない所を選んでそこを往復するのです。四分の一マイルから半マイルほど歩くこともありますが、まるで独房の壁のように選んだ範囲をきっかりまもるのです。詩作をするのはたいてい戸外で、没頭していると時間や天気の良し悪しなどは気に止まらないのです。

前掲書 1804年 ドロシーワーズワースによる友人への書簡

その態度は、著者をして『思索を肉体の労働に変えることでもあった』といわしめる。実際、そのように創作されたワーズワースの詩には、歩行のリズムと流れが刻み込まれている。

ワーズワース兄妹

わたし自身、同じ屋内を何周も歩き回る仕事を続けており、そうした中で、感じたことを言葉に書くという生活を続けてきた。胸ポケットの”pocket mod”にジェットストリームの黒の0.7で走り書きした断片を、ほぼ日weeks MEGAのnoteへ一時的に集積する。(今年は、このnoteをほぼ使い切ることができた。俳句や短歌のメモおよび校正や、本の抜書など、かなり乱暴に使っても1年もってしまう分量に、あらためて信頼を厚くした次第)

それから、しかるべきノートへ転記しながら、その内容から感じたことや想いだしたことを付け加えていく時間が、この上なく豊穣だ。

歩くことは、外部を体験することだ。自らの足で地球を感じながら、その風景との連帯を感じることだ。空っぽになり充たされることだ。それは、自転車がもたらす恍惚とは異なるハイな体験だ。

今年はどれだけ歩けただろうか。

来年はどれだけ歩けるだろうか。

それらを記すためにわたしのノートはあるのだと思う。

以上。2020年最後の記事として。piecesmaker.

Comments (0)

Tags: ,

Note of the note―ノートの調べ p.11 寺山修司歌稿ノート

Posted on 12 10月 2020 by

「Note of the note -ノートの調べ」 と題した不定期シリーズ。
このシリーズでは、著名人のノート、手稿、手帳、日記などを紹介し、そこに込められた作法と思いを検証していく。
 今回は、寺山修司さんの歌稿ノートを味わう。

出典

寺山修司未発表歌集
『月蝕書簡』表紙
寺山修司未発表歌集『月蝕書簡』表紙

寺山修司未発表歌集『月蝕書簡』(2008年2月28日:岩波書店)巻末資料

はじめに

寺山修司さんが短歌に関わったのは、十代の終わりから二十代半ば過ぎまで、デビューして最初の十年ほどである。

(同書 p.217 解説 佐佐木幸綱)

寺山修司にまた短歌を書いてみようと思い立たせたのは、1973年(昭和48年)三月二十二日のことである。
 当時、「海」の編集者の吉田好男氏に(・・・)「寺山さんがまた短歌でも書いたら僕のところで載せるよ」。

(同書 p.201 『月蝕書簡』をめぐる経緯 田中未知)

1973年から十年かけて作られた短歌は、いろいろな紙片にメモされ、私の手元に遺された。そのうちでも、短冊形に切られた紙に一首ずつ、4Bの鉛筆できれいに清書したと思われるものは、一応完成作品と判断した。これが六十首ほどを占める。
 写真資料に中にある大判の画帖には思いつくままのことばの断片が縦横無尽にしたためられている。(・・・)そのほか、旅行中のノート、航空便箋、絵葉書の裏など、手元にあったと思われる用紙に、なぐり書きしている。

(同書 p208 同上)

写真1

z
歌稿ノート

ほぼ、句としてまとまったものを書いたものだろう。後出の画帖に掻き出したイメージを一行短歌形式にコラージュなどして書き連ねて調子をみているものと思われる。助詞と形容詞が検討され、さらに不要な言葉、さらに適切な言葉を求めているところか。それにしても驚くほど訂正が少ないと思う。語順の入替はほぼ見受けられない。「水の音―」のとなりの行に表れている「墓石を」が、行を改めて「満月に墓石はこぶ―」として記されているところに、私はひじょうな興奮を覚える。また「名付け親―」の下の句が空欄である点もおもしろい。

写真2

図版2短冊貼り付け
短冊貼り付け

 先述した「短冊に一首ずつ清書されたもの」である。画用紙を切ったものだという。写真1、のようにノートで推敲を重ねたのなら、完成作を完成作用のノートに書けばよいと思うのだが、わざわざ別の紙に書いて貼り付けるというのがおもしろい。
 三首目はさらに「に漂ふ」を「を泳ぐ」と直している。また、五首目の下の句「地球儀の中は空洞」の行の「中は」の右に「内なる」と書かれている。本編収録短歌は「地球儀の内なる空洞」だが、この段階ではまだ「中は」が消されていない。
 推敲という果てしない苦悩。おそらく、ノートに書いている間は、推敲が終わらないのだろうと想像する。別の紙に書き出すことでようやく、その短歌を推敲していたノートのページを離れることができたのだろう。「もういい」という気分になるのに違いない。それでもまだ直したくなる。
 というのは想像で、単に、歌集収録の際の順番を決めるため、短冊にしておいたほうが便利なのだろうと推察する。
 短冊は束となって残されていて、分散しないようノートに貼ったのは田中氏とのことだ。

写真3

図版3 メモ
布製カバーの大判画帖

田中氏の解説によれば

詩集、歌集など、一冊にまとめようとするときは布製カバーの大判の画帖を使用。ページごと縦横無尽に思いつくまま、メモ書きされている。

(同書 <資料>歌稿ノート 写真・文 田中未知)

とある。
 天地もなく、矢印や丸囲みが頻出するこうしたメモ書きを見ているのが好きだ。何も決まっていないところから思いつくままに言葉を書きだし並べていくノートは大きければ大きいほどいいと思う(全体が一目で見渡せることが大事)。目の端にでも映ればそれは必ず刺激となる。むしろフォーカスのない部分のメモ書きをなぞっているような気さえすることもある。「文」を「句」と「語」に分節し、繋ぎ変えて、付け足し、削除し、組み換え、また付与し減衰させていく作業は、ひじょうに「空間的」な感覚がある。そういうとき、時間はあっという間にすぎさっていく。

写真4

写真4 ノートに記される断片
ノートに記される断片

ここから始まる。全てが寺山調である。
 私は以前、寺山修司さんの短歌のうち、ぶったぎって俳句になるものを列挙し、改めて短歌と俳句の違いを考えるという、たいへん失礼な読み方を楽しんだことがあるが、この断片にも、「三枚の畳をわれの枯野とし」や、「演説や十一月の海の杭」などがあって、興味深いが、むしろ、文字数に囚われない語句がもつポテンシャルに痺れてしまう。
 「指人形は」の部分に長くひかれた矢印の先に「だまされて」があり、この距離が生まれた理由などをあれこれ類推するのもまた楽しい。
 こういうノートこそが「ネタ帳」とよぶにふさわしいのだろう。ここから、写真3、写真1を経て、写真2、の短冊へと昇華していくのである。

おわりに

 義母十夜「主婦の友」より切り抜かれ悪夢の中の麗人となる

と、書いてみる。
 それから、『主婦の友」がいいか『少女倶楽部』がいいかについて考えてみる。

同書 p197 個への退行を断ち切る歌稿―一首の消し方 寺山修司 (『月蝕機関説』所収、冬樹社、1981年)

寺山 ぼくらは体温三十何度かの血の流れているスピーカーですよ。しゃべっている言葉だって、おととい書物で読んだり、きのうテレビで聞いたりしたものばかり。それが頭の中でコラージュされて、通過して出ていくわけですよ。あしたはもうからだに残ってない言葉もあるし、うまく出ていかないで、何年も体内に残っていたりするものもあるかもしれない。いずれにせよ、それは、その程度のものだと思うんですね。それが、日本という一つの全体性の過去の復元過程の中で文芸としてとらえられていくか、あるいは自分が記憶と記録のはざまの中で、自分のからだの中にとどめられてあるか。

現代短歌のアポリア―心・肉体・フォルム 佐佐木幸綱・寺山修司 月蝕書簡栞より

最近、短歌でも俳句でも(散文だとそういうことはない)、ほぼ日手帳weeksMEGAの方眼ページに、写真4や写真1のようにうなりながら書いていて、それはたいてい、twitterや投稿サイトで公開するために作っているものなので、手帳の上でほぼ形になったところで、フォームに入力するのだが、その、フォームに入力した直後に、さらによい(と自分が信じる)形がパッと浮かんでくることがよくあって、それが不思議だ。
 アナログだから思いつかない、というのではないだろう。たぶん、自らの手癖のある文字で見ているのと、フォントに直されたものを見るのとでは、気分が変わるのだろうと思っている。だから、寺山さんが、画用紙に清書をする気持ちは、これと似ているのではないかと勝手に想像しているのである。清書の瞬間こそが最大の校正チャンスであり、その瞬間を味わいたくて私は何度でも推敲したいのだと思っている。

Comments (0)

はいってみたいところ

Posted on 17 7月 2020 by

~またの名をちまちまツイートNo. 249

雨が続きますね。
色々と大変なご時世ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
おひさしぶりのkonamaです。

今日は、本の話のような、そうでないような。
つれづれに書いておりますので、気楽にお付き合いください。

● 滑らかな平面の上を移動する球体aの世界

 先日Twitterをながめていたら、岸本佐知子さんのエッセイ「ひみつのしつもん」についてツイートすると、クラフト・エヴィング商會さん直筆イラスト+著者サイン入りしおりをプレゼントというキャンペーンをみつけました(筑摩書房さんのキャンペーンで、既に終了しています)。
 それは応募せねばと抜書きをトライした時の写真がこちら。岸本さんの話はなんというか、こういうところが色々と自分にひっかかるのです。

私が心の底からやりたいことは、たとえば、「つるっつるすること」だ。完全に滑らかな、摩擦ゼロの平面を、どこまでもどこまでもつるっつると滑っていきたい。その究極のつるっつる感だけを無限に味わいたい。『パンクチュアル』、岸本佐知子「ひみつのしつもん」より。

この文章のあと、

「むかし物理の問題で「滑らかな平面の上を移動する球体a」が出てきたことがある。(この時、平面の摩擦はゼロになるものとする)と但し書きがあった。私がつるっつるしたいのはその問題の世界だ」

と続くのですが、なんていうかこのこういう不思議空間(というか、感触なんだけど)の中に入ってみたい(身をおいてみたい)願望って、ありません?
 この本の中にもプール一杯にゼリーを作ってその中を泳いでみたいとかそういう話も出てきて、そうそうと膝を打つ…。こういう話って、なんだか自分の性癖を開示しているような恥ずかしい気分になって、なかなか話題にはしないからよく分からないけど、みんなそういうものを持っているのかしら?と思ったりしたのです。プール一杯の○○のなかで泳ぎたいって話、けっこう色んなエッセイでみたことがあるきがするもの。子供用のプレイエリアにある、一杯バルーンが詰まってる遊具なんかもそういう感触を楽しむ物でもあるのかしら。むしろ、人をダメにするソファ系がイメージとしては近いのか。

♨ 温泉にでも行きたい?

 こういう「○○に浸かってみたい」的な発想は、私の場合、仕事でくたびれた~って時に、なんていうかこういう物に入りたいよねって感じで頭に浮かんできます。

 以前、ものすごい忙しい時期に、職場の同僚でもある長年の友人と帰宅途中にした会話:(夜遅いので同じ車両に誰もいないローカル線でぐだぐだしている図。あまりにヘトヘトなのでお互いの顔も見ていない感じ)

私:いや、もうさ帰ってもお風呂はいって寝るだけって感じだよね
友:こういう時って、温泉でも行きたいっていうんだろうけど、正直行くのが面倒
私:そだねえ。なんかこう謎のゼリーみたいなのに浸かると、疲れ成分がじわじわと溶け出して出るとすっきりみたいな機械ないかなあ。ゼリーが黒っぽくなって、お客さん相当お疲れでしたね~みたいな感じ。
友:あー、私は巨人のような力持ちに足首つかんで水平にぐるぐる回して欲しい感じ。昔の手回し脱水機みたいな?
私:蜂蜜絞るのみたいなのか…
友:あとね、なんかこう柔らかい物でぎゅーっと圧迫してくれるみたいな?

 こんな会話をしたのも、もう(年単位で)大分前なのですが、先日この友人から、誕生日祝いにハンドマッサージャーをもらいました。指を突っ込んで全体を圧迫するタイプのやつ(イメージわかないかたはこちら)。
 さっそく、風呂上がりに試す私。親指以外の指を穴に通して、ボタンをおすとぎゅーっと結構な強さで締め付けられる感じがします。「おー、確かに彼女が欲しがってた物そのものだねえ、全身だったら完璧だった….」
 ん、全身?全身をぎゅっとするってなんか読んだことあるぞ。

🐄 子牛用締め上げシュート

思い出したのは、オリバー・サックスの『火星の人類学者』。

力強く、だが優しく抱きしめてくれて、しかも自分が完全にコントロールできる魔法の機械を夢見るようになった。何年かたって、思春期の彼女は、子牛を押さえておく締め上げシュートの図をみて、これだと思った。それを人間に使えるように改良すれば、彼女の魔法の機械ができる。空気を入れてふくらまし、身体全体に圧力をかける服といったほかの装置も考えてみたが、締め上げシュートの単純さには抵抗しがたかった。

オリバー・サックスは『妻を帽子とまちがえた男』とか『レナードの朝』で有名ですが、このエピソードも脳神経医のサックス先生が自閉症の動物学者に会いに行った時の物。愛情とかそういうものがわからないというこの方が、ひそかにおうちに置いている機械のお話。ハンドマッサージャーはどちらかというと、空気をいれてふくらまし…の方に近いと思うけど、このしっかり圧をかけられるというのは普通に人類の欲としてあるんだなあと思ったのでした。

 しかし、人に抱きしめてもらいたいというと変に思わないのに、全身に圧をかける機械が欲しいというと、なんとなく奇妙な後ろめたさがあるのはなんなんでしょうねえ。

🐼 ちまちまツイート No.249

そんなわけで、つるっつるの世界から締め上げ機までの話を思い起こして書いた、ちまちまツイート(私が一番小さいロディアに、パンダのスタンプで書いている手書きツイート)がこの図になります。

ちょっときっかけからこの絵まで説明むずかしいよなー、と思ったのですが、「懐深いNotebookersの皆様なら許してくれるかな」と思いつき、こちらに書き留めた次第です。

追:結局のところ、〆切りから大分たちますけど何の連絡も来ないので、残念ながらしおりは当選しなかったようです。(そういえば、はじまりはそういう話だった…)

追2:と思っていたら、忘れた頃に当選のお知らせが来ました!

Comments (0)

Tags: ,

『美しい痕跡』手書きへの賛歌 読書メモ

Posted on 27 4月 2020 by

美しい痕跡 手書きへの賛歌 フランチェスカ・ビアゼットン著 みすず書房

Francesca Biasetton (1961-)
 ジェノバ生まれのカリグラファー、イラストレーター。

本書の第10章(p.92-)からはカリグラフィーに関する内容。なのでこの記事では第9章までの内容についてのメモ。

手で書かれたものは動いた跡であり、手が筆記具を介して媒体に痕跡を残す。何世紀もの間、人間はさまざまな道具や文字、媒体を使い、書くことで考えや知識を記録してきた。
 私たちはいま、速さという誘惑に身を任せ、質や唯一性、物語といったものを犠牲にしている。

同書 裏表紙

私は、書いた「距離」が分かる筆記具が欲しいと、常々思っている。痕跡は「文字の連なりとしての意味」以外の「意味」をもつ。距離もその一つの要素だろう。
 p.18での「サインは手書きだからうれしい」という指摘は腑に落ちる。それは質であり唯一性であり、物語という「体験」の証となる。
 「質や唯一性、物語」とは、つまりは「個人の存在」ということだ。効率重視は多様性を許容し難い。

紙は私たちの思考のさすらいを語り、私たちはノートやメモ帳を前や後ろに繰り、書き留めたことを探す。そして紙たちはカサカサと音を立て、馴染んでいく……

同書 pp.8-10
本書の抜書及び感想メモのページ

手書きが非常に繊細な「運動」であるということは重要だ。それは書くことでしか体験し得ないもので、ディスプレイをにらみながらキーボードを叩くという運動とは全く別の技能だ。そして、その運動のフィールドの広さ(狭さ)も、両者では、まるで異なる。それは腕や指の使い方のみならず、認識し判断を迫られる空間そのものが異質だということだ。

「書くこと」は文字を書くという以外に、模倣する、空間を必要とする、アイデンティティを明らかにするということでもある。(…)そして紙に向かうこと、紙の一部になるということでもある。

同書 p.14

文字を手で書くとき、私たちはひとつの空間、つまり紙の空間を構造化しようとし(…)

同書 p.8

どのようにノートを書くか? それはどのように「考える」かと同じだ。フォーマットに則って考えること。考えによってフォーマットを決定すること。いずれの場合も、それは身体内部をかけめぐる「思考」の、おそらくはとびきり不正確な「手探りよりはマシ」という程度の地図であり、巨大な洞窟へたった一本の蝋燭を灯しただけで進んでいくようなものだ。

字を書くとは具体性と秩序とを与えるささやかな行為なのだ

同書 pp27-28

そのとき探索しているのは、自らの身体内だ。

手書きの文字は紛れもなく身体性を前提とし、そして内包している。つまり、文字自身が書く身振りの視覚的な形跡なのだ。

同書 p.8

「文字」を書こうとすること。書いていること。
「文章」を書こうとすること。書いていること。
「考えていること」を書くことと、何かを「書き写す」こと。
これらは全て「別の体験」を感覚させる。だが重要なのはその「違い」ではなくむしろ「共通性」だ。

(…)線や図を書くというのは広い意味では紙の上に思考を移すということである

本書 p67 (リッカルド・ファルチネッリ『ヴィジュアル・デザインのポータブルクリテッィク』p.272)

身体機能や肉体そのもの退化や鈍化、劣化といった影響は別として、自分が充実した時間を過ごせているか(過ごしたか)、自分が豊かな体験をしている(した)と感じられるか、こそが重要なのだと思う。手書きノートを書いた後で、私はそれらをはっきりと実感できる。確かな何かが身体に残った、と感じることができる。ノートを書くことはインプットで、キーボードを叩くことはアウトプットだ。

別の本の読書メモ

手で書く時間は考える時間だ。いま、これを書きながら、考える時間は緩やかに流れている。緩やかであればあるほどいい。手で書く時間は、考える時間を尊重する。むしろ手で書いていると、考える時間が作られ、そこから表現が生まれる。

本書 p.40

 手書きは思考に追いつけない。それはキーボードでも同じことなのだが、キーボードは追いつくことを強いる。それはジムにあるランニングマシンのように、走ることを強いるが、自然の中を実際に走る体験とは全くことなっている。
 手書きは思考に追いつけない。ならば共存すればよい。競争は身体と思考とを分裂させ、書くことを「作業」へ貶めかねない。
 そのように急ぐ私は、一体、何をしたかったのか?

かつては考えたことを書いていた。今日では書くことを考える。この論理の逆転は、書くことも考えることも乏しくさせる。

本書 p45 (パオロ・クレペット 『ネットの外でキスして』(p.16))

しかし、時間を「失う」ことがそんなに問題だろうか? 本当は、時間を「失う」ことこそ最良の仕方で時間を使うことなのではないだろうか?

本書 P.31

「手で書くこと」と「考えること」とは同じ。だが、そんなまどろっこしいことをしている暇はない、と思うこともある。
 思考はサビだけをよく知っている歌のように叫ばれていて、その全部を歌うことができる気になっているせいで、それが膨大な量だと思い込んで思考の全てを慌てて書き写そうとして、実は大部分の不明瞭な部分を、勢いで上滑りして、継接ぎしてしまいかねない。
 ならば、蜘蛛が腹から糸を繰り出すように、その不明瞭な何か、漠然とした予感のような思考の糸口を、丹念に手書きすればいいと思う。
 それこそが書く=考えるという「体験」だ。それを一刻も早く「経験」にしてしまおうとなどせず、心ゆくまで「体験」を味わっていたい。
 と、思った。

4月27日 世界バクの日

Comments (0)

今日の抜書き ~モレスキンデイリーダイアリーXSが埋まりました

Posted on 02 9月 2019 by

こんにちはkonamaです。

以前から何度か登場している、モレスキンのデイリーダイアリーXSに書き込んでいた、本の抜書き(本の中の気に入ったフレーズを書き写す)ですが、ついに全頁書き終わりましたので、ご報告を。↓記念に動画を撮ってみました。

以前の記事でも書いたのですが、このモレスキンのデイリーダイアリーXSは数年前から廃版になっており、とっても残念です。このサイズをすべて埋めた感じ、ちょっとした豆本みたいな雰囲気で、書いた本人は満足しています。毎日書いているわけでもないし、日付通りに書いているわけでもないので、足掛け3年、ようやく完成です。

で、どんな本を自分は抜書きしたのかな、と端からブクログの本棚に登録していくという適当なまとめをやったところ、218冊。365日分ではありますが、同じ本から何回も抜いているケースもありますし、見開きで1件という場合もあります。逆に上下巻の本は両方登録してあったりするので、200冊分くらいから抜いたことになります。ふっるーい本から、割と最近のものまでなかなか節操ない感じ(ちなみにこの本棚は私のブログに登場する本の覚書用になってるので、#今日の抜書き タグで絞ってあります)。何回か登場する洋書はいれてません。

記念すべき?最終回は、ダイアリーですらないメモページのラストと裏表紙(ポケットの一枚手前)。

北森鴻「香菜里屋を知っていますか」のラストを。「花の下にて春死なむ」から始まる4冊のシリーズの最終巻。別シリーズの登場人物もさりげなく混じっているマリンエクスプレス的な要素もあるのですが、常連客が次々と退場して後味の悪い暗さの中、ずっと探偵役だった、ビアバーのマスター工藤の退場の謎解きとその再起を祈る終わりが印象的で、久しぶりに読み直しました。

さて、この続きは何に書いていきましょうかね?

Comments (0)

読書感想文は苦手だ

Posted on 07 10月 2018 by

お久しぶりのkonamaです。

今日は読書ノートのお話をちょびっと。

本を読むってことは昔から大好きなことですが、「読書感想文」というのはあまりいい思い出がありません。

実をいえば小さい頃は可愛げのないガキだったので、いかにもな感想文を書いて先生に褒められる、みたいなことをしていました(今考えるに大した文章でもないくせにね)。だから「苦手」という意識はなかったのですが、なんとなく好きじゃないなあと。なにせ普段読んでる本ではなくて、感想文用に本を探して、ある意味解剖するようにその本を読んで書いているのですから、私にとって「読書感想文」は「読書」から完全に切り離されたものだったのです。感想文の素になる読書だって、楽しいは楽しいのですが、「この本ホント良かった是非読んで~、おススメのポイントはね…」というような勢いがあるようなものじゃない。毎年書かされた感想文はキライだったし、本を読む習慣を…っていう意味だったらむしろ嫌だよねえこれは…と思うのデス。ちなみにプロの方のかく書評や本にちなんだエッセイは大好きで、自分でもブログで本の紹介をしていたくらいですから、嫌なのは本にちなんだ文を書くという部分ではないはずなのです。ではなんでこんなに嫌なんでしょう。

【私の中にあるなにやら青臭いもの】

上の写真はニコルソン・ベイカーの新作の「U&I」の中の一節なのですが、左側の部分とその続きを読んだときに、ちょっとあーそういうことなのかもと思ったのです。

それにいずれにせよ、その時々に読む本は、多種多様な理由を混ぜ合わせて得られた結果で選びたかったし、追悼記事を書くためにあらましを知らねばならないという程度のことで選ぶのはいやだった。つまり、ぼくがバーセルミを再読したいのは、ほんとうにバーセルミを再読したいときだけであり、彼の死によって突然迫られたときではないのだ。

結局のところ、本を読むっていうのはこう、自然の発露みたいな感じで身のうちからぽろっと出てきたようなものであってほしい、というような(これだけでもないのでうまく言えませんけど)よくわからない憧憬というか、不可侵性というか、そんな青臭いものが自分の中にあるのかもなと。

そんなわけで自分と読書傾向が明らかに違う方らの、絶対面白いから読んで、みたいなものは申し訳ないけどなかなか読まない(自分はお節介することがあるくせにね)。自分の中の読みたいが来ないと、後回し。家族は私が本が好きだというのは知っているけれど、めったにプレゼントしてくれたことはありません(感想を聞かれてもいつも生返事なので諦めたのだと思う)。

読書感想文も「感想文」のために読む、あるいは読み返すということになるから、なんかその辺がちょっと嫌なのかもしれません。

【ためになる読書】

この青臭いものの延長線上にあるのだと思うのだけど、「ためになる読書」というのにも少々抵抗があります。読書で何かを身につけるってことに重きをおいていないというか、本を読んでそれが楽しいで、その後中身をすっかり忘れたってそれでいいじゃないと思っている節があります。それはもちろん仕事上、自分が今読みたいというわけではない本を読むことなど年中あるわけですが、その読書も「何かを得なければ」という思想があんまりない。だから昨今巷でよくみかける「そんな読み方では頭になにも残らない」とか「ノートに書きながら読むことで身につける読書」とかいう本の広告や煽り文句には、そんなの楽しくないのに…と思ってしまうのです。もちろん、読書ノートを付けてらっしゃる方、感想をブログに載せている方、楽しみに読ませていただいて、それが「あ、この本読みたい」につながることも多いので、それに対しては感謝こそあれ、嫌な気持ちは全くありません。

じゃあ、本を読んでいて何か書きたいと思ったことはないのか…といわれると。あ、なんてキラキラとした言葉なんだろうとか、むふふこの表現はちょっとイカン、あ~いかにも彼がいいそうなセリフとかそう思ったその瞬間を書き留めたいなあと思うことがあります。上の写真はキラキラ言葉系ですかね。そんなわけで、無理に感想を書いたりせずにグッときた文章を抜書きするという習慣ができました。前にもこの話やこのノートは登場しているかと思いますが、万年筆(とインク)をなるべく使いたいという自分の事情もかさなって、モレスキンダイアリーのXS(残念ながらここ数年発売されておりませんが)に短い文章を抜書きしています。抜き書きが多い本は、読書ノートをつかっています。みずず書房のフェアでいただいたみすずノート(下の写真)。

こちらには、本の情報と抜書き長めのものをまとめています。このノートの好きなところは、装幀について書く欄があるところ。感想とかはかかずに、ページ数と気に入った文章だけ。おそらく、その時(その年齢)の感想が書かれているのは、後で読み返してとても面白いだろうとは思うのです。ただ、「感想文」と考えただけでイヤーな感じがある私には「抜書き」ぐらいの方が抵抗なく気楽にできるなと書き留めています。

【読まない理由・読めない理由】

青臭いものを吐き出したついでにもう一つ。これもどこかで書いたかもしれないのですが、読んでる本の分野についてとやかく言われるのは苦手。「ためになる読書」と同じにおいがするからではないかと思うのだけれど、ある作家の文章が苦手というと「それは理解が足りないから(というか頭が悪いから)」、いわゆる名作でない娯楽大作を大好きだというと「そんなくだらないものは読まない」なんておっしゃる方がたまにいらっしゃるのですが、何を読んだっていいじゃないですか。本を読むことって本当に個人的な体験だと思う(その人の人生によって出てくることも、感じることも違うでしょう?)。だからこそ、他の人が語る好きな本の話って、たとえその本を読んであんまりなーと思った本でも面白かったりする。

そう考えると、え、じゃあ「読書感想文」でもいいじゃないと思うかもしれないけど、この「この本ホント良かった是非読んで~、おススメのポイントはね…」の部分を学校で先生に一方的に文書で報告したいか?といわれると、いやいやそうじゃないんだよ。同じ理由で、ビブリオバトル系もそんなには好きじゃないんだ。

こういう、なんかよくわからない本にまつわる奇妙なねじれた想いも(これは根拠がないのだけれど)「読書感想文の呪い」の一つなんじゃないかなあと思ったりするわけです。

Comments (0)

Note of the note ―ノートの調べp.8 向田邦子さんの文字のある暮らし

Posted on 27 9月 2018 by

はじめに

「Note of the note -ノートの調べ」 と題した不定期シリーズ。
このシリーズでは、著名人のノート、手稿、手帳、日記などを紹介し、そこに込められた作法と思いを検証していく。

第8回目は、向田邦子さんの字との関わりについて拾ってみた。

1.原稿

(A/表紙裏、裏表紙裏)

(A/p.82)台湾に発つ前日8/19に渡した原稿

「残された鉛筆はすべて4Bから5B。力を入れずに鉛筆を持ち、すごい勢いで執筆した。1時間に400字詰め原稿用紙10枚を書いたこともある。万年筆も何本か使っていたがこちらは人が使ってこなれたものを最上とし、頼み込んでもらったりした」(B/p.13)

2.手紙・一言箋

(B/p.50)

「大切な手紙はいつも鳩居堂の封筒と便箋だった」(同上)

(B/p.83)

「届け物には必ず自筆で一筆添える」(同上)

3.レシピ、メニュー

(A/p.12)

(B/p.146)

「思いつくと原稿用紙でもなんにでも、すぐに書き残した」(同上)

4.カレンダー

(A/p.82)

「出かけた時のままのカレンダ―。旅は四角で囲む」

5.万年筆

(A/pp116-117)

「先が十分にまるまった、よく滑る万年筆は作家向田邦子必携の武器なのでした。だから書きぐせの似た人で、太字の、よく使い込んだ万年筆の持ち主に出会ってしまうと、もう前後の見境もなく…せしめてしまう」(同上)

(C/pp.78-79)

「君はインク壺の中に糸ミミズを飼っているんじゃないかと言われるほどだらしなく続く字を書くせいか、万年筆も書き味の硬い細字用は全く駄目である。大きなやわらかい文字を書く人で使い込んでもうそろそろ捨てようかというほど太くなったのを持っておいでの方を見つけると、恫喝、泣き落とし、ありとあらゆる手段を使ってせしめてしまう。使わないのは色仕掛けだけである」(同上)

さいごに

5月2日の日付が入った遺言(原稿用紙4枚に書かれている)

(D)

「不正確、いい加減、辻褄が合わない。(中略)姉(邦子)の希望通りに財産を処分するにはと考え、動いているうちに、姉の考え方、生き方、家族に対する思いが込められている(ことがわかってきた)」(D/pp.8-9)

「この「遺言状もどき」も、事務的な文章の装いの裏に、姉(邦子)の肉声が騙し絵になったり、暗合になったりしながらちりばめられている」(D/p.10)

向田邦子さんは、「父の詫び状」としてまとめられる連載中に、病気の手術のため右腕が不自由となり、以来、利き腕ではない左腕で執筆を続けていたそうです。だから、ヌラヌラの万年筆は必需品だったのだと思います。もし、自分が文字を書くのに難儀をするようになったとして、果たして「苦」をおして、文字を書くことに固執するだろうか、と考えます。「もし文字が書けなくなったら」そんなことを思うとたまらない気持ちになります。今はキーボードも、音声入力も可能ですが、手で文字を書くという活動は、存在の全てを連ねる体験としてかけがえのないものだと、改めて、思いました。

「大事にしている事は、自分の言葉で書いた方がまだスッキリする(中略)書くのはたっぷりと歳月をかけ、時間というふるいにかけてから。それでもまだ残っているならば、それを大切に拾いあげて書きたい」(D/p11)

出典リスト

出典A:クロワッサン特別編集 向田邦子を旅する マガジンハウス2000年12月1日発行

出典B:和樂ムック 向田邦子 小学館 2011年8月23日初版第一刷 向田和子著

出典C:向田邦子・暮らしの愉しみ 新潮社 とんぼの本 2003年7月15日第二刷 向田邦子・和子 著

出典D:向田邦子の遺言 文芸春秋 2001年12月25日 第三刷 向田和子著

 

 

Comments (0)

Tags: ,

?>! ―『ユーケルの書』から

Posted on 12 8月 2018 by

書物は書物を越えて生き残る。(p.27 「白い空間6」)

人間は「問」だ 「問」=「?」ならば 手にした答えが「!」であらわされる。

その場合

疑問符と感嘆符。両者は{両替、翻訳、入替}不可能だ。断じて!

お前にとって語は一つの顔だ。
お前は私の顔を描いた。
私は自分の気になったところで、読み取られる。―レヴ・スミアス(p.71「書く習慣」)

「?」は∞の(細かな細かな)!を発生させるが、!をいくら集めても?は構築できない

「?」はつねに一つの(巨大な)「?」であり、「?」は「?」に重なることでしか×××。

疑うこと。それはたぶん限界を廃棄することと、骰子のまわりを回ることである。(p.109「第三部 サラの日記」)

万人のためのひとつの同じ反射板(p.125「サラの日記 Ⅲ」

われわれは不可能なものを通して結ばれている。-レヴ・カナリ(p.83「第二部 巻頭句」)

「?」は影だ。そして「!」とはその影に支えられた世界だ。

色とは影の叫びである -レヴ・ノエビ(p.163「ヴェールと処女6」)

※「ユーケルの書」
エドモンド・ジャペス著 鈴木創士訳。書肆風の薔薇〈選書 言語の政治⑦〉 1991.6.20
「問の書」シリーズ全七部作のうちの第二部にあたる。

「?」は「!」を求めるが「!」は自己差異化するばかりだ。

海は宇宙にぎざぎざをつける ―レヴ・アムロン(P.45「善の分け前 2」)

それは、深みへ向かっているように見せかける巨大迷路だ。「!」とはマスクメロンの亀裂に似ている。それは決して「?」の果肉を味わうことはできない。香りだけ、ただ香りだけだ。

人は水底でもがいたりしない。もがくのは水面でだ。(p.106「第三部 サラの日記」)

本に満たされている孤独の豊饒さ。「!」を探すのではなく「?」に遊ぶこと。

沈黙の響き。最初の谺。 -レヴ・ライエ(p.66「第二部 巻頭句」)

私はこの本を読むことが出来て、幸せだった。なによりもよかったことは、この本が「架空」と「贋者」に分断され続けている点だ。(cf.訳者あとがき)

さいごに、もっとも重要な文を引用して記事を終える

私が書くのは、私が言うことができるかもしれぬことの果てに赴こうと努めるたびに、今度こそそこに到達できるだろうと信じるからだ。―ユーケルの手帖(p.83「学者達と客たちのあいだで交わされた対話」)

(引用)

Comments (0)

Tags: ,

153.Define it  ―私の好きな怪談を定義する

Posted on 15 7月 2018 by

 ノートブッカーズお題に “153.Define it(定義せよ)”が、あった。
そこで季節がら、「私の好きな怪談」を定義してみることにした。

はじめに

 私は怪談が好きだ。幼少期から「ムー」を購読し、「あなたの知らない世界」や「心霊写真特番」などを見聞きしては、夜な夜な後悔していた。
そうして、多くの怪談に親しんでいるうちに、どうやら、「好みの怪談」が固まってきていた。というか「好みでないもの」が明確になってきた、というほうが正しいだろうか。
そして今、この原稿の下書きをしながら私は、「いわゆる怪談」なんて好きではなかったのだということに気づかされた。それでは、なぜ私は「怪談」が好きだと勘違いしていたのだろうか? 私は頁を改めて、「私の好きな怪談」を定義しなおしてみた。

Ⅰ.私好みではない怪談を定義する

1.理由にならない理由

 「怪談」のすそ野は広い。
『氷菓』という作品の「愚者のエンドロール」篇で「人によってミステリーの定義はずいぶん違う」という場面があった。それと同じく、人々が「怪談」と言われて思い浮かべる話は様々だろう。
「心霊現象」「祟り」「風習」「自業自得」「民話」「妖怪」「サイコパス」「狂気」「超能力」「シンクロニシティ」「転生」「エクソシスト」などなど。これらの話は、たいてい「怖い状況の発生」と「その理由」がセットになっている。そして私好みでない怪談とは「その理由」をもつ話なのである。

 怪談の冒頭か最後かで語られる「怪異の理由(=原因)」は、実際のところ「理由」になっていないことが多い。「その部屋で自殺した人がいる」から「住んでいる人が次々に自殺する」なんて、説明になっていないことは明らかだし、現象の方も全くおもしろくない。そんな「怪談的お約束」に、私は退屈してしまうのだ。

2.類型的な演出

 「かくれんぼ」「追跡」「人別改め」の構造をもった「怪談」は多く語り口も類型化されている。この文体ではたいてい「くりかえしの後の断定的大声」によって「吃驚させようとする」。急に大声を出されればびっくりするのは当然で、これは「怖い」というのとは違うし、むしろ「怪談」を壊していると思う。

3.心温まる怪談

 霊現象を扱っていながら「命を救われる」とか「心が通い合う」とかいうタイプの話が、「世にも奇妙な物語」などに多い。これらは登場人物に「霊」を交えただけの「渡る世間は鬼ばかり」にすぎない。

まとめ

 私好みでない怪談とは「怪談の話法で怪談的理由に頼った怪談らしい怪談」だった。

Ⅱ.私好みの怪談を定義する

1.因果因縁は不要のこと

 「因果因縁不要」この条件によって、「長編怪談」はほぼ全滅する。「長編」とはその大半が「因果因縁の説明」だからだ。だから私好みの怪談とは「新・耳袋」型となる。

2.新・耳袋型とは

 私が考える「新・耳袋」型怪談の特徴は「不思議な現象だけを淡々と語り、言いっぱなしで終わること」である。(この精神こそ、元祖「耳嚢(根岸鎮衛さん)のモットーであった。)
「因果因縁」で説明されてしまうところに「不思議」はなく、それらの怖さとは「理解できる怖さ」でしかない。正確に表現するなら「怪談的お約束を理解できる怖さ」ということになる。
「新・耳袋」型の怖さとは、「目の前の現象が理解不能なために引き起こされるパニックから、思考が強制停止し、あたかも「放送を終了したテレビ画面を席捲する砂嵐」を見つめ続けている時の、自らがバグってしまった(のではないかという)怖さである。そこには、静かな恐慌と、爆発的な笑いの予感が同居する。

3.同じ構造をもつ話の例

 都市伝説(陰謀論は除く)、「ロア」(ネットより)、「ちょっと不思議な話」(南山宏さん)、伊藤潤二さんの「阿彌殻断層(あみがらだんそう)の怪」「落下」「首吊り気球」、「百物語」(杉浦日向子さん)などが思いつく。

まとめ

 以上から、私好みの怪談の定義は
「私の世界認識や現状認識や知識が揺らぐほど理解不能な現象(=不思議)を表した話」ということになる。

Ⅲ.この定義から得られる定理

1.私好みの怪談(以下【怪談】)に「霊」は必須ではない。
2.【怪談】は「奇妙な話」の中に含まれている。
3.【怪談】は既存の「恐怖」では処理できない
4.【怪談】は「オーパーツ」「世界の七不思議」「UMA」「深海生物」「絶景、奇景」を含む
5.【怪談】は唯物的である
6.【怪談】は実話である必要はないが、創作するのは困難である
7.【怪談】は「霊」より「妖怪」にシフトする
8.【怪談】はヒューモアを有する

以上

おまけ ノートブッカーズお題
「文具にまつわる怪談を教えてください」

上記の定義はあくまでも私的なものなので気にせずに、あなたの「Notebookers的怪談」を、教えてください。実体験、創作談は問いません。あなたは何を「怖い」と感じますか?

Comments (0)

Tags: ,

plaintext

Posted on 11 3月 2018 by

「本当に、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることができるならば」                                      太宰治『晩年』より

事実は3Dでノートは平ら
よって書き記すのは等高線
すなわちノートとは地図だ

事実は知りえた世界であり
世界は衝撃波の波紋だから
等高線は自分の波紋の相似

ノート書くのは難しくない
自分が受けた衝撃の凹凸を
ひたすら平文で書けばいい

うれしいたのしいだいすき
ちがうきらいそうじゃない
ここを過ぎて悲しみのまち

難しいことも平明に書ける
微妙な機微も細密に写せる
何一つ誤魔化したりしない

プレーンテキストの立体視
そこへ分け入っていく能力
書くより読む方が難しいよ

「なんにも書くな。なんにも読むな。なんにも思うな。ただ生きて在れ!」                                      太宰治『晩年』より

(無理)

Comments (0)

グラシン紙で包んだ文庫本

Posted on 25 12月 2017 by

グラシン紙で包んだ文庫本が好きだ。
自分の本棚に挿しておく文庫本は包むことにしている。

Comments (0)

Tags: ,

原民喜童話集刊行記念イベント&『還元不能のノートブック』

Posted on 11 12月 2017 by

11月25日(土)京都の恵文社さん開催の原民喜童話集刊行記念イベントに行ってきました。
コチラです>> 『原民喜童話集』(イニュニック/未明編集室)刊行記念イベント<向こう側へのまなざし>吉村萬壱 × 外間隆史
原民喜童話集刊行記念イベント
Continue Reading

Comments (0)

Tags: , ,

春のモレスキンは大きなサイズで

Posted on 01 4月 2017 by

、押井守監督の『イノセンス』見ているんですが。
この現実の脆さ、自分が『そこにいること』のあやうさ、いいなあ。
孤独に歩め
悪を成さず
求めるところは少なく
林の中の象のように

〜〜〜
前振り終わり。
えー、今までモレスキン ヴォヤジュールをずっと使っていたんですが。
先日、使い終わりまして。
新しいモレスキンを使っております。
仕様は、わたしはプレーンが好きなので、ずっと無地を使っているんですが。
サイズはちょっと大きいものを試してみました。
先日、新しく発売された『ウルトラスペシャルエクストラエクストラエクストララージ』です。

説明としてはこうなっています。

商品説明
エクストララージよりも大きなノートを、という声に応えて、さらに大きなモレスキンを。
広げると、たっぷり90センチもあり、雨の日には傘代わりにも使えるサイズです。
無地。定番のレイアウトは自由な発想で、仕事にもプライベートにも。
ソフトカバーは机上での使用もスムーズ。
中性紙、糸綴じ製本、ゴムバンド、しおり、丸みを帯びた角、拡張ポケットなどの機能はハードカバーと変わらず健在です。

仕様
【品番】NB01AP
【サイズ】45×59cm
【ページ数】192
【紙材質】FSC認証中性紙
【レイアウト】無地

こんな感じです。

モレスキンスーパー大きい

黒、そんでソフトカバーです。

どのくらい大きいかというと、トラベラーズノートブック パスポートサイズと比較してみます。

TNPと比較

このくらいです。

実際に書いてみたところ。

大モレスキン 開いてみた

大きさとしてはこのくらい。

マスキングテープを貼ってみました。

大モレスキン マステ貼った

雑、とか、そういうことは言わない。

ポストカードを置いてみると、このくらいです。

大モレスキン ポストカード比較

やー、やっぱり大きいなあ(棒読み)。

えー。
先日、ツイッターで、ポール オーターの新刊の情報が回ってきまして。

オースター、とても好きです。。

TNPとオースター

がんばって読みました。

この本とモレスキン ウルトラスペシャルエクストラエクストラエクストララージを比較してみましょう。

TNPとオースター

浮いてる、とか言わない。

Notebookers.jp のステッカーで見てみましょう。

TNPとステッカー

チャームがついてる、とか言わない。

TNPとステッカー

やー、本当にね、持ち歩くのが大変なんですよ。大きいバッグが別に必要で。

やはり、モレスキンなのでベルトに挟みたいですよね。

お菓子とモレスキン

あのお菓子を挟んでみた。

ウルトラスペシャルエクストラエクストラエクストララージ オンラインショップページ>>

■おまけ

そのウソホント

トラベラーズ レギュラーサイズと並べてみました。さて、ホントの大きさは?

Comments (0)

Tags: , ,

物語の香り〜香り編◎『ハンニバル』〜「花屋はみんな泥棒さ」〜

Posted on 20 3月 2017 by

彼岸ですねー。徐々にあたたかくなってきております。
皆様のおすまいのおところはいかがでしょうか。
『貴婦人と一角獣』3枚目、この五感はどれでしょー。
これはわかりやすい?

貴婦人と一角獣

貴婦人と一角獣。この五感は?

====================
以上、前振りおわり。
物語の香り◎香り◎ハンニバル編(もう少し、タイトルをどうにかできないものか…)です。
前回は、物語の香り◎香料編でした。
香料編と香り編に分けよう、と考えていたんですが、香り編が以外と多く、そして書きたい物語が多いため、えー、香り編#01 トマスハリスの『ハンニバル』より、記憶と香りについて、ちょこっと書いてみようと思います。

ところで。
マルセル プルーストが書いた『失われた時を求めて』という物語があります。
この物語、主人公がマドレーヌを紅茶にひたして食べたその瞬間、子供の頃を思い出す…という冒頭がとても有名で、このように香りや味により、当時の記憶や感情を思い出す、感覚の再現を誘発することをプルースト効果というのだそうです。

このプルースト効果がとてもたくさん見られるのが、今回の香り編『ハンニバル』かなあ。
前回の香料編でも、ちょこっと書きました。
原作:トマス ハリス
アンソニーホプキンス主演で、映画にもなっています。最近はドラマにも。

ハンニバルレクター。
医学博士、そしてシリアルキラーというにはあまりにも言葉が軽い、『前例がないため名づけようがない』社会病質者です。

レクター博士、
一作目『レッドドラゴン』で逮捕され、
二作目『羊たちの沈黙』で精神病院に隔離されているのですが、世間を騒がす連続殺人事件を誰よりもよく知っていて、その事件を追うFBIの訓練生クラリス スターリングとの駆け引きと解決が描かれ、
そして、
三作目『ハンニバル』では、7年だか8年の沈黙を破って復活…と

この三作目です。
二作目『羊たちの沈黙』で訓練生だったスターリングは、現役捜査官として(セクハラ、パワハラに悩まされつつ)活躍しています。
そんで、博士はイタリアのフィレンツェへ逃亡し、正体を隠し、フェル博士と偽名を使い、とある書庫の司書として文学、芸術を満喫する生活を送っている。
スターリングが関わった、とある事件をきっかけに、怪物が復活するーーー
と、そういうようなあらすじなんですが。

『ハンニバル』文庫本で上下巻です。
これに、香り、匂いの記述がとてもたくさん出てきます。
芳香も悪臭も。
何て言うんだろう、状況の説明、補足、強調、とでも言うのか。
例えば、飛行機のエコノミー席での息苦しさ、食肉用家畜の養殖場、フィレンツェの香料専門店などなど。

前著『羊たちの沈黙』でも、レクター博士がスターリングと初めて会った時、スターリングのつけているスキンクリームの銘柄を当てたとか、そういうエピソードがあったはず…(今、『羊たちの沈黙』見つからないので確認できませんです)。

その物語の中で、印象的な香り、記憶、事件の補足的、また強調として使われている香りを紹介しようか、と。
今、これ入力していて、企画として成立するのかわたし! とちょっと不安ですが、やー、『好きなものを語るとき、それは誰かを救う』から、たぶんダイジョウブ(とじぶんに言い聞かせる)。

#01 クラリス スターリング
第一部のオープニングから。
麻薬組織のボスの逮捕に向かう途中、スターリングはバンの中で、ある匂いから、父親のことを思い出します。
以下、引用。

男たちのひしめく、この不快な臭いのする監視用ヴァンに乗っていると、身を刺されるような孤独感に包まれる。鼻をつくのは安物のアフターシェイヴの匂いーー”チャップス”、”ブルート”、”オールド・スパイス”。それに汗と革の匂いだ。ふっと不安が忍び寄ってきて、それは舌の下に含んだ一セント銅貨の味がした。
(脳裡にあるイメージが割り込んでくる。タバコと洗浄力の強い石鹸の香りをいつも発散していた父。キッチンに立って、先端が四角く割れたポケットナイフでオレンジの皮をむき、それを自分に分けてくれた父。彼が夜間パトロールに出かけたとき、しだいに遠ざかっていったピックアップトラックのテイルライト。そのパトロールで、父は落命したのだ(略))

警官だったお父さんがパトロール中に撃たれて亡くなったというのは、前作でも触れられていて(というか、スターリングの中で父親はとても大きな存在で、レクター博士にこのトラウマを弄ばれるワケです)、それがオープニングで取り上げられています。
あまり心地よくないにおいの中にいて、そこから(なぜかぜんぜん違う)父親の香り、父親の存在を思い出すーー

この麻薬組織への急襲は、スターリングにとってあまり気乗りのしない任務なので、そのやりきれなさから想起したのか、お父さんダイスキー!と懐かしむのではなくて、どちらかというと、残された哀しみ、孤独を噛み締めるような、そんな『プルースト効果』です。
引用で(略)としている後は、スターリングは、お父さんのダンス用の衣服を思い出していて、そこからの連想で彼女が現在使っているクローゼット、その中身、あまり着る機会がないパーティドレスなどを考えています。
父親と同じ(ような)仕事についた自分、そしてふたりして同じように、クローゼットにしまわれている、とっておきの衣装。
(そういう『とっておき』の衣装を着る機会があまりない、という華やかなことが少ない境遇、状況が、よりくっきりと際立つような)(切ないなあ)
香りひとつで、これだけの記憶の広がり、深くまで降りていける、そう表現できるってすごいなあトマスハリス。

この引用で、わたし、舌の下に含んだ一セント銅貨の味 ていうのがすごくリアルに感じられるのですが。
なんていうか、耳で感じる香り、口から耳へ伝わってくるような感覚(か、香りって耳から入ってこない? こないですか??)があり、感覚の共有とでもいうのかなあ、読み直していて、この一節がとても印象的でした。

#02 パッツィ警部
リナルド パッツィ、フィレンツェ警察の主任捜査官です。
レクター博士の正体に気付き、博士を(逮捕じゃなくて)(賞金欲しさに)売ろうとする人物で、えー、そういう人物です。
視覚による記憶が並外れていて、その能力を全面に押し出して仕事をしているワケです。
以下、引用。

尋問の名手パッツィは、聴覚と嗅覚に訴えながら自問していった。
(あのポスターを目にしたとき、耳には何が聞こえたっけ?……一階のキッチンでカタカタ鳴っていた鍋の音だ。では、踊り場にあがってポスターの前に立ったとき、何が聞こえた? テレビの音だ。居間のテレビ。『リ・イントッカービリ(アンタッチャブル)』でエリオット・ネスを演じていたロバート・スタックの声。料理の匂いはしたか? ああ、料理の匂いが伝わってきた。他に何かの匂いをかいだか? ポスターは目に入ったのだがーーいや、目にしたものの匂いはしなかった。他に何か匂いをかいだか? あのアルファロメオの匂いなら、はっきり覚えているのだが。車内はとても暑かった。あの熱いオイルの匂いはまだ鼻にこびりついているようだ。あれだけオイルが熱くなっていたのは……ラコルドだ。そう、ラコルド・アウトストラーダを飛ばしていたからだが、あのときはどこに向かっていたんだったかな? サン・カッシアーノ。うん、たしか犬の吠える声も聞いたな。サン・カッシアーノで。思い出したぞ、あの家の主を。あいつは強盗とレイプを重ねたやつで、名前はたしかジロラモなんとか、といった)。
記憶の断片が一つにまとまる瞬間、そう、神経の末梢が痙攣しながら連結し、灼熱のヒューズを通して一つの着想が浮かびあがる瞬間、人は何よりも鮮烈な喜悦にひたるものだ。パッツィにとって、それは生涯で最良の瞬間だった。

これはパッツィがレクター博士と会う前、別の連続殺人犯を追っていた時のエピソードでして。
最初はおぼろげな視覚的なイメージを、聴覚と嗅覚の記憶を探りながら、徐々に鮮明にしていく、犯人にたどりつく、その過程です。
スターリングの感傷的な記憶の再現とは違って、パッツィは、理論的、具体的に、そして『仕事に活かす』という前向きな方向で五感を駆使しています。
(五感の記憶を丹念にたどり直す、こういうメソッドが何かあるんでしょうか。)
(スターリングの香りの記憶の再現は、無意識、何となく、でしょう。そんでパッツィの方は、能力、スキルというカンジで)

記憶というとわたしは『頭で覚えていること』しか思いつかなかったんですが、このように

「あの時、聞こえたこと」
「あの時、見たもの」
「あの時、あたりに漂っていた香り」

五感で覚えていることというのは、より体感として刻み込まれた、というか、(アタマで覚えている)言語化された記憶よりも、丸ごとそのままの、直接的なものだろうなあ。

#03 ハンニバル レクター
以下、引用。

 まだ早い時期に、ハンニバル・レクター博士は騒々しい街路からこの世で最も香ぐわしい場所の一つ、ファルマチーア・ディ・サンタ・マリーア・ノヴェッラに入った。ここは七百年余の昔、ドメニコ会の修道僧たちによって創られた薬舗である。奥の内扉まで伸びている廊下で博士は立ち止まり、両目を閉じて顔を仰向けると、名高い石鹸やローションやクリームの芳香、作業室に並ぶ各種の原料の香りを心ゆくまで吸い込んだ。(略)
このフィレンツェで暮らしはじめて以来、身嗜みに気を配るフェル博士がこの店で購った賞品の総額は、それでも十万リラを超えないだろう。だが、それらの香料や香油はよくよく厳選され、しかも並はずれた感性によって組み合わされていた。その感性は、鼻によって生きている香りの商人たちの胸に驚きと敬意を植えつけずにはおかなかったのだ。

レクター博士、フィレンツェでの暮らしをエンジョイしております。
某書庫の司書(候補)になり、その書庫に住み、古い文献を管理し、こうして香り、香料も潤沢に使っている。
(比較として、羊たちの沈黙時代、精神病院にいた時の悪臭についても、何度か書かれています)
映画では、FBIを挑発するように手紙を送ったんですが、その便箋に、ハンドクリームの香りを染み込ませていまして。
竜涎香とテネシーラベンダーと、あと羊毛をブレンドした香り。
おそらく、原作のこの辺りの『香り』の記述から創られた、映画オリジナルのエピソードです。
このあたり、行間から、花びらやハーヴのひらひらが浮かびあがるようなイメージで読みました。
前述のパッツィ警部の負っている闇、そして博士のエンジョイフィレンツェライフの明るさ、そのコントラスト、なのかなーと思いました。

さらに引用。

 自分の鼻の形を変えるに際し、レクター博士が外面的なコラーゲン注射のみに留めて、いかなる鼻整形手術も行わなかったのは、まさしくこの喜びを保ちたいためだった。彼にとって、周囲の空気は各種の色彩と同等の、明瞭で鮮やかな香りで彩られている。彼はあたかも絵の具の上に絵の具を重ね塗りするように、それらの香りを重ねてかぐことができる。ここには牢獄を思わせるものは何ひとつない。ここでは空気は音楽なのだ。
まずは本物の龍涎香、海狸香、それに麝香鹿(ジャコウジカ)のエッセンスから成る基音がゆきわたっており、(略)白檀、肉桂、ミモザ等の香りが渾然となった調べがのびやかに響きわたっている。
 自分は両手や両腕、両の頬で、周囲に満ちている香りをかぐことができるという幻想に、レクター博士はときに浸ることがある。そう、自分は顔と心で香りをかげるのだという幻想に。

(ここも読んでいて、本当にガーリーなキラキラした空気が漂い、花やハーヴがひらひらしているような、そんな印象でした)(や、博士、シリアルキラーなんですが)
ここでは空気は音楽なのだ。
短い文章なのですが、本当に豊かな空間なのだろうなあと想像できます。
これもひとつの共感覚なんでしょうか。
音も空気の振動なので、香りと近いものなのかなあ。
そしてその香りを、肌と心で知覚する、という幻想を楽しむ。
例えば、手で、甘い香りだと感じるのは、どういう感覚なのだろうなあ。
温かさ? 色? 柔らかさ?
複数の香料の響き合いというのは、五感、どこで感知するんでしょうか。
オモシロいなあ。

ちょっと考えてみました。指先で感じる香り。
メンソール系:冷たい
ばらなどのフローラル:流れるようなほの暖かさ
ラベンダー:ちょっと固い
ムスク:ふよふよして厚みがある
柑橘系:薄めで固い
白檀:すごく固い

あれだな、例えばインク沼のひとなら、人の目で見た香り、色をノートブックに書いてみてもいいかも知れない。
メンソールはどんな色だろう。原料の色じゃなくて。香りの色。
音であれば、どんな音だろう。高い音、低い音、楽器であれば、どの楽器で奏でられた音だろう。
言葉なら、どんな言葉になるのかなあ。香りの印象ではなくて。

というわけで。
物語の香り◎香り◎ハンニバル(下巻)編に続きます。
よろしくお願いしますです……

■おまけ
チーズやトリュフがふんだんに並ぶ ”ヴェラ・ダルー1926” は、神の足のような匂いがする、とフィレンツェっ子は言う。
(『ハンニバル』上巻より)

■おまけ2
人の目が聞いたこともなく、人の耳が見たこともなく、人の手が味わうこともできず、人の舌が想像することもできず、人の心が話すこともできない、そんな夢を俺は見たんだ。
(『真夏の夜の夢』沙翁)

Comments (0)

Tags:

大きな本棚の悲しみ

Posted on 06 2月 2017 by

こんなことを言うと反感を買いそうだけれど,そして,ミニマリストな人々には当然かもしれないけれど,さらに読書記録を付けている人にはバカにされそうだけれど,

僕は楽しみのための本を買うのをやめようと思っている

具体的には,小説を買うのをやめようと思っている.

なぜか.

それは,もう,本棚がいっぱいだからだ.

そして,いっぱいの本棚は,悲しいからだ.

 

僕の家には,高さ2m,横幅1mの大きな本棚がある.下段には,写真集がある.さほど多くはない.中段には仕事関係·お勉強関係の研究書が並んでいる.これらは,シリアスに絶版のものもあるので,捨てられない.

だけれども,よく見ると,上段には小説も交じっている.趣味で集めた本もある.銀色夏生さんの詩集は2000年代までならほとんどある.桐野夏生も昔は好きだった.モームも,ヘミングウェイも,漱石も,サガンもある.でも,どれもほとんど読んでいない.

作家で集めたはいいが,読まれない本ほど,悲しいものはない.必要はないけれど,欠けるのが嫌だから,そこにあるだけだ.僕の見栄のために.

そして,模様替えの時,必死で動かすその本棚の重みは,なお悲しい.

 

だから,今はまっているジェフリー・ディーヴァーは,すべて図書館で借りることにしている.僕は作家で読む人だから,Wikipediaで作家を検索して,作品リストを印刷する.

ノートに貼り付ける.

読んだものには〇を付ける.簡易本棚の完成だ.

 

写真内表の出典:Wikipedia (項目:ジェフリー・ディーヴァー) https://ja.wikipedia.org/wiki/ジェフリー・ディーヴァー

今のところ,集めるという欲も,それから読んだという達成感も,満たされている.読み返したくなることはない(だからといって,面白くないわけではないのだけれど).

結局,モームも,ヘミングウェイも,漱石も,サガンも,僕の見栄のために本棚に存在する必要はない.それはすこし,残念な感じがするし.

 

というわけで僕は,これから本を買うことがめっきりなくなるだろう.

いつか,ほとんどの本たちをブック何某にでも持っていくだろう.そして,悲しくなるぐらいのわずかな対価を受け取るのだろう.

あるいは,そのまま古紙回収にでも出すのだろう.誰かの手にまた触れられるなら,いっそのこと燃やしてしまう方がいい,という悲しい気持ちから.

そして思うのだろう.

おや?もしかしたら,空っぽの本棚も悲しいのでは?

自己を正当化.

そして,これらもまた悲しい.

 

答えは出ない.

 

本棚を買う前に戻って,その時の自分に「大きな本棚は悲しみを生む」と伝えることができたら,僕はどんな顔をするだろう.

驚くだろうか.怒るだろうか.あるいは,納得してくれるだろうか.

 

 

Comments (2)

生きてました。

Posted on 03 10月 2016 by


皆さま、ご無沙汰しております。

ムネコです。

私が初めて記事を投稿したのが2月。

その後、細やかではありますが私の人生に変化がありました。

 

ムネコ⇨引っ越す⇨夫が単身赴任⇨妊娠発覚⇨妊娠悪阻⇨親1人、子供が3人いるため、入院できず⇨安静しようにも安静できない⇨妊婦なのにガリガリに痩せる⇨なんとか乗り越える⇨若干、人生スキルup⇨今、元気⇨私の中で、ミニマリズムムーブメント発生(理由は端折る)

 

といった具合です。

なので、私のnotebookにもミニマム化の影響がでました。

今は、A6sizeのMDノート1冊です。我が人生で、こんなにもノートを持っていないのは初めての経験です。img_4782

そして、そのノートに読書記録をつけて、Instagramにpostするのが、楽しみの毎日でございます(いや、こちらに記事を投稿しましょうよ!!⇨します!もう、せっかく憧れだったライターになれたのだから。体調もおちついたし)。こんな感じで・・・img_4691

 

 

そろそろ、手帳を買う季節。今から、手帳会議をしなければ( ^∀^)

 

 

 

Comments (0)

Tags: , ,

「もっとゆっくり見なくちゃわからんよ」〜『モレスキンのある素敵な毎日』を読みました。

Posted on 28 9月 2016 by

彼岸も済んだのだから、もう少し涼しくなって欲しいなあと思うのですが、皆様、いかがお過ごしでしょうか。

えー。
アメリカの作家 ポール オースターの『オーギー・レンのクリスマスストーリー』という短篇があります。
煙草屋のオヤジ、オーギー・レンは、毎朝決まった時間に、自分の店を撮影しています。
その撮り貯めた写真を、知り合った作家ポール ベンジャミンに見せるシーンがあり。
ポールは「同じものがたくさんあるなあ」と思いながら、どんどんアルバムのページをめくるのですが、それをオーギーが嗜めてーー
以下、引用。

「それじゃ速すぎる。もっとゆっくり見なくちゃわからんよ」
たしかにそのとおりだ。じっくり時間をかけて見るのでなければ、何も見えてはこない。私はもう一冊のアルバムを手に取り、もっと丹念に進むよう自分に言い聞かせた。細部にもっと注意を払い、気候の変化にも留意し、季節が移るにつれて光の角度が変わっていく様子にも気をつけた。するとじきに、車の流れの微妙な違いがわかるようになり、一日一日のリズムのようなもの(略)も予測できるようになった。(略)勤め先へ向かう通行人たち。毎朝同じ人が同じ場所を通って、オーギーのカメラの視野のなかで、それぞれの人生の一瞬を生きている。

□■□■□■□■□■□■

Continue Reading

Comments (0)

夏の終わりの夜長には古典文学に親しもうではないか!

Posted on 22 8月 2016 by

オリンピックに興奮冷めやらないなか、いかがお過ごしでしょうか?ぺらリンピックなら「投げ槍」日本代表になれるくらいやる気のないなかしぃです。

さて、夏も終わりに近づきましたが最近筆者は日本の古典文学にはまってます。以前から自称「歌人」を名乗っていましたが、ちゃんと和歌を学んだことはなく、「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」「百人一首」などを一から学び直そうと思いました。だがしかし、いまさら勉強しなおすにはハードルが高すぎるっていう感じぃ?高校のときちゃんと勉強してこなかった報いが今きてます。いまさら専門書を読んだり原文にアプローチするのも無理です。

というわけでとりあえずさわりをさらっと流して分かった気になる方法を模索した結果、ある本と出会いました。それは、

角川ソフィア文庫、ビギナーズクラシックシリーズ

です。

とりあえず百人一首と伊勢物語を買いまして、今読んでる最中です。最後まで読んでないのに記事を書こうというこの薄っぺらい心意気、凄いじゃありませんか?

というわけで、肝心の中身なんですが、ビギナーズクラシックと謳うだけあって、初心者向けです。だがしかし、初心者向けと侮るなかれ!古典を読んだこともない人向けに原文と分かりやすい現代語訳が載っているのは当たり前、その他にも作品の背景や語釈なども分かりやすく、図版やコラムなども充実して飽きさせないようになっています。ただ、ビギナーズと謳うだけあって全部を掲載しているわけではなくエッセンスだけ抽出して解説し、後は全体像が分かるようにあらすじを載せてます。源氏物語なんて五十四帖全巻読破するなんて研究者以外ではなかなかいないですよ、それを1冊で分かるように出来ています。

アマゾンのレビューでもかなりいい評価をいただいていますが、デメリットをあえてひとつ挙げると「物足りない」ということらしいです。まぁ、一部抜粋ですからこれをきっかけにちゃんと読んでください、っていうところも初心者向けなんじゃないですかね。

で、古典って受験勉強でしか触れたことがないから難しそうだと思っているあなた、それは大間違いですよ!源氏物語なんて愛欲渦巻くハーレクインロマンス真っ青の日本最古の恋愛小説ですし、枕草子なんて平安時代の人気ブロガーですよ、こんな適当な内容で!他にも伊勢物語なんて男の美学満載ですし、土佐日記にいたっては紀行エッセイのさきがけです。他にも今昔物語集なんて何でもありの面白エピソード満載の短編集ですし、他にも色々面白い内容の古典文学が盛り沢山です。現代のあざといストーリー展開の小説なんかよりぶっ飛んだ発想の内容が1000年以上も前に書かれていたなんてすごいじゃありませんか?

そんな文学遺産を1冊ちょっとの時間で読み切っただけで分かった気になるなんてなんてぺらい、もとい、素晴しいシリーズではありませんか。このシリーズに匹敵するのはマンガで読む名作シリーズくらいしか思いあたりません。

IMG_20130616_163918

受験生のNotebookersの皆さまにもお勧めですよ、無機質な受験勉強の対象だったものが一気に人間味のある世界が広がります。昔の人も同じことに興味を持ったり考えたり悩んだんだなぁということが分かり、頭に残りやすくなります。

さぁ、古典の海に飛び込んでみようではありませんかっ!

Comments (0)

Tags: ,

天使が見てくれる絵〜5月22日 講演会『内村鑑三と『代表的日本人』に行ってきました

Posted on 02 8月 2016 by

日、ドナル ライアン著 岩城義人訳『軋る心』を読みまして。
やー、良かった…! ほんっとーに良かった!
アイルランドの、ちょっと田舎の方で二十一人の登場人物が独白を連ねる、それだけの物語なんですが。
いやー、もう、ほんっっっとーに素晴らしい!
じ、事件は(一応は)起こるのですが、その事件そのものよりも、人物たちの視線、そのすれ違い、同じものを見ているはずなのに、全く違うものとして捉えている、素晴らしい!
主人公ボビーが「自分は自分をこういう人間だと思っている」視線、そして他の登場人物たち、ボビーの友人、同僚、妻、父親は「ボビーはこういうヤツだ」と思っている視線、そのわずかな(そして、大きな)すれ違いとひずみが(主人公に限らず、二十一人の登場人物ほとんど、その視線のすれ違いが描かれています)、丁寧に積み上げられていまして。やー、アレだ、ケルトの渦巻きだ、と思いました。お互いを取り込んで、巻き込んで増殖して、それでもミにはならず、ただ負の部分だけがふくれあがり、それでも美しい、そういうケルトの渦巻き。

□■□■□■□■□■□■□■□■□■

Continue Reading

Comments (2)

Tags: , , ,

今夜の月を差し上げましょう、物語売りは言った。〜ムーンプランナーと『できたことノート』を使ってみた

Posted on 29 7月 2016 by

月最後の日曜日は、わたしのツイッターのタイムラインではちょっとしたお祭りのようになります。
イタリアの作家タブッキが『レクイエム』という作品を書いていまして。
舞台はポルトガルのリスボン、とても暑い真夏の日、これが七月最後の日曜日なのです。
主人公は歩いて回り、生きているひと、死んでしまったひと、存在していないかも知れないひとと出会い、話しをして、また別れていきます。
それだけの物語なのですが、ファンは多く、この日、わたしのタイムラインでは、フォロワーさんたちが『レクイエム』の好きな一節を流し、登場人物が食べたリスボンの名物料理の画像をアップし、合い言葉のように『七月最後の日曜日』とつぶやいています。
去年は7月26日でした。今年は7月31日。先日、ふと思ったんですが、イースターやペンテコステと同じ、移動祝祭日だ。

今日はぼくにとって、とても不思議な日なんです。夢を見ている最中なのに、それが現実のようにも思えてくる。ぼくは記憶のなかにしか存在しない人間にこれから会わなければなりません。今日は七月最後の日曜日ですね、足の悪い宝くじ売りが言った。町はからっぽ、木蔭にいても四〇度はある。記憶のなかにしか存在しないひとに会うのは申し分のない一日だと思いますよ。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

えー、そのタブッキ祭りがもうすぐなワケですが、作品レビューの記事ではないです。
最近、ムーンプランナーのオモシロい使い方をちょっと見つけまして。
その紹介をしてみようと思います。

ムーンプランナーとできたことノートとアルテミスとSTORAGE.it

ムーンプランナーとできたことノートとアルテミスとSTORAGE.it

先日、ツイッターで、ムーンプランナー【公式】(@moonplanner)さんがこんなことをつぶやかれていました。

へー、『できたことノート』かー、と、この時はまだ漠然と「そういう本があるんだー」くらいに考えていました。

以前、こういう記事を書きました。そんで、目標を書いて、ウィッシュリストも書いて、持ち歩いていたのですが。

この7月の13、14日くらいに、ムーンプランナーを見返していて、空白がちょっと目立つなあ、この期間もできてなかったなあ、と落ち込んでいまして。
ですが、以前の記事にも書いたように「自分を責めるような使い方はしなくていい」という言葉を思い出し、また、満月が近いから落ち込むのだろう、くらいに考えて、ムーンプランナーの空白とできてないことは、ひとまず置いておくことにしました。

その時、ふ と『できたことノート』が思い出されまして。
「じゃー、見てみよう」と本屋さんへ行きました。

できないことを見ても落ち込むだけです。

これは『できたことノート』の表紙見返しの部分

これを見て、即レジへ行きました。
読んでみると、ムーンプランナーにぴったりの内容だなあ、と。
『できたことノート』、ノートに書くことは非常にシンプルです。
数日の実践、その記録、振り返り、次の期間にはどんな工夫をする? という流れで、読んだ時、ムーンプランナーの見開きページが自然と浮かびました。
やー、コラボすればいいのに、と思うくらいでした。

せっかくなので、満月の7月20日までの間、このできたことノートのメソッドを実際に試してみました。

毎日書く内容は、その日できたこと。
例えば「スッキリすること」「わくわくすること」「ハツラツヘルシー系」「時間」「習慣化」などで、具体的には
「片付けた」「ドリルを一冊終わらせた」(スッキリ)
「駅で階段を使った」「野菜を多めに食べた」(ハツラツ)
「納期を守った」「いつもより30分早く出社した」(時間)
と、本文に例がたくさん上げられています。

◎わたし的書き方ポイントとして
『できたこと』を書く。『良かったこと』『嬉しかったこと』ではない。
自分が実行したこと、身体を動かしてしたこと、AとB、自分の目的により近い方を選択すること、などが『できたこと』。初日に書いたのが「嬉しかったこと」で、あれー、これ違うよね、書き直し書き直しー、となりました。

これを一週間続けて、日曜日(日曜に限らず、いつでもいいのですが)に振り返る。その振り返りの内容もまたシンプルで、まず、その期間中にできたことを一つ、《直感》で選びます(て書きましたが、どれを選んでもダイジョウブだそうです)。

その選んだ出来事を掘り下げて書いていきます。
1)詳しい事実(具体的には何があったか)
日時、場所、誰と、何を どうしたのか。いわゆる 4W1H を書き出します。

2)原因の分析:なぜそれができたのか
以下本文より引用。

「レポートをうまく作成することができた」
・なぜうまく作成できたんだろう?
→とても良い参考資料を見てつくったからだ
    ↓
・なぜよい参考資料を見つけられたんだろう?
→同僚が紹介してくれたからだ
(略)
このように「なぜ?」を繰り返すと、「上手に作成できた理由」が見えてきます。

3)本音の感情:いま、素直にどう感じている?
できたことに対して、原因の分析をした結果に対して、どう感じているか、を書きます。
この時、無理に喜ばなくてもいいそうです。
できたことに対して腹立だしい、悲しい、苦しいのなら、そう書いてもいいんだそうです。

◎わたし的書き方ポイントとして
これ、すごくいいと思いました。自分の中に深く潜っていく感じがします。
いつもなら、流してしまう自分の意識を改めて見つめる、向き合っている実感が得られます。
それとオモシロいなあと思ったのが、本音の感情は、書いているうちに変化するということ。
手を動かして書いているその瞬間にも、どんどん変わっていきます。
自分の中に何かが流れて動いている、変化しているのがものすごく感じられます。

4)次なる行動:明日からどんな工夫をしてみる?
原因の分析や本音の感情から「もっとこうしてみよう」「これはやめよう、ここは続けてみよう」という改善点を書きます。

これをムーンプランナーで実践すると。
1)満月・新月の大きなスペースには、その期間の目標や計画を書く。これはいつものそのままの使い方。
2)日々のスペースに『できたこと』を書く(別の手帳に書いても、ふせん貼っていいかも。できたことの量による?)
3)半月に振り返る。これも別の手帳じゃないと書けないかなあ。ふせんでもいいかも。次の期間の改善点、工夫などは、満月・新月の大きなスペースに書き足してもいいし、下のメモ部分に書いてもいいんじゃないかと。
4)実践しつつ、改善点に留意しつつ、次の見開きページへ。

本当にこの『できたことノート』メソッド、ムーンプランナーのためにある、というか、そのくらいフォーマットがメソッドに合っていると思います。
空白が目立つのが気になる方は、ちょっと本を見てみて、実践されてみてはいかがでしょうかー。

あと、すごくいいなあと思ったのが、「できたこと」であれば、どんな小さなことでもいい、こと。
毎日「できたこと」を書いていて、例えば「早寝早起きできた」、これを振り返りの日に選んで、1)詳しい事実から順番に書いていると

「早寝早起きって、小学生の夏休みの目標かーー!」

とか

「こんなのできて当たり前じゃない?」

というセルフツッコミが入らなくもないのですが。(わたし、一回目の振り返りがほぼコレに近いもので、思いっきりセルフツッコミを入れました)
が、今まで夜更かしして寝坊していて、それを改めようとして「早寝早起き」を意識し、次の日、それができたなら「できたこと」として書いていいし、振り返りの日にそれを選んでいいんだそうです。
以下、引用。

中には、仕事や勉強、家事、育児などは「がんばるのが当たり前。そこをあえて見つめる必要があるの?」と考える方もいます。また「こんな小さなことをメモしても仕方ない」と思う方もいるでしょう。(略)
日々の「できたこと」を見つけていくことは、自分を「思い込み」から解き放つ準備のために必要だからです。毎日できたことをコツコツとメモしていくことで、自分を外から眺める感覚を自然と身につけることができるのです。
このように、自分を客観的に見て、プラスの評価をすることは、自分を心の底から認めることにつながり、自己肯定感を大きく上げることになります。それが揺るぎのない自信となり、前に進む力となるのです。

(『できたことノート』ここではカンタンに説明しています。本では、もっと書き方のコツや、考え方、さらに一歩踏み込んだ考え方、進め方などが詳しく書かれています。興味を持たれた方は、ぜひー)

もうひとつ、ものすごく実感したのが『時間の流れ』です。
振り返りの日に、1)具体的には 2)原因の分析… と書いていくと、1)は1)、2)は2)じゃなくて、それが一続きの流れに感じます。
書くのは、きちんと順番に1)から書いていくんですが、意識の流れとして、日々できたこと、それを順番に見てひとつを選んで、詳細を思い出し、その時に生まれた感情、本音を書き、その本音から、今度は次の期間への留意点を書く… すごく自然な流れに感じられ、この一連の振り返り作業は、とても心地良いです。

このできたことノートとムーンプランナー、わたし的には、ものすごく相性が良いようで、書いていてわくわくするコンビとなりました。次の新月が8月3日、獅子座の新月だそうです(ちなみにわたしも獅子座)、またごりごり書き込んで使っていこうと思います。またオモシロい展開になったら記事にしたいなあ。

おまけ■■■

物語売りは腕を下げ、なにかを差し出すかのように、わたしに向かって手を伸ばした。今夜の月を差し上げましょう、物語売りは言った。お望みどおりの話を差し上げます。あなたもなにか物語が聞きたいはずだ。

『レクイエム』タブッキ

Comments (0)

岩波文庫これくしょん -岩これ- を始めた話

Posted on 05 7月 2016 by

-岩これ- を始める

岩波文庫を購入してから到着までの間、過去に出版され現在は品切れになっているものを整理してみようと軽い気持ちで「岩波文庫これくしょん -岩これ-」を始めたのだけれど、これが沼であった。一世紀近い歴史を持つ文庫が沼ではない筈がない。

念のため。岩波文庫には基本的にはすべて「著者番号」と呼ばれる一意の番号が振られ、カバーの背表紙下側の色によって分類分けがされている。ちょうど図書館の日本十進分類法(NDC)のような分類を一つの文庫が持っている。これって結構すごいことだ。例えば夏目漱石であれば、

緑 (日本の近現代文学) 11番 として 緑11 というコードが与えられている。
私が今回棚買いした本をコードで表記するならば青の900番台(自然科学)となる。

細かなルールはWikipediaにある分類の説明が素晴らしい。
岩波文庫の歴史は古く最初の発行は1927年である。1927年といえばリンドバーグが大西洋を無着陸横断した年だ。その1927年から2016年までの間、岩波文庫の著者番号は何度か大きな変更が加えられ、再販、再番号割り当て、例外処理など、長期間運用されたデータベースにありがちな混沌をすべて兼ね揃えることとなる。加えて私が今回集めようとしているジャンルは自然科学の分野である。文学の性向が強い岩波文庫で何故自然科学を収集することはマイノリティである他ない。情報が少なく、品切れの本は稀少性が高い。収集前から沼の香りが漂う。

欠落した情報

手始めに岩波ブックサーチャーと呼ばれる本家のデータベースを利用し、検索条件に「岩波文庫」「自然科学 [青]」だけを選択し検索する。このブックサーチャーの素晴らしい点は現在販売されていない[品切書目]も同時に表示してくれることだ。Spreadsheetに吐き出して整理してみる。すると幾つかの情報の欠落に気づく。まず、検索結果として表示されている発行日フィールドに値が無いものが2冊ある。

青902-1: 科学と仮説 1938年2月 発行
青912-3: ビーグル号航海記 全三冊 下 1961年2月 発行

戦前に発行されている「科学と仮説」は情報がはっきりしない可能性はもちろんわかる。けれども「ビーグル号航海記 全三冊 下」は戦後になってからだ。色々と調べているうちに岩波書店が岩波文庫の目録として「解説総目録」という本を3巻セットで発行していることを発見する。品切れのためAmazonで古本を注文し、これらの本を検索してみる。発見。

科学と仮説 1938年2月25日 発行
ビーグル号航海記 全三冊 下 1961年2月25日 発行

共に2月25日であった。興味深い一致だ。次に著者番号順で並べてみると著者番号「青911」「青921」「青932」が欠番していることを見つける。ブックサーチャー側の単なる情報欠落かもしれないので、購入した解説総目録の自然科学を総当たりで調べて見る。「青932」は発見。

IMG_1449

青932-1: 雑種植物の研究 メンデル/岩槻 邦男,須原 凖平 訳 1999年01月18日 発行

生物の授業でも習ったメンデルの「優性の法則」について書かれている本だと思われる。Amazonで検索すると書籍自体は15年くらい前に再販されている。単純に岩波側のデータベースから欠落しているようだ 現時点(2016-07-05)では正しく表示されました。解決。問題は「青911」と「青921」である。これは解説総目録にもなかった。これに関しては現在私は「再番号割り当て」などで欠番しているケースを検討している。例えば解説総目録上は自然科学分野として分類されている、

青614-1: 科学論文集 パスカル/松浪 信三郎 訳 1953年12月05日 発行

という本は青614-1という番号が割り当てられている。現在の分類でいけば青600番台は哲学だ。こうした例から、元々は青900番台(自然科学)に当時は整理されていたものの、何かの理由で別分類に移行された著者ではないかと推測している。目録を総当たりで探すことも検討したのだけれど、この場合範囲が広くなり現在のところ保留中だ。

青921-0 (追記: 2016-07-26)

適当に書いたエントリだったのだけれど、予想に反し投稿を頂いた。

“「大学図書館なら、岩波文庫は出版時に購入してそう」と思ったので、大学図書館の本を探すことができるCiNii Booksで…青911はわからなかったのですが、青921はファーブル昆虫記 きんいろおさむし その他 じゃないでしょうか。第20分冊とあるので、ファーブル昆虫記だけで20冊はあったようです。…すごい。” – chidorix

早速CiNii Booksで検索を実施する。発見。

きんいろおさむし その他
岩波文庫, 青-88, 630-631, 青(33)-921-0, 第20分冊, 岩波書店, 1962.3

確かに921-0と番号が振られている。そういえばファーブル昆虫記はこの番号の近くではなかったかとSpreadsheetを見直す。あった。現在は青919-1~920-0までの10巻セットに再配置されている。ここで一本の線に繋がる。ファーブルの昆虫記が元々20巻セットであったならば、著者番号921-0はぴたりと一致する。

919-1~920-0 (1~10巻)
920-1~921-0 (11~20巻)

かつてファーブル昆虫記は上記3つの著者番号を跨ぐ20巻セットであった。
これが再編集を経て現在の、

919-1~920-0 (1~10巻)

に再配置され、結果的に921番が欠番となった。
通常著者番号は1から始まるので、921-1しか可能性を考えずに探していたけれど、実際は前の番号から続く大作であった。見つからない筈だ。当初推測していた「著者番号整理説」ではなかったけれど、とても嬉しい。ありがとう、chidorixさん。一つは解決しそうだ。残るは青911。

ルーサーバーバンク

Spreadsheetを整理しているうちにもう一つ気になる点を見つける。現在品切れになっている「植物の育成」という本が、岩波の自然科学では異例の長編8巻組なのである。一つのシリーズとしてはファーブルの次に多い。私は恥ずかしながらルーサーバーバンク(Luther Burbank)という人物を知らなかった。教科書にも載っていた記憶が無い。私より256倍くらい勉強の出来たであろう同年代の知人数人に尋ねるも、やはり知らないという。俄然興味が湧く。

「日本ではあまり有名ではなく、米国では有名な生物学の人間なのかもしれない」とも考え、高校までを米国で教育を受けた同僚に聞いてみる。

ClO7VQGVAAAqALH.jpg-large

知らない。英語のWikipediaを読むと、むしろアイルランドの方が有名なのかもしれない。去年泊めてもらった同僚に聞いてみる。

luther burbank is famous for helping with Irish famin

というWikipediaをコピーペーストしたような回答が返ってくる。アイルランドでは有名なんだろう、ルーサーバーバンク。Wikipedia以外に何か情報が無いかなと色々探すけれど、残念ながら日本語はどれも疑似科学に近い内容なのでここには記さない。Wikipediaの英語版が今の所一番素晴らしい。日本語情報が少ないだけに再販されないかなと少し期待する。

ルーサーバーバンク、彼はボタニスト(植物学者)だけれど、最近で一番有名なボタニストはおそらく映画オデッセイ(原題:The Martian)に出てくるだろう。映画が人気の頃にこんなこともあったのだから、同じタイミングで再販していればボタニスト繋がりで盛り上がったかもしれない。芋と本。檸檬と本を置いた何処かの書店もあったのだから悪くないプロモーションだと思う。

少し長いけれど、本が届くまで楽しんだ-岩これ-の報告でした。

Comments (3)

岩波文庫を棚買いした話

Posted on 02 7月 2016 by

酒を飲んだ後に書店に行くのが好きだ。飲み会の帰り道に深夜営業の書店に立ち寄り、好きな本を購入することが出来るのは都市生活における贅沢の一つだと思っている。郊外の場合は書店まで自動車の移動が必要で、飲んだ後気軽に出向くことができない。私が都市に住み続ける少ない理由の一つだ。

最近、雑誌を読みながら家で酒を飲んでいる際に「自分の普段読まない本もまとめて買っておけば、自宅にいながらにして書店に来た気分が味わえるんじゃないだろうか」という馬鹿なことを思いつき、岩波書店のお客様相談室にメールをしてみた。

「こんにちは。「岩波文庫」で現在販売されている(目録にある)自然科学のジャンルを全て購入したいのですが、直接岩波書店様から購入することは可能ですか? 全45冊、34,420円と計算しているのですが、カードでも振込みでも構いません。」

数日後、お客様相談室から返信があった。

「文庫の自然科学書のご注文ありがとうございます。早速小社の在庫と引き合わせて計算をいたしました。現在該当する文庫は仰せの通り45冊です。また、その本体価格合計は、35,780円となっております。何分、大きな荷物の出庫となりますので、倉庫への出庫指示はご入金確認後に可能なシステムです。先に請求書・振込用紙をお送りさせていただきますので、ご入金をどうぞよろしくお願い申し上げます。」

値は張るが買えない金額ではない。請求書と振込書を送ってもらい購入手続きを進める。届いた請求書には、岩波文庫を模したミニノートが同封されていた。また驚いたことに、担当してくださった方からの手紙もあった。嬉しい。

IMG_1394

あまりこうした購入をする人はいないようで、発送時点の連絡で担当の方から、

「岩波文庫の自然科学系ラインナップ全部というご注文は大変に珍しくて、非常にうれしく手続きをさせていただきました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。」

という返信を頂いた。私の身近にも自然科学系の本をまとめ買いする人はいない。
その本が先ほど届く。壮観である。

IMG_1387

IMG_1388

届いた本から帯を外し(本の帯があまり好きではなく、購入するとすぐに捨ててしまう)、短冊状の売り上げカードを引き抜くと結構な枚数となる。これだけでも普通ではない感じがして良い。

IMG_1392

IMG_1389

どこかのミュージシャンがCDを棚買いする話を聞いたことがあるけれど、本を棚買いっていうのも趣がある。帯を並べてみると「ビジネスリーダーが勧める岩波文庫」が多かった。本の種類に偏りがあるためだろうか、それとも文庫の読者層に訴えかけやすいコピーなのだろうか、何れにしても興味深い。

IMG_1391

私は2015年春の帯紙がとても気に入った。薄手の紙で触り心地が良い。他のツルツルした帯よりずっと好感が持てる。

以前、雑誌「図書」にあった誰かのコラムで「昔は岩波文庫をポケットに忍ばせておくとモテた(かなり誤解のある解釈)」という記述を見たことがある。では仮に棚買いするとどのような結果が生まれるであろうか。自明である。女子が「だいしゅきー」と寄ってくるに違いない。その下心が購入へのモチベーションを支えてくれたことを加筆せねばならないだろう。あとはモテるだけだ。

Comments (0)

ちょっと変わった手書きの楽しみ方見つけました

Posted on 01 6月 2016 by

ついに6月に入りましたね。梅雨入り坊やのお通りですね、なかしぃです。

最近万年筆にもう一度興味を持ち始めて手書きが楽しいと感じています。そんなとき本屋でこの本を見つけました。何かに興味を持っているときにアンテナに引っかかる現象、そう、セレンディピティが発動して偶然見つけました。

DSCF4740

642文章練習帳 TINY THINGS TO WRITE ABOUT です。10cm四方の小さい本ですが、1.5cmくらい厚いです。こじんまりした可愛い本ですよ。ちょっと鞄に忍ばせて持ち歩くのにも邪魔にならないサイズです。

そんな変わった本は、ちょっと変わったサンフランシスコの出版社、クロニクルブックスから出ています。宣伝文句は

「642のお題をガイドに文章を書き進める、ユニークで、一度始めたら止まらない、”文章が上手になる”ジャーナルです」

ということです。書いてある通り、642の一風変わったお題に沿って文章を考えて書き綴っていく本です。文章が上手になるかどうかは分かりませんが、考える力や想像力が身に付きそうです。

では、どんなお題があるかちょっと紹介してみましょう。

63 あなたのソロ・ショーの出だしの一言は? Write the opening line of your solo show.

257 食事をしていないのに、この有名なレストランを1つ星の評価にした理由は? Explain why you’ve given this famous restaurant only one star-even though you’ve never eaten there.

432 一夜限りの関係。ベッドサイドのランプに残されていたメッセージは? A one-night stand. What is the message left on the nightstand?

こんな感じで642個もあるお題を1日1つずつこなしていっても1年と9ヶ月楽しめます。姉妹書で642イラスト練習帳というのもあり、お題に沿って絵を描いていくものも面白そうです。

でも、よくもまぁこれだけのお題を考え付いたものだなぁと感心しますが、答え甲斐のあるお題ばっかりでしばらくは楽しめそうです。

Comments (0)

Tags: , ,

己を疑え(エピメニデス)〜バンクシー ダズ ニューヨーク 見てきました〜

Posted on 16 5月 2016 by

日、キジ ジョンスンの『霧に橋を架ける』という短篇集を読んだのですが。
なんだろう、この人間の底なしの想像力。
その世界は、霧が川のようになっていて、魚もいるし、渡し守もいる。《でかいの》と呼ばれる正体不明の怪物もいる。
その未知の空間に橋を架ける物語です。
そして同じ短篇集収録の『蜜蜂の川の流れる先で』
ある日、ある川に、水の代わりに蜜蜂が流れてくる。
主人公は、その川をたどり、源流をさぐるのですが…

あと、わたしの好きなジョナサン キャロルの作品に『木でできた海』があります。

「木でできた海にどうやって、船を漕ぎ出す?」

人間の想像力、そして幻想ブンガク万歳。

☆ ☆ ☆ ☆

毎度のことながら、幻想ブンガクについての記事ではないです。

えー。先日、BANKSY DOES NY 見てきました。初日、そして1回目上映という本気で見てきました。
>>公式サイト
やー、ものすっごく楽しみにしてまして、ものすっごく楽しかったー! 席で、もう膝ばんばん叩きたかったくらい楽しかったー!(ラストは、ホントに拍手しそうになりましたよ!)

BANKSY、バンクシー、ご存知でしょうか。
wikiではこんなカンジで↓

バンクシー(Banksy, 生年月日未公表)は、イギリスのロンドンを中心に活動する覆面芸術家。社会風刺的グラフィティアート、ストリートアートを世界各地にゲリラ的に描くという手法を取る。バンクシー本人は自分のプロフィールを隠そうとしており、本名をはじめとして不明な点が多い。2005年、自作を世界各国の有名美術館の人気のない部屋に無断で展示し、しばらくの間誰にも気づかれないまま展示され続けたことが話題となった。

上記にもあるように、美術館で、作品を盗むのでは【なく】、【置いて】くる、CD屋さんでCDを買い込んで、バンクシーオリジナルのジャケットを【勝手につけて】、また、お店に【置いて】くる、そういうことをする別名アートテロリストです。
2015年の8月から9月頃には、期間限定で、イギリスにて『デズマランド』という遊園地を作りました。
某超有名テーマパークを、えー、なんていうんだろう、もじった、皮肉った、えー、そういう遊園地です。
舗装されていない道(つまり土が剥き出しになっていて、泥っぽい)、やる気のないスタッフ、造形に失敗してるような人魚姫、かぼちゃの馬車が事故を起こし、シンデレラの死体の写真を撮るパパラッチ、園を出るためには必ずお土産屋さんを通らないと出られない、とか、そういう遊園地だったそうです。
こんなの。

わたしは、この御仁がとても好きで、えー、そのバンクシーがNYで何をやらかしてくれるのかと、ずっとこの映画を楽しみにしていまして。はい、楽しかったですー!

映画の内容としては。
バンクシーNY出張編です。
2013年10月、この1か月間、NYにて、毎日、どこかに作品をひとつ作って、バンクシーアカウントのインスタグラムにフォトアップする、NYのファンたちがそれを追い掛ける、『宝物があるうちに』『消されないうちに』。

wikiの説明にもありますが、バンクシーが描いているのは、グラフィティアートと呼ばれている、街の壁やら塀にスプレーやペンキで描く、いわゆる【ラクガキ】です。
つまり、街のエラいひと、もしくはその建物の持ち主が「消しなさい」と行ったら、それは【消されても文句が言えないもの】なのです。なぜなら、ラクガキだから。それがどんなに芸術性が高くても、価値があっても。

なので、
インスタグラムで『今日の作品』をバンクシーアカウントがアップする → SNSで拡散される → ファンが駆けつける → 写真を撮ってSNSにアップ、更に拡散 … という流れで、この映画では『SNSと街、路上の融合、そのNY市民たちの反応も(バンクシーの)作品の一部だと言える』と説明されていました。
バンクシーの作品にスマートフォンやデジカメを向けているファンに、更に映画のカメラが向けられる、という、そういう作品です。
(これが何度も映されるんですが、これがものすごく皮肉に見えました。バンクシーが電柱やら壁の影から、そのファンたちを見ているような気が。「(バンクシーの)作品を見ている君たちを世界中が見てるよ」というカンジで)

いくつか紹介を。えー、それなりに遠慮していますが、ネタバレがダメな方はお読みにならない方がいいかと。
よろしくお願いします。

========以下、これよりネタバレあります========

◆10月1日:チャイナタウン

バンクシーNY1日目

この映画のポスターにもなっている絵です。

男の子が手を伸ばして、標識のスプレーをつかもうとしているんですが。
この標識の文字が『グラフィティは犯罪です』
この日の夜か翌日早朝に、この標識は盗まれてしまい、別の標識が描かれていたそうです。
次の標識の文字は『ストリートアートは犯罪です』

グラフィティ、ストリートアートを全否定するモチーフから、バンクシーが企てた騒乱の1か月が始まるというのも、ツイストが効いてていいなあ。
自分が作っているものを、自分が作ったものそのものに否定させるって、なにそのフクザツ骨折したようなゲイジュツ的マトリョーシカ(や、マトリョーシカでもないなあ、なんだろう、死んだ鍋?)。

◆10月7日:レッドフック

バンクシーNY7日目

絆創膏を貼られた赤い風船です。

ファンたちはこの風船の周りで写真を撮る。

バンクシーNY7日目

女の子は絵じゃないです。

こんなのとか。

バンクシーNY7日目

グラフィティとファンたち。

これは、こういう結末になったようです。

Banksy art in Red Hook is destroyed by graffiti artist
この絵に限らず、塗りつぶされる、消されるというのは、普通にあるようです。

赤い風船@英国

この絵は実は対になっていて、こういう絵もあったり。

この絵の風船が飛んでいって、傷だらけになって絆創膏が貼られて、遠くNYまでたどりついたのかなーと思ったり。

◆10月8日:グリーンポイント

10月10日

一つの独創的な思想は、千もの愚かな引用に値するーーディオゲネス

これはドアに描かれたそうなのですが、ドアの所有者が即時に撤去したそうです。

◆10月10日:イーストニューヨーク

10月10日

電柱は本物で、ビーバーが描かれたグラフィティです。

本では、ビーバーはNY市民、アメリカ国民の象徴で、電柱は政府を意味していると説明がありました。
それがバンクシーからのメッセージなんですが。
わたしには、この絵に関して、バンクシーのメッセージよりも印象的な言葉、というか、エピソードがありました。
この絵が描かれたのは、あまり治安の良くない地区らしく、この絵に価値があると気付いたストリートギャング(っぽい)おにーさんたちが

「撮影するなら金を払え」
「払えない金額じゃないだろう」

と、写真を撮りにきたファンたちに言うのです。
(5ドルだったか20ドルだったか)(本には20ドルと書かれていますが、映画では5ドルって言ってた気が)
(だいたい500-2,000円くらい)
そして、忘れられない言葉が飛び出しました。

「お前ら、この絵がなきゃ、こんな場所へ来ないだろう」

この言葉を聞いた時、わたしは、バンクシーはこの一言を言わせるために、や、この一言をファンたちに聞かせるために、ひょっとしてニューヨークでの活動をしたのかなー、と思いました。

が、本では

もちろん、バンクシーが場所を選ぶとき、そこに一切、慈善事業的な意識はないだろう。街中に作品をばらまくことで、白人や高所得者が多い場所を選んでいるという批判に対して先手を打ちたかったんじゃないかな?(まあ、「ニューヨーク市全域制覇」というのは、全体の計画の一部だったしね)

とあるので、わたしが感じたソレではないっぽい… ない、かなあ…

◆10月17日:ブッシュウィック

バンクシーNY10月

日本のお嬢さんふたりの絵ですが。


グラフィティアーティストが、女の子ふたりの部分を黒のスプレーで塗りつぶしたようです。

ニューヨークには、バンクシーファンもいれば、アンチバンクシー派もいるわけで。
バンクシーの絵をこんな風に傷つけたり、GO HOME! と書いたり、活動を邪魔される、妨害されることもあるようです。
そういうことをされることも含めて、街に描く絵、グラフィティなんだろうなあ。
(これは、有志のファンが塗装用シンナーで、元の状態に戻されたそうです)
こうなる前に、ファンは駆けつけて、綺麗な状態で写真を撮り、SNSへアップするのが理想なのですが、場所を割り出す、そこへ駆けつける、それまでの時間に、持ち主が撤去したり、こうして傷つけられたりしたり。
グラフィティアーティストたちからの嫉妬ややっかみのみならず。
バンクシー、ニューヨークでお尋ね者になっていました。
ニューヨーク市警はバンクシーを逮捕すると声明を出し、ブルームバーグ(前)ニューヨーク市長は「他人や公共の財産に損害を与えるものは芸術に値しない」と公言しました。
美術雑誌の評などでも「低俗で分別を欠いた芸術の面汚しだ」と言われていたようです。

そして反バンクシー派の意思とは正反対に、バンクシーがグラフィティを残した建物の所有者は、それをオークションに出したりして、えー、大金を手に入れている。

◆10月22日:ウィレッツポイント

バンクシーNY10月22日

この日の作品はスフィンクスですが。

わたしはコレはあんまりいいと思えませんでした。映画館の大きな画面で見ても、本で見ても、ネットで見ても。
好きじゃない、というか、なんだろう、造作が雑に見える、や、ちょっと違うなあ、なんだろう、バンクシーっぽくない、のかなあ。
他のステンシルなら、あー、バンクシーだな、と思うんですが、これは何だろう、バンクシーの指紋が見えないような気がする。

これは地元の自動車修理工が自宅のガレージに持って帰り、話を聞きつけた画廊の店主が委託販売という形でお店へ引き取ったそうです。
(スフィンクスは、この映画ができた時点でまだ売れていないとか)
この画廊の店主は、作中、他のエピソードでも出てくるんですが、ちょっと不愉快、というか、あんまり好意的には見られない御仁なんですが。
その不愉快も併せて、バンクシーの映画なんだろうなあ。
そして、自宅のガレージに持って帰った自動車修理工ですが。
このひとの台詞もまた強烈でした。

「身なりのいい連中が写真を撮っていて、慎重に扱っていたから、きっと貴重なものだ。だから、誰かに取られる前に、自分が頂く」

10月10日のイーストニューヨークのストリートのおにーさんの言葉、そしてこのひとの言葉、わたしは、この言葉に対して、どう捉えたらいいんだろう、なんていうか、バンクシーからの宿題のような。
次の映画を作るまでに、答えを考えておいてね、と言われたような。

☆ ☆ ☆ ☆

わたしがいいなあ、好きだなあと思ったものを、いくつか。

◆10月20日:アッパーウェストサイド

バンクシーNY10月20日

これがオリジナル。

BANKSY_HUMER_FAN01

こんなのとか。

BANKSY_HUMER_FAN02

楽しそう。

これはスーパーマーケットの壁だそうでして。
そこの店主さんたちが、この絵をお店に飾ったりして。
そんで、絵自体は、強化ガラスで覆って傷まないようにしているんだそうです。
(写真は撮ることができるようですが)
おかしかったのが、店主さんに案内されて、映画のカメラがこの絵を撮りに行った時、ゴミの日の前日だか、何だかで、その絵の前にゴミ袋がいくつか置かれていたりして、店主さんは、そのゴミ袋を無造作に脇によけて「これだよ」と…。
そのシークエンスが、ほんっとーに微笑ましく、楽しかったです。

今回の映画でバンクシーのグラフィティ、わたし最高認定の
◆10月24日:ヘルズキッチン

バンクシーNY10月24日

なんて好みなんだ。

コレ!すっごい気に入った!!
ファンの人たちも、この絵の前で、それぞれで想像したシュチュエーション(膝まづいて花を受け取るポーズや、「だめよ、受け取れないわ」的なポーズとか)で写真を撮っていて。楽しそうでしたー♪
これは金属のシャッターに描かれたものですが、これも建物の持ち主が撤去したそうです。

◆翌日10月24日:イーストヴィレッジ

このインスタレーションそのものじゃなくて、映画に映っていたファンの人たちがすっごく良かったのです。
「この時間と空間を共有しないと、良さはわからないよ」
というようなことを言っていて、その場にいるからこそわかるワクワク感とか、死神と演奏者との近さ、とか、そういうのがすごく羨ましかったです。

◆10月29日:ハウジングワークス
ここにある画廊で買われた風景画が、バンクシーによって加筆され、また【戻ってきた】のだそうです(タイトルまで新しくなって)。
なんかもう、Oヘンリーの短篇みたいだ。

バンクシーNY10月29日

『悪の陳腐さの陳腐さ』

もともとの絵には、人物の絵はなかったそうです。
この後姿からわかるように、これは、えー、ナチスの将校の後姿、これが描き足されました。
タイトルは
“The banality of the banality of evil”
『悪魔の陳腐さの陳腐さ』だそうで。
これはハンナ アーレント著『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』をもじったそうなんですが。
アイヒマンというと、ナチスの将校で、ホロコーストに関係した人物であり、それだけのことをしていながら、裁判では「命令に従っただけだ」と言った人物であり。
映画では、思考停止、自分で考えないことをバンクシーは批判している、と、そういうメッセージだと言っていました。
この画廊の主は、この絵をオークションに出して、その収益をホームレスや、HIV患者のための活動に寄付したそうです。
このエピソードもすごく好きなんですが。
ちょっと戻ります。

◆10月13日:ウッドサイド
セントラルパークで、じ様がバンクシーの原画を60ドルで売っていたんだそうです。

バンクシーNY10月13日

「見知らぬ人に冷たくするな、変装した天使かもしれないから」

じ様のしれっとした顔が、ものすごく楽しくて、もう、なんだこの映画! 好き!!と思いながら、ホントにこの辺りで、膝をばしばし叩きたくなっていました。
こんなことするんだなあ、バンクシー!

結局、半日ほどで、全部で8枚売れて、売り上げが420ドル(4万2千円くらい) 。
翌日、動画でアップして、ファンたちが歯ぎしりしたとか。
オリジナルなら、28万(2,800万円くらい)ドルくらいするそうです。

映画の説明では、この機会を逃して、嘆く人も多かったそうですが、彼らの目的は、バンクシーの作品を60ドルで買う、というエピソード、ドラマが目的だ、と言っていまして。
Oヘンリー通り越して、なんだろう、笠地蔵とか、困ってるおじいさんに親切にしたところ、土地神様だったとか、そういう昔話レベルのイメージが。
これがものすごく印象的でした。

10月7日のレッドフック、
10月10日:イーストニューヨーク、
10月29日:ハウジングワークス、これらを見て、バンクシーって、ものすごく皮肉で、ブラックっぽい作品を作っていますが、ひょっとしてとても優しいひとなんじゃないかなあと思ったり。

こういう動画がありました。
バンクシー ダズ ニューヨーク公開 RT達成記念公開の動画で。
https://twitter.com/uplink_jp/status/720221763104145410

このコピーが『悪人がパイを食らい、善人が笑う』というもので、バンクシーの理想って、こういうシンプルなものじゃないかなあと。

もう1本、イグジットスルーザギフトショップ というバンクシーの映画がありました。
これはバンクシーが【撮影した】映画で、バンクシーのグラフィティがどうこう、という映画ではないです。
もともとは、バンクシーを追い掛けてた主人公が、いつの間にかグラフィティアーティストになって…というドキュメンタリーなんですが。
この主人公の絵が、どうしてもいいと思えなかった。
ウォーホルの絵を、マネして描いて、水で薄めたような絵で。
それでも、大々的にとりあげられ、個展を開き、即売会では飛ぶように売れて…、と、その絵を良いと思えないわたしが間違っているようにも思えました。
ですが、たぶん、そう思うことが、えー、その、バンクシーの手の平で転がされているんだろうなあ、と。

そして今回も。
やっぱり、バンクシーの作るものは、わたしに問いかける。
「この絵を本当にいいと思う?」
「あなたの基準で、あなたの感覚で、この絵をいいと思う?」
「街の壁に描かれたラクガキを、作者のサインさえないグラフィティをいいと言える?」
と、バンクシーから問いかけられている気がする。

例えば文章にしても、アート作品にしても、作者の名前がついていなくても「あ、これ、あのひとのだ」とわかるものが好きです。
(わたしが知っている、わかっている範囲など狭いものですが)それでも、文章を読んで、言葉の選び方、並ばせ方、読者へのウィンク、ものすごく抽象的に言うとコンテクスト、そこから、「あ、この文章、あのひとが書いたんだな」とわかった時はとても嬉しい。

物語もそうですが、わたしが好きなアート作品もまた、わたしに優しくない。
「自分で考えて」と言われているような突き放され感、やっぱり、わたしは、そういうのが好きです。

わたしは、こういう記事なども書いていて、留まらないもの、変わり続けるもの、終わらないもの、が好きで。
バンクシーのグラフィティも、消される、撤去される、街のアートとして留まる保証のない刹那的なもので。
その絵も好きですが、それよりも、バンクシー本人、そして、作品からの問いかけが好きなのかも知れない。

「何がいいと思う?」
「何がいけないと思う?」
「どんなものが好き?」

多分、正解はないと思うし、もし間違えていてもバンクシーは「ダメじゃないか」と言わないと思う。

わたしにとって、バンクシーというアートテロリストは、このNotebookers.jpのコンセプトみたいに、インスタレーションより、それを作るひとの方が面白い。

この映画、最後の31日はどうなるかというと、それは見てのお楽しみにしておいて下さい。
なので、最後のバンクシーからのメッセージも白文字反転しておきます。
ネタバレOKの方は御覧になって下さい。↓このへんにあります。

世界全体が芸術そのものだとしたら、最高だと思わないか

◆おまけ:10月11日:ミートパッキング ディスクリスト

動画のタイトルで、だいたいのことを察して頂ければ…
(なんか、すごいBBCっぽい、というか、パイソンっぽいというかさー)

◆おまけ2:読んだ本
記事の中で「本では〜」とあるのは、この本から参照しました。
(映画のパンフレットはなかったのです。なので、こちらを買いました、文章も多くて読み甲斐があります)

◆おまけ3:プラトンの言葉

プラトンの言葉

私の理論は、どんな文章でも末尾に哲学者の名前を添えると、深淵な感じがするというものだ。


(だからエピメニデスは「己を疑え」なんて言ってない)

Comments (3)

よっぱらったチーズ ~ベイクドカマンベールカルバドス風味

Posted on 13 5月 2016 by

こんにちはkonamaです。

チーズとかサラミとか

この間から、少しづつ「食べる世界地図」という本を読んでいて、いろんなところに垣間見える変な話にニヤニヤしながら読み進めています。とりあえず、

冷蔵庫がからっぽのとき、パスタをバターとマーマイトで和えて黒胡椒をかけたものが、今でも私のお助けメニューだ…それに二日酔いのときも。

高い+脂っこい+鴨はかわいい=個人的に鴨料理は気が進まない

とか書いてある本です(グルメ本とはちょいと違う方向性?)。

まだ読み途中なのですが、最初のフランス、ノルマンディ地方のセクションに「ベイクド・カマンベール」というレシピを見つけました。

なになに、カマンベールのあたまにフォークで穴をあけて、カルバドス(リンゴのお酒)をかけて、ローズマリーと塩コショウ。そのまま8時間おいて、オーブンで20分!美味しそうではないですか。そして簡単じゃないですか。
というわけで、電車にのって少し良いチーズを買いに輸入食材系スーパーに出かけたのでした。最近マイブームのつるすヒモがついてるスペインのサラミもちょうどなくなったのでしっかり買いこみました。ちなみにマーマイトも売ってたよ。

やってきましたチーズ売り場。そんなにたくさん食べられないし、小さいやつがいいかなあと見て回ると、こんなチーズを発見。

カマンベールカルバドス

左にあるの、リンゴのマークがついてる。よく見ると、CAMAEMBERT AU CARLBADOS って書いてあるじゃないですか。裏を見るとリンゴのお酒を入れたチーズとあります。なんだ、出来合いのものがあるんじゃない。でも焼いて食べろとは書いていない…。風味をお楽しみください的な説明のみ。うーむ、しかしなんかこれをこのまんま焼くのもなんだかチガウ気がする。そこで小さいひとくちカマンベール(写真右)をかって、こっちはレシピ通りに作ってみることに。カルバドスも高くないほどほどの奴を購入。さて、どうなりますことやら。

カルバドス

しかし、このリンゴのブランデー…ちょっと臭いんですよ。好みは色々だと思うんですが、シードルの類って辛口系は意外と呑みにくい印象があります(私の好みですが、イギリスで初めて飲んだサイダー(と呼ばれるリンゴ微炭酸アルコール)はちょっとびっくりするくらい美味しくなかった。今は好きな銘柄を見つけましたけどしばらくは手をだせませんでした)。

というわけでさっそく、穴開けてマリネ。こんなに小さいので、ローズマリーはベランダの苔玉から拝借w。夕飯までしばらく放置です。

01fb629c2ff9422ed7bc16e757bbc89cc0b57ddd54

で、一番上の写真が、カルバドス入りチーズを食べるぞというところなわけなのですが、まずは生でぱっくり。うーん、ちょっと臭い。ちょっとたくあん系。まずくはないが、なんか漬物系の匂いだよー。カマンベールなのに白カビじゃないようなちょっとしたくどさがあって、お酒飲むのにはいいかな。気を取り直して、自作の方をオーブンから取り出して実食。

自作カマンベールカルバドス

うん、こっちの方が良かったです。ちょっと癖のある香りがぷーんとするのはその通りなのですが、焼いてある分まろやかで良い感じ。
って、アルコール分の苦みがもんだいなのかも…という気がして、おもむろに出来合いの方のチーズも焼いてみた。

こちらは出来合いの方を切ったのを焼いた

味は…やっぱり臭いよ。そして味が温まった分強烈に(笑)。そんなわけで、ウィスキーをお供にチーズ、サラミ等々いただいた晩でした。
本当はこうやるというのがあるのかもしれませんが、これだけでも大冒険。とても楽しかったです。こんどは普通サイズのカマンベールで、バケットを準備して臨みたいと思います。

01b1bf6556bac92d1691ee3bdf2e31b506cb69ef87 今日の抜書き

Comments (2)

Tags: , ,

「事実は現実の中にある。幽霊を引っぱり出す必要はないよ」〜コナン=ドイルのコティングリー妖精事件

Posted on 02 5月 2016 by

ー。
先日、カーソン マッカラーズの『結婚式のメンバー』読みまして(村上春樹訳)。
なんていうのだろう、例えば、孤独とか空虚とか、そういうものが自分の中心にあるひとというのは、それは先天性なのかも知れない、と思いました。
育った環境ではなくて、親の影響ではなくて、えくぼがある、とか、くせ毛とか、自分ではどうにもならないところからきたものじゃないか、と。

それまでほとんど気にもとめなかったことが、彼女を傷つけるようになった。夕暮れの歩道から見える家々の明かり、横町から聞こえてくる知らない人の声。そんな明かりをじっと見つめ、声に耳を澄ませた。そして彼女の中にある何かを待ち受けた。しかし、明かりはそのうちに暗くなり、声は消えていった。彼女はなおも待ったが、そのまま何も起こらなかった。それでおしまい。自分は誰なのだろう、自分はこの世で何ものになろうとしているのだろう、なぜ自分は今ここにじっとたたずんでいるのだろう、明かりを眺めたり耳を澄ませたり、夜明けの空をじっと仰ぎ見たりしているのだろう。それもたった一人で。自分に唐突にそんなことを考えさせるものを、彼女は怖れた。彼女は怯えていた。そしてその胸の中にはわけのわからないこわばりがあった。

毎度のことながら『結婚式のメンバー』のブックレビューではないです。
『ホームズの生みの親 コナン=ドイルについて』について、です。
Continue Reading

Comments (7)

忘れないうちに旅の記録を~Notebookers Map編

Posted on 30 3月 2016 by

こんにちはkonamaです。
札幌出張からもどってきたところです。もちろんお仕事に行ったわけですが、今回はNotebookersMapを頼りに、仕事の合間を縫ってカフェとか文具店をノープランでウロウロしてきましたので、そのお話です。(食べ物他のあほな話はチーズ部編…を書く予定…たぶん)。ちなみに今回Mapって面白いなあと一番思ったのは、小樽へと移動中、電車で海岸線にでて駅間の長いルートに入った時に、おおこれはもしや「スタンドバイミー実践スポット」だ!とひそかにワクワクしていた時です。(以下、アンダーラインの場所やお店はマップに載ってます)

Continue Reading

Comments (1)

Photos from our Flickr stream

See all photos

2023年6月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

アーカイブ