はじめましての方も、お久しぶりの方も、いつも仲良くしていただいてますの方も、こんにちは。
Notebookerで、ふだんは歌をやっています。ハルナうたうさぎと申します。
どうぞ、よろしくお願いします。
Notebookersのライターに決まってから、とてもワクワクしていました。
「ノートブックのむこうに“人”が見える」───ということについて、考えていたからです。
この“Notebookers.jp”で、ひとのノートにまつわるエトセトラを眺める。
それは私にとって、人の孤独のありようを覗いているような感覚です。
(“孤独”は、このNotebookers.jp管理人であるタカヤさんのキーワードでもありましたね。)
スケジュール管理という実用面から、形にならないものを受け止めてもらうような作業まで。そこにあるのはすべて「自己との対話」。
外界と交わることも共有することも、すべて自分というフィルタをとおしているのだ、というあたりまえのことが、厳然とそこに示されているかのような感覚。
境界。輪郭。皮膚。そういうもの。
ノートブックにはその手触りがあります。
ノートブックを楽しむ人は、自分を楽しんでいる。
ノートブックというアイテムを通して、誰かの世界を垣間見ることは楽しい。隣で歩く人の見る空は私から見るそれと全く同じではないけれど、できるだけ寄り添って、想像力で補って、その人の風景を旅する。
「孤独を、分かち合う」
というフレーズは、私にとって淋しさを含むものというより、どちらかというと凛としてワクワクする言葉です。
自分自身を振り返ってみると、誰かの目に触れるところではたいていふざけているか、あるいは、ある一定の距離感をもって観察したことを淡々と述べるか、どちらかという気がします。
実際のところ、自分の世界を思い切り出しているのは、歌の中だけかもしれない。
多くのライターさんの記事を読み進めているうちに、私もまた、私自身の風景を旅したくなりました。
ここでは、おとなぶってなめらかなものだけを見せるのじゃなく、思い切り自分を出してみようと決めました。
きっとすべてのアートの原点は、こういう気持ちなのでしょう。
だから、Notebookersのライターに決まってから、とてもワクワクしていました。
どんな誰かの世界に出会えるか、
そして、どんな自分に出会えるのか、
とっても楽しみです。