一つのものを愛するということは、別の何かを愛する可能性を潔く捨てることです。
誰かひとりを深く愛することがあったら、それは他の人を深く愛することを諦めることなのだろうと思います。だれかを愛さないことを決めたから、他のだれかを愛することができるということです。
話が少しややこしくなりました。
例えば、ここにきていただいてる方の多くは、ノートに何かを記録することを楽しんでるのではないかと思います。それはノートが無い生活を諦めたと言えるかもしれません。
でも、ノートのない生活てどんなだろう。
日々思うことを、ノートに書く代わりに、ネットに発散する…Twitterとかブログとか。貼りたかったカード類も、みんな写真に撮ってアップしちゃう。ノートを買う代わりに宴会に出る。高価な時計を買って、周りの皆に自慢する。予定はGoogleカレンダーとかに保存して、カレンダーを共有したりする……とか?
ここまで想像して、思いました。
ノートの無い生活って、私にとって、今より多くの孤独を手放すことかもしれないです。自分が持つ、少し持て余し気味なこの心を手当てしないこと、自分が発する声を聞かないこと、人の考えの上に立脚すること、自分のなかの醜いことを赦すことができないこと。
たくさんの人と一緒に過ごす、というのも楽しいのだろうな、と思うのです。ただ、私は孤独が育てたその人そのものが気になって仕方ない。
そんなことを書いているうちに、家族が見ているテレビが私を誘惑して、何かに集中する気持ちも雲散霧消。
というわけで、お後がよろしいようで。