○○と××はどちらも目的が一緒だから同一のものだ

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以前とある人物がこういった考え方をしていた。
「○○と××はどちらも目的が一緒だから同一のものだ」と発言していた。この言葉が印象的でときどき思い出してその意味について考えてしまう。
例えば、AさんとBさんが仕事のことで議論していて衝突しあったとする、収集がつかなくてケンカになり取っ組み合うとなるとする。Aさんの意見もBさんの意見もまったくスジが通っていてどちらも客観的に正当なものであり、納得がいくものであった。しかし二人は衝突する。「○○と××はどちらも目的が一緒だから同一のものだ」という理論を導入すると、AさんとBさんは同じことを言っているという概念になるという考え方。
うーんわかりづらいな。いろいろ代入してみる。

「セロテープとガムテームはどちらも貼り付けるモノなので同一のものだ」
「先生と生徒はお互いから学びあうモノなので同一のものだ」
「AさんとBさんはどちらも会社を良くしようとしているので同じことを言っているに過ぎない」

先日書いた”No Problem”という考え方について書く。
直訳すると「何も問題ないよ、だいじょうぶ」といった感じなんだけど、大半のことはこれで片付くという便利な言葉だ。アフリカの集落で○やら×といった概念のない村があると聴いたことがある。イイとワルイの価値観がごったがえす僕らの生活から考えると想像のつかない世界かもしれない。僕は文学者でも科学者でもないんだが、この「○○と××はどちらも目的が一緒だから同一のものだ」と「No Problem」は共通するものがあると考えている。理由はわからん。ただ単に感性でそう思うだけ。結論の無いまま終わる。

タカヤ

ヒッピー/LAMY・モレスキン・トラベラーズノート好き/そしてアナログゲーマー

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