つづける力というのはどこからやってくるのでしょうか。
今年の年頭、五つの目標をたてました。
そのうちのひとつが、「毎日外国語で日記をつける」です。
いまのところつづいています。
「外国語」と書きましたが、基本的には英語で書こうとしています。
たまにその日NHKのラジオドイツ語講座で習った言い回しの書き換え練習なんかもします。そうしないと書くことを思いつかない、というのが主な理由です。
なぜつづいているのか。
それが、自分でもよくわからないのです。
小学校では毎年夏休みに、日々の記録をつける、という宿題が出ました。
起床時間と就寝時間、ラジオ体操への出欠、それとその日の天気を記録することになっていました。
六年間、一度たりとも毎日継続できたことはありません。
たいてい、明日は始業式というときになって、あわてて思い出しつつ、いい加減なことを記入していました。
親からも、「なぜおまえは云われたことができないのか」と云われつづけてきました。
毎日あるいはつづけてするように云われたことが、できません。
日々の練習の必要なピアノだとかそろばんだとか、つづいたことがありませんでした。
そんな自分が、まだ五ヶ月目に入ったばかりではありますが、日々記録をつけることができている。
物理的なことを云うと、毎晩寝る前に視界に入るところに手帳とペンとをおいている、というのがつづいている秘密のように思えます。
「さて、寝るか」と席を立つ瞬間、手帳が目に入るのです。
気分はすっかりお布団に飛んでいますが、とりあえず一二行、つまらないことを書きつけます。ほとんどは「眠い」とか、「今日も眠かった」とかです。
MacBook Airはすでに閉じてしまっているので、Webで辞書を検索することもできませんし、自分のつたない語彙で書けることを書きます。
これって、片づけの好きな人には向きませんね。
でも、しまい込んでしまうときっとつづかないんです。
すくなくとも自分はそうです。
視界に入る場所に置く、というのは、継続のためには重要なことだと思います。
もうひとつ、物理的な要因として、「すてきな手帳とペンとを使う」ということがあります。
記録用の手帳に使っているのは、無地のPocket MoleskineのThe Hobbit Editionです。
「毎日外国語で記録をつける」という目標をたてる少し前に、映画「ホビットの冒険 思いがけない冒険」を見ました。
映画では、年老いたビルボ・バギンズが過去の冒険を大きな日記帳のようなものに記す場面が出てきます。
これが、とてもよい場面だったのですね。
ほんとうは自分もちょっとセピアがかった色のインキで書きこみたいと思っていたのですが、残念ながら手持ちのセピア色のインキはMoleskineの紙にはにじんでしまいます。
一番よく使うインキは、日本橋丸善のエターナルブルーです。このインキを、パイロットの石目という萬年筆の細字に入れて使っています。
エターナルブルーは、ペンによっては、Moleskineの紙でもにじんだり裏抜けしたりしないようです。
ちなみに、このインキを自分は「玄徳ブルー」と呼んでいます。「人形劇三国志」の玄徳の衣装に使われていた青と似た色だからです。
パイロットの石目は、もっと高価な漆塗り万年筆のそれとおなじような書き味の、実にすばらしいペンです。
書いていて、ペンの存在を忘れるような書き味なのです。
そのペンで、Molskine The Hobbit Editionに書き込む。
それだけでなんだかいい気分です。
思いつく理由はそれくらいです。
はたして、それだけの理由でつづくものなのか。
どうもそうは思えません。
ライフハック系のWebサイトでは、「習慣」の話がよく出てきます。
「人間は習慣でできている」
まあ、ものすごく乱暴に云うと、そんなようなことです。
人間は習慣でできている。
無意識のうちに日々やっていることがその人間を作り上げる。
おおざっぱに云うと、そういうことなのだろうと思っています。
一昨年の春、職場の健康診断で、「このままじゃまずいよ」と医者に宣告されました。
宣告されるくらいですから、実はおなじようなことをずっと云われつづけていました。
でも、それまではまったく自分の心には響かなかった。
たぶん、そのとき、なにかの拍子に、自分の中でスイッチが入ったのです。
その日から、食生活を見直すようになりました。
毎食毎食食べたものとおおよそのカロリー計算を記録し、毎日体重も記録するようになりました。
また、帰り道は、職場の最寄り駅からひとつ先の駅まで歩くようにしました。
いまは職場が移転してしまったので歩いていませんが、移転するまでは、雨の日も風の日も、雪の日も爆弾低気圧の日も歩きました。
もともと、自分は頑固なたちでした。
臨機応変の才に欠ける。ものごとに柔軟に処していけない。
こうと決めたらこう。
論語でいう、「君子」から一番遠いところにいる。
そんな性格です。
ひとつ自分が決めたことができるようになると、ほかのこともできるようになりました。
まあ、できないこともいろいろあるのですが、これまでは「とても自分のようなあきっぽい人間にはムリ」と思われていたことを、定期的につづけて実行することができるようになった。
外国語で日記をつけつづけていられるのも、そういうことなのかなあ、と思ったりもしています。
ちなみに、さきほども書いたとおり、書き付けている内容があまりにも雑なので、本来意図していた外国語の習得という目的はどうやら果たせそうにありません。
これは孫子の兵法でいう「費留」という状態なんじゃないかと思っていますが、それはまた、別の話。