情報は、手で触れて、持てるわけではないのに、それそのものに価値を持つことが不思議だなあと思ったところです。
たとえば、ある人の本名ひとつとっても、その情報により何かを得ることが出来たり、あるいは某ノートに書かれると命を失ってしまったりするらしい。
情報そのものは、食べたり飲んだり、着たり、貼ったり、転がしたり、モノとしての実体があるような振る舞いはできないけれど、それそのものの影響力はとても大きい。それは、人をお腹いっぱいにさせる道具となり得るし、楽しませたり、悲しませたりもする。どこかで縁を結ぶ一方で、決定的に引き裂いたりもする。
情報は人を選ぶらしい。同じ情報でも、人によっては価値があり、別の人にとっては無価値になる。自宅の風呂のお湯がわいた知らせは価値があるけれど、それがもしお隣さんのお風呂からの知らせであれば、無価値である。
ノートの話をしようと思う。
私のノートの中にある情報は、私にとっては価値が…あるかもしれないし、あまりないかもしれないけれど、私に関わる情報となっている。でも、その多くは、他人から見たら無価値なのだろう。ノートの情報は、私を喜ばせたり、悲しませたり、あるいは書いた目標に向かう意識を持つために大きな影響力を持ったりする。その力は私にだけ有効で、そういう意味において、ノートは常に持ち主のためにあると言える。
他人のノートを見るということは、その持ち主がどんな影響を受けながら生活しているのかが垣間見ることである。ただ、情報は人を選ぶらしいから、垣間見たとしても、その意味はわかったりわからなかったりになる。私は、人にノートを見られることについてはあまり抵抗がなく(人様の個人情報を除く)、その意味がわかるのならば、わかるといいとすら思っている。もしかしたら、どんなにことばを重ねても、あるいはことばを重ねる余地もなく、分かり合えない時間を多く過ごしてきたからかもしれない。それはともかく、その人にとっての当たり前であっても、それはなかなか読み取るのが難しいことなのだと思っている。
ことばは、基本的に物事をわかるように伝える道具、そういう情報だけれども、音楽はその読み取りの違い加減も許容するものなのかもしれないと考えている。だから、なるべく心を空にして演奏できるようになりたい。