4月になりまして。
この季節は、一年中で一番、良くも悪くも淋しいなあと思う時期ですせらです。
この週末、図書館へ行ったところ、桜の花の本の紹介がありました。
(ワタシが利用する図書館は、毎月、こうしてテーマを決めて、本の紹介をしているのです)
桜の図鑑やエッセイ、写真集などが置いてあって、それをぱらぱらと見てきまして。
そーいや、桜をモチーフとして使っている物語とか、たくさんあったなあ、と思い出して。
そして繰り返しますが、ワタシはノートブックにこういうことばかり書いている。
wiki によると、桜の原産はヒマラヤ近辺だそうです。
だいたい北半球に分布していて、日本でも、かなり古くから自生しているんだとか。
種類もたくさんあり、もともとある種と、品種改良した種を合わせると一万種近いらしい。
日本では、桜ー!お花見ー!と、この季節になると、何となく浮かれてきて、桜前線という(多分)日本独自の季節の用語があったり、花=桜という認識の時代もあって、何かと特別な存在の花であります。
(ですが、万葉集の時代では、さほど桜の歌はなく、この頃は 花=梅だったそうです)
平安時代の国風文化、西行が桜を愛したこと を経て、鎌倉、武士の時代になり、儚さ、潔く散ることが、武士道と相性が良かったらしく、この辺りから人気が出て、愛されるようになったとか。
物語の中に出てくる桜の花、それが幻想的な物語の中に咲いていても、また、別れや、どうしようもない状況にあって見上げる花でも、時々、その桜は現実の桜より綺麗で、かつ、作家さんも、きっと現実の桜ではない桜を書いているんだろうなあ、と思ったりします。
* * *
よその国での桜の花、というと。
◎『山海経(せんがいきょう)』(中国 春秋戦国〜秦〜漢 成立)から〜
春の初めにだけ姿を現す妖怪 饕餮(『とうてつ』と読むんだそうです)(ワタシのノートブックには、もちろんカタカナでさらりと書いている)と祝融について書かれています。
桜の花の生気を吸い、人の気配に気づくと驚いて逃げていく、というおばけ。
饕餮は男の妖怪、祝融はオンナノコだとか。
◎ケルトの民話から〜
ガン=コナーというイロオトコの妖精。
谷間や野原に現れ、山羊飼いや羊飼いのオンナノコを口説く妖精。
春には、桜の枝を女の子に渡して口説くんだそうです。
ワタシは、このガン=コナーという妖精が非常に好きでして、えー、こういったイロオトコ系の妖精のくせに、女の子の精気を奪うとか、そういったことがなく、単に女の子が好きなだけ、一緒に過ごすことが好きなだけ、それだけの妖精。いいなあ♪
◎『ダルタニャン物語』(フランス アレクサンドル デュマ)
三巻目『友は叛軍、我は王軍』より、ダルタニャンとアラミスの再会のシーン。
ワタシの好きな夜桜を背景に、二十年ぶり(くらい)の再会を果たすのです。
もう、ほんっとにイイ場面で、相変わらずのくわせ者のアラミスと、それをクールに突っ込むダルタニャンがすばらしいのです。
「きみのほうはちっとも変わらないね、アラミス。相変わらず美しい黒い髪、相変わらずすらりとした身体つき、相変わらず女のような手、偉い坊さんにふさわしいすばらしい手だ」
「うん、まあせいぜい気はつけているからね。しかしきみ、ぼくも年をとったものさ、もうすぐ三十七になる」
ダルタニャンは微笑を浮かべ、
「ねえ、きみ、久しぶりに会ったのだから、ひとつだけ取りきめておこう。これから先のぼくたちの年のことだが」
「え、なんだって?」
「そうさ、むかしはぼくのほうが二つ三つ年下だった。そのぼくがもう四十になったような気がするんだが」
「そうかい、だとすれば僕の思い違いだろう。きみはむかしから数字に強かったから(略)」
訳者鈴木力衛氏の名調子です(すばらしい)。
そして、アラミスがフランスを発つのも春のシーンでした。花吹雪の中、三人に見送られ、一路スペインを目指すのですが、これがもう、本当に切なくて泣けるのです。
ワタシのダルタニャン物語ベストの台詞もココ。
「夜食を知らせる最後の鐘だ。これで失礼する…」
「きみのような味方は、王冠のいちばん美しい宝石だな」
◎インド神話より〜
ラクシュミー インドでは豊穣と幸運の女神で、仏教では吉祥天女、です。
インドのような暑い国では、なかなか桜は咲かないのですが、ラクシュミーが好んで持つ花だとか。
ラクシュミーの衣装は桜色で描かれることが多く、彼女の象徴とされているそうです。
◎漢詩より〜
中国でも桜はあるのですが、どちらかというと華やかな牡丹や蘭が好まれ、漢詩にはあまり詠まれてはいないようです。
その中で、数少ない桜の漢詩を。
春風 (白居易)
春風先発苑中梅
桜杏桃梨次第開
薺花楡莢深村裏
亦道春風為我来
春風はまず梅を咲かせ、
桜や杏、桃、梨の花を次々と咲かせる
薺の花や楡の実も たくさん この山深い村に咲く
こんな辺鄙な村にも春風がやってきて花を咲かせるのだとわたしは喜ぶ
◎『砂漠の車輪、ぶらんこの月』(アメリカ ジョナサン キャロル)
ワタシの好きなー ジョナサン キャロルー♪
(物語の舞台はアメリカではないのですが)
主人公ルイスの夢は、ナミビアの砂漠のフェアリーサークルに生えている木で車輪を作ること。
願いが叶って、その場所へ行くのですが、砂漠に生えるはずのない桜の木があり、ルイスは、その神々しさにうたれ…。もう、ものすごく、日本好きのキャロルらしい作品。
* * *
日本では
◎『新・平家物語』(吉川英治)
えー、これはもう好き過ぎて、どこから話をしようと考えると、やっぱり一巻から、や、それをさらにちょこっとさかのぼって、祇園女御の話かー!と思うほどです。
この時代、ちょうど西行がいること、そして、この諸行無常の流れ、など、この辺り、平家物語と桜の花、よくマッチするのでは、と。
もう物語も終盤で、麻鳥と蓬夫婦が吉野へ旅をするのですが、息子の麻丸が追い掛けてくる場面です。
(この麻鳥というのが、ワタシの吉川新平家ベストキャラクターで、物語冒頭から登場していて、怜人、水守、医者、ついには源平の区別をしない陣医にもなった、という、えー、ひとと時代を見守った、そういう人物です)
以下、引用。
すると、広やかな明るい谷あいが、行くてに展(ひら)けた。かなたの峰々すべて、桜色の雪でない山肌はない。はるかな空まで花の雲だった。風流気などない麻丸も「ああ、これが一目千本か……」と、思わず、眼をほそめたことだった。
ふと、気がつくと、近くに、人がいる。
谷を前にした崖ぎわの草のよい所に、二つのまろい背中が見える。ーー白髪の雛でも並べたようだ。満山の花に面を向けたまま、行儀よく、そして、いつまでも、ただ黙然と、すわっている。
◎『桜の国にて』(波津彬子)
まんがなのですが。ワタシのすごく好きなシリーズ『雨柳堂夢咄』から。
舞台は大正時代、雨柳堂という骨董屋さんが扱う、持ち主を選ぶ『物たち』の短篇集です。
イギリス人と結婚した日本のお嬢さんが、全てを英国式にして生きていくのですが。
それでも手放せなかった桜模様の屏風があり。
彼女が亡くなった後、その屏風をどうすればいいのか、彼女の息子が骨董屋の雨柳堂に相談をもちかけます。
モノには魂が宿るんだよ、と、こういうのを読むとしみじみ思います。
「満開の花ですから 散るのが本望でしょう」
「こんな風のいい日には 目の奥に呼び覚まされるように映る花があるの
父と母の顔さえ おぼろげになってしまっても これだけは消せない
満開の桜の下 花びらに染まって 見あげた あの桜の景色は」
◎西行の桜の歌
花にそむ心のいかで残りけむ
捨て果ててきと思ふ我身に
「花の時期に死にたい」と詠んだ西行の一首。
俗世の欲は捨てたはずなのに、花(=桜)に染まる執着だけはなぜ残っているのか、という歌。
とか言いつつ、結局は、花恋しさを、のろけた歌らしいです。
◎芭蕉の句
その西行に憧れていた、という芭蕉の句。
さまざまの事おもひ出す桜かな
「その西行に憧れていた」ことも含めて「さまざまの事」なのか、と思ったり。
◎『桜の森の満開の下』(坂口安吾)
『桜』というと、まず最初に思い出されるのでは。
タイトルがコレで、受けるイメージが非常に美しいっぽいのですが、冒頭の文章がミもフタもなく。
(ただ、ミもフタもなく見苦しいのは桜の下での『ひとの為すこと』で。かつ、その『ひと』を取り去ると、怖ろしい景色になる、と安吾センセイは書いておられます)
桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。
最後に、
◎『ムーン・パレス』(オースター)
(アタリマエのように)オースター作品から。
『ムーン・パレス』、オースター作品の中でも人気の高い、青春小説です。
主人公フォッグが、バイト先の主人エフィングに命じられて、マンハッタン美術館に絵を見に行くシーンがあります。
ラルフ アルバート ブレイクロックの『月光』という絵を一枚だけ見て来い、と言われ、さらには、地下鉄に乗っている時の心得や、美術館に入ってからのこと、きっちり1時間、とにかくその絵に集中して来ること、帰ってくる時のことまで、とにかく、コト細かく指示されます。
そして、フォッグは美術館に行き、その『月光』と対面するのですが、桜の木も空も同じ色、淡いピンク、桜色で、そんなに明るいのに月があり、夜であるということ、ブレイクロックの狙いは何なのか、と、エフィングの指示とともに、さらによくわからなくなり、「よくわからないなりに、何かを発見した」ことに気づき…
ブレイクロックは実在の画家で、ホントにマンハッタン美術館に『月光』という絵があるんだそうです。
この辺り、オースターにイイ感じに手の平で転がされているような気分で、キモチよーく読むコトができます♪
◎『ムーン・パレス』(オースター)その2
「いいかフォッグ、覚えておけよ」とエフィングはさらに言った。「何ごとも鵜呑みにするんじゃないぞ。特にわしみたいな奴を相手にしているときはな」
この辺りで「あれ?」と思われた方もいるかも知れません。
そういうワケで、日付と、去年の記事、一昨年のワタシの記事を確認して頂けるとよろしいかと。
や、この記事、ウソばかりではなくて、ホントのことも書いていますので、全体的に間違い探し的なキモチで読んで頂ければ。ぜひ。
おつきあい下さいまして、ありがとうございます♪
皆様、ドウゾ良いエイプリルフールを♪