こんにちは、ヨルです。
ただいま、贔屓の卒業公演という、タカラヅカオタクとして最大のイベントを迎えて、あたふたと毎日を送っています(いや、仕事もしています…)。
手帳のマンスリーページには仕事のスケジュールと一緒に観劇スケジュールが書き込まれていき、そのたびに、あとどれだけ姿を観られるのかな…などとしんみりして涙ぐんだり(ヅカオタにとっては複数回観ることは珍しくありません)。
観劇したあとは、デイリーページにいろいろ書き込みながら、その姿を思い出してまた涙ぐんだりしています。
私は観劇メモというものをあまりつけません。
つける方はそれこそとてもきれいに、きっちり書かれていて(ネットでもたくさん読めます)、記録ってなんて有益なんだろうと思い、私もやろう、と何度か鼻息荒く決意したのですが、できたためしがありません。
使われている曲名や、その日出たアドリブや、舞台の出来など、観劇メモらしいものはほとんど書けないのです。
では何を書き込んでいるのかというと、覚えている姿から連想したり妄想した、なんというのか、夢のようなものです。
初めて観て好きになったときの気持ち、その笑顔がどんなに私を元気にしてくれたか。
ハマり役になると妄想はもっと顕著になって、もし自分があのお話の中の人間だったらあの人に何が出来るだろうとか。
あの人はああいう役になるとこういう顔をする、そこが好きなんだなあとか。
感想よりもひとりよがりで、舞台をみている間に雨のように心に落ちてきたものだけをノートに書いているのです。
観劇メモよりも役に立たず、ファンレターよりも思い込みの激しい、そういう言葉。
これらを書いて書いて、もう少し整頓されると、ようやく感想となって他人に言える言葉になります。
思うに、夢をみているのだと思います。
お芝居を観ている間だけでなく、書いている間も。
出来が良くても悪くても、それよりもどんな夢をみられたのか、そのことを書いておきたい。
いつまでもいつまでも、夢をみていられるように。
きらきらした姿を、覚えていられるように。
そんなおぼろげな(一種、寝言のような)ものを書くのは、わたしにとってはノートが最適のようです。
オンラインで書いてたこともあるのですが、なんかもう、恥ずかしくてたまらない。
深夜のラブレターみたいなものなので、黙って綴らせてくれるノートがいちばんしっくりくるのです。
(ちなみに整理整頓の必要なく通じる友人と行くと、血のしたたるようなレアな言葉が出てしまいます。「あの人は私にとっての世界平和だよ!」など)
写真は、兵庫のほうに遠征した時のメモ。
遠征なのでいつものモレスキンではなく、遠足ノートにしているカイエポケットに書いています。
遠足ノートは、gitaちゃんと呼んでいまして(イタリア語で遠足の意味です)遠足の相棒。
タカラヅカのメモと一緒に、食べたものや買ったものを記録しています。
遠征だけでなく、いつもの生活圏から外れたところに行ったときは、たいていgitaちゃんを鞄に入れます。
いつか、このノートのことも書きたいです。
まだしばらく、夢をみながら生きているような、そんな日々が続きます。
ではまた!
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ヨル