世界の果てでも、多分わたしはお茶をしながら本を読んでノートブックを書いている番外編@座り心地は悪くても、それでもやっぱり、ソレは恩寵なのだ

Posted on 02 8月 2015 by

月です。お暑うございます。
映画見て、本を読んでノートブックをごりごり書いて、Notebookersな夏をエンジョイ… というか、この記事のタイトル通り、世界の涯でなくても、かつ、季節も問わず、ワタシがすることって同じなんだなあ、とシミジミしております。

そゆことをしていると、ひとつのきっかけ、気付いたことで、いろんなものが導火線に火がついて誘爆され、当然のことを改めて感じ入る、そういうことがママあります。
『当たり前のことを疑おう、改めて考えよう』〜誕生日恒例企画〜☆

えー。
先日、見て来た映画その1『マッドマックス 怒りのデスロード』
(「V8! V8!!」「ジョー! ジョー! イモータンジョー!!」)
『繋がれる(受け身)』『繋ぐ』『繋げる』と『断つ』『放す』『離す』『離れる』がキーワードの、終末世界の「ひゃっはー!」なウキウキ映画でした。

公式サイトからあらすじを>>

石油も、そして水も尽きかけた世界。主人公は、愛する家族を奪われ、本能だけで生きながらえている元・警官マックス(トム・ハーディ『ダークナイト ライジング』)。資源を独占し、恐怖と暴力で民衆を支配するジョーの軍団に捕われたマックスは、反逆を企てるジョーの右腕フュリオサ(シャーリーズ・セロン)、配下の全身白塗りの男ニュークス(ニコラス・ホルト)と共に、奴隷として捕われた美女たちを引き連れ、自由への逃走を開始する。凄まじい追跡、炸裂するバトル……。絶体絶命のピンチを迎えた時、彼らの決死の反撃が始まる!

これで、その逃避行で、泥エリアに入った時のことでして。
泥エリアなので、車を進められない。
どうしよう、と思った時、ウォーボーイズと呼ばれる戦闘要員のひとり、ニュークスが言うのです。

「あのでっぱりを使おう」

向こうにあったのは『木』でした。
これは、ツイッターや映画ブログでも、ほんとうにたくさんの方が感じ入っていた箇所でして。
ニュークスは戦闘要員なので、語彙があまりない、戦闘とエンジニア的な教育しか受けていない、などなど。

ワタシは、この『でっぱり』発言に呼応して、もひとつ、ひっかかった箇所がありました。
えー、コミュニティの独裁者、イモータンジョーには5人の妻がいます。
英語ではどういっていたか聞き取れなかったんですが、作中で、ジョーたちは彼女たちのことを『子産ませ女』と呼んでいました。

ニュークスは『木』という言葉を知らなかった。
ジョーたちは『妻』『嫁さん』『奥さん』という言葉を知らないわけではないだろう、でも、その言葉を使わず『子産ませ女』と呼んでいた。
その言葉を『知らないこと』と、知っているけれど、敢えて『使わないこと』と。
ちか っと火花くらいのものがひとつ。

そんで。
先日、見て来た映画その2『チャイルド44』。
こちらはさらにココロに引っ掻き傷を残されました。
(ワタシの内部には、こーゆー引っ掻き傷が無駄にたくさんあるような気がする)

えー。『チャイルド44』、舞台は第二次世界大戦が終わった50年代のソビエトです。
公式サイトからあらすじを>>

1953年、スターリン政権下のソ連で、子供たちの変死体が次々と発見される。年齢は9歳から14歳、全裸で胃は摘出され、山間にもかかわらず死因は溺死。だが、“殺人は国家が掲げる思想に反する”ため、すべて事故として処理される。秘密警察の捜査官レオは親友の息子の死をきっかけに、事件解明に乗り出す。捜査が進むほどに、国家に行く手を阻まれ、さらに、愛する妻にも不当な容疑が。真実が容易に歪められるこの国で、レオは真犯人に辿り着けるのか──?

(と、あらすじを紹介しましたが、この記事(というか、ワタシの書きたいこと)とはあまり関係ないのですが)
(映画でも本でも、ワタシがココロを引っ掻かれる箇所は、大抵、メインストーリーではないし、ホントーに「え、そこ?」な箇所だ)

すったもんだがあり、主人公とその奥さんは、当局から追われ、駅で警官(というか、軍人)が身分証明をチェックしていて、このままでは捕まってしまう!というシーンで。
奥さんがある軍人を指して言うのです。

「彼は字が読めないわ」

ふたりは、彼のところに並び、正規の身分証を見せて、通る、電車に乗る、という流れになります。

このシーンがものすごく印象に残りました。
「え、字が読めなかったり書けなかったりして、軍隊に入れるの?」
「申し込み書とか、入隊する際の誓約書とかあったりするんじゃないの?」
「日々のお仕事に支障はないの?」
などと、いらんコトを考え過ぎるのですが。
フィクションだということはわかっています(この物語は、実話ベースなのですが)。
ただ、「そういうこともあるだろうな、あるかも知れない」と想像はできます。
ワタシが知らなくても、理解、想像の範囲を越えていても、この時代のソビエトは、文字が読めなくても軍人になることができるかも知れないのです。

ワタシは、映画でも本でも、よその国の物語が好きなのですが。
馴染みのない国であればあるほど、ワタシのものさしで測ってはいけないと、わかっているんですが、その上で、こういう通り魔的に斬りかかってくる台詞、設定に出会うことがママあります。
ふたつめの誘爆。

これで思い出したのが、今くらいの時期に読んだ(と思う、たぶん)(違うかも知れない。たぶん、シュリンクの作品を今頃読んだ(はず))『朗読者』ベルンハルトシュリンク。
Amazonのあらすじから>>

学校の帰りに気分が悪くなった15歳のミヒャエルは、母親のような年の女性ハンナに介抱してもらい、それがきっかけで恋に落ちる。そして彼女の求めに応じて本を朗読して聞かせるようになる。ところがある日、一言の説明もなしに彼女は突然、失踪してしまう。彼女が隠していたいまわしい秘密とは何だったのか…。

『愛を読む人』というタイトルで映画化もされています。美しい美しいケイトウィンスレット主演。
ふだん、読んでいるものが、流れるような、定型を保っていない、水でできた走馬灯のような物語ばかりなので、この『朗読者』は本当に驚きました。
これは、石の壁とか石畳とか、そういうがっちりかっちりした固いもののイメージでした。
『朗読者』、あらすじにもあるように、ハンナはミヒャエルに「本を読んで」といいます。そして、ミヒャエルはドイツ文学や古典などを読むのですが。
このくだりを読んでいた時、なんというか、ものすごく『ああ、物語って、本来、こういうものなんじゃないのかな』と思っていました。
ひとりに対して、一冊の本、その二者の対話、ではなくて。
ひとりが、別のもうひとりに対して(複数人数でも)、物語る、話す、聞かせる。
誘爆三つめ。

そして、この『物語る、話す、聞かせる』から、『赤毛のハンラハンと葦間の風』の一節を思い出しました。
今年の4月頃に読んでいて、イエーツ作品との、あまりの久しぶりの再会の喜びに、ツイートやらノートブックに書く内容がこじれるわ軋るわで、大変だった一冊です。
ハンラハンとは、アイルランドの詩王と呼ばれた吟遊詩人なのですが。
彼が、珍しくひとつところに留まり、衣食の心配をせずに詩作に励んでいた日々がありまして。

毎晩、年寄りや盲人や物乞いやフィドル弾きが炉辺に集まってきて、ハンラハンの歌や熱のこもった朗唱に耳を傾け、賞賛を浴びせた。彼らの底なしの記憶力は書物によって甘やかされていなかったので、歌や物語をすぐさま身の内に取り込んだ。そうして彼らは、疲れを知らぬ健脚でコナハトの津々浦々までことばを運び、通夜や婚礼の宴や守護聖人の祭りの場で、歌や物語を語り演じた。

アイルランド、古代ケルトは、ヨーロッパ文化の基層と言われていて、土台、根っこの文化なのですが、その割には『書き残す』ことに熱心ではなく、ひたすら『話して伝える、覚えさせる、記憶させ』ていたそうです。
あくまで口承、ビバ口承、覚えろ、語れ、記憶せよ、と、吟遊詩人たち、じーちゃんばーちゃんたちは、ひたすら語り続け、聞き手は耳を傾け続け、『彼らの底なしの記憶力は書物によって甘やかされていなかったので、歌や物語をすぐさま身の内に取り込ん』でいる。

ワタシは、ケルトの文化や物語がとても好きなのですが、アプローチとしては、現地に行く(国内の美術館や博物館もアリだな)以外であれば、それはもう『本を読む』しかないのです。
そして、その『文字で書かれた本を読むこと』は、古代ケルトの賢者たち、語り部たちがしてきた『一対一で、語る、聞かせる、聞く』こととは方向として正反対なのです。
とても好きなことに、それを残したひとたちの意に添わない方法でしかアプローチできない、というのは、ワタシの中に、大きな引っ掻き傷、撞着がまたひとつ。

Notebookers.jp には、まさしく、ノートブックに書きたい(や、文字じゃなくて絵を描いている方もいますが)ひとが集まっているワケですが。
ひとつお聞きしたいのですが、ご自分が、文字を書けない、文章が読めない、ことを想像されたことがあるでしょうか。
外国語ではなく、日常、話して聞いている、書いている言葉を紙とペンで書き留めることができない、または、誰かが書いた言葉を理解できないこと。

上述にあるようにケルト民族は、残すことに頓着せず、滅び? OK! 滅び上等! という考えだったそうで、ワタシが今、読んでいること、書き留めていることとは正反対なのが潔くていいなあ、と、いつも思いもし、そして。
ワタシは、ときどき、読んだ本の背表紙を見ながら、書き終わったノートブックを持ってみて、その重さを感じながら、こうして『読めること』と『書くこと』というのは、ひょっとしてとても大きな恩寵なのかも知れないなあ、と考えたりもする。
そして、この乖離は、座り心地は悪いですが、ワタシの宝物のひとつなんだろうなあ、と。

ケルトの風に吹かれて/パプーシャ/百年の孤独/赤毛のハンラハン/朗読者/鏡よ 鏡/ホッグ連続殺人

今回、読み返した本(真ん中の黒いのはアレです。あの本です)

しかし、生涯にそれほど多くの字を書かなかった年配者たちの筆跡にふさわしい、ある種の厳しい美しさがその筆跡にはあった。
(『朗読者』ベルンハルトシュリンク 訳:松永美穂 新潮文庫)



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