「お茶でもいかがとコニーの誘い。まあ結構よ、毒入りなのね、とメリキャット」
関西は、まだ、日中が暑いです。いかがおスゴシでしょうか。
先日、ハングアウトのやりとりで「物語の中のお茶」について記事を書く〜云々、という話をしていまして。
(それで、最初に思い出したのが、今回のこのタイトルというのも物騒な話ですが)
コレは、シャーリィジャクソンの『ずっとお城で暮らしてる』から。
作中、殺人の容疑をかけられたコニーへの囃し歌です。
今回は、こういう、物語の中でのお茶の時間、お茶を淹れること、などを書こうと思います。
えー。
お茶、というと。
wikiでは、このように書かれています。
茶(ちゃ)とは、チャノキ(学名: Camellia sinensis (L.) Kuntze)の葉や茎を加工して作られる飲み物である。
また、これに加えて、チャノキ以外の植物の部位(葉、茎、果実、花びら、根等)や真菌類・動物に由来する加工物から作られる飲み物(「茶ではない「茶」」の節、茶外茶を参照)にも「茶」もしくは「○○茶」と称するものが数多くある。
今、ふつーに「お茶しましょー」と言う時、厳密に、上記のお茶、チャノキの葉っぱから作った飲物を一緒に飲もう、というワケではなく。
要するに、カフェなり、どこかに座って、コーヒー、ジュースでも(ケーキや軽食でも)いいので、そういうモノを頂きながら、少し、お話しましょう、という言葉で。すごく意味が広くて、イイ言葉、イイお誘いの言葉だなあ、と思います。
この Notebookers.jp のイメージとして、管理人、タカヤさんがよくツイートしているのが、こういうの。
簡易テーブルでコーヒーを淹れる。みなさん、いつかご一緒にどうぞ。頭、変になりそうなくらい美味しいよ #molecow https://t.co/5HHsnppBkx
— タカヤ・モレカウ (@blanq) 2015, 8月 9
夜、野原や森で焚き火をしていて、その火でお茶を淹れていて、通りかかったひとに声を掛けて、ふるまう、というもので。
このテのツイートを読むたびに。
ひとりひとりのNotebooker、それぞれ、そのひとだけの旅をしていて、ふと、何かの拍子で、歩いている道が交叉する、出会うことがあり、その時、隣に座って(正面でもいいけど)、お茶を一杯飲む、そのひとときを共有し、また、それぞれ歩き出す、そういうものが向こう側に見えるような気がします。
静かで、ちょっと淋しくていいなあ。
他にも、お茶を飲む、淹れる、というと。
中国では、お茶を飲むお店は、自分ちのリビングルーム代わりだったと読んだことがあります。
そして、英国のアフターヌーンティが転じたらしい香港の飲茶。
日本では、哲学に近いような茶道。
シルクロードのキャラバンの商人たちは、お茶をA4サイズ? B5サイズ? くらい? の薄いタイルのように固め、表面にレリーフを施して、それを持って旅に出たそうです。少しずつ削って淹れる。1枚で何年も使えたそうです。
厳しい沙漠の旅の途中、お湯を沸かして、お茶を淹れる、そのひとときは、本当にホッとできただろうなあ、貴重な時間なのだろうな、と思います。
ワタシ、もう10年ほど前ですが、よその国をふらふらしていたことがありまして。
エジプトのサファガというところで、エジプト式コーヒーを頂きました。
その時の旅ノートブックがありまして、こんなカンジで記録しています。
続き。
木クズが茶漉し(コーヒーですが)になっているので、えー、コーヒーの中に木クズが入ってたりしたんですが。
なんていうのだろう、煎りたてのコーヒー、炎の風味、香りがまだ残っているような。
そして、お砂糖がたくさん入っていて、とても甘く。
ワタシは、コーヒーはほとんど淹れないので、わかんないですが、こういう方法は、多分、(日本では)正式な淹れ方ではないんじゃないかなーとは思います。
ただ。
夜、ディナーの時に頂いたんですが、このくらい野趣あふれたコーヒーでないと、夜景に負ける、と思いました。
ホントーに、沙漠、砂と、満天の星空しかない場所での食事でして。
そこで飲むコーヒーが、上品で、洗練されたものだったら、多分、この場所、ロケーションに負ける。
(いつものごとく)(写真は撮ってませんが)今でも、あのコーヒーの、どろりとした黒さ、火に近い苦さ、は憶えています。
このように、お茶を淹れる、お茶を一緒に飲む、というのは、
「あなたを歓迎します」
「あなたをもてなしたい」
「あなたと話をしたい」という意識なんだろうなあ。
物語でも、お茶を淹れるシーンはたくさんあり。
それは、歓迎の意味だったり、自分の楽しみのためであったり、また、旅立つ友だちを送り出す時の挨拶代わりだったり。
ワタシが、いいなあ、好きだなあと思ったお茶のシーンを、いくつか紹介していこうと。
◆ ◆ ◆ ◆
ひとつめ。
『雨柳堂 夢噺』より『午後の清香(チンシャン)』(波津彬子 ソノラマコミック文庫)
大正時代の骨董屋 雨柳堂に持ち込まれる道具は、買うひとを選ぶ。
大切にされ、愛されてきた道具は魂を宿して、物語を紡ぎます。
その物語のひとつ。
雨柳堂のお得意様のひとり、日本びいきの英国人グラント教授が中国の茶器を手に入れます。
その茶器で紅茶を淹れるのですが、そのたびに、茶器の精が現れ、「そんなお茶はだめ」とダメ出しをする…
その茶器の持ち主は? その精霊は? どんなお茶ならいいの? と物語が広がるのですが…
その中で、主人公の蓮は、グラント教授に中国の茶器の話をします。
ジャパンのお茶は チャイナから伝わったものです
あの国のお茶の歴史はとても長くて
種類も一千種類と聞きます茶に凝って財産を使い果たした富豪が
物乞いになっても愛用の茶壺(チャフー)を
手放さなかったという話もあります良い茶壺(チャフー)を
長い間使うと 名器になり
それで入れた茶の味は
この世のものとは思えぬ美味になるそうです
すったもんだのあげく、ようやく、その茶器は、本来淹れるべき正しいお茶っ葉を淹れることができるんですが。
「茶壺(チャフー) うれしそうでした」
とグラント教授のせりふがありまして。
本来、モノでしかない茶器に、人格を見る、魂が宿ることを知る、いいなあ。
これは、ひとをもてなすためのお茶、の話ではなく、その道具を大切にしてきたひとの物語なのですが。
大切にしている茶器で、お気に入りのお茶っ葉で、ていねいにお茶を淹れる、そのひとときを楽しんだのだろうなあ、というのがすごく伝わって、いいなあ、と思います。
ワタシは、(茶器に限らず)ひとつのものを大切にして、長く使うというのが自分の理想でもあるので、こういう話がとても好きなのです。
◆ ◆ ◆ ◆
ふたつめ。
『砂のクロニクル』船戸与一 1991年 毎日新聞社
長いです、そして厚い。ハードカバーで586ページ、三段組。
話としては…(以下、アマゾンより引用〜)(コレは文庫本の紹介ですが)
日本文学史上類を見ない壮大なスケールで民族問題の裏側を描く。船戸与一最高傑作。舞台は、イラン。二人の日本人が激動のペルシアの地で民族紛争の渦に飲まれていく。イスラム革命が成功したイラン。革命防衛隊は権力を手にしたものの内部から腐敗が進み始める。対してイランの片隅で生きるクルド人が、独立国家樹立を目指し、武装蜂起を目論む。武器の調達を依頼された日本人武器密輸商人・ハジ。なぜ日本人である彼が、国際社会の裏舞台で暗躍することになったのか。クルド人のために、無事、武器を供給できるのか…。息もつかせぬ怒涛の物語、上巻。
独立国家樹立を悲願に聖地マハバード奪還を目指すクルド人たち。日本人武器商人・ハジが旧ソ連で調達したカラシニコフ二万挺は、無事クルド人の元へ届けられるのか。一方、クルドの民を押さえこまなくてはならないイラン革命防衛隊は、内部の腐敗によりその機能が低下し始める。革命防衛隊を立ち直らせたいと理想に燃える青年・サミル・セイフは、まさかの裏切りに遭い窮地に追い込まれる。革命防衛隊の腐敗と、クルド人の武装蜂起。生き別れた姉とサミルの奇跡の邂逅、あらゆる伏線が一つになり、驚きの結末へと導かれる。船戸与一が描く一大叙事詩、下巻。
今回、引用する箇所は、(いつものように)あんまり(ほとんど)内容と関係ないトコロなのですが。
(内容紹介には書かれていませんが、主人公がふたり、います。ふたりとも日本人で、偶然、ふたりとも『ハジ』という愛称を持っています。『巡礼』の意味)主人公の二人のハジ、そのひとり、(武器商人じゃない方の)名無しのハジがクルド人ゲリラのヘルムートにお茶を入れるシーンがあります。
ヘルムートがハジの小屋を訪ね…
以下、引用。
ハジは藁の床の上に腰をおろしてた。
窓を蔽う板張りの戸はすべて開け放たれ、小屋のなかは午後の光に充ちている。それを受けて床の藁が黄金色に輝いてた。その光のなかに右脚だけが実に気分よさげに投げだされている。
「砂糖を持ってきたよ、ハジ、それから乾電池も」ヘルムートはそう言いながら手にしていた紙袋を差しだした。「持ち合わせがあまりなかったから、いっぱいは買って来れなかったけど。煙草も三箱ほど入れといた、たまには喫うこともあるだろうと思って」
「世話をかけるね、ハッサン、いつも」
「どうってことないさ」
「さっそく茶を沸かすよ」
「おれのためならいいぜ。べつに喉は乾いちゃいない。火を熾すのも面倒だろうし」
「わたしが飲みたいんだよ」
ヘルムートは思わず頬を緩めた。
ハジが小屋の左隅に岩を並べて作った竃に近づいた。欅(けやき)の枝で設えた松葉杖を使って。そばに置かれてる薪をそそくさと竃のなかに突っこみ、枯葉を捩じこんでマッチで火を点けた。けむりがあたりに漂い、それがそのまま開け放たれた窓から抜けていく。ハジは唇をすぼめて竃のなかにふうふうっと息を吹きかけ火勢を強めた。
「よっぽどみたいだよ、ハジ」
「何がだね?」
「甘いものによっぽど飢えてるみたいだ」
「こういう暮らしには砂糖が一番ありがたい」
「いつかどっさり手に入れて来るさ」
ハジが笑いながらガソリン缶を利用した飲料水のタンクのほうへ身を寄せた。そこから粉ミルクの空き缶で水を掬い、それを竃のうえにかけながら言った。
「ここのところ何となく疲れ気味なんだ。しかし、まあ、甘い紅茶を飲めば、それも治ると思う。十分もすりゃ沸くからな、楽しみだよ」
名無しのハジは、クルド人ゲリラの集落の近くに住んでいまして。
そのひとり、ハッサン ヘルムートと交流があり、ココは、そのヘルムートを迎える場面です。
ガソリン缶の飲料水タンク、やかん代わりの粉ミルクの空き缶、と、モノは粗末ですが、
「さっそく茶を沸かすよ」
と、道具がそういった(あんまりイイモノじゃなくて)モノでも、ハジがヘルムートの訪問をとても歓迎し、喜んでいるのが見てとれます。
作中、こうしてヘルムートがハジを訪ね、ハジが紅茶を淹れるという場面が何度かありまして。
そして、武装蜂起の前にも、最後の挨拶をするためにヘルムートはハジの小屋を訪れます。
「だれだね?」
「ハッサンだけど」
「はいってくれ」
へルムートは蝶番を軋ませて扉を押しあけ、なかに足を踏み入れた。それとともに蝋燭が灯された。小屋のなかがぼんやり明るくなった。ヘルムートは手作りの脚の短いテーブルのまえでハジと向いあって座った。
「紅茶を飲むかね?」
「ありがとうよ、ハジ」
「砂糖はまだたっぷり残ってる。こないだ、差し入れてもらったやつがな」
「おれは要らない、砂糖は」
「何でだね?」
「だいじに使って欲しい」
隻脚の東洋人が背後に体をひねり、竃にかかっていた粉ミルクの空き缶をテーブルのうえに置いた。なかにはいってる湯は滾ってる。つづいてブリキのカップが置かれ、そこに紅茶の葉を入れた。ヘルムートは腰帯(ピシテンド)のなかから煙草を取りだして勧めた。ハジはそれを拒(こと)わった。ブリキ・カップのなかに湯が注ぎこまれた。
この物語は、上記、あらすじにあるように、ものすっごくハードです。
民族紛争、新しい体制の理想とする姿と現実の腐敗、弱い立場の人間の嘆きや怒り、そういう、つらくて、息苦しい流れ、うねりの中で、本当に、このハジとヘルムートのお茶の時間は、息が ホッ とつけるようなシーンでして。
登場人物たちの息抜きの時間、そして読み手にとっても、息がつける箇所、二重の意味での『一息つく時間』かなあ。
以前、何で読んだのだったか、チベットの馬乳茶(バター茶?)(モンゴルのだったかなあ)、これは、一日に何杯も飲むそうなのですが、なぜかとゆーと、他に食べるものが、大麦を煎ったものか、練ったもの(このへん、うろ覚えですが)しかなくて、だから馬乳茶で栄養を摂る、貴重なカロリー、タンパク源、とか、そういうことらしいです。
イランのこの辺りも、似たような事情なのだろうなと思います。
紅茶と砂糖で、栄養素、ビタミンやミネラル、そしてカロリーを摂取しているんじゃないかなあ。
もちろん、お茶を飲む、その時間そのものを楽しみにしているとは思いますが、そういう厳しい風土、過酷な背景がちらりと見えたような気がしたりしなかったり。
なので。ヘルムートが言うように、砂糖は貴重なものなのでしょう。
(この後、ハジがゆで卵をヘルムートに勧めるシーンがあります。ニワトリの卵、とても貴重なタンパク源なので、ヘルムートは固辞するんですが、ハジは「君に食べてほしいんだ」と)
そういう。
あまり、楽とは言えない生活のなかで、それでも、武装蜂起、コトを始める弟のような友人に対して、自分のできる、持っている範囲で、精一杯、もてなそうとする、送り出そうとする、このシーンが、とても印象的で、好きなのです。
◆ ◆ ◆ ◆
ハジは、粉ミルクの空き缶でお湯を沸かしていますが。
えー、オーストラリアの歌でこういうのがあります。
一時は、オーストラリア国歌の候補になったそうで、そのくらい愛されている一曲だそうです。
歌詞は以下の通り。一部抜粋。
“Waltzing Matilda”
Once a jolly swagman camped by a billabong
Under the shade of a Coolibah tree
And he sang as he watched and waited till his billy boiled
You’ll come a waltzing Matilda with me
放浪者は歌いながら、ビリーが沸くのを待っていた〜〜というような箇所がありまして。
このビリーというのは、空き缶の愛称なのだそうです。
今でも、オーストラリアで、『ビリーティー』と呼ばれる、空き缶で淹れるお茶があるそうで、空き缶で(焚き火にかけて)お湯を沸かす、お茶っ葉を入れる、後ろに3回、前に1回、ぐりんっと回す(ビリースウィングという)(お茶っ葉を沈めるためだとか)(わ、わかるでしょうか、針金の取っ手をつけた空き缶を手に持って、腕を伸ばして、その腕を肩からぐりん、と、後ろ、前に回すのです。クロールとか背泳ぎのカンジで)が、出来上がり、だそうです。
イラクとオーストラリア、緯度もずいぶん違う、文化なんて全然違うだろうふたつの場所ですが、空き缶でお湯を沸かし、お茶を淹れるという、同じ発想があるのは、面白いなあと思います。
◆ ◆ ◆ ◆
小ネタとして、いくつか。
『アフリカの女王』セシル スコット フォレスター 1935年 ハヤカワ文庫
もう、ホントに小ネタですので、あらすじなどは割愛しますが。
えー、主人公ローズがアフリカの河を蒸気船で下るのですが、主人公、英国人です。
同行している技師オルナットも英国人です。なので、戦時下、アフリカの河をおんぼろ船で下っていて、廻り中、敵だってーのに!
オルナットが言うのです!
茶でも飲みますかい、ミス?
その状況で? 蒸気船でお湯はいっくらでもあるかも知れないけど、今? 今、飲むの? お茶を?
ねえ、敵とか、あの、えー、ちょっと待ってよー!!
と、初めて読んだ時、どれだけ(ココロのなかで)ツッコんだことか。
それで飲むワケですが(飲むのです)、ちょっとだけ引用。
それでもなお、ローズはカップに何杯も何杯もお代わりをした。一瞬、体温が熱病にでもかかったかと思うほど急激にはねあがる。が、それが至福の発汗現象と変わってくれたのはほどなくしてからだったーーきょう一日中、肌にねとねとちくちくまとわりついてくれた汗ではなく、からだに涼気と心地よさを呼んでくれる、心にくつろぎと平和をもたらしてくれるそれは汗だった。
暑い時に、熱いお茶を飲むのがいい、と、言われていますが、それがコレかと。
皆様も覚えがあるかも知れません。
熱い飲物を飲んだあと、
わ!
と暑くなって、でも、スッキリする、紅茶はそういう効果があるようです(紅茶に限る?限らない?)。
◆ ◆ ◆ ◆
同じく、小ネタ2『騙し絵の檻』ジル マゴーン 創元推理文庫
こちらも、ホントに小ネタですのであらすじは割愛します。
主人公、妻殺しの冤罪で刑務所に入っていて、ようやく出所したところから物語が始まります。
そんで、かつての関係者に話を聞きに行くのですが。
妻と仲が良かったキャリアウーマンの従姉を訪ねて、話を聞きます。
その時、従姉がお茶を淹れてくれるのですが。
その手順というのが。
1.お湯を沸かす。
2.あんまり沸騰していなくてもOK、ポットに注ぐ。
3.その上からお茶っ葉を入れる。
4.即、カップに注ぐ。
5.召し上がれー。
主人公は、ムショから出て来たばっかりだというのに、贅沢にも
「紅茶のようなモノ」
などと(多分、こういう表現、紅茶モドキとかそういうの)、うそぶいていました。
(紅茶は、『沸騰したお湯』を『お茶っ葉の上に注ぎ』(つまり、先にポットにお茶っ葉を入れておく)、数分蒸らす、のが一般的な淹れ方のようで。コレを初めて読んだ時、きっと、刑務所でもティータイム、あるんだろうなあ、そして、この『正式とされる』方法で、お茶、淹れられてるんだろうなあ、と)
◆ ◆ ◆ ◆
やはり、お茶は英国ネタになるなあ。
あと、なんだっけ、確か、クリケット、英国発祥のスポーツ、コレは世界でただひとつだけ、試合の最中にティータイムが設けられているスポーツだそうです。
探せばもっとたくさんあるだろうなあ。今回はこのくらいで。
最後に、大好きな映画から。
が、えー、どうにもオトナの事情でYouTubeには上げられないようです。
公式トレイラーを貼っておきます。
こちらは、旅立つ友だちを送るため、そして、いつか帰ってくる時のための二杯のお茶を淹れるシーンがある映画です。