祖父が亡くなってから,一か月がたつ.
ふと思い起こして,その日のノートを見てみる.そこには,某教育テレビでやっていたフィッシュボーン図*1の使い方が書いてある.さらにもう一ページさかのぼると,某ドトールコーヒーの紙製のカップホルダーがちぎって貼ってある.きっと書体が気に入ったのだろうう.書き込みはない.
ノートをさかのぼってみていくのは,思考の糸を引き寄せるようで面白い.どこかの本に,人は1日に6万個ぐらいのことを考えていると書いてあった.ノートに書き留めてあるのは,せいぜい良くても1個か,多くても3個ぐらい.私の思考はどこかに消えてしまったのだ.
祖父との思い出をなんとか手繰り寄せようと,いろいろと思い返してみるが,あまり思いつかない.車で1時間ぐらいのところに住んでいたので(のに),しょっちゅう会いに行こうという感じではなかった.だから,祖父が死んで,悲しいというよりは,ぽっかりと何かが無くなった感じがした.まだそこにいるような感じがして,でも同時に,僕は彼の骨を骨壺に収めたから,彼はもうそこにはいない.その二面性をとらえきれない.
無くなった,亡くなった.おそらく,死は悲しくない.空白や,空虚なのだ.
そこを埋めようと,冗談を言って何とか笑ったり,あるいはノートに何かを書きつけたりするんだろう.その日,葬儀場で座った叔母が座り心地のいいといった椅子のスケッチ(にしてはひどい出来だ)を描いて,そのあとにお弁当についていた「この商品は本日16時までにお召し上がりください.」というシールをノートに貼り直している.おそらく何かのリマインダーとして,とっておきたかったんだろう.
そして,その横のページには,こうある.
”生きていること,死んでいく人々とその悲しみについて考える.つながりが少ないということは,その悲しみ一つ一つが大きいということ.あるいは悲しみを感じる=人として大きくなる,その機会を失っているのか.”
祖父の死は,いろんなこれからのことを考えさせる.飼っている猫たちも死ぬだろうし,両親も死ぬだろうし,数少ない友人もみな,死んでいくだろう.(僕が先に死んでしまわなければ.)
そういうことを考えると,僕は少し憂鬱になる.そして,それあらがうことの無力さについて,考える.
*1 フィッシュボーン図(特性要因図)は,結果に対する原因を特定するために使われる思考ツール.某教育テレビでは,それを論拠を書き出すものとして用いていました.
10 分で理解できる特性要因図|書き方から原因を特定する方法まで : https://navi.dropbox.jp/fishbone-diagram