ノートを書くのには,それなりの明かりが必要である.それは確かだ.
しかし,見えないことでわかることもある.そういうことを教わったことがある.
年の瀬の大掃除は欠かせないが,ミニマリストwannabeになってから,あまり片付けるところがなくなった.
それはうれしいことだが,元マキシマリストの私としては,いささか物足りない.恒例行事的だったからだ.
そういうわけで,ほったらかしていた押し入れに入っている一つの箱,いわばan untouchable boxに手を出すことにしたわけである.
そこには実にさまざまなpre-minimalな生活がそのままになっている.それは段ボール一個分でしかないが,段ボール1個分の空間にはそれはもうたくさんのものが入るのだ.
その中から,必要なものを救出し,いらないものを捨て,箱を一つつぶす.これが目的になる.
ほとんどが学部時代のノートで,見てみると勉強のものがほとんどだ.ビルマ語であるとか,ポルトガル語であるとか,言語学の基礎であるとか,そういうものが書かれている.熱心な学生だったようだ.
その中に一つ,きれいなパンフレットが挟まっていた.
DIALOGUE IN THE DARK.ダイアローグ·イン·ザ·ダーク.暗闇の中の対話.
暗闇の中の感覚が鮮明によみがえる.
そこはシンガポール.僕は8年ぐらい前に一度,教育実習のために(僕は職業として日本語を教えているので),3週間滞在することになった.
その中のお楽しみの一環として,僕と他の2人でこのDIALOGUE IN THE DARKに連れていかれたわけである.
どういうものかというと,まず,ちょっと広めの公園に行ってデートするような自分の姿を想像してほしい.
ちょっとボートなんかにのって,その後お茶をするというような.
そして,その工程を全部真っ暗闇で行うと想像してほしい.真っ暗な公園を,真っ暗なボートに乗って,真っ暗にお茶をする.光なんて一筋もない.白杖もない.
それを,室内で行う.つまり,写真を現像する完全暗室のような場所で,公園みたいなセットの中を歩いたりする.実際にボートみたいなものにものる.
ちょっと風が当たったり,水が跳ねたりする.でもボート自体は動いてはいない.そういう演出なのである.
たぶん.でもわからない.だって見えないから.
どうですか,ちょっと難しそうでしょう.安心してください.そこには全盲のインストラクターの人がいて,こっちだよという風に声やらで案内してくれるわけです.
だからちょっと安心.でも暗いから心細い.
最後に,その全盲のインストラクターと僕と同級生2人の4人で,お茶をする.暗闇で.
そのお兄さんだかおじさんだかは(だって見えないから年もわからない),僕たちに紙パックのジュースを渡してくれる.
それぞれが違う味で,「さぁ,味を当ててみて」と聞く.おじさんだかお兄さんだかには,なぜか味がわかっている.
大きいクッキーも一緒にいただく.でも大きさは本当はあまりわからない.もしかしたらすごく小さかったかもしれない.ただ,大きいと感じただけだ.
それで終わり.出口まで案内してくれるが,おじさんだかお兄さんだかはカーテンの裏からはでてこない.ちょっと不思議.
お茶をしたとき,僕は失礼になるかもしれないけど,と言って,彼に全盲であることのいいところを聞いてみた.そうすると,彼は答え慣れたように,
「もちろん見えないことだよ.だって人を判断するとき,その人の声やら言っている内容で判断するしかないだろ.僕の嫁さんがどんな顔か知らないけど,いい人だってことは知ってるよ.」
というようなことを答えた.そう,逆説的かもしれないけれど,僕らは“目が曇ること”を見ることによって体験しているのだ.
ノートに書き連ねる思考もいい.でも,暗闇での思考も,また一味違っていていい.
そういう対話があってもいい.
ノートに書くのは,明るくなってから書けばいいわけだから.
ちなみに大人は20シンガポールドル.時間は30分程度だったと思う.
もしシンガポールに行くことがあったら,ちょいと立ち寄ってみてもいいんじゃないでしょうか.
まだあれば,ですけれども.
きっと8年たってもいろいろなことを思い出せると思います.