はじめに
2020年7月7日、日本平動物園の、フタバ君とオリヒメさんの間に赤ちゃんが生まれました! めでたいめでたいめでたい。詳細は後日発表があるとのことです。とにかく、丈夫に無事にスクスク育ってほしいです。フタバ君もオリヒメさんも、ますます元気に長生きしてほしいです。また、会いにいきます。
https://www.nhdzoo.jp/news/naka.php?id=1493&p=4
以上、獏部歓喜のご報告でした。
では、
手帳派でいいじゃない。だって俳句はアナーキズムなんだもの
以下の記事は、『俳句の世界』小西甚一さん著、のごく一部に関する感想と、別のブログに書いた過去記事とをミックスしたものです。
手帳派とは
子規の本意は客観的世界の尊重にあったわけですが、子規と言えどもそれが何時の間にか事実の尊重と置き換えられて、あのような愚作が詠まれたに違いない(…)言わば創作の一つの安易な手段として写生が考えられているのです。物干竿を見ていたら一匹の蝶が飛んできた。そこで一句が出来るという具合であります。これを手帳俳句と言います。「それは事実だった」―それが手帳俳句の考えであります。
前掲書 p.197
だが作品はあくまでも一つの完結した世界であって、偶然経験した事実の破片が言葉の上に移されただけでは、やはり断片は断片で、それだけでは完結性は与えられていないのです。
という具合です。これは、piecesmaker1という名前で、写生を信奉する私に対する批判ですね!
こうした、いわゆる「(反写生派の主張する)いわゆる写生」によって作られた断片の寄せ集めを「タダゴト句」とよび、上っ面な、表層的な、真実に到達していない上滑りな、たんなるLogでしかないもので、なんでこんなものをわざわざ句にするのか、と、萩原朔太郎さんも疑問を呈していました。
何のために、何の意味で、あんな無味平淡なタダゴトの詩を作るのか。作者にとって、それが何の詩情に価するかといふことが、いくら考えても疑問であった。所がこの病気の間、初めて漸くそれが解った。(中略)退屈もそれの境地に安住すれば快楽であり、却って詩興の原因でさへあるといふことを、私は子規によって考えへさせられた。
萩原朔太郎『病床からの一発見』より
作者の小西さんは『俳句は作品でありそれは「完結性」をもたねばならない』としています。
ですが俳句という短い詩形が「完結性」を持つためには、どうしても「読者」による補完が要請されます。(これはどんな形式の作品でも同じでしょうが、とくに俳句は補完に頼る度合いが大きくなります)句作者の「本意」をおもんぱかるためには、句のみでなくその句作者の人生と句が作られた状況をもかんがみ、読み手としての願望も少し交えながら最大限のそんたくをせねばなりません。その機構が「結社」です。
俳句のアナーキズム
(以下は過去ブログの採録です)
俳句は連歌の発句であることを止めたとき、現実に対する一個人の批評となり、絶対に物語を構成しない、権威主義を離れた「自在」なものとなったと思う。
とことんまで、「個」と「世界」とを突き詰めたところに結晶する十七文字。それこそが俳句であり、そこにこそ、「普遍」が現われるはずだった。
だが、この十七文字という極端に短い詩形であることが、俳句の読者に、自動的に「補完」を強いてしまう。いや、むしろ、それを期待しているのが俳句である。
だが、それはあるあるネタの同感などという共同体を強化するタイプの補完ではなかったはずだ。
全てを言い表すのではなく、そこに切れ目をいれておくこと。その切れ目は、読者が想定してない切れ目であり、そこから垣間見える「本質」または、そこから垣間見られる眼差しなど、に「ぎょっとさせられる」体験こそが「補完」されべきなのであるが、一般的には補完する際、「共同体」を「シイタケ駒」のように呼び込んでしまう。
しいたけ俳句
そして気が付けば、「俳句」の内部は「共同体」の菌糸でねとねとになってしまうのだ。こうなると、あとは放っておいても、同じDNAによる「シイタケ俳句」が雨後のタケノコのようにビラビラと生えてくる。それが結社である。
つまり、「個」は「共同体」という「類」にとって変わられてしまうのだ。
それは、「個」の拡大ではない。
「類」において、「個」は「類的本質」という「物語」として均質化された上、アンタッチャブル化されてしまう。
それこそが「一般」と呼ばれるものであり、そのように解釈されてしまった「上手な句」こそが一般のなかの一般の、まさしく「タダゴト俳句」であり「月並み俳句」と呼ばれるべきだ。
この場合、世界とは「一結社」にすぎない。その中で上手と認められたものが「特別な俳句」としてもてはやされ、特別な俳句が作れる特別な人がカリスマとして、崇めたてまつられるのだ。
しいたけ結社からしいたけ国家へ
大勢の一般市民が、カリスマ的指導者を崇拝し、それぞれのISMをもって、争っている。俳句は国家の内部に小さな国家を形成する。そして他を外部とみなし、外部からの干渉を嫌い互いに地上でも地下でも、争いあう。
Notebookersは、Logを尊重します(私見)
俳句の歴史は「芸術たらん」とする俳人たちの苦闘の歴史でもあったようです。とくに結社を維持運営する上ではそういった格式は必要なのでしょうが、そういったモノに、とことん無関心な「手帳派」としては、徹底的に「事実の断片」をコレクションしていければそれでいい、という考えです。こっちには、俳句に貢献したいという熱意もなければ、俳句のために生きる義務もなく、ただ、自分の今ある「この(一つの)世界」にのみ関心があるわけですから。
Notebookersは、Logを尊重します。愚鈍なまでに「写生的(主観的=客観的)事実」を尊重します。凡庸な私が、五・七・五の制限のなかで、「悟りを記そう」(俳句の完全性が「悟り」だということは、長くなるので書きません)などと考えるなど、おこがましい限りです。
だって真理は自然の表層に常に顕れており、それは因果を離れて縁起しあっているのですから、二物衝撃とかなんとか頭をひねったところで不純になるばかりです。
日常の中の、「下手な考えより奇なる現実に」あふれるありふれた事を、因果や説明が不可能な、五・七・五に記録することが、手帳派の写生俳句だと思います。
アナーキズム論
(再び別のブログから)
非常にシンプルなルールに則っていながら、無数の亜流を生み出し、大同小異の小異にのみアイデンティティーを見出して、大同を認めない。同じ一つの国にあって、それぞれの切り口は全く異なっているため、そもそも同じ一つの国などという事実ですら認められない。この差別主義は人間性にも及ぶ。
丸い地球も切りようで四角
俳句はあらゆる場面を切断することができる。その際、球体がその切断の仕方によって、無数の断面を形成するように、世界は一つではなくなる。というより、われわれは存在論的に、世界を分断しなければ認識できないのだ。それは『分断以前の一』のあることの証明でもなく、『多様性』の証明とするでもなく、「上手」「下手」、「特別」「タダゴト」、「本物」と「偽者」、「深い」「浅い」、「分ってる」「分ってない」というに差別に利用する姿勢がしみついてしまっている。
句会
句会はいい。さまざまな句を読むことはいい。その句読んだ感想を言い合うのもいい。互いの「個」をもって自らの在る世界を鑑賞しあい、自分のそれとの差異を、無責任に楽しめるのであれば。何かを変えようとか、何かになろうとかしないのならば。ただ、自分にとっての社会と自分とのスタンスの差を感じ、その差異を「広さ」と感じることができるのであれば。
つまらない素人としての私
そして、そのような「拘束された自由」を育む結社とは全く無縁に俳句を詠む私は、何の影響力ももたぬ有象無象である。私はそのように俳句を詠む。
そして、そこにしかアナーキズムはありえない。
(続き)客観写生の主観性が要請するアナーキズム
団結は不用だ。
アナーキズム運動は、運動であるべきではない。それは、組織されてはならない。
同胞の支援は不要だ。
支援を受けるなら、それぞれの抗う相手から支援を取り付けるべきである。
暴力は不要だ。
アナーキズムは好戦的である必要はない。暴力は古い物語としてかならず「しいたけ国家」を産む。
敵は不要だ。
多様性が認められなければ、選別と排除の理論が「王」を産むだろう。
アナーキズムはグラバカだ。
アナーキズムの美しさは、K-1的ではなく、グラバカにある。互いに離れたところから単発的に相手と対話を交わす関係ではない。
相手とぐずぐずに溶け合って一つになる。巻き込み巻き込まれた一体化の果てに各々の「個」を確立することこそが、アナーキズムの姿勢である。
アナーキズムは不用だ。
それを名づけてはいけない。名指してはいけない。旗印としてはいけない。指導者をもってはいけない。バイブルを携えてはいけない。
アナーキズムはもう、あなたの心のなかにある。その心の中にあるものを実現すべく、自らの居場所で、自らの周辺にある自らの事実を、愚直に書き留めること。
声に出す必要もない。作品など書かなくてもいい。
信じることを行うこと。
認められることに意味は無い。アナーキズム活動歴何年とか、アナーキズム活動実績は、とか、関係ない。それで飯を食おうとするな。もはや、それはアナーキズムでない。よりどころを求めるな。アナーキズムは常に流浪するものなのだ。
おわりに
途中に、なかなか勇ましい部分を挿入してみましたが、
「せっかく作ったタダゴト俳句を上手に散文に戻して感想文を書かれてしまった(泣)」という、トホホさ加減が少しでも伝われば幸いです。(嘘)
俳句っぽい俳句というものは確実にあって、俳句っぽい俳句を作る方法は巷に溢れていますけれども、世界をその俳句の文法で切り取ろう、というのは本末転倒なのではないかとも思います。重要なのは、慣れ親しんだ因果関係による思考を離れることに尽きます。
ところで、短歌は、因果を入れることが十分に可能な形式なのですが、現代短歌は、上句と下句を別々に作っておいて、現代短歌っぽい組み合わせをランダムに拾うというような作り方で、遅れてきたシュールレアリズム短歌を量産しているようです。その脈絡のなさそうでありそうでなさそうでありそうな感じに「俳句的」な余韻を持たせようという風にも思われます。
昭和のころから「短歌が俳句的になり、俳句が短歌的になっている」との指摘はなされてきたようですが、手帳派なので、どーでもいーです。
五・七・五にはまればそれで、七・七があったほうがよければそれで。散文を否定するものでもありません。
日常の「感じ」を書き留められればそれでよいので、スケッチだって除外しないし、写真だってかまわないです。
手帳派は偶然に遭遇した事実の断片の「美しさ」を思わずLogに残してしまい勝ちなだけの、個人なのです。
おまけ 正岡子規さんのタダゴトでなさそうなタダゴト俳句選
(こちらも過去のブログからの転載です)
時雨るゝや海と空とのあはひより
馬子一人夕日に帰る枯野哉
ぬぎすてた下駄に霜あり冬の月
散る花のうしろに動く風見哉
夕立にうたるる鯉のかしらかな
門を出て十歩に秋の海広し
夕顔や裏口のぞく僧一人
涼しさや石燈籠の穴も海
夕風や白薔薇の花皆動く
秋風や道に横たふ蛇のから
一列に十本ばかりゆりの花
フランスの一輪ざしや冬の薔薇
鷄頭の十四五本もありぬべし