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小さなノートの話

Posted on 27 1月 2021 by ピース・メーカー

小さなノートの話だ。

ほぼ日手帳weeksMEGAと、ダイソーのハードカバーの手帳、妹がくれたインド土産のノートの三冊を、自転車のチューブが入っていた袋にいれて持ち歩く。

これさえあれば、どこでどのような待ち時間が発生しても大丈夫な一式だ。

今回は、読むための小さなノートの話だ。

俳句や短歌は、とても小さな器だ。
その小さな器に満たした感動を、小さなノートにコレクションしていく。

それは、すべてが自分好みのアンソロジーだ。
テキストというのは、容量こそ小さいけれど、その凝縮度たるや、他のメディアに比べて圧倒的に高く、そして濃い。

俳句の抜き書き帳は現在12冊。その日の気分で何巻目を携えていくかを決める。

短歌はこのノートに書き写している。

当初はゆったり書いていたけれど、それはどうやら僕のスタイルじゃないらしい。隙間を見つけて、とにかくこのノートに書けるだけ書き込んでいく。

いわゆる「歌集」から引いたものは、別のツバメノートなどに書き写してあり、

小さなノートに書き写しているのは、入門書、解説書、twitter、ブログなどで見かけた、通りすがりの短歌たちばかりだ。

脈絡なくスペースを融通しながら列記されている短歌を眺めていると、不思議な連帯や反目を感じ、そこに別の短歌が現れてくるような気がしてくるのが不思議だ。

電子データにしてしまえば、もっとコンパクトに、この数億倍の情報を持ち運べるだろう。実際、電子手帳は辞書を何十冊も、古今東西の名作を何百編も、画像や音声を数千種類も、片手で持てる端末内に収めているのだから。

でも僕は、手書きで書き写した小さなノートを携帯し続けるだろうし、電車や待合室などでは、電子端末よりも、これらの小さなノート(か、本)を見たり読んだりするだろう。(もしくは書いたり、描いたり)

僕の文字は我ながら読みにくいけれど、書いたときの状況や心情を留めていて、電子的なフォントでもなく、ツルリとした画面の向こう側でもないリアルが、空気感を保存してくれている気がする。

そういう気分は、小さなノートを広げるたびに流動し、その体験がまた、創造につながっていくような気がしている。

だから、小さなノートの大きなコレクションを、僕はいつも携帯していたいし、どんどん書き足していきたい。

それは世界の何兆分の一の情報量でしかないのだろうけれど、僕の一分の一の世界なのだと思う。

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まだ僕は庭の外にも出ていない最強のONE PIECEを探す/俳句

Posted on 21 8月 2020 by ピース・メーカー

思いついたらとりあえず書いて見る

俳句はログだと、この間申したところだが、「最強の俳句」とは何だろうと考えさせられる事態がおきた。

私は上記twitterを投稿なさり、今回俳句杯を主催される星野いのりさんの俳句に衝撃を受けた者である。

「六枚道場」第八回〈詩・俳句〉部門A
星野いのりさん「うたかた」より、抜粋
口淫は嘔吐に終はる麦茶かな
蜻蛉の翅みづみづしき葬後
病みゐたる月は己を凍て殺す

わたしの俳句脳では、こうした語彙は拾えないと思った。そう思ったとき、いつの間にかわたしは「俳句脳」「短歌脳」「散文脳」のような脳の専門モジュール化が進んでいたことに気付き、これはまるでネアンデルタール人の脳ではないかと愕然とした。

新人類クロマニョン人の特質である「大脳新皮質」という、極度に自由横断的な、フレキシビリティ溢れる脳を活性化させなければ、「俳句」「短歌」「散文」、つまりまとめて「詩」を書く事なぞ不可能なのだぞと。

癖としての一句一章を離れたい

兼題は「月」
月のある風景、月との関わり、月の記憶を探る。折悪しく今は新月に向かう時期で、月はない。小説、詩。イナガキタルホ。ハギワラサクタロウ。魔的イメージに結びつく月とそれ以外の何かを模索し続けた。

水月と薬のターン

だが、絶望的に跳べない。因果に凝り固まっている。元来、このような因果を外す装置として俳句はあるはずだった。SF、ファンタジー、ホラー。さまざまなシチュエーションを思い浮べては、その情景にでてくるオブジェをまさぐり、俳句らしきものを探す。だが、このような方法自体が「俳句脳」なのだと気付き茫然とする。

このアカウントはわたし
コラージュを試す

短歌では、ワードを書き留めておいて後に、コラージュによって作品を製作する方法は一般的で、上の句と下の句とのつかず離れずの比喩、意外な取り合わせを見つけ出すには最適だ。これが私はあまり好きでなかった。作品のための作品。言葉遊び。になりはしないかと危惧されたからだ。
 しかし、言葉がもたらす衝撃によって、世界に亀裂をあたえられたり、偶然併置した言葉動詞の関係性によって、時空がねじ切れたり、ワープできたりするのなら、それは有効だと思うようになった。それは、「写生」か「空想」かという問題とは、別の、単に方法論として有効だと、現在も思っている。つまり、コラージュと写生とは両立すると考えている。先述した星野さんの「麦茶」の存在感。これは写生句といってよく、季語は動かない。わたしはこういう俳句を拾いたい。

エントリー作品はしかしまだ大人しかった

六日間。「月」のことばかり考えていた。他の俳句はほとんど読めず、なにを見ても「月」を置いたらどうかと、そればかり試していた。そして、自ら定めた〆切時間、グルグル○をつけた句でエントリーした。
 それは、やはりまだネアンデルタール人の句だった。だが、作ってはtwitterに上げて退路を断ちつつ進んできたつもりだった六日間は、無駄ではなかったと思う。

月の嘘堅い床には薬瓶 六文風鈴  (これは今、ノートを見て作った句)

ノートはダイソーノート(文庫本サイズ)144枚
ボールペンはZEBRA Surari0.7を使用しています。

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獏爆誕!&手帳派アナーキズム

Posted on 15 7月 2020 by ピース・メーカー

はじめに

2020年7月7日、日本平動物園の、フタバ君とオリヒメさんの間に赤ちゃんが生まれました! めでたいめでたいめでたい。詳細は後日発表があるとのことです。とにかく、丈夫に無事にスクスク育ってほしいです。フタバ君もオリヒメさんも、ますます元気に長生きしてほしいです。また、会いにいきます。
https://www.nhdzoo.jp/news/naka.php?id=1493&p=4
以上、獏部歓喜のご報告でした。

では、

手帳派でいいじゃない。だって俳句はアナーキズムなんだもの

以下の記事は、『俳句の世界』小西甚一さん著、のごく一部に関する感想と、別のブログに書いた過去記事とをミックスしたものです。

手帳派とは

子規の本意は客観的世界の尊重にあったわけですが、子規と言えどもそれが何時の間にか事実の尊重と置き換えられて、あのような愚作が詠まれたに違いない(…)言わば創作の一つの安易な手段として写生が考えられているのです。物干竿を見ていたら一匹の蝶が飛んできた。そこで一句が出来るという具合であります。これを手帳俳句と言います。「それは事実だった」―それが手帳俳句の考えであります。
 だが作品はあくまでも一つの完結した世界であって、偶然経験した事実の破片が言葉の上に移されただけでは、やはり断片は断片で、それだけでは完結性は与えられていないのです。

前掲書 p.197

という具合です。これは、piecesmaker1という名前で、写生を信奉する私に対する批判ですね!
こうした、いわゆる「(反写生派の主張する)いわゆる写生」によって作られた断片の寄せ集めを「タダゴト句」とよび、上っ面な、表層的な、真実に到達していない上滑りな、たんなるLogでしかないもので、なんでこんなものをわざわざ句にするのか、と、萩原朔太郎さんも疑問を呈していました。

何のために、何の意味で、あんな無味平淡なタダゴトの詩を作るのか。作者にとって、それが何の詩情に価するかといふことが、いくら考えても疑問であった。所がこの病気の間、初めて漸くそれが解った。(中略)退屈もそれの境地に安住すれば快楽であり、却って詩興の原因でさへあるといふことを、私は子規によって考えへさせられた。

萩原朔太郎『病床からの一発見』より

 作者の小西さんは『俳句は作品でありそれは「完結性」をもたねばならない』としています。
 ですが俳句という短い詩形が「完結性」を持つためには、どうしても「読者」による補完が要請されます。(これはどんな形式の作品でも同じでしょうが、とくに俳句は補完に頼る度合いが大きくなります)句作者の「本意」をおもんぱかるためには、句のみでなくその句作者の人生と句が作られた状況をもかんがみ、読み手としての願望も少し交えながら最大限のそんたくをせねばなりません。その機構が「結社」です。

俳句のアナーキズム

 (以下は過去ブログの採録です)
 俳句は連歌の発句であることを止めたとき、現実に対する一個人の批評となり、絶対に物語を構成しない、権威主義を離れた「自在」なものとなったと思う。
 とことんまで、「個」と「世界」とを突き詰めたところに結晶する十七文字。それこそが俳句であり、そこにこそ、「普遍」が現われるはずだった。
 だが、この十七文字という極端に短い詩形であることが、俳句の読者に、自動的に「補完」を強いてしまう。いや、むしろ、それを期待しているのが俳句である。
 だが、それはあるあるネタの同感などという共同体を強化するタイプの補完ではなかったはずだ。
 全てを言い表すのではなく、そこに切れ目をいれておくこと。その切れ目は、読者が想定してない切れ目であり、そこから垣間見える「本質」または、そこから垣間見られる眼差しなど、に「ぎょっとさせられる」体験こそが「補完」されべきなのであるが、一般的には補完する際、「共同体」を「シイタケ駒」のように呼び込んでしまう。

 しいたけ俳句
 そして気が付けば、「俳句」の内部は「共同体」の菌糸でねとねとになってしまうのだ。こうなると、あとは放っておいても、同じDNAによる「シイタケ俳句」が雨後のタケノコのようにビラビラと生えてくる。それが結社である。
 つまり、「個」は「共同体」という「類」にとって変わられてしまうのだ。
 それは、「個」の拡大ではない。
 「類」において、「個」は「類的本質」という「物語」として均質化された上、アンタッチャブル化されてしまう。
 それこそが「一般」と呼ばれるものであり、そのように解釈されてしまった「上手な句」こそが一般のなかの一般の、まさしく「タダゴト俳句」であり「月並み俳句」と呼ばれるべきだ。
 この場合、世界とは「一結社」にすぎない。その中で上手と認められたものが「特別な俳句」としてもてはやされ、特別な俳句が作れる特別な人がカリスマとして、崇めたてまつられるのだ。

 しいたけ結社からしいたけ国家へ
 大勢の一般市民が、カリスマ的指導者を崇拝し、それぞれのISMをもって、争っている。俳句は国家の内部に小さな国家を形成する。そして他を外部とみなし、外部からの干渉を嫌い互いに地上でも地下でも、争いあう。

Notebookersは、Logを尊重します(私見)

 俳句の歴史は「芸術たらん」とする俳人たちの苦闘の歴史でもあったようです。とくに結社を維持運営する上ではそういった格式は必要なのでしょうが、そういったモノに、とことん無関心な「手帳派」としては、徹底的に「事実の断片」をコレクションしていければそれでいい、という考えです。こっちには、俳句に貢献したいという熱意もなければ、俳句のために生きる義務もなく、ただ、自分の今ある「この(一つの)世界」にのみ関心があるわけですから。
 Notebookersは、Logを尊重します。愚鈍なまでに「写生的(主観的=客観的)事実」を尊重します。凡庸な私が、五・七・五の制限のなかで、「悟りを記そう」(俳句の完全性が「悟り」だということは、長くなるので書きません)などと考えるなど、おこがましい限りです。
 だって真理は自然の表層に常に顕れており、それは因果を離れて縁起しあっているのですから、二物衝撃とかなんとか頭をひねったところで不純になるばかりです。
 日常の中の、「下手な考えより奇なる現実に」あふれるありふれた事を、因果や説明が不可能な、五・七・五に記録することが、手帳派の写生俳句だと思います。

アナーキズム論

(再び別のブログから)
 非常にシンプルなルールに則っていながら、無数の亜流を生み出し、大同小異の小異にのみアイデンティティーを見出して、大同を認めない。同じ一つの国にあって、それぞれの切り口は全く異なっているため、そもそも同じ一つの国などという事実ですら認められない。この差別主義は人間性にも及ぶ。

丸い地球も切りようで四角
 俳句はあらゆる場面を切断することができる。その際、球体がその切断の仕方によって、無数の断面を形成するように、世界は一つではなくなる。というより、われわれは存在論的に、世界を分断しなければ認識できないのだ。それは『分断以前の一』のあることの証明でもなく、『多様性』の証明とするでもなく、「上手」「下手」、「特別」「タダゴト」、「本物」と「偽者」、「深い」「浅い」、「分ってる」「分ってない」というに差別に利用する姿勢がしみついてしまっている。

句会
 句会はいい。さまざまな句を読むことはいい。その句読んだ感想を言い合うのもいい。互いの「個」をもって自らの在る世界を鑑賞しあい、自分のそれとの差異を、無責任に楽しめるのであれば。何かを変えようとか、何かになろうとかしないのならば。ただ、自分にとっての社会と自分とのスタンスの差を感じ、その差異を「広さ」と感じることができるのであれば。

つまらない素人としての私
 そして、そのような「拘束された自由」を育む結社とは全く無縁に俳句を詠む私は、何の影響力ももたぬ有象無象である。私はそのように俳句を詠む。

そして、そこにしかアナーキズムはありえない。

(続き)客観写生の主観性が要請するアナーキズム

団結は不用だ。
 アナーキズム運動は、運動であるべきではない。それは、組織されてはならない。

同胞の支援は不要だ。
 支援を受けるなら、それぞれの抗う相手から支援を取り付けるべきである。

暴力は不要だ。
 アナーキズムは好戦的である必要はない。暴力は古い物語としてかならず「しいたけ国家」を産む。

敵は不要だ。
 多様性が認められなければ、選別と排除の理論が「王」を産むだろう。

アナーキズムはグラバカだ。
 アナーキズムの美しさは、K-1的ではなく、グラバカにある。互いに離れたところから単発的に相手と対話を交わす関係ではない。
 相手とぐずぐずに溶け合って一つになる。巻き込み巻き込まれた一体化の果てに各々の「個」を確立することこそが、アナーキズムの姿勢である。

アナーキズムは不用だ。
 それを名づけてはいけない。名指してはいけない。旗印としてはいけない。指導者をもってはいけない。バイブルを携えてはいけない。
 アナーキズムはもう、あなたの心のなかにある。その心の中にあるものを実現すべく、自らの居場所で、自らの周辺にある自らの事実を、愚直に書き留めること。
 声に出す必要もない。作品など書かなくてもいい。
 信じることを行うこと。
 認められることに意味は無い。アナーキズム活動歴何年とか、アナーキズム活動実績は、とか、関係ない。それで飯を食おうとするな。もはや、それはアナーキズムでない。よりどころを求めるな。アナーキズムは常に流浪するものなのだ。

おわりに

 途中に、なかなか勇ましい部分を挿入してみましたが、
「せっかく作ったタダゴト俳句を上手に散文に戻して感想文を書かれてしまった(泣)」という、トホホさ加減が少しでも伝われば幸いです。(嘘)

 俳句っぽい俳句というものは確実にあって、俳句っぽい俳句を作る方法は巷に溢れていますけれども、世界をその俳句の文法で切り取ろう、というのは本末転倒なのではないかとも思います。重要なのは、慣れ親しんだ因果関係による思考を離れることに尽きます。
 ところで、短歌は、因果を入れることが十分に可能な形式なのですが、現代短歌は、上句と下句を別々に作っておいて、現代短歌っぽい組み合わせをランダムに拾うというような作り方で、遅れてきたシュールレアリズム短歌を量産しているようです。その脈絡のなさそうでありそうでなさそうでありそうな感じに「俳句的」な余韻を持たせようという風にも思われます。
 昭和のころから「短歌が俳句的になり、俳句が短歌的になっている」との指摘はなされてきたようですが、手帳派なので、どーでもいーです。
 五・七・五にはまればそれで、七・七があったほうがよければそれで。散文を否定するものでもありません。
 日常の「感じ」を書き留められればそれでよいので、スケッチだって除外しないし、写真だってかまわないです。

手帳派は偶然に遭遇した事実の断片の「美しさ」を思わずLogに残してしまい勝ちなだけの、個人なのです。

おまけ 正岡子規さんのタダゴトでなさそうなタダゴト俳句選

(こちらも過去のブログからの転載です)

時雨るゝや海と空とのあはひより

馬子一人夕日に帰る枯野哉

ぬぎすてた下駄に霜あり冬の月

散る花のうしろに動く風見哉

夕立にうたるる鯉のかしらかな

門を出て十歩に秋の海広し

夕顔や裏口のぞく僧一人

涼しさや石燈籠の穴も海

夕風や白薔薇の花皆動く

秋風や道に横たふ蛇のから

一列に十本ばかりゆりの花

フランスの一輪ざしや冬の薔薇

鷄頭の十四五本もありぬべし

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俳句拾遺ノート

Posted on 24 9月 2019 by ピース・メーカー

五・七・五 で完結する俳句をコレクションするノートを紹介します。
といって、特別なことは何もしていません。いいな、と感じる俳句を見聞きしたらば、それを”ZEBURA Surari 0.7 黒”で、ひたすら書き写すのみです。

使用ノート

ダイソーA6 Leather type notebook black 96枚→80枚・64枚

現在のところ9冊分

文字は三菱ペイントマーカー 細字油性不透明 で書いています。

見返し

通し番号と、書き写した書名をメモしておきます。

書式

このノートは横罫19行なので、これを縦書きで一行おきに俳句を記して、一頁に10句。160ページなら、最大1,600句を収蔵できます。初期には、見開きで文字を大きく書いたり、空行無しで詰め込んだりもしていましたが、読み返しやすさから、この書式に落ち着きました。

数えていませんが、現在まで、おおよそ14,000句ほどをコレクションできたと思います。

改良すべき点

一冊ごとの「目次」を作っていなかったこと。作者別の索引を考えていなかったこと。の二点です。
現在、「増補 現代俳句大系 1~15巻 角川書店」の抜書分のみ、目次を作成中で、その過程でページ数を書き込む作業中なので、ゆくゆくは、目次と、索引を充実させて、活用できるノートにしていきたいと考えています。

カッコ内の数字は、書き写した句数。これで自分の俳人の好みが分かります。

付録(自分のための忘備録)

以下に、書き写した本をまとめておきます。ご参考にな…… りませんね。(失礼)

  • ネットから拾った俳句
  • 正岡子規記念館HPの俳句検索より shikihaku.lesp.co.jp/index.html
  • 与謝蕪村全句集 おうふう(社)
  • 日本の詩歌(30)俳句集 中央公論新社
  • 現代俳句文庫22 攝津幸彦句集
  • 鑑賞俳句歳時記 夏 文芸春秋
  • 百人百句 大岡信 講談社
  • 一茶俳句集 岩波文庫
  • はじめての俳句づくり 辻桃子 阿部元気 日本文芸社
  • 決定版 俳句入門 角川学芸出版
  • 句会遊遊 NHK出版
  • 馬酔木俳句集
  • 現代俳句全集 一 みすず書院
  • 現代俳句全集 一 ~ 六 立風書房 (五は未読)
  • 現代俳句コレクション 上・下 ほくめい出版
  • 仰臥漫録 正岡子規 岩波文庫
  • 機嫌のいい犬 川上弘美 集英社
  • 句集 白體 柿本多映
  • 増補 現代俳句大系 一 ~ 一五 角川文庫

因みに、私が最も好きな俳人は 高野素十さんです。
それではまた。

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Note of the note p.9 正岡子規「仰臥漫録」―ライフログの壮絶

Posted on 27 10月 2018 by ピース・メーカー

はじめに

Note of the note -ノートの調べ」 と題した不定期シリーズ。
このシリーズでは、著名人のノート、手稿、手帳、日記などを紹介し、そこに込められた作法と思いを検証していく。
第9回目は、正岡子規さんのライフログ、『仰臥漫録』に向き合ってみる。

出典

図版00
仰臥漫録 岩波文庫

『仰臥漫録』の状況

まず、このライフログがどのような状況下で綴られたのかを、同書巻末の阿部昭さんの解説から引用する。

『仰臥漫録』の筆を起した明治三十四年(1901年)、子規は三十五歳、すでにその肺は左右ともに大半空洞となっていて、医師の目にも生存自体が奇蹟とされていたという。翌三十五年、病勢はいよいよ募り、春以降は麻痺剤を用い、九月初旬足の甲に水腫を見、同月十九日未明遂に絶命する。「仰臥」とは、俯すことが出来ぬので文字通り仰むけのまま、半紙を綴じたものに毛筆で記したのである。(p.191)

私がこれを、ライフログと呼ぶのは、動かせぬ体と激痛の最中、病床六尺を一歩も出ることなく、ある種の貪欲さをもってこれを書き継ぐ「文章人」の気魄に飲み込まれぬためである。
写生俳句、写生文を提唱し、文明開化後のあらゆる「文」の改革を自らの使命とした正岡子規さんが、自らをも、写生し尽くそうとする態度を、憐憫や英雄視などで歪めぬためである。
それにはただ、向き合うしかない。その命までをも写生する唯一無二なるライフログとして。

健啖と後悔と

淡々と献立を記すというのは、円谷幸吉さんの遺書にとどめを刺すが、『仰臥漫録』においても、日々の克明なる献立の記述と、食いすぎた後の煩悶。また食えなかった時の苛立ちが腹に染みる。

図版25(下記引用とは別頁)

朝 粥四椀、はぜの佃煮、梅干し(砂糖つけ)
昼 粥四椀、鰹のさしみ一人前、南瓜一皿、佃煮
夕 奈良茶飯四椀、なまり節(煮て少し生にても)、茄子一皿
この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす
二時過牛乳一合ココア交て
煎餅菓子パンなど十個ばかり
昼飯後梨二つ
夕飯後梨一つ
服薬はクレオソート昼飯晩飯後各三粒(二号カフセル)
水薬 健胃剤
今日夕方大食のためにや例の左下腹痛くてたまらず、暫くにして屁出で筋ゆるむ (pp.11-12)

何たる食欲。門下生夏目漱石さんも、ジャムなど食べ過ぎて胃をいぢめいたが、子規さんにも驚かされる。そしてこの健啖ぶりは、衰えることがない。
食らうのは体である。病とは体の病である。「私」とは徹頭徹尾「体」であった。そんな体に囚われながら、子規さんは「六尺では広すぎる(『病床六尺』より)」と言い、句作を続ける。

病床の景色

とにかく、動くことができない。仰向けに寝ているだけ。聞こえるもの、来客、家族との会話、お土産もの、そして庭から映る様々のこと。

図版31

病床所見
臥して見る秋海棠の木末かな
秋海棠朝顔の花は飽き易き
秋海棠に向ける病の寝床かな(p.30)

動けないから、句が読めない、などとはいわない。しかも写生俳句である。
以前私は『異邦人』の主人公ムルソーが、第二章において牢獄にとらわれている間にすっかり凡人となり下がることが残念で、「彼は写生俳句を作るべきであった」と思った。それはブーメランのように、自分に跳ね返ってくる。

図版87
病室前の糸瓜棚 臥して見る所(p.87)

図版34

此蛙の置物は前日安民のくれたるものにて安民自ら鋳たる也
無花果に手足生えたと御覧(ごろう)ぜよ
蛙鳴蝉噪彼も一時と蚯蚓鳴く (p.34)

俳句の俳諧性。これは世の中に滑稽さを感ずることだと思う。端的にいえば、己を去って、面白がる姿勢だ。ここに「皮肉や、冷笑」などは一欠けらもない。それは俳句を、いや文を、そして自らを濁らせるものだ。
お土産の蛙を手にとり、ためつすがめつするところは、夏目漱石さんの『門』で、宗助が起き上がり小法師で遊んでいる場面を髣髴させる。

則天去私から則私則天。そして則私去私へ

図版99

前日来痛かりし腸骨下の痛みいよいよ烈しく堪られず、この日繃帯とりかへのとき号泣多時、いふ腐敗したる部分の皮がガーゼに附着したるなりと
背の下の穴も痛みあり 体をどちらへ向けても痛くてたまらず
この日風雨 夕顔一、干瓢二落つ(pp.98-99)

この状態で、なお風物を気に留め、描きうる胆力に言葉もない。だが、こうして文や、俳句にしようとするとき、現実の惨状は、対象となり句材となる。そのとき、「私」は「天」の方へ少し離れる。このわずかの距離に文人は最大の愉悦を覚える。

図版107

(前略)さあ静かになった この家には余人一人となったのである。余は左向きに寝たまま前の硯箱を見ると四、五本の禿筆一本の験温器の外に二寸ばかりの鈍い小刀と二寸ばかりの千枚通しの錐とはしかも筆の上にあらはれている さなくとも時々起らうとする自殺熱はむらむらと起こって来た(後略)(p.105)

この時は、恐ろしさ(死ぬことよりも苦しむこと。死損なうこと、刃物そのものの)に煩悶し、しゃくりあげて泣き出していると、母が帰宅して、実行にいたらない。そして、小刀と千枚通しの絵を描き残すのである。

作品と私生活とに距離のない時代だった。私小説とは、作家の生活そのものとして発表された。そんな中で、「写生文」は、「心境描写」を徹底的に排除することにより、私と作家との間に空隙を確保した。その空隙に「天(普遍)」が入る余地をもたらした。

「日記」ではない。「写生日記」である。ライフーログとは、まさに事実をそのまま記録する姿勢である。記録者であることはつまり、自らを自らという観測器の技師の地位におくことに他ならない。

われらなくなり候とも葬式の広告など無用に候 家も町も狭き故二、三十人もつめかけ候はば柩の動きもとれまじく候
何派の葬式をなすとも柩の前にて弔辞伝記の類読み上候事無用に候
戒名といふもの用ゐ候事無用に候 かつて古人の年表など作り候時狭き紙面にいろいろ書き並べ候にあたり 戒名といふもの長たらしくて書込に困り申候 戒名などはなくもがなと存候
自然石の石碑はいやな事に候
柩の前にて通夜すること無用に候 通夜するとも代りあひて可致候
柩の前にて空涙は無用に候 談笑平生の如くあるべく候(pp.113-114)

「私」と「天」との間には、不透明で重たい「体」が存在する。「体」を離れて「私」はなく、「体」に囚われていては「天」には至らない。「私」は「体」に癒着し「体」を抜け出ようとする抵抗の中にのみ「天」を感じることができる。写生論が唯物主義であるのは決して、「体」を無視することができないからである。ライフログとは、「体」の記録でなければならない。

さいごに

『病床六尺』の最後の回の載った翌九月十八日、覚悟の子規は妹律らにたすけられて辛うじて筆を持ち、画板に貼った唐紙に辞世の句を書付けた。「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」。痰を切り、ひと息いれて、「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」。また一休みして、「をとゝいのへちまの水もとらざりき」。そこで、筆を投げた。穂先がシーツをわずかに汚した。そしてその日のうちに昏睡におちいった子規は、越えて十九日の午前一時に、息を引き取る。三十六歳。いまふうに数えて、三十五歳になる直前であった。
(『病床六尺』解説 上田三四二 p.193 岩波文庫)

図版7
明治三十四年九月二日 雨 蒸暑し

銘記すべきノートである。

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NOTEBOOKERS+俳句 1 ― NB的歳時記のために

Posted on 24 6月 2018 by ピース・メーカー

0.はじめに

俳句好きで、NOTEBOOKERSなら、「俳句+文具」とか考えねばならぬと、手持ちの歳時記を読んでみたところ、NOTEBOOKERS的(以下NB的)とはほど遠いことがわかってしまったので、「じゃあどうすればいい?」を不定期で考えることにして。

手持ちの歳時記。『合本 俳句歳時記 新版』 平成元年6月30日 28刷 角川書店 (意外と古い……)

1.正岡子規俳句検索からNB的俳句を抽出する

俳句といえば、正岡子規さんだよね。

正岡子規の俳句検索
『正岡子規俳句検索システムは、5つの検索方法で、正岡子規が生涯に作成した俳句の内、季語別子規俳句集(松山市立子規記念博物館 編集・発行)に掲載の俳句を検索する事が出来ます。』
http://sikihaku.lesp.co.jp/community/search/index.php

の「句中曖昧語検索」でNB的事物を、おもいつくままに検索し、目に付いたものを掲出する。(語句後の数字はヒット数)

手帳 1

萩に立て萩の句記す手帳哉

ペン 2 インキ2

鵞ペンさすインキの壺や秋の薔薇
鵞ペン立てしインキの壺や秋の薔薇

日記 16

春雨や日記をしるす船の中
梅雨晴や蜩鳴くと書く日記

鉛筆 1

小刀や鉛筆を削り梨を剥く

(書いた)文字 1

夕涼み仲居に文字を習はする

言葉 7

めでたさやよその言葉も旅の春
初松魚べらぼうと申す言葉あり

書 178

ねころんで書よむ人や春の草
眼鏡かけて書を読む夏の夜忙し

机 28

文机にもたれ心の夜寒哉
夕立や机に並ぶ大盥

写真 3

涅槃像写真なき世こそたふとけれ
花の歌添へし吉野の写真哉

本 232

読む本を其まゝ顔に昼寝哉
洋本の間にはさむ桜かな

墨 37(隅田川も含む)

薄墨てかいた様なり春の月
墨汁も筆も氷りぬ書を讀まん

象 8

象も來つ雀も下りつ鍬始
毛布著た四五人連や象を見る

最後にノーヒットをまとめて

万年筆、ノート、日誌、帳面、地図、原稿、予定、獏、防備録、雑記、貼混ぜ、メモ。

案外少ない。俳句と文具は相性がよくないのか?

2.NB的季語

手持ちの歳時記をひもといて、NB的季語を探す探すもほとんど無く…無理やりかき集めてこのくらい。(数字は手持ち歳時記の頁数)

「夏書き」[夏](p.370)

《げがき:夏のある期間、身を慎み写経、書写、習字などを行うこと》

夏書の筆措けば乾きて背くなり 橋本多佳子

「硯洗」[秋](p.587)

《すずりあらひ:七夕の前日に常用の硯や机を洗い清めること》

家ひそかなるや硯を洗ひをり 石田波郷
高僧のかたみの硯洗ひけり 星野立子
いにしへの硯洗ふや月さしぬ 加藤楸邨

「日記買ふ」「古日記」[冬](p.817)

実朝の歌ちらと見ゆ日記買う 山口青邨
日記買ふ未知の月日に在るごとく 中村秀好
書かざれどすでにわがもの新日記 山口波津女
日記買ひ潮ながるるを見てゐたり 猿山木魂

「日記始」「初日記」[新年](p.958)

白く厚く未知かぎりなし初日記 能村登四郎
新日記三百六十五日の白 堀内薫
初日記インクの玉をおとしけり 裏野鷗城

「読初」[新年](p.963)

謹で君が遺稿を読みはじむ 高浜虚子
人住まぬ辺りの地図を読初む 相生垣瓜人

「書初」[新年](p.963)

一字なほにじみひろごる試筆かな 皆吉爽雨
書初といふもあはれや原稿紙 吉屋信子
書初や旅人が詠める酒の歌 占村古魚

「初硯」[新年](p.963)

ましろなる筆の命毛初硯 富安風生
墨の香の殊に匂ひて初硯 中川喜久栄

考えてみれば、「文具の季節感」というものは固定してないものな。

コラムその1 私的ノートの季感

トラベラーズノートって、「夏」よね
トラベラーズノートへリフィル夏季休暇

で、モレスキンって、「冬」のイメージ
モレスキンめくれば起し絵のごとし
(でも「起し絵」は夏の季語也)

3.NB的歳時記拾い

こうなれば季語以外、例句に含まれるNB的事物を拾っていくしかないじゃない。わたし好みの歳時記にむかって。

凡例:[事物/季節/句/作者名/頁数] という風になっています。

鉛筆/春/鉛筆をくはへ磯巾着すぼむ/片山那智児/184
鉛筆/春/鉛筆で書く音静かチューリップ/星野立子/221
鉛筆/夏/病床に鉛筆失せぬ夏の暮/石田波郷/262
鉛筆/秋/色鉛筆削りそろえて夜長父子/林翔/516
鉛筆/冬/鉛筆で助炭に書きし覚え書/高浜虚子/814
型紙/春/春燈火妻の型紙机を覆ふ/深見けんニ/93
紙/春/昨日漉きし紙春分の日を過す/小島昌勝/50
紙/春/花冷やまだしぼられぬ紙の嵩/大野林火/55
紙/春/里人は紙を献じて人麻呂忌/福田蓼汀/156
紙/夏/夏嵐机上の白紙飛び尽す/正岡子規/270
紙/秋/秋風の和紙の軽さを身にも欲し/林翔/533
紙/秋/熱出づる野分に飛べる紙を見て/目迫秩父/534
原稿紙/春/熟れて落つ春日や稼ぐ原稿紙/秋元不死男/60
珈琲/春/珈琲濃しけふ落第の少女子に/石田波郷/83
言葉/秋/秋風や書かねば言葉消えやすし/野見山朱鳥/533
字/冬/わが書きし字へ白息をかけておく/加藤楸邨/845
書/春/春疾風書棚に黒き乱歩集/北光丘/65
書/春/蛤の煮らるる音の中にて書/加藤楸邨/180
書/夏/夏至今日と思ひつつ書を閉ぢにけり/高浜虚子/260
書/夏/積み上げし書が目の高さ酷暑来る/松本旭/266
書/夏/読みかけの書ばかり積んで夜の秋/石川桂郎/267
書/夏/夕立に一顧もくれず読書かな/星野立子/274
書/夏/青嶺眉にある日少しの書を読めり/細見綾子/280
書/夏/書を曝し寂莫の一日終へむとす/軽部烏頭子/323
書/夏/曝しゐる書のみなわれを養ひし/岡本欣也 323
書/夏/四迷忌や借りて重ねし書少し/石田波郷/372
書/秋/手にとって書かする梶の広葉かな/高浜虚子/587
書/秋/ひぐらしやもの書きしるす膝の上/加藤楸邨/623
硯/夏/若楓影さす硯あらひけり/水原秋桜子/440
硯/冬/葉牡丹の座に薄明の筆硯/石原舟月/909
墨/春/たゞ墨を擦りて香を立つ虚子忌なりき/殿村菟絲子/158
墨/夏/濃き墨のかわきやすさよ青嵐/松本多佳子/270
墨/秋/月の座の一人は墨をすりにけり/中村草田男/579
旅/春/この秋は旅と思へど糸瓜蒔く/北川左人/105
旅/春/ ヘリオトロープ船旅ははや倦む日日に/大津希水/221
旅/夏/梅雨めくや人に真青き旅路あり/相馬遷子/272
旅/夏/門深みかかる夜更けに旅の人/高野素十/340
旅/夏/ねむりても旅の花火の胸ひらく/大野林火/346
旅/夏/十二時を宵のごとくに旅の端居/山口誓子/353
旅/夏 旅長し海酸漿の美しき/高野素十/398
旅/夏/夜にかけて卯の花曇る旅もどり/飯田蛇笏/442
旅/夏/旅心太藺の花にすがすがし/高野素十/481
旅/夏/旅ひとり一つ葉ひけば根のつづき/山口草堂/497
旅/夏/旅人に古塔かたむく夏わらび/稲垣きくの/499
旅/秋/旅かなし銀河の裏を星流れ/野見山朱鳥/532
旅/秋/蛇穴に入る今年もう旅はなし/大野林火/607
旅/秋/しまひ値の鰯あをあを旅びとに/下田稔/620
旅/秋/峡の町にカンナを見たり旅つづく/川崎展宏/667
旅/冬/旅人と我名呼ばれむ初時雨/松尾芭蕉/738
旅/冬/旅鞄そのまま座右に冬籠/高浜虚子/798
帖/新年/新年の白紙綴じたる句帖かな/正岡子規/920
手帳/秋 芦の花多忙をしるし手帳胸に/石原透/698
日記/秋/みみづ鳴く日記はいつか懺悔録/上田五千石/633
日記/新年/一月や去年の日記なほ机辺/高浜虚子/921
日記/新年/日記まだ何も誌さず福寿草/遠藤梧逸/1039
ノート/冬/沖を鷹ノート細字を以って埋む/中島斌雄/875
鋏/秋/獺祭忌紙切る鋏街に買ふ/沢木欣一/604
筆/春/春暁の竹筒にある筆ニ本/飯田龍太/52
筆/春/黄梅の弾ねる風下筆洗う/管裸馬/196
筆/夏/絵筆もて描きし如く青芒/高浜虚子/483
文/冬/雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし/飯田龍太/743
ペン/秋/秋蚊帳のなかや置かれし紙とペン/目迫秩父/554
文字/秋/霧から霧妻の手紙は文字ふせて/中村草田男/537
文字/秋/梶の葉の文字瑞々とかかれけり 橋本多佳子/587
文字/冬/大寒のくらさのゆゑか文字細る/目迫秩父/724
文字/新年/三日はや木に書く文字の音すなり/飯田龍太/925

抜き出しておけばよかったNB的事物

机、椅子、書架、本、手紙類、舟、飛行機、御朱印、空港、港、反古、象など。

4.NB的俳句をweb検索する

歳時記の例句を増やすには、探すしかない。

この項では、検索のさい上位候補に紹介される
575筆まか勢』様
(https://fudemaka57.exblog.jp/)
と、

俳句検索』様
(http://taka.no.coocan.jp/a1/cgi-bin/haikukensaku.html)
俳句検索システム:現在、 23,632 の文書がインデックス化され、 73,645 個のキーワードが登録されています。インデックスの最終更新日: 2003-01-01

をおもに利用させていただいています。ありがとうございます。

万年筆(575筆まか勢様 24句)

あたたかや万年筆の太き字も 片山由美子
うぐひすや万年筆の尻重く 小川軽舟
卯の花腐し父の万年筆太し 仁平勝 東京物語
啓蟄や万年筆の贈物 川崎展宏
笹鳴や万年筆が見つからぬ 川崎展宏
篠の子と万年筆を並べ置く 岡田史乃
初蝶や万年筆が雫して 寺田京子
冬青空夜は万年筆の中 高野ムツオ
熱帯夜万年筆のインク漏れ 柴田奈美
父も父の万年筆もとっくになし 池田澄子
風光る万年筆の加賀蒔絵 伊藤とう子
文化の日万年筆は名を変へず 鈴木栄子
万年筆の中に泉やさくらの芽 正木ゆう子
万年筆の中の蓮池地獄かな 豊口陽子
万年筆呼び名変らず文化の日 鈴木栄子
茂吉忌の万年筆の太さかな 大牧 広
雷わたる万年筆の太古の黒 守谷茂泰
六月の万年筆のにほひかな 千葉皓史
獺のまつり人は万年筆ならべ 鈴木榮子
ぺりかんは万年筆や年暮るる 雨滴集 星野麥丘人
黄濁の川鳴る胸に万年筆 橋閒石 無刻
砂に落つ万年筆で千鳥詠む 阿波野青畝
秋深み万年筆を落しけり 橋閒石 微光
初句会万年筆の赤い軸 亭午 星野麥丘人

夕薄暑万年筆のインク涸れ 窪田久美 (weblio辞書より)

手帳(俳句検索様 17句)

野菊一輪手帳の中に挟みけり 夏目漱石
ちらと見し手帳のよき字毛見の老 皆吉爽雨

ボールペン(575筆まか勢様 13句)

はがき書く皐月の水性ボールペン 高澤良一 石鏡
ボールペンと一杯の水三鬼の忌 原田喬
ボールペン嫌ひを通し鴎外忌 片山由美子 水精
ボールペン蛇の尻尾に近づきぬ 相原左義長
ボールペン走らせすぎて枇杷灯る 井上淑子
ボールペン売も出てをり苗木市 加倉井秋を 午後の窓
ボールペン落として気づく冬すみれ 三田村弘子
寒の日に透けて水性ボールペン 高澤良一 暮津
菜種梅雨雲間におとすボールペン 平田 薫
蚕疲れや睡魔に放るボールペン 五十嵐春男
ボールペン始に句箋複写して 上田五千石『琥珀』補遺
ボールペン出先で買ひて夏本番 岡本眸
冬灯ちりばめK氏遺愛のボールペン 楠本憲吉 方壺集

ノート(以下、俳句検索様 13句)

若芝にノートを置けばひるがへる 加藤楸邨
デッサンの蟻百態のノートあり 深見けん二

地図 79句

清水のむかたはら地図を拡げをり 高野素十
胡桃割る閉じても地図の海青し 寺山修司

原稿用紙 2句

妻も使ふ原稿用紙どこも秋 加倉井秋を 『風祝』
六月の雨の原稿用紙かな 皆吉司

原稿紙 15句

原稿紙ペンの遅速に遠蛙 吉屋信子
原稿紙の枡目二百に夜の秋 河合澄子

写真 99句

写真見る昔ふとりしきぬかつぎ 高浜虚子
新樹並びなさい写真撮りますよ 藤後左右

獏 0句

※でも「獏の枕」は新年の季語になっているんだよ。

象 544句 穀象を含む

八月の窓の辺にまた象が来る 宇多喜代子
荒星や老いたる象のやうな島 夏井いつき

予定 8句

夢覚めて今日の予定や花菜摘 田中 起美恵
木の芽雨今日の予定の街に来て 稲畑汀子

インキ 4句 インクは13句

手さぐりてインク匂へる霜夜かな 石橋秀野
壷白くインクは冬の灯を吸へる 富澤赤黄男

メモ 28句

買初のメモ靴墨と神曲と 飛旅子
数へ日やメモ一つ消し二つ足し 大橋敦子

コラムその2 私的万年筆の季感

ざっとイメージでいうと
パイロットは春、ペリカンとセーラーは夏、パーカーは秋、モンブランとラミーは冬。なんてね。
夕焼けもミクサブルなり金のニブ

5.NB的歳時記とは

歳時記は出版社によって例句のとり方に大きな特徴があるから、NB歳時記を作るなら、新しい季語をバンバン加えるのはちょとアレなので、収録した例句の全てが、文具だったり、旅だったり、チーズだったり、獏だったりを読み込んでいるっていうのを目指してみたらいいんではないかと思うの。

どっかで出してくれないかなぁ。とゴロゴロしつつ、日々、例句集めに精出して、「NOTEBOOKERS歳時記」を編纂していくってのも、よいライフワークではないかと思ったりした第一回を終了します。

 

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