Posted on 27 1月 2021 by ピース・メーカー
小さなノートの話だ。
ほぼ日手帳weeksMEGAと、ダイソーのハードカバーの手帳、妹がくれたインド土産のノートの三冊を、自転車のチューブが入っていた袋にいれて持ち歩く。
これさえあれば、どこでどのような待ち時間が発生しても大丈夫な一式だ。
今回は、読むための小さなノートの話だ。
俳句や短歌は、とても小さな器だ。
その小さな器に満たした感動を、小さなノートにコレクションしていく。
それは、すべてが自分好みのアンソロジーだ。
テキストというのは、容量こそ小さいけれど、その凝縮度たるや、他のメディアに比べて圧倒的に高く、そして濃い。
俳句の抜き書き帳は現在12冊。その日の気分で何巻目を携えていくかを決める。
短歌はこのノートに書き写している。
当初はゆったり書いていたけれど、それはどうやら僕のスタイルじゃないらしい。隙間を見つけて、とにかくこのノートに書けるだけ書き込んでいく。
いわゆる「歌集」から引いたものは、別のツバメノートなどに書き写してあり、
小さなノートに書き写しているのは、入門書、解説書、twitter、ブログなどで見かけた、通りすがりの短歌たちばかりだ。
脈絡なくスペースを融通しながら列記されている短歌を眺めていると、不思議な連帯や反目を感じ、そこに別の短歌が現れてくるような気がしてくるのが不思議だ。
電子データにしてしまえば、もっとコンパクトに、この数億倍の情報を持ち運べるだろう。実際、電子手帳は辞書を何十冊も、古今東西の名作を何百編も、画像や音声を数千種類も、片手で持てる端末内に収めているのだから。
でも僕は、手書きで書き写した小さなノートを携帯し続けるだろうし、電車や待合室などでは、電子端末よりも、これらの小さなノート(か、本)を見たり読んだりするだろう。(もしくは書いたり、描いたり)
僕の文字は我ながら読みにくいけれど、書いたときの状況や心情を留めていて、電子的なフォントでもなく、ツルリとした画面の向こう側でもないリアルが、空気感を保存してくれている気がする。
そういう気分は、小さなノートを広げるたびに流動し、その体験がまた、創造につながっていくような気がしている。
だから、小さなノートの大きなコレクションを、僕はいつも携帯していたいし、どんどん書き足していきたい。
それは世界の何兆分の一の情報量でしかないのだろうけれど、僕の一分の一の世界なのだと思う。
Posted on 12 10月 2020 by ピース・メーカー
「Note of the note -ノートの調べ」 と題した不定期シリーズ。
このシリーズでは、著名人のノート、手稿、手帳、日記などを紹介し、そこに込められた作法と思いを検証していく。
今回は、寺山修司さんの歌稿ノートを味わう。
出典
寺山修司未発表歌集『月蝕書簡』表紙
寺山修司未発表歌集『月蝕書簡』(2008年2月28日:岩波書店)巻末資料
はじめに
寺山修司さんが短歌に関わったのは、十代の終わりから二十代半ば過ぎまで、デビューして最初の十年ほどである。
(同書 p.217 解説 佐佐木幸綱)
寺山修司にまた短歌を書いてみようと思い立たせたのは、1973年(昭和48年)三月二十二日のことである。
当時、「海」の編集者の吉田好男氏に(・・・)「寺山さんがまた短歌でも書いたら僕のところで載せるよ」。
(同書 p.201 『月蝕書簡』をめぐる経緯 田中未知)
1973年から十年かけて作られた短歌は、いろいろな紙片にメモされ、私の手元に遺された。そのうちでも、短冊形に切られた紙に一首ずつ、4Bの鉛筆できれいに清書したと思われるものは、一応完成作品と判断した。これが六十首ほどを占める。
写真資料に中にある大判の画帖には思いつくままのことばの断片が縦横無尽にしたためられている。(・・・)そのほか、旅行中のノート、航空便箋、絵葉書の裏など、手元にあったと思われる用紙に、なぐり書きしている。
(同書 p208 同上)
写真1
歌稿ノート
ほぼ、句としてまとまったものを書いたものだろう。後出の画帖に掻き出したイメージを一行短歌形式にコラージュなどして書き連ねて調子をみているものと思われる。助詞と形容詞が検討され、さらに不要な言葉、さらに適切な言葉を求めているところか。それにしても驚くほど訂正が少ないと思う。語順の入替はほぼ見受けられない。「水の音―」のとなりの行に表れている「墓石を」が、行を改めて「満月に墓石はこぶ―」として記されているところに、私はひじょうな興奮を覚える。また「名付け親―」の下の句が空欄である点もおもしろい。
写真2
短冊貼り付け
先述した「短冊に一首ずつ清書されたもの」である。画用紙を切ったものだという。写真1、のようにノートで推敲を重ねたのなら、完成作を完成作用のノートに書けばよいと思うのだが、わざわざ別の紙に書いて貼り付けるというのがおもしろい。
三首目はさらに「に漂ふ」を「を泳ぐ」と直している。また、五首目の下の句「地球儀の中は空洞」の行の「中は」の右に「内なる」と書かれている。本編収録短歌は「地球儀の内なる空洞」だが、この段階ではまだ「中は」が消されていない。
推敲という果てしない苦悩。おそらく、ノートに書いている間は、推敲が終わらないのだろうと想像する。別の紙に書き出すことでようやく、その短歌を推敲していたノートのページを離れることができたのだろう。「もういい」という気分になるのに違いない。それでもまだ直したくなる。
というのは想像で、単に、歌集収録の際の順番を決めるため、短冊にしておいたほうが便利なのだろうと推察する。
短冊は束となって残されていて、分散しないようノートに貼ったのは田中氏とのことだ。
写真3
布製カバーの大判画帖
田中氏の解説によれば
詩集、歌集など、一冊にまとめようとするときは布製カバーの大判の画帖を使用。ページごと縦横無尽に思いつくまま、メモ書きされている。
(同書 <資料>歌稿ノート 写真・文 田中未知)
とある。
天地もなく、矢印や丸囲みが頻出するこうしたメモ書きを見ているのが好きだ。何も決まっていないところから思いつくままに言葉を書きだし並べていくノートは大きければ大きいほどいいと思う(全体が一目で見渡せることが大事)。目の端にでも映ればそれは必ず刺激となる。むしろフォーカスのない部分のメモ書きをなぞっているような気さえすることもある。「文」を「句」と「語」に分節し、繋ぎ変えて、付け足し、削除し、組み換え、また付与し減衰させていく作業は、ひじょうに「空間的」な感覚がある。そういうとき、時間はあっという間にすぎさっていく。
写真4
ノートに記される断片
ここから始まる。全てが寺山調である。
私は以前、寺山修司さんの短歌のうち、ぶったぎって俳句になるものを列挙し、改めて短歌と俳句の違いを考えるという、たいへん失礼な読み方を楽しんだことがあるが、この断片にも、「三枚の畳をわれの枯野とし」や、「演説や十一月の海の杭」などがあって、興味深いが、むしろ、文字数に囚われない語句がもつポテンシャルに痺れてしまう。
「指人形は」の部分に長くひかれた矢印の先に「だまされて」があり、この距離が生まれた理由などをあれこれ類推するのもまた楽しい。
こういうノートこそが「ネタ帳」とよぶにふさわしいのだろう。ここから、写真3、写真1を経て、写真2、の短冊へと昇華していくのである。
おわりに
義母十夜「主婦の友」より切り抜かれ悪夢の中の麗人となる
と、書いてみる。
それから、『主婦の友」がいいか『少女倶楽部』がいいかについて考えてみる。
同書 p197 個への退行を断ち切る歌稿―一首の消し方 寺山修司 (『月蝕機関説』所収、冬樹社、1981年)
寺山 ぼくらは体温三十何度かの血の流れているスピーカーですよ。しゃべっている言葉だって、おととい書物で読んだり、きのうテレビで聞いたりしたものばかり。それが頭の中でコラージュされて、通過して出ていくわけですよ。あしたはもうからだに残ってない言葉もあるし、うまく出ていかないで、何年も体内に残っていたりするものもあるかもしれない。いずれにせよ、それは、その程度のものだと思うんですね。それが、日本という一つの全体性の過去の復元過程の中で文芸としてとらえられていくか、あるいは自分が記憶と記録のはざまの中で、自分のからだの中にとどめられてあるか。
現代短歌のアポリア―心・肉体・フォルム 佐佐木幸綱・寺山修司 月蝕書簡栞より
最近、短歌でも俳句でも(散文だとそういうことはない)、ほぼ日手帳weeksMEGAの方眼ページに、写真4や写真1のようにうなりながら書いていて、それはたいてい、twitterや投稿サイトで公開するために作っているものなので、手帳の上でほぼ形になったところで、フォームに入力するのだが、その、フォームに入力した直後に、さらによい(と自分が信じる)形がパッと浮かんでくることがよくあって、それが不思議だ。
アナログだから思いつかない、というのではないだろう。たぶん、自らの手癖のある文字で見ているのと、フォントに直されたものを見るのとでは、気分が変わるのだろうと思っている。だから、寺山さんが、画用紙に清書をする気持ちは、これと似ているのではないかと勝手に想像しているのである。清書の瞬間こそが最大の校正チャンスであり、その瞬間を味わいたくて私は何度でも推敲したいのだと思っている。
Posted on 15 3月 2020 by ピース・メーカー
twitterなどを流れていく短歌を書き写しておきたいと思いまして、そういえば、
短歌拾遺ノート
妹から以前もらったインド土産のノートがあった、それは丁度良いサイズ感。
ノートの表紙。インドっぽい
紙質は正直悪そう。分厚くてケバケバしているけれども、
全貌はこんな感じ
Surari0.7で書いてみると、ひじょうにひじょうに心地よかったので、
書き心地がよい
まずはせっせと書き始めましたけれども、
大き目の字で書いていた
だんだん、いつもの癖がでてくるわけで、字が小さくなって、
字が小さくなってくる
がちゃがちゃになる
可読性よりも、ページを埋める快感にはしりました。
読み返すときには多少、苦労しますけれども。苦労すると一生懸命読もうとするので、自分のためのノートならOKかなと。
好きな歌人さんは、俵万智さん。寺井奈緒美さん。兵庫ユカさん。です。以上!