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ワーズワースの庭 ―『ウォークス 歩くことの精神史』

Posted on 28 12月 2020 by ピース・メーカー

ゆっくりと読もうと思っている本。

ウォークス 歩くことの精神史
レベッカ・ソルニット著
東辻賢治郎訳
左右社2017年7月30日 第一刷
ウォークス 歩くことの精神史 レベッカ・ソルニット著 東辻賢治郎訳
左右社2017年7月30日 第一刷

17章490頁の本書の、第七章192頁まで読んだところ。思ったよりも「政治的」な志向のある内容だが、ワーズワースの歩行を知ることができただけで、私にとっての本書の意義は十二分に満たされたと思った。

それは第二部第六章「庭園を歩み出て」から同第七章「ワーズワースの脚」に詳しい。「歩く事」が「健康のため」と「どうしようもない場合の移動手段」でしかなかった当時、「歩くこと」によって自然に美を見出し、自然と一体化し、自然の中に身を置くことで成長するという価値観を見出した、ロマン派の詩人たちに関する記述だ。

note01
第一部「思索の足取り」アンリ・ルソーを中心に

「歩行のための歩行史」にとって、「庭園」は欠かすことができない要素であり、その「庭園」のルーツは、「迷路」や「迷宮」で、それらは「巡礼」の象徴だった。

英国風景庭園は、フランス幾何学庭園に対抗して、「自然への回帰」を目指した。そのとき景色は風景画として鑑賞すべき芸術となった。ここから、「崇高」という概念や、「観光」という文化が生じる。

歩行は、庭内から始まり、その庭園が自然との境界を曖昧にしていった結果、自然を歩くことに価値観を見出すことができた、ということになる。そのためには、裕福さと治安の良さが確保されていなければならなかったが、庭園を出ていくことにより、それらとは真逆の徒歩旅行に身を投じる者たちも現れる。それはバックパッカーのルーツといえるのかもしれず、「巡礼」への先祖返りの感もある。

歩行の身体性について

さて、ワーズワースだ。

かつて『ワーズワースの庭』『ワーズワースの冒険』というテレビ番組があった。主題歌だった「シャ・リオン」は今でもとても好きな歌の一つだし、渡辺満里奈さんもかわいかった。

ぼくはこの本を読むまで、このテレビ番組のタイトルの意味するところを理解できずにいた。たんに、自然好きな詩人だから、という程度の認識だったのだが、ワーズワースの庭。とは「自分と世界」の謂いだったのだ。

ただいま彼は歩いています。今朝はずっとひどい雨が降っているのですが、戸口を出ていってこの方、二時間になります。天気が悪いときは傘を持ち、なるべく雨に濡れない所を選んでそこを往復するのです。四分の一マイルから半マイルほど歩くこともありますが、まるで独房の壁のように選んだ範囲をきっかりまもるのです。詩作をするのはたいてい戸外で、没頭していると時間や天気の良し悪しなどは気に止まらないのです。

前掲書 1804年 ドロシーワーズワースによる友人への書簡

その態度は、著者をして『思索を肉体の労働に変えることでもあった』といわしめる。実際、そのように創作されたワーズワースの詩には、歩行のリズムと流れが刻み込まれている。

ワーズワース兄妹

わたし自身、同じ屋内を何周も歩き回る仕事を続けており、そうした中で、感じたことを言葉に書くという生活を続けてきた。胸ポケットの”pocket mod”にジェットストリームの黒の0.7で走り書きした断片を、ほぼ日weeks MEGAのnoteへ一時的に集積する。(今年は、このnoteをほぼ使い切ることができた。俳句や短歌のメモおよび校正や、本の抜書など、かなり乱暴に使っても1年もってしまう分量に、あらためて信頼を厚くした次第)

それから、しかるべきノートへ転記しながら、その内容から感じたことや想いだしたことを付け加えていく時間が、この上なく豊穣だ。

歩くことは、外部を体験することだ。自らの足で地球を感じながら、その風景との連帯を感じることだ。空っぽになり充たされることだ。それは、自転車がもたらす恍惚とは異なるハイな体験だ。

今年はどれだけ歩けただろうか。

来年はどれだけ歩けるだろうか。

それらを記すためにわたしのノートはあるのだと思う。

以上。2020年最後の記事として。piecesmaker.

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