映画を観る目的、孤独について

最終更新日

基本的に映画を観るという目的は、「楽しむ」ということが目的であって、複数回観直す時は「手本になる」ということなんだと思う。たとえば大昔のイタリアではダビデ像みたいなカッチョいい彫像は多分若者の手本となったりしていたのだろうと思う。「俺もダビデになりてー」とか美容室にいって「ダビデっぽくしてください」とかそんな感じ。

先日「髪結いの亭主」というパトリス・ルコント監督の映画を見ていたんだけど、主人公の彼が、陽だまりの中にいる自分の奥さんを見つめながら「常に心地よさの中に身を置くような生き方をしている」といった表現をしていた。この女性には友人も、家族もいないし、彼女自身孤独を愛してるというのが映画の中で常に象徴されている。主人公側にもほとんど知り合いはいなく、二人の結婚式は友人家族のいない状態で、数人での結婚式だった。そのまま映画の中では二人きりの生活が淡々と描かれていく。
映画自体は、とてもスイートに流れていくので普通の男性が見てもまったく面白い内容ではないのだが、僕はこの映画がなぜか好きでかれこれ5〜6回ほど観直している。冒頭の話に戻るのだけど、複数回、観直すということはおそらく手本になるからなんだと思う。僕はこの甘いフランス映画のどこを手本にしているのかというと、多分「孤独でも心地よさはある」といったところにリアリティーを感じてるんではないかなと思うわけ。おそらく「孤独は寂しい」といった考え方は僕にとってざらっとしたリアルさがない。多分、そういった考え方は世間が勝手に考えたことだと思う。

実際周辺には、孤独な人が多い。一人も友人がいない状態で、常にJAZZを聴いて、それと一緒に暮らしている人もいる。寂しいかどうかは、結局周囲の人間たちが決めている。


髪結いの亭主

タカヤ

ヒッピー/LAMY・モレスキン・トラベラーズノート好き/そしてアナログゲーマー

シェアする