The Greeting

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1995年のビル・ヴィオラの作品に「The Greeting」といった映像がある。聖母マリアが、ヨハネを身ごもったエリザベスを訪問し、互いに体を気遣いながら挨拶を交わすといった10数秒のできごとを、長時間に引き伸ばしてスローモーションで描き出す作品だ。
そのたった数十秒の中に、相手をいたわる暖かな表情、後ろで二人の挨拶を見守る侍女の少し妬みに似た表情、などが繊細に描かれている。人と人が出会った瞬間には様々な情報が動いていることを強く感じた。

エンパイアステートビルやら眠る人やらを撮影していたウォーホルは、初期の映画において試みたのは、「人々がどうやって出会うのか、互いにどういう言葉を交わすのか」を見せることだった。ただ、人と人が出会って、互いに挨拶を交わすだけといった作品。観る人が応用できるものだと思えば、それは出会いの際の立派なお手本になるわけだ。

最近、「類は友を呼ぶ」というマジックな言葉が大好きで、自分の中で「出会う」ということをテーマに生活を行っていました。「出会い」に関する言葉や映像がアンテナにひっかかる。僕らは必要性がない限り、「モノゴトに出会う」ことはないのだとタカヤは考えています。友人を訪ねて遊びに行く、自分が興味を持てるモノに出会うというような単純な生活の一部にちょっとしたアートを感じるのだ。こういった考えは出会いのたびにモノの見方が変わります。イイ感じの日本語で言うと多分、一期一会ってやつですね。タカヤ語では「必要性理論」と呼んでいます。
オレンジジュースを注いでる時とか、ウインドウショッピングをしているときとか、おしりを拭いているときとかに、突然思い出す。必要であれば、必ず突然のようにモノゴト同士は出会う。たとえそれが手術台の上で、お互いがミシンとこうもり傘でも「出会う」。不思議だ。

タカヤは、街中を歩いていて、十年ぶりにとかに会う知人に再会したとしても大げさにはしません。無言でハイタッチを求めたり、しゃべったとしても、2〜3日前に会ったような態度しかとらないことにしています。

ちなみに、魅力のある他人と親しくなるためには、自分の方にも魅力が必要である、という事実は意外と知られていない。そういった事実にあまり興味のない方で、魅力ある他人と親しくなりたい方には朗報ですが、「出会い系サイト」というものがあります。

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以下は出会いに関するメモ

オノ・ヨーコ
知らない人と話すのは怖いけれど、もう二度と会えないかもしれないと思えば、自然と勇気が沸いてくる

リチャード・バック
やりたいことだけをやり続けていくと、
類は友を呼ぶの法則に従って、
僕達から何かを学ぼうと思う人達を引きつける、
そして俺達もまたその人達から何かを学ばなくてはいけない

アンディ・ウォーホル
実際に、初期の映画において試みていたのは、人々がどうやって出会うのか、互いにどういう言葉を交わすのかを見せることだった。アイディアはこれだけだった、二人の人間が知り合う・・・。それを目にすれば、それがどんなに単純明快な出来事かが理解できる。そうして、出会いについての全てが身につくわけだ。僕の初期の映画は、人がどう振る舞い、他人に対してどう反応するのかを示してくれる。社会学的な実例と云えるし、ドキュメンタリーだとも云える。観客が、これは応用できるものだと思えば、それは立派なお手本の役目を果たしたことになるのだ。もし、それが自分に適当でなければ、ドキュメンタリーとして鑑賞すればよい。必ずやどこかの誰かに役立つものわけだし、今までひそかに抱いていたそれらの疑問も解決してくれる、ありがたい映画なワケだ。

村上春樹
たとえばホルンという楽器がある。そしてそのホルンを吹くことを専門的職業とする人々がいる。これはまあ世の中の成り立ち方としては当然のことなのかもしれないけれど、そういうことについて真剣に考えはじめると、僕の頭は立体的な迷宮みたいに混乱してしまう。
何故(なぜ)それはホルンでなくてはならなかったのか?何故彼はホルン吹きになり、僕はならなかったのか?ある一人の人間がホルン吹きになるという行為には、ある一人の人間が小説家になるよりはずっと深い謎(なぞ)が含まれているように僕には思える。それを解けば人生が何もかもぱらりとわかってしまうような謎が。

タカヤ

ヒッピー/LAMY・モレスキン・トラベラーズノート好き/そしてアナログゲーマー

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