愛と希望とマクガフィン

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けっきょく考えた上に答えがわからないモノや答えが出ないものや最後まで答えが明かされないモノが以外に好きだ。

最近、人と話していて、クイズを出されたのだが、このクイズがきっかけでいろいろ考えることになった。

そのクイズは、蚊取り線香が三つ並んでいて、同時に何箇所だかを点火し、ちょうど5分間経ったときに蚊取り線香が燃え尽きればクリアというクイズで、出された問題がその時点で情報があやふやで、じつは5分間だったのかが不明、または同時に何箇所まで着火が可能なのかが不明、蚊取り線香が燃え尽きる順番は全て同時なのかそれとも順次なのかが不明といったクイズであった。
こうなるとクイズというのはもう成り立たず、逆に正確な出題はどのようなものなのかを考えるといった感じで楽しみ、結果的に2週間ほど頭を悩ましたがけっきょくどのようなクイズなのかわからずじまいという感じ。最終的には折るとか重ねるとか逆転の発想で継ぎ足すとか第三者が介入するとか蚊取り線香以外のアイテムを使用するとかじつは蚊取り線香ではなくただの線香だったとかシチュエーションが墓参りだったとかいろいろ試行錯誤したが結局そのほうが楽しかった。実を言うとこういったものはキライではない。
最後まで答えの明かされないアイテムや要素というのは映画や小説などの手法としてよく使われる。たとえば、とある映画でこのようなやり取りがある。

電車内でとある男が「あの棚の上の荷物は何だ」と聞く。
もう一人が答えて「マクガフィンさ」
「何だそれは」
「スコットランドでライオンを捕まえる道具さ」
「スコットランドにはライオンはいないだろ」
「じゃ、あれはマクガフィンじゃないな」

上のやり取りを見て、かなりグッと来る人というのはいるのではないでしょうか。それはタカヤの仲間です。ほとんどの小説や映画の大半は「欠落」と「過剰」によってストーリーは進んでいくのですが、こういった不確定な要素というのは一種の欠落であり、物語に「過剰なイマジネーションの刺激」を生むことになります。
他にも、プライベート・ライアンでいうところの「フーバー」とか、mission impossible 3の「ラビットフット」とか、パルプフィクションでの最後まで「中身の見えないトランク」とか、羊をめぐる冒険などの村上春樹での「羊男」とか(ちょっと違うかな・・・)、など結論や答えの出ない不確定な要素を見るとワクワクしてしまいます。
例えば、以前このブログで掲載した「ドーナツの作り方はいったいドーナッているのか?」なのだが、様々な意見を多数もらうことができたのだがけっきょくどうやって作るのかさっぱりわかっていない。ドーナツのあの中心に存在する不思議な空間はけっきょくは最後までは永遠のナゾで良いと思う。
ビルの建築で出現する青空をバックにビルのてっぺんにあるこれでもかとカッコいい赤い巨大なクレーンがどのようなタイミングで作られるのかもいまだにナゾだ。バナナがオヤツに入るのかなどの定番のナゾもわからないほうが良いと思う。バナナのナゾはまだナゾなのだぞ。

さて、こういった不確定なナゾな要素は、上記の会話のやり取りを元に、「マクガフィン(MacGuffin)」と呼ばれます。登場人物への動機付けや話を進めるために用いられる仕掛けのひとつで、作品の登場人物は非常に重要なものだと考えているにも関わらず、観客にはほとんど説明されなかったり、説明されたとしても価値が疑わしいような「なにか」である、とのことです。

最近、世界の奴隷制度や強制収容所のことやアフリカ内戦のことについていろいろ記事を読んでいたんだけど、大量の虐殺があったときに生き残った人々の統計で、「愛」と「希望」の要素を強く持っていた人の生存が高かったという記事を読んだ。
例えば、あなたが強制収容所に入れられて、毎日100グラムのとうもろこしの粉と具無しのわずかな野菜スープしか与えられず、穴を10時間かけて掘らされまた10時間をかけて埋めさせられるという不毛な労働を永遠とやらされたとしても、自分のわずかな食料をほかの病人のために分けてあげることができたり、この収容所を出た後に目抜き通りに美味しいパン屋さんを出す!と希望を維持できる方というのは不満ブーブーな人よりも生存率が高いということらしい。愛と希望というのは想像力を刺激し、生きる力を与え、モノの見方を変えてくれる。
例えば、熱いストーブの上に一分間手を載せた場合はまるで一時間ぐらいに感じられると思うのだが、ところがかわいい女の子と一緒に一時間座っていても、一分間ぐらいにしか感じられないというのも想像力が刺激されモノの見方が変化したといえる。さらに、その可愛い女の子がで隣に座っていたならば、とても想像力(や下半身のいろいろな部分)が刺激されます。タカヤ的にはどちらかというとバニー・ガールがいいのだが、あまりこだわると話が脱線するので省かせていただく。
かつてジョン・レノンもイマジンの中で想像してごらんとつぶやいたが、ほんのゴマ粒程度のイマジネーションがあれば世界を丸ごと変えることができるのだ。
さて、話を戻すと、この「マクガフィン(MacGuffin)」とやらは、イマジネーションを刺激するすばらしいアイテムなのではないかと考え始めた。映画や小説の中であれば、上記の欠落と過剰の連鎖反応によりストーリーを進める力強い装置として働く。上記のようにマクガフィンは一種の欠落であり、物語に「過剰なイマジネーションの刺激」を生むことになる。
それでは、小説や映画の中といわず、生活の中で「マクガフィン」という欠落を取り入れることにより、「想像力」を刺激し、普段の生活上でのモノの見方を変えていくということができるのではないかと考えた。これはタカヤ的にかなりの大発見だった。

家具や家電や建築など生活に密着したデザインというのは、デザイナーの考えが背景に取り入れられる場合が多い。マクガフィンを持って生活するのであれば、生活でのデザイン上に生かすというのも面白いかもしれない。例えばマクガフィンを家電に取り入れるというのはどうだろう、アマダナとかプラスマイナスゼロとかでマクガフィン家電・・・、他にもマクガフィン建築、マクガフィン家具・・・。電源を入れたくても電源の入れる要素が不明なリモコン、入る方法が不明なドア、座る要素が不明な椅子・・・。世界を変えるマクガフィンデザインとマクガフィン家電の行方は如何に!
さ〜!クソ長い上にちっとも役に立たない文章ですが、気がつくと朝の7時です、そろそろ寝ます。おやすみなさいマクガフィ〜ン。

次回「マクガフィンをデザインする」に続く

タカヤ

ヒッピー/LAMY・モレスキン・トラベラーズノート好き/そしてアナログゲーマー

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